感傷的になりやすい人の気が楽になるとは
感傷的になりやすい人は「大変なことになる」と思うから疲れてしまう
感傷的になりやすい人は疲れやすい。
自分の心の底にどのくらい恐怖感があるかのメルクマールは疲れやすさである。
恐怖感の一つの症状は人と対峙したときに疲れやすいということである。
感傷的になりやすい人は人と意見が違い、話し合うときにものすごいエネルギーがいる。
それは自分の内部の恐怖感と戦っているからである。
恐怖感を心の底に抑えつつ感傷的になりやすい人は相手と向き合っている。
だから疲れるのである
感傷的になりやすい人は自我発展の可能性が犠牲にされて、社会的に成長してきているからである。
生身の一人の人間として相手と対峙したときに、感傷的になりやすい人は自我が確立されていないから、自分が頼りない。
その頼りない感傷的になりやすい自分で踏ん張っているからエネルギーが消費される。
恐怖感のある感傷的になりやすい人は、日常生活も疲れる。
人と対立したときに感傷的になりやすい人はエネルギーを消耗する。
ハト型夫婦とかいう人々は、対立することができない人々である
対立していないからといってコミュニケーションができているわけではない。
「人生なんとかなるさ」と思って努力している人と、「大変なことになる」と思って努力している感傷的になりやすい人では、同じ努力をしていても生きているつらさは天と地の開きがある。
「たいへんなことになる」と思って努力している感傷的になりやすい人には恐怖感がある。
「独立と依存両方の要求が同時に存在することは、神経症では強迫形態をとる」
感傷的になりやすい人は自分が心理的に依存している人と、何かで対立するということは心理的に消耗する。
依存している人と感情的にズレができるとエネルギーを消耗する。
しかし日常生活では生身の人間がじかに接すれば、どうしても感情的なズレは生じる。
ズレを解決しようとすればエネルギーを消耗する。
そこで感傷的になりやすい人はズレから目を背ければ、解決ができないままに鬱憤がたまる。
たまった鬱憤が人間関係に悪影響を与えることは間違いない。
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感傷的になりやすい人の劣等感に対する過剰な意識
ところで恐怖感は憎しみの感情と一体化し、さらに自分の安全を確保しようとする姿勢につながっていく
これが劣等感である。
つまり感傷的になりやすい人は人と相対するのに、自分を守るための何か武器が必要である。
それが学歴であったり、財産であったりする。
劣等感は「優越性を達成して安全を得ようとの神経症的補償を発展させる」
恐怖感がなければ相手に優越することで自分の安全を確保しようとはしない。
こうして恐怖感、憎しみ、劣等感が渾然一体となって、その人の神経症的パーソナリティを形成する。
感傷的になりやすい人は恐怖感から人に優越しようとしたときに、心豊かな生き方を見失う。
優越することでしか、安全を確保できなければ、すべてのエネルギーは優越することに向けられる。
当然のことながら感傷的になりやすい人はコミュニケーション能力も失われる。
優越することばかりにエネルギーが奪われていたら、コミュニケーションができないのは当然である。
「神経症的性格が発達するための重要な要素は、自分の弱点に対する主観的態度である」
恐怖感のある感傷的になりやすい人は、自分に弱点があることがどれほど恐ろしいことであるかを小さいころに感じている。
しかし母なるものを持った母親に育てられたような人は、自分に弱点があることを恐れない。
弱点があってもそれで母親から責められていないからである。
弱点があることで自分の身が危険にさらされた体験がない。
そこで自分の弱点を自分が受け入れる。
それに対して弱点があることで、小さいころから責めさいなまれてひどい目に遭っている感傷的になりやすい人は、弱点に対して過剰補償をする。
こうして感傷的になりやすい人は神経症的パーソナリティを発達させる。
感傷的になりやすい人の恐怖感と無力感の悪循環
人はなぜ、ときに自分の能力を超えたことをしようとするのか?
なぜ「理想の自分」と「現実の自分」とが乖離するのか?
感傷的になりやすい人はその原因は恐怖感である。
「理想の自分」になることでしか、感傷的になりやすい人は親から認めてもらえない。
親の非現実的なほど高い期待を感傷的になりやすい人はかなえることでしか、身を守れない。
恐怖感から自分の身を守るためには人に優越することだとなったときに、この乖離が始まる。
安全への欲求
人間の基本的な欲求である。
感傷的になりやすい人はそのための優越である。
「こう優越したい」というのは安全への欲求である。
そうなれば感傷的になりやすい人は「現実の自分」の能力を考慮してはいられない。
安全を得るために感傷的になりやすい人は「こう優越する」必要があるとなれば、何がなんでもその優越を確保しようとする。
しかし「現実の自分」は、その優越を達成するだけの能力がない
感傷的になりやすい人はそこに恐怖感が生じる。
それが深刻な劣等感である。
深刻な劣等感は恐怖感を土台にしている。
人から非難されない、人から責められない、人から拒絶されない、人から攻撃されない、孤独に苦しめられない、さいなまれない、そのためには「ここまで優越しなければならない」と感じる。
その優越を感傷的になりやすい人は達成しようとするが、それが自分の能力では無理である。
「理想の自分」と「現実の自分」の乖離
「理想の自分」と言われているものは、そのようになれば恐怖感に苦しまなくて生きていかれるという自分である。
深刻な劣等感に苦しんでいる感傷的になりやすい人は、「理想の自分」を達成できれば、安心して生きられるのではないかと思っている。
感傷的になりやすい彼らは安心するために優越を必要とする。
そうした世界には、慰めはない。
感傷的になりやすい人が「怖い」ということは外からの攻撃に対して、自分は無防備だということである。
防衛する力があれば、怖くない
無防備な感傷的になりやすい人ほど怖い。
感傷的になりやすい人が「嫌われるのが怖い」ということは、嫌われたら自分はどうしてよいかわからないということである。
嫌われるということが、感傷的になりやすい人は相手から攻撃されているような気持ちになるのである。
そして感傷的になりやすい自分は相手からの攻撃に対して何にもできないという無力感があり、それが恐怖感につながる。
恐怖感と無力感が悪循環していく。
自分がない人、自分が自分にとって頼りない感傷的になりやすい人は、ときに防衛する力が実際にはあっても、自分には力がないと感じてしまう。
第三者から見て攻撃にさらされてなくても、自分がない人、自分が自分にとって頼りない感傷的になりやすい人は攻撃にさらされていると感じてしまう。
攻撃にさらされているという現実ではなく、感傷的になりやすい人は恐怖感が、攻撃にさらされているという感じ方をつくってしまう。
そして感傷的になりやすい人はそれがものすごいストレスになる。
夜も眠れないストレスになる。
現実から逃げるということも同じ心理である。
オーストリアの精神科医ベラン・ウルフが言うように現実は味方なのであるが、現実から逃げると現実は怖くなる。
感傷的になりやすい人は自分の欲望がわからなくなっている
自己喪失している人は何も自分のことがわからない
感傷的になりやすい人は言いたいのだか言いたくないのだか、行きたいのかいきたくないのか、食べたいのか食べたくないのか、好きだか嫌いだかもわからない。
だから何かを聞かれるのが感傷的になりやすい人はイヤ。
何を話していいかどこから話してよいかもわからない。
極端にいえば感傷的になりやすい人は死んでいるのか生きているのかも分からない。
とにかく感傷的になりやすい人は人にいい顔をして生きてきたから、自分の欲求がわからなくなった。
自分の感情が感傷的になりやすい人はわからなくなった。
何が自分に適しているか適していないかがわからない
嫌われるのが怖くて、Aという人に合わせ、Bという人に合わせ、Yという人に合わせ、Zという人に合わせているうちに、真の自己を失ってしまった。
ということは、感傷的になりやすい人は全部失っているということである。
感傷的になりやすい人はいま自分はタコなのに、金魚鉢にいるということがわからない。
自分はいまここにいるべき人間ではないということが感傷的になりやすい人にはわからない
自分に適していない環境にいながら、感傷的になりやすい人は適していないという感覚すら失っている。
もちろん心の底の底では感傷的になりやすい人は「自分はいま何か大切なものを失っている」ということには気がついている。
感傷的になりやすい人は「自分はいったいだれ?」と問いかけてみる
生きることが怖いという人がいる、嫌われるのが怖いという人がいる、生きることに疲れたという人がいる
そういう感傷的になりやすい人は、いままで、生きるということは、人の期待に応えるということだった。
感傷的になりやすい人は他人が期待することをする、他人が期待する人間になる。
他人が期待することを感傷的になりやすい人は言う、他人が期待することを同じように望む。
小さいころから感傷的になりやすい人は親のロボットで生きてきた。
自分の可能性を感傷的になりやすい人は犠牲にして他人の人生を生きてきた。
それは現実を生きるということではない。
現実のなかで生きているということではない
自分の人生を生きるということではない。
生きるということが、他人の期待に応えるということになってしまった感傷的になりやすい人の悲劇は、いつも他人に怯えているということである。
感傷的になりやすい人は他人が自分のことをどう思っているかにいつも怯えている。
他人にどう思われるかは、生きるか死ぬかの問題になってしまう。
しかし感傷的になりやすい人の他人に好かれるということは、その人の心の底の不幸を消してはくれない。
小さい頃から他人の期待に応えることが生きることになってしまった感傷的になりやすい人は、しだいに自分がだれであるかがわからなくなってしまう。
歳をとるということは、しだいに自己を失っていくということである。
ふつうの人は、歳をとるということは、自己を確立していくということである
しかし他人の期待に応えることが生きることになってしまった感傷的になりやすい人は、これが逆になってしまう。
三歳の子どもには三歳の子どもの自分というものがあるが、小さい頃から親の期待に応えなければならなかった子どもは、三歳になっても三歳の自分がない。
感傷的になりやすい人はこうして自分がだれだかわからなくなっていく。
自分がなければ、感傷的になりやすい人は他人によく思われることが生きる条件になっていく。
自分がなければ、他人に拒否されることは怖い。
嫌われるのが感傷的になりやすい人は怖い。
いま嫌われるのが怖いという感傷的になりやすい人は、「はたして自分はいったいだれなのだろう?」と自分に問いかけてみることである。
自己喪失しているときには、感傷的になりやすい人は自分が自己喪失しているということに気がつかない。
自己喪失を感傷的になりやすい人は意識していない。
ではどこで見分けるか?
それは人から嫌われるのが怖い人は、自己喪失している可能性が高い
そして「自分はいったいだれなのだろう?」と思ったときに、自分は現実のなかで生きてはいなかったと気がつけば、先は明るい。
「自分はいったいだれなのだろう?」と自分に問いかけて「ドキッ」とした人は、先が明るい。
自己喪失が深刻な感傷的になりやすい人は、その疑問さえ出てこない。
それが、自己喪失している感傷的になりやすい人は自己喪失しているということに気がついていないということである。
人の期待に応えることが生きることになってしまった悲劇
生きることはつらいし、人が自分のことをどう思っているかは気になってしょうがない
褒められれば嬉しいし、低く評価されれば傷つく。
感傷的になりやすい人は褒められることとおだてられることの違いがわからないから、努力してもよいことはあまりない。
「人に好かれてよい子になって、落ちていくときゃ、一人じゃないか」というフレーズがある。
しかし「人に好かれて」というが、べつにその人は人に好かれていたわけではない。
正確にいえば、「人に利用されて」ということである。
自己喪失しているから、感傷的になりやすい人は利用されていることと、好かれていることの違いがわからない。
「落ちていくときゃ、一人じゃないか」というが、もともと一人だったのである。
周りにいる人は、ずるい人ばかりで、だれもその感傷的になりやすい人の価値を認めてなどいない。
その感傷的になりやすい人から甘い汁が吸えるから、その人に近づいてきたというだけである。
つまり何かあって社会的に挫折して、感傷的になりやすい人は「人に好かれてよい子になって、落ちていくときゃ、一人じゃないか」という台詞のとおりだと思ったら、そのとき、自分は完全に自己喪失していたのだということを認めることである。
「誰でもない私」を周囲の人が本当に認めるなどということはありえない
はじめから周りにいる人は、感傷的になりやすい自分のことを好きでもないし、認めてもいない。
感傷的になりやすい人はまずそのことを認めることである。
そしてそのときこそ、感傷的になりやすい人は「自分はいったいだれなのだろう?」と自分に問いかけてみることである。
そのときに感傷的になりやすい人は「自分はだれでもない」ということに驚愕するにちがいない。
つまり感傷的になりやすい自分は「生きていなかった」ということである。
ロボットだった。
人に好かれることで自信は得られない。
人に好かれることで心の中のイライラはなくならない
「自分はだれでもない」という感傷的になりやすい人は、フロムの言葉を使えば、非生産的な構えの人だった。
そのなかでも感傷的になりやすい人は受容的構えの人だった。
つまりそれは、感傷的になりやすい人は価値あるものは自分の外にあるという感じ方である。
感傷的になりやすい人は自分が自分を認めることができない。
人が自分を認めてくれたときに、感傷的になりやすい人は自分という存在を感じることができる。
だから認めてもらうためにだけ感傷的になりやすい人は生きてきた。
その感傷的になりやすい人たちにとって認められることが、アルコール依存症の人のお酒と同じになっている。
お酒なしには生きていかれない
その感傷的になりやすい人たちの悲劇は、そこまで人に認めてもらいたいと思いながらも、人から認められることがないということである。
人の期待に応えるということが、生きるということになってしまった感傷的になりやすい人の悲劇は、実は人の期待を間違えるということである。
正確にいえば感傷的になりやすい人は質のよい人の期待が何であるかを間違えるということである。
人の期待に応えることが生きることになってしまった感傷的になりやすい人は、どうしても質の悪い人に囲まれてしまう。
ずるい人は、利用できる感傷的になりやすい人を探している。
自分が努力しないで、人のものを盗ることで生きていこうとする人は、たえず獲物を探している。
こうした質の悪い人の絶好のカモが、人の期待に応えることが生きることになってしまった感傷的になりやすい人である。
小さいころは、人の期待を間違えてはいなかった
しかし大人になって人間環境が変わったときに、周囲の人の期待も変わったのである。
感傷的になりやすい人はそれに気がつかないで、生きてきた。
その過程で感傷的になりやすい人の周りはずるい人ばかりになってしまったのである。
つまり感傷的になりやすい人は小さいころと同じように、その人を利用しようとする人ばかりになってしまったのである。
成長の過程で周りには、その人がその人であることを期待した人がいた。
しかし感傷的になりやすい彼らはその期待を感じ取ることができなかった。
小さい頃と同じ種類の期待しか感じ取れなかった
感傷的になりやすい人はそれが悲劇なのである。
その人がその人であることを期待した人は、周りから去っていく。
そして代わりに、その感傷的になりやすい人を利用しようとする人が集まってくる。
こうして感傷的になりやすい人はどんどん自己喪失していく。
自分がだれだかもわからないで、感傷的になりやすい人はただひたすら真面目に努力する。
生まれた時がゼロでも、感傷的になりやすい人は歳をとったときには心の中はマイナスになっている。
心の借金が増加し続けたのである。
これで感傷的になりやすい人は幸せになれるわけがない。
感傷的になりやすい人は「嬉しい」ことより「楽しい」ことを見つけよう
自分がない人ほど褒められると嬉しい
そして褒められると嬉しい感傷的になりやすい人ほど批判されることを恐れる。
感傷的になりやすい人は嫌われるのが怖い。
「自分がない」ということが、幸せに生きていくうえでは致命傷である。
褒められようとして無理をするし、批判されはしないかといつもビクビクしている。
こんな生活で感傷的になりやすい人は心安らかなはずがない。
自分がないときには、感傷的になりやすい人は道に迷ってほんとうに苦労する。
消耗する。
では「自分がある」ようになるためにはどうすればいいのか?
まず何よりも「楽しい」ということを探すことである
「楽しい」ということと「嬉しい」ということは違う。
「楽しい」ということには他人はかかわっていない。
喜びとか「嬉しい」という感情には他人がかかわっている。
自分が好きな絵を描いていれば「楽しい」。
人が評価してくれなくても、絵を描いていれば楽しい。
野球が好きな人は野球をしていれば「楽しい」。
優勝しなくても野球をすることが楽しい。
負けても野球ができることで満足する。
野球が好きな人が野球をして勝てば嬉しいし楽しい。
好きな事で優勝すれば楽しいし嬉しい。
しかし野球の好きな人は、負けても楽しい。
負けたことは嬉しくはないかもしれないが、好きな野球ができたのだから楽しい。
楽しいことは自分が好きなことをしているときである。
人の期待に応えようとして、していることではない。
人の期待に応えられなくても楽しいことは楽しい
楽しいことをしているときには、自分の人生を人に見せていない。
自分の人生にたのしいことを見つけられた時に、他人がアンバランスなほど重要ではなくなる。
こうして「自分がある」ようになってはじめて他人ともコミュニケーションできる。
「自分がない」感傷的になりやすい状態では他人とコミュニケーションできない。
そこにあるのは迎合とか攻撃である。
人と話していても、感傷的になりやすい人のそれは心が触れ合うコミュニケーションではない。
愛情飢餓感がある感傷的になりやすい人は、たいてい楽しみを知らない。
自分の生活を人に見せている。
おいしいものを食べるのは楽しい、会話が楽しい。
基本的な欲求が満たされて、それらが楽しい。
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感傷的になりやすい人は好きな人と嫌いな人をハッキリ分ける
次に「自分がある」人間になるために大切なのは、人間関係の距離感をハッキリとさせることである
感傷的になりやすい人はとにかく八方美人をやめる。
もっと簡潔にいえば、好きな人と嫌いな人をハッキリと分けることである。
尊敬する人と軽蔑する人をハッキリと分けることである。
世の中には尊敬できる人ばかりではない。
ずるい人がいっぱいいる。
人をだます人がたくさんいる。
人をだます人は、だましてもだましても、まだまだし足りない
なかでも自分の手を汚さないで人をだます人が、もっとも質の悪い人である。
質の悪い子は幼稚園のころからいる。
自分でいじめないで、人を使って目的の子をいじめる。
「〇〇ちゃんがあなたの悪口を言っていたわよ」と耳打ちする。
そしてその子を使って〇〇ちゃんをいじめる。
いじめた子はまだ許せる。
許せないのは、人を使っていじめた子である
人を使っていじめた子は、みんなにいい顔をする。
ある不動産屋さんである。
ある問題の土地をある人にだまして売った。
しかしよく調べてみると、その不動産屋さんはある真面目に見えるサラリーマンからそそのかされて、その土地を売っているのである。
いちばん利益を得ているのは不動産屋さんをそそのかした真面目に見えるサラリーマンである。
自分は手を汚さないで、人を使ってだます。
当然だます過程の証拠はすべて消している。
計画的にだますから、証拠を消しながら計画を実行している。
訴えられる可能性があるのは不動産屋さんである。
だました不動産屋さんはまだ許せる。
自分の手を汚している
この不動産屋さんは「悪い奴」である。
しかし真面目に見えるサラリーマンは許せない。
こういう人を感傷的になりやすい人は徹底的に軽蔑することである。
こういう人を軽蔑することで「自分のある人間」になれる。
感傷的になりやすい人は自己喪失を乗り越えられる。
自分のない感傷的になりやすい人は、だれも軽蔑できない。
ただ一人の例外は自分自身である。
自分だけは軽蔑する
自分のない感傷的になりやすい人は、誠実な人も、こういう卑しい真面目なサラリーマンも同じに見てしまう。
そして感傷的になりやすい人は同じ態度で接する。
感傷的になりやすい人は同じように迎合する。
質の悪い人からも、質のよい人からも感傷的になりやすい人は同じように好かれようとする。
誰からも嫌われるのは怖い。
自分のない感傷的になりやすい人は相手を軽蔑するのが怖いのである。
質の悪い人からでも嫌われるのが怖いからである
八方美人というのは、自己蔑視している感傷的になりやすい人である。
だから感傷的になりやすい人は人からの虐待を許してしまう。
感傷的になりやすい人はどんなにばかにされても、それに抗議ができない。
嫌われるのが怖いから、感傷的になりやすい人は怒りを表わさない。
自己蔑視がひどくなれば、感傷的になりやすい人は虐待されても怒りさえ湧いてこない。
トコトンひどい扱いを受けても感傷的になりやすい人は怒りが湧いてこない。
それが自己蔑視した八方美人である。
自分をしっかりと持つためには、楽しいことを見つけること、次には尊敬する人と軽蔑する人をハッキリと分けること。
決して同じ態度で人と接してはいけない。