恵まれているのに幸せを実感できない心理

自由な心を縛る見えない鎖

小さい頃、自分の意志や願望や適性とは関係なく、外側からさまざまな期待をかけられる。
その期待をかなえることでしか生き延びる道がない人がいる。

逆に、小さいころから、養育者がその子の適性とかその子の能力とかを考えて、その人の幸せを願って育てられた人もいる。

両者の人生はまったく違う人生である。

自分の意志や願望や適性とは関係なく、外からのさまざまな期待をかなえることでしか生き延びる道がなかった人は、エリートコースを突っ走っていても、最終的には、人生が行き詰まってくる。

若いころの友人や、家族をはじめ、近い人とうまくいかない。
表面的にはうまくいっているが、心が触れ合っていない。
つまり心理的な成長はない。

彼は個性を投げ捨てて、優越によって孤独と無力感を克服しようという衝動にかられて生きている。
その成長の過程で心を失う。
それが権威への服従であり、権威主義的親にとって従順ないい子である。

しかもその人のまわりの友人、知人はずべて同じような歪んだ価値観の持ち主である。
いわば極めて軽度のカルト集団である。

しかし、フロムの言う如く、服従は子どもの不安を増大させて、敵意と反抗を生み出す。
その隠された「敵意」こそ、その人の人生の最大の障害である。

その敵意を抑圧して不安になる。
その不安もまた抑圧する。

人と心はつながっていないが、社会的には見事に適応している。

しかしフロムの言うごとく、彼は”目に見えない鎖”でつながれている。
自由を失った”心の奴隷”である。
そして無意識では自分に「絶望」している。

人生の悲劇を体験するのは、愛を知らないで、かつそのことに気がつかないで生き続けた人である。

問題は無意識の「絶望感」である。
正面から絶望感に向き合えば、救われる道はあった。

しかし、自分に対する絶望感に直面することは人間にとって、ものすごい恐怖であるから、その本当の感情を無意識に追いやる。

外から見ると、絶望感どころか明るい未来を持った若者に見える。
成長した大人に見える。

だが、社会のなかで、自分の描く理想の耐えざる挫折を体験する人も多い。
それをことごとく抑圧する。

一方で、心の底では完全な人間でありたいという願望を捨てていない。
壮大な自己イメージにしがみついている。
彼は人並みでは満足できない。
それは深刻な劣等感の反動形成である。

それは完全でなければ自分は受け入れてもらえないと感じるよう成長してきたからである。
優越によって安全を確保しようとする。

その結果、こころが触れ合う親しい人がいない。
心で人とつながっていない。

心が触れ合う人がいないということは、自分が無意識に問題を抱えているという知らせである。

自分に対する絶望感に直面することは、心理的に自立することである。
小さいころから自分に破壊的メッセージを与え続けた人たちと別れることである。
彼らから、自分の心を断ち切ることである。

いままでの同性の友人とも異性の友人とも関係を絶つことである。
彼らは形だけの友人で、心が触れ合う人たちではない。
友人という名前の「赤の他人」である。
あるいは、自分をいじめている人、自分を侮辱する人でしかない。

絶望感の最も深刻なのは、実は自立の失敗である。
そして自分が自立に失敗しているということに、もちろん気がついていない。

自立に失敗した自分に対する絶望感は、無意識にあってその人を支配している。
だから悩みから抜けきれない。

ここでいう「自立」とは、経済的な意味での自立ではない。
心理的な意味での自立である。
経済的な自立は目に見える。
だから経済的に自立に失敗している人は、自分でわかっている。
それは無意識の問題ではない。

高すぎる基準を自分に課してしまう人は、重要な他者によって高すぎる基準を課せられた人である。
権威主義的な父親に対する子どもの反応はこうしたものであろう。

子どもはそれを内面化した。
子どもは親へまだ心理的に依存している。
しかし20歳になっても、30歳になっても、40歳になっても、そのことに気がついていない。
しかし、無意識ではその自立への挫折が大きな位置を占めている。

「実際の自分」を受け入れられた体験が乏しい人は、「実際の自分」では周囲の人は自分を相手にしてくれないと感じてしまっている。

社会に出てからも、引き続き自分の求める理想のたえざる挫折を体験する。
それは社会的な挫折である。
そして自分に対する絶望感に苦しみ、その絶望感を抑圧する。

自分への絶望感から目を背けながら、頑張り続ける。
そして心身ともにボロボロになり破滅する。

あるいは、「私は特別な人間である」という神経症的要求に固執して、自分の架空の独自性にしがみつく。
人を侮辱することで、自我価値の崩壊から自分を防衛する。

「あいつは、社長なんかになって喜んでいるんだよ、小さい、小さい」とバカにして笑う。
最後は孤独である。
無意識には憎しみが山のように堆積している。

その最も奥にあるのが自立への失敗である。
人に認められないと嬉しい気持ちになれない。
自立の失敗には最後まで気がつかない。

だから最後まで自分はなんで生きるのがこんなに苦しいのか理解できない。
そして目に見える苦しみの原因を探す。

そして本当の原因ではない「目に見える原因」を、苦しみの原因と思い込んでしまう。

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その愛は誰に向けたものか

人が成長するためには心理的に恵まれた環境が必要である。

恵まれない環境についてカレン・ホルナイは、「周囲の人があまりにも自分にとらわれていて、子どもを愛することができない」ということを言っている。

その通りであろう。

親をはじめ、周囲の人が子どもを愛することができないという環境では、子どもは自己実現して成長することはなかなかできない。

わかりやすい例を挙げれば、「子煩悩な親」である。
もちろん、本当の意味で子煩悩ではなく、”偽善的”子煩悩である。

子どもにべったりとしているが、子どものためではなく、親自身の愛情飢餓感を満たすためである。
いつも家族旅行に行くような家族である。

そういう環境で成長すれば、子どもは基本的不安を抱いてしまい、生きるエネルギーは、自己破壊的に使われる。
自分でない自分になっていくために生きるエネルギーは消耗する。
自己疎外される。

猫が虎のぬいぐるみを着て生きるようになる。

その人を取り巻く人間関係がまた歪んでいる。
そうした歪んだ価値観の空気を吸いながら成長する。

子どもを猫かわいがりする親がいる。

たとえば夫との関係に絶望した妻が、その欲求不満を解消するために子どもに感情をぶつけていく。
夫に失望し、生きることに絶望した妻が、自分の欲求を満足させる手段として深く子どもに干渉していく。
それが過保護であり、過干渉である。

これが「偽装された憎しみ」である。

この母親が救われるためには、夫に対する「無意識の憎しみを意識すること」である。

父親に猫かわいがりされた息子は、息苦しくなる。
それは、今度は父親が母親に対して抱く、「抑圧された憎しみ」の変装した姿であるからである。
夫は妻に対する憎しみを抑圧する。
その憎しみが、子どもへの過剰な愛に変装して表われる。

この父親が救われるためには、妻に対する「無意識の憎しみ」を意識することしかない。

母親は、教育熱心で非の打ち所がない。

表面的にはなかなか理解できないが、問題は教育熱心の動機である。

たとえば、夫が亡くなった心の空洞が問題である。

母親は自分の心の空洞を埋めるために、子どもの教育に熱心になる。

夫への依存心から、子どもには「お父さんのように偉くなれ」と励ます。

これが立派な母親の、無意識に隠された攻撃性である。
母親は自分の無意識に支配されながら、自分は立派なことをしていると思い込んでいる。

行動という視点から見れば「教育熱心で非の打ち所がない母親」であるが、無意識にある動機という心の視点から見れば「子どもを愛する能力のない母親」である。
心理的に自立できない女性である。

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欲を満たす人生より、「好き」をかなえる人生

子どもにとって成長できない環境というのがある。
両親がそれぞれの心の葛藤を解決する手段に、子どもを利用する。
子どもである自分が、絶望した親の生きる手段とされたときである。

両親の心の葛藤の解決のための子育て、それが外から見て最も分かりにくい。

表面的には子どもはかわいがられて見える。
しかし実は直接的に憎しみを表現されたときよりも、子どもの心を破壊する。

子どもも自分の正直な感情を理解することができない。
自分は誰が好きで、誰が嫌いかも分からない。
つまり子どもはなにがなんだか分からない。
なにが好きで、なにが嫌いだかも分からない。

「欲」と「好き」とは違う。
「欲」で生きると不幸になるが、「好き」で生きると幸せになる。
「欲」で生きると自分の人生の目的が分からない。
自分が心理的に自立に失敗しているということに気がついていない。
自立しようとして自立できない。

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無防備でいられることの重要性

小さい頃、親の側にいて安心した、くつろいだという体験がない。
親が側にいるところでは安心してすぐに寝てしまったという体験がない。
無防備になったことがない。

子どもは、親が側にいて、疲れていれば部屋が明るくても、粗末なソファーの上でもすぐに寝てしまうものだ。
床の上でも寝てしまう。
そういうくつろいだ雰囲気を小さいころに体験していない。
不安なら豪華なベッドでも人は寝られないが、安心していれば寒い床の上でも寝てしまう。

無防備は心理的な成長に大切である。
無防備になれないと、子どもはコミュニケーションできない。

「敵意、神経症的依存を解き放ち、表現することができるようになるのは、心が自由だからである。
自由だから敵意が出てくる。
息抜きができる。
それをすれば、興味、関心、これをしようという意欲、エネルギーが出てくる。
自然と成長へと向かう。」

最も簡単な例で言えば、子どもが泣くときである。
泣いて感情がすっきりして次は意欲的になる。
だから、小さい子どもが泣いても、これでよかったと思うことである。

むしろ、小さい子どもがマイナスの感情を出せる場所をつくってあげることが子育てには大事だろう。

たとえば、母親に向かって子どもが「うるさい!このババア!」と言った。
しかし、そう言った後で子どもはスッキリして母親に憎しみの感情を残していない。

威嚇で、「なに!よくも言ったわね!」と母親が怒れば別だろうが、憎しみの感情を表現した子どもは母親に憎しみの感情を残していない。

いつも威嚇されている子どもは自分の感情を抑え付け、心理的成長は止まる。

「彼は、成長がただ安全からのみ出ることを知っている。」

高所恐怖症でも、下で必ず受け止めてくれると思えば、その人は飛び降りられるだろう。
心理的に安全なときには人は危険でも挑戦できる。
つまり成長できる。

プールの水が怖い子がいる、少しずつ水の中につけていけばいい。
「浮輪があるから大丈夫よ」という言い方は、怖がっている子には意味がない。
それは大人の理屈である。
プールで楽しくいることができてはじめて、水泳が好きになる。

カメは「意気地なし」と思われても、危険を感じれば甲羅の中に入る。

同じように蛇はとぐろを巻く。
小さな子どもが「恐いよ」と自分を防衛するときには、それを尊重してあげることである。

「彼のおそれが丁寧に受け入れられた場合にのみ彼は大胆になることができる。」

受け入れられた場合というのは、信頼されたときである。
怖いとか、つらいとかということを分かってくれたときに人は大胆になれる。

自立とは「自分を支配するもの」からの脱却

大切なのは、「私は恵まれない環境で成長した」という自覚である。
あくまでも「愛情という点で」恵まれないということである。

ところが人は自分が心理的に自立できていないということにはなかなか気がつかない。
まったく気がつかない人が多い。

自分はなにに支配されて生きているのかにまったく気がつかないままに、「なにか変だ」と思いながらも、自分は正常だと思っている。

心理的に自立できていないということは、生きる土台ができていないということである。

ある人が、人の目が気になって仕方ない。
でも苦しくないと思い込んだ。
そして高校時代に不登校になった。

心の底で自分に嘘をついて生きてきてしまったと気がついて、立ち直った。

心理的に自立できていないゆえに、自分に絶望している。
もしそこをしっかりと意識できれば、あとは生きるエネルギーを自己破壊的な方向ではなく、生産的な方向に向けられる。
前に向かって進める。

しかし偽りの「親の愛」という考え方に心が縛られて、「私は恵まれない環境で成長した」ということをハッキリと意識できない人が多い。

そういう人は、前向きにエネルギーを使えないままで、具体的にはなにも生産的なことができない。
「私は親が嫌い」という感情を無意識に追いやる。

しかし「私は恵まれない環境で成長し、心理的に自立できていない」という自覚のある人は、生きるエネルギーが生まれるから、次々出てくる問題の解決に取り組める。

ただ悩んでいるだけで具体的にはなにもしないということではない。

それは自分の無意識の心の中の声をいつも聞いていた人である。
自分の人生に対してコントロールしている感覚がある。

親子であろうと、配偶者であろうと、誰であろうと、私が私自身になることを許さない人とは別れることである。
そういう人たちから、心を断ち切る。
これが「人生を無意味にしない法則」である。

ただ悩んでいるだけで具体的にはなにもしない人は、無意識の絶望感に支配されているだけである。
40歳を超えて、自分がまったく心理的に自立しないで生きているということに気がついていない人である。

最終的にその人を支配するのは無意識に追いやられている感情である。

無意識にあるものに直面することを避ける、それがその人の隠された動機である。
行動は見えても、隠された動機は見えない。

人によく思われなければならないと感じている人は、それによって自分の価値を感じようとしているからである。
そういう人は、無意識に「自己無価値感と孤立感」に苦しんでいる。

そういう人は、人が嫌いである。
「自分を大切にする人」しか他人を大切にできない。

人は自分を受け入れる程度にしか、他人を受け入れられない。

自分を愛することなしに他人を愛することはできない。
心理的に自立することなしに、人を愛することはできない。

「他人への義務は、自分ができる限り生きる歓びに満ちている存在であることによってのみ果たせるのです。」

「生きる歓びに満ちている存在である」とは、無意識に自分に対する絶望感のない人である。

絶望感から希望に向かって進むような人になるにはどうすればよいか。

心理的に自立している人になることである。
視点の豊富な人になることである。