意気地なしの人が自信を持つとは
意気地なしの人の心理
にせの自信をもっている意気地なしの人は、仕事以外の場での楽しみというものを、仕事からの解放と考える。
よく、「今日は一日仕事のことを忘れたい」と言う意気地なしの人がいる。
人生の楽しみを意気地なしの人は、現実からの逃避と考えているのである。
彼のさまざまな行動の動機は、現実からどう逃げるか、ということである。
彼にとって、”楽しみたい”ということは”現実から逃げたい”ということなのである。
レクリエーションなどというのも、現実からの逃避と意気地なしの彼は考えていた。
酒を飲む時も二通りあろう。
一つは酒を楽しみために飲む時、もう一つは意気地なしの人が辛いことを一時でも忘れようとして飲む時である。
レジャーとかレクリエーションとかいうものを、現実からの逃避と考えている意気地なしの人は、酒で言えば、現実をわすれるために飲んでいる人である
現実の世間のさまざまな人に対して、憎しみを抱いている
現実は意気地なしの人にとってつまらないことばかりである。
世間の自分に対する評価に意気地なしの彼は不満足である。
毎日、意気地なしの人はイライラしてばかりいる。
仕事は意気地なしの人は思うようにいかないで焦っている。
気ばかり焦っても、意気地なしの人は仕事のほうは何も手につかなかったりする。
気の休まる時が意気地なしの人はない
集団内での自分の順位が不本意である
現実は意気地なしの彼にとって”いや”なことばかりなのである。
であれば、”楽しみ”とは、この現実を忘れさせてくれることとなるであろう。
レジャーは意気地なしの彼にとって現実からの逃避なのである。
旅行に意気地なしの彼は行きたくて行くのではない。
旅行が自分に現実を忘れさせてくれるからである
現実から意気地なしの彼は逃避するために旅行に行く。
しかし本心は意気地なしの人は旅行に行きたくない。
現実から逃避するために意気地なしの人は旅行に行く。
しかし本心は旅行に行きたくない。
現実から逃避するためにレジャーを求める意気地なしの人は、デッドエンドに突き当たる以外にはない。
現実から逃避する性質そのものに、楽しむ能力が欠如しているのである
にせの自信をもっている意気地なしの人にとって現実は辛い。
しかし意気地なしの人はその辛い現実から逃避するための行動もまた”いやなことばかり”なのである。
自信のある人がパーティに出席する。
するとその場を十二分に楽しむ。
彼はパーティに出席して満足する。
パーティに出席したことで、他に何かを得ようとは思わない。
彼はパーティそのものを楽しんだ以上、すでにその場でむくわれている。
歌を唄い、新しく会った人と会話をし、昔からの友人と笑い、彼は満ち足りて家に帰っていく
しかしにせの自信しかもっていない意気地なしの人は、パーティに出席したことで何かを得ないと満足しない。
何かの金儲けのタネを得たとか、新しく市場を開拓するのにコネができたとか、疲れがいっぺんにふっとんだとか、何かを得ないと、意気地なしの人は出席しても時間の無駄をしたように感じる。
そのパーティに出席している意気地なしの彼自身を、べつに好きなわけではないのである。
だからといって、意気地なしの人はパーティに出席しないで家にいたり、仕事をしていたりして満足するかというと、決してそうではない。
まさにデッドエンドなのである。
パーティによって何も得られない以上、意気地なしの彼は辛い仕事をしていたほうが、まだ気が休まる。
先に進むことも意気地なしの人は辛いが、退くことも辛い、かといって、そこにとどまっていることはなお辛い。
これが、現実から逃避してにせの自信をもっている意気地なしの人の末路である。
デッドエンド、これほどにせの自信にふさわしい言葉も少ないであろう
もちろん意気地なしの彼には、肉体的に安楽ということもあるかもしれない。
しかし、安楽には退屈がつきまとうし、意気地なしの人はだいたいがいつも”こんなことをしてはいられない”という気持ちに追い立てられているのである。
にせの自信を持つ意気地なしの人ほど、楽しみを必要としている人はいない。
いつも針のむしろの上に意気地なしの人は坐らされているのであるから。
誰よりも楽しみを必要とする人であるにもかかわらず、誰よりも楽しみを味わえないというのが、にせの自信の持ち主なのである
意気地なしの人はその場を離れてどこかに行かざるを得ないほど辛いのに、その場を離れる気がしない。
新しく人に会う気も意気地なしの人はしないのに、だからといって一人でいるのも”いや”なのである。
机の前に坐っているのも意気地なしの人は”いや”だけれど、かといって散歩に行く気もしない。
感情の袋小路で意気地なしの人は生きていかざるを得ない。
高慢になる思い込みが激しい意気地なしの人は、もう勝負に負けている?
かつて、読売新聞の「人生案内」に次のような話があった
アメリカに住んでいる日本人の商社マンの妻からの訴えである。
「夫は苦学をしながらも、有名大学をでた大会社の社員です。
私が見ても痛ましいほどの精勤ぶりで、帰宅は連日十二時前後、日曜日は付き合いゴルフ、たまに家にいる日は疲れたとゴロゴロしながら、それでも仕事関係の本を手放さない具合です。
付き合いを重んじ、手当てやボーナスをつぎ込みますので、私たち親子の生活は楽ではありません。
従来からがんこなタイプだった夫が、こちらに来てからはその度を増したようで、”もっと家庭を大事にして”などと言おうものなら、”結局はおまえたちのためにこんなに頑張っているのだ”と申し、さらに私の運転技術、買物もスムーズにいかない英会話などを強く批判します・・・」
こんな意気地なしの夫こそ、にせの自信を頼りに生きてきて、遂にデッドエンドにきたという感じである。
彼の態度がデッドエンドだということは、家で疲れたとゴロゴロしながらも、それでも仕事の本を手放せないでいるところにあらわれている
ゴロゴロもしていられないが、だからといって、辛くて本も読めないのである。
ゴロゴロしながらも意気地なしの彼は、一時として気が休まらないにちがいない。
ゴルフをしている意気地なしの彼の姿を想像すると、楽しんでいる姿は浮んでこない。
ゴルフを意気地なしの彼がやったからといって、気持ちが晴れるわけではないだろう。
しかし、ゴルフにそうしたものを意気地なしの彼自身は求めているに違いない。
まさに楽しみを意気地なしの彼は必要としている。
しかし、彼はいっさいの楽しみから拒絶されている
これまで劣等感から意気地なしの彼は、頑張ってきたのであろう。
そして劣等感から意気地なしの彼は、行動すればするほど結果として劣等感を強めてしまっている。
結果として成功しても意気地なしの彼は、心理的には劣等感を強化しているのである。
にっちもさっちも意気地なしの彼は、いかなくなっているのである。
妻の運転技術や英会話の能力の欠如を意気地なしの彼は、強く批判するのは、にせの自信しかもっていないからであろう。
また、にせの自信を意気地なしの彼はもっているからこそ、他人の英会話の能力を責めることになる。
彼は形のうえからすれば英語力はあると見える。
自分の職務を意気地なしの彼は、十分におこなえるほどの能力はないのであろう。
この形のうえでの実力と真の実力とのギャップが、意気地なしの人のにせの自信を強めているのである。
したがって意気地なしの彼は、他人の英語力を責める。
おそらく意気地なしの彼は、自分より英語のできない駐在員や、駐在員になれなかった同僚たちを軽蔑しているにちがいない。
高慢は、つねに破滅の一歩手前であらわれる。
高慢になる人はもう勝負にまけているのだ、とヒルティの言葉である
まさに意気地なしの彼は破滅の一歩手前である。
レジャーに意気地なしの彼が求めるものは、この辛い現実からの逃避であろう。
しかし、この彼自身がよく示しているように、いかなるものも意気地なしの彼に楽しみを与えることができない。
もともと頑固で意気地なしの彼はあったと、相談者は書いている。
頑固であるということは、すでに気持ちのうえでは周囲の世界に負けているのである
意識されている意気地なしの自己は高慢になりながらも、潜在意識下の自己は相手に負けている。
これが、彼のがんこさである。
にせの自信で意気地なしの彼は生きてきたから、自分と周囲の世界との溝をどんどん大きくしてきてしまい、もはや橋のかけようがなくなっているのである。
のどから手がでるほど意気地なしの彼は気持ちの休まる楽しみがほしい。
そして、そのためのお金も環境も時間も、意気地なしの彼には何もかもある。
しかし、彼は楽しめない。
楽しみたいけれど楽しめない
意気地なしの彼は楽しみを味わわなければ破滅してしまいそうに楽しみを必要としているのに、どうしても楽しめないのである。
にせの自信を頼りに意気地なしの彼は生きてきたことの悲劇を、ここに見ることができる。
意識された自己が意気地なしの彼をゴロゴロして疲れをいやそうとしても、潜在意識下の自己は不安と劣等感から彼をかりたてる。
何でこんなに辛い思いをしながら意気地なしの彼は仕事をしなければいけないのかわからない。
この辛い生活を意気地なしの彼は支えるために理由が欲しい。
意気地なしの人は「結局はおまえたちのためにこんなに頑張っているのだ」ということになる
恩をきせられたほうはいい迷惑である
デッドエンドの意気地なしの人間は、他人をまき込んでいく。
自分が変わる以外に意気地なしの人は、もはやどうにもならなくなっているのに、他人を犠牲にしつつデッドエンドを乗り切ろうとする。
それが、「おまえたちのため」である。
しかし、デッドエンドはデッドエンドである。
このまま彼が頑張れば、意気地なしの彼のノイローゼは強まるばかりである。
生き方を変える以外には意気地なしの彼はない。
具体的には意気地なしの彼は駐在員をやめることである。
私たちががんばらねばならないのは、意気地なしの彼のようながんばり方においてではない。
人間は正しい仕事を見出した時ほど、晴れやかな気分になることはないという
そんな仕事において私たちはがんばらねばならないのである。
仕事こそ楽しみだ、という仕事におていがんばればよいのである。
高慢であるが、意気地なしの彼は愚かである。
彼は、実は心の奥底では、意気地なしの自分を軽蔑しているのである。
彼は心の奥底で知っている自分を、自分が受け入れられないでいるのである
だからこのような職を選び、このようなかたちの努力をしている。
もし、彼の評価する人間の価値基準を変えて、実際の自分を受け入れることができれば、すべては解決するのである。
今持っている意気地なしの彼のモノサシは、彼の劣等感がつくり出したモノサシでしかない。
苦学して大会社の海外駐在員にまで意気地なしの彼はなったが、いまだに、何についても達成感というものをもったことがないのではなかろうか。
一つの仕事をやり遂げた時の達成感を、彼はもったことがないはずである
意気地なしの彼はたしかに学生時代はよく勉強して、有名大学をでたであろう。
しかしクラブ活動で、意気地なしの彼はあるひとつのことをやり遂げたという体験はないにちがいない。
大学祭に参加して、意気地なしの彼はとにかくそれをやり遂げて、「やったあ」と言って最後に皆で楽しく酒を飲んだことがないにちがいない。
私たちの楽しむ能力を意気地なしの彼は維持するためには、この達成感が大切なのである。
達成感をもつためにも、意気地なしの人は自分に適合した生き方をしなければならない。
もし自信をもちたければ、自分に適合した考え方をし、自分に適合した生き方を妨げているものは何か、ということを自分なりにつきつめていくことである。
なぜ、ありのままの自分の価値を意気地なしの自分は信じられないのか、もう一度、腰をすえて考えてみることである。
幼い頃から、意気地なしの自分はある一定の生活の方向を親に決められていたからか、幼稚園で、先生のつくったものをまねてつくることしか教えられなかったからか、考え直すことである。
うまくまねることができてほめられ、自分で一生懸命つくったものはほめられなかった
意気地なしの人はいずれにしろ、何か自分がやりたいことをやった時にはほめられず、自分を抑圧してやったことをほめられたとか、そのようなことがあるにちがいない。
私たちは自分のもっているものに気がつくばかりではなく、自分のもっているものの価値に自信をもたなければならないのである。
”雁が飛べば石亀も地団駄”という格言がある。
空を飛ぶ鳥は空を飛べばよいのである。
雁が空を飛ぶのを見て、石亀が飛びたいと思ったところで、自分を傷つけるだけであろう。
雁には雁の生き方があり、亀には亀の生き方がある。
自分には自分の生き方がある
それを否定すると、意気地なしになり、にせの自信をもち、努力に努力をかさねて自分を傷つけつづけることになる。
そのような努力は格言にあるように、”船を陸に押す”がごとき努力である。
船は水の上で動くことを忘れてはならない。
意気地なしの人がその瞬間、さわやかな自信が身体の中に生まれる心理
自信がない、という人は、自分の人生のどこかに”ごまかし”があったかを反省してみなければなるまい
意気地なしの人がまず第一に反省してみることは、もちろん家族関係、特に親子関係における”ごまかし”であろう。
親がまともな大人であった人は問題ないが、すべての親がまともであるわけがない。
情緒的に未成熟な親は、子どもにまとわりついて生きる。
そのような親に育てられた子どもは、親からかぶさってくる一体感に負けてしまって、真の自分を”ごまかし”ていたのではないだろうか。
親の利己的な期待や、虚栄心に負けて、真の自分の望みに気付こうとせず、親の言うなりになっていた
だとすれば、意気地なしの人はまず人生の第一歩で自分を偽ったのである。
べつの表現をすれば、意気地なしの人は自己の他者化ということである。
自己主張というのは、何のことはない、自分を偽らないというだけのことである。
自己主張=自信、という公式も、ここから理解されるだろう。
自分を偽っている人が自分に自信をもてるわけがない
今まで自分を偽って見せていた意気地なしの人に、偽りのない自分の姿を見せることは、自分にとっては戦いである。
しかし、自分の偽りのない姿を意気地なしの人が相手に見せた時、相手もまたその偽りのない姿をさらけ出さざるを得なくなる。
虚栄心の強い甘えた親にむかって「僕はもうそんなウソの生活はいやだ。虚勢だけの生活はいやだ」と言ってみたとしよう。
甘えた親であればあるほど、ヒステリーをおこす。
甘えた親であればあるほど、子どもに依存しつつ、子どもを支配しようとしている。
自分の支配に反逆されたのであるから、怒り狂う
「おまえを苦労して育ててきたのを忘れたのか」とか「オレの社会的名誉はどうなる。少しは考えろ」と叫び出すに違いない。
それまでは「おまえのためなら、何だってやる」というようなことを言っていたのに、一変して「おまえのほうこそ嘘つきだ」などと言いだす。
その一変した姿こそ、今までの愛が本当は子どものための愛ではなく、自己愛のための対象愛にすぎなかったことをあらわしている
そのような醜悪な姿を見た時、自分はこれほど自己中心的な醜悪な人間を恐れて自分を偽ってきたのだと知って、呆然とするだろう。
そしてその瞬間、さわやかな自信が身体の中に生まれる。
もはや、自分を偽る内的必然性がなくなったからである。
その人の”魅力”に比例する修羅場の数
甘えた親は、子どもが自分の支配に服する限り、子どもを愛していたにすぎない。
自分の価値を子どもに認めてもらいたかったが、これをはじめて子どもが拒否した。
そこで一転して憎しみに変わったのである。
愛が憎しみに変わったというよりも、子どもへの心理的依存が満たされず、憎しみをもったということである。
自分を偽っていればこそ意気地なしの人は、相手の本当の姿はあからさまにはならない。
これは何も親子ばかりではない。
同僚同士であれ、上役との関係であれ、意気地なしの人は同じことである。
また、自分を偽らなければ、それだけ真の友人もわかってくる。
自分を偽らなくても受け入れてくれる人を知って、やはり同じように、いかに自分を偽ることがバカバカしいかを悟るであろう。
ある人に受け入れてもらおうと、一生懸命になって自分を実際以上に見せていた
意気地なしの人はありのままの自分では受け入れてもらえないのではないかと、十の財産を百に見せていたり、十の才能を苦労して百に見せていたりしていた。
しかし、十の財産と十の才能でも受け入れてもらえる、いやそうではなく、そんなことを問題にしているのではなく、自分の相手への思いやりの気持ちにふれて、相手は自分を尊敬していたんだと知ることもある。
それはまた新たな自信を生む。
もう一度繰り返そう。
自己主張とは何でもない、ただ、自分を偽らないということなのである
しかし自分を偽らないというだけのことで、時に修羅場となる。
しかし修羅場を生き抜かなければ、自信をもてないという運命にある意気地なしの人もいる。
修羅場を生き抜いてこそ、みがきのかかる人間もいる。
修羅場を避けようとしたがために、一生屈折した感情で生きる意気地なしの人もいるのだ。
自らを鍛えるべき修羅場を意気地なしの人は避けたことによって、自信喪失という代償を払ったのである。
人生の最終的な清算は自信でなされる。
ごまかしのある意気地なしの人は表面では得しているようでも自信がなく、ごまかしのない人は表面では損しているようでも自信がある。
人間がどれだけ魅力的かは、一つには、どれだけ修羅場をくぐりぬけてきたかによる。