承認欲求が強い人とは
承認欲求が強い人の心理
承認欲求が強い人とは逆に心の健康な人にとって、欠乏は欠乏でしかない。
できないことはできないことでしかない。
おいしいものを食べられないということは、単においしいものを食べられないということでしかない。
もちろん心の健康な人にとっても、おいしいものを食べられないことは、つまらないことである。
しかしそれは、それ以上のものではない。
心の健康な人にとって、すばらしい家に住めないということは、単にすばらしい家に住めないということでしかない。
庭のある家に住みたい、自分の部屋が欲しい、もう一室いろいろなものをしまっておく部屋が欲しい・・・心の健康な人だってそう思う。
もっと会社に近いところに住みたいと、誰だって思う。
しかしそう望みながら、そのようにならないことは、そのようにならないということでしかないのである。
不便は不便でしかない
しかしこれらのことは、承認欲求の強い人にとってはまったく違った意味をもってくる。
アメリカの心理学者、アブラハム・マズローがいい例をあげている。
アイスクリームが手に入らなかったということがすべての子どもに同じ意味をもつものではない、というのである。
ある子にとっては、単にアイスクリームが食べられなかったということにすぎない。
食べたいのに食べられなければ、誰だって欲求不満になる。
しかし、この欲求不満は耐えやすいというのである。
しかし別のある子にとっては、食べられないというだけのことではない。
母親に買ってくれと頼んだ。
買ってくれなかった
それは母親の自分に対する愛情のなさを示すものであるかもしれない。
もしそうであるなら、それはアイスクリームを食べられないということ以上につらいことであり、耐えがたいことになる。
その子にとって、アイスクリームを食べられないということは、重大な心理的意味をもってくるのである。
ここは大切なところなので、誤解のないように原文を書いておこう。
“・・・but may feel deprived of the love of his mother because she refused to buy it for him.”
母親がアイスクリームを買うことを拒否したことで、子どもが何を感じるかなのである。
もしこの英文のように、それが母親の愛情の欠乏を意味するなら、それは子どもにとって、重大なことである。
ここで子どもはすねるかもしれない。
あるいは怯えて母親の愛を獲得するために、よりいい子になるかもしれない
あるいは母親に暴力をふるおうとするかもしれない。
しかし自分は母親に愛されているという自信のある子は、アイスクリームを食べられなかったことは、その本来の意味しかもたないから、案外ケロッとしているだろう。
よくフランス人はルイ・ヴィトンのバッグだのエルメスのスカーフだのと騒がないという。
日本の女性のように目の色を変えてブランド品をもとうとしないという。
ではなぜ、日本の女性はそんなにまでしてもとうとするのか。
それはルイ・ヴィトンのバッグをもつということが、その本来の意味以上のものをもっているからであろう。
それは単に、よいものというだけではない。
それは象徴的な価値をもっている
したがって、それをもてないということが、その承認欲求の強い人の自尊心に脅迫感を与える。
欠乏が本来の意味での欠乏だけでしかないとき、それは人にとって耐えやすいものである。
ルイ・ヴィトンのバッグをもてないということだけで、ノイローゼになる女性はいないだろうし、アイスクリームを食べられないというだけで、ノイローゼになる子どもいないであろう。
しかし脅迫感を与える欠乏は、承認欲求の強い人の心に深刻な影響を与える。
人が何かをもてないとき、何かに失敗するとき、何かを奪われるとき、それがその承認欲求の強い人の自尊心に強迫となっているかどうかということが大切なのである。
脅迫感を与える欠乏(a threatening deprivation)によって、承認欲求の強い人はときに神経症などになるのであり、また神経症の人にとっては、健康な人にとっての単なる欠乏が脅迫感を与える欠乏となる。
なぜ、承認欲求が強い自分は今こんなに苦しいのか
劣等感をもっている人にとっては、ときにささいな、普通の人にとってはどうでもいいような欠乏が、大きな意味をもってしまう。
普通の場合なら、言ったほうも、言われたほうも忘れてしまうような言葉で承認欲求の強い人は深く傷ついたりする。
自信のある人間にとっては、好意ある批判は好意ある批判でしかないが、劣等感の強い承認欲求の強い人にとっては、たとえその人のためを思ってなされる批判であっても、それは攻撃となってしまう。
小さい頃、周囲の人に受け入れられて育つことがいかに大切かは、このようなことからもわかる。
受け入れられて育った人は、他人に批判されても、それが自分への拒絶とは感じない。
単なる批判でしかない。
しかし小さい頃、立派であることが受け入れの条件であったような承認欲求の強い子は、批判されることを拒絶と感じてしまいがちである。
批判はそのような承認欲求の強い人にとって、常に攻撃となってしまう。
生きることはそのような承認欲求の強い人にとって、常に自分の価値を脅かされることである。
私たちは単なる欠乏と、その欠乏がその人にとってどんな脅威となっているのかを考える必要がある
マズローは次のような表現をしている。
「単なる欠乏と人格への脅威の違いに、私たちは注意を向けることが大切である。」
そして、承認欲求の強い人は自分が何かに苦しんでいるとき、そのことをこの観点から考えてみる必要があろう。
なぜ自分は今こんなに苦しいのか、ということである。
あるものを承認欲求の強い自分はもてないでいる。
そしてそのことで承認欲求の強い人は欲求不満になっている。
あれさえあればと承認欲求の強い人は思っている。
しかし、自分の不満の本当の原因は何なのか、ということである。
私たちが幸せに生きるためには、自分の不幸の本当の原因を取り除くことが必要なのである
承認欲求の強い人はそのためには、まずそれが何であるかをつきとめることが必要である。
単なる欠乏が承認欲求の強い人は不幸の原因であることもある。
しかし、現代のような経済状態の時代には、承認欲求の強い人が単なる欠乏を自分の自尊心にとって脅威としてしまう心理のほうに、多くの場合、原因があるだろう。
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承認欲求の強い人が「不安」の支配を断ち切るには
今私たちが苦しんでいるとき、それが単なる欠乏によるものか、それともその欠乏が自分の自尊心を脅かしているからか、それをはっきりと考える必要がある
そして、もしそうなら、単なる欠乏を承認欲求の強い自分の自尊心にとって脅威としてしまう者は何なのかを考える必要もあろう。
それは不安の心理で承認欲求の強い人であろう。
また自分が承認欲求の強い自分の価値と信じているものを脅かされるから不安になるのであろう。
あることを承認欲求の強い自分は本質的な価値と感じ、信じている。
そしてそれを承認欲求の強い自分の身につけようと必死になっている。
しかし、その価値は剥奪されるかもしれない。
こんなときわれわれは不安になる。
私たちは単なる欠乏によって傷つくのではない
承認欲求の強い人は自分が価値と信じているものを剥奪されそうになるとき、怯えるのである。
そして不安になる。
あるビジネスマンが多少無理をして立派な家を建てた。
体も丈夫で、仕事も順調であった。
ところが、いつも不安であった。
もしこの家のローンを承認欲求の強い彼が払えなくなったらどうしよう。
そうしたらもっと遠いところに、もっと小さい家に住むことになる。
それはその承認欲求の強い人にとって大変不便なことである。
通勤には今の2倍の時間がかかるかもしれない。
もしそんなことになれば、通勤だけでヘトヘトに疲れることになる。
そのビジネスマンがいつも不安だというのも、うなずけないことはない
しかしこの承認欲求の強い人が不安なのは、本当に通勤が今より大変になるということだけであろうか。
じつはこの家庭では、この立派な家を買ってから家のなかにケンカが絶えなくなってしまったのである。
妻は夫より心配していなかった。
妻はもしこの家に住めなくなったら住めなくなったで、そのときはそのときだ、ぐらいに考えていたのである。
この妻の態度が、不安な承認欲求の強い夫には気に入らない。
「もしこの家のローンを払えなくなったらどうしよう」と承認欲求の強い夫がいつものように話し始める。
すると妻は、「そしたらもっと小さい家を遠くに買えばいいじゃない」と気楽に話す。
妻が一緒に不安にならないのがこの承認欲求の強い夫は、不満なのである。
そこで「おまえは遠くなっても通勤がないからそんなことをいっている、おまえは小さい家に住んだことがないからそんなことをいっている、いつまでも娘のような気持ちなのだ」と怒る。
もちろん、そうした点がないとはいえないだろう。
しかし、二人の不安のくい違いの主要な点は、通勤の困難さの有無ではないのである
承認欲求の強い夫にとって立派な家は、単に住みやすい、便利だというだけのものではない。
それ以上の心理的意味をもっている。
今の家から移るということは、この承認欲求の強い夫にとって、、自分の本質的な価値が脅かされていることになる。
したがってそれを避けようとする。
その家から遠くて小さい家に移ることは、表面的な不便さ以上に、この承認欲求の強い夫の核心にかかわることなのである。
夫の核心が脅かされることになる
だからこそ、承認欲求の強い夫にとって、その高いローンが払えるか払えないかは、重大な問題なのである。
しかし妻にしてみれば、それは本質的なものではない。
それはあくまで表面上の危険でしかない。
それが二人の不安の主要な違いである。
会社ではこの承認欲求の強い会社員はエリートではなかった。
また会社そのものは、決して権威のある会社というわけではなかった
それだけに、その承認欲求の強い夫が自らを同一化した価値は、立派な家だったのである。
この立派な家は、その承認欲求の強いビジネスマンの心の内部の砦であった。
しかしこの承認欲求の強い人はそれを認めることができない。
認めることができないというより、承認欲求の強い人は気付いていない。
ただ心の底では、承認欲求の強い人は自分がそのことにむきになることに何か不自然さを感じている。
しかし、自分が家や生活に責任感があるからだと承認欲求の強い彼は解釈している。
このように解釈して、承認欲求の強い自分を脅かしている対象が何であるかを認めない以上、彼は不安から逃れることはできない。
絶えず何かに脅かされているような承認欲求の強い人は、じつは自分の何が何によっておびやかされているのかを認めていない人なのである。
挫折を成長の糧とする人、生涯の重荷とする承認欲求の強い人
普通以上に脅かされて生きている人は、脅かしの根源を意識することを拒否している
ある人が政界に野心をもち、会社をやめて立候補した。
ところが、その承認欲求の強い人はしばらくしてノイローゼになってしまった。
周囲からすすめられもしたし、承認欲求の強い人はお金も多少はあったし、人脈も一応はあった。
別の人は、お金もなければ人脈もなく、周囲の反対を押しきって立候補した。
母親は泣いて立候補をやめてくれといった。
奥さんは立候補したら離婚すると騒いだ。
それでも立候補した。
そして毎朝、自分の名前を大きく書いたタスキをかけてオートバイに乗って出かけていった。
こんな幸せなことはないと毎日言っていた。
彼は「こう、なんというか天の声が聞こえてくるんです。おまえは政治家になるのだって」といっていた
この元気はつらつとして毎日幸せな候補者と、承認欲求の強いノイローゼになってしまった候補者とは、どこが違うのであろうか。
それは一つには適性もあるだろうが、やはり立候補によって二人の何が脅かされているのか、という違いであろう。
ノイローゼになった承認欲求の強い候補者のほうは自分の価値を、当選して政治家として成功することと同一視していたのであろう。
それだけに落選は、承認欲求の強い彼が自分の本質的価値と感じているものを無にしてしまう。
それだけに、自尊心の脅かしに承認欲求の強い彼は耐えられなかったのであろう。
立候補したときから承認欲求の強い彼の心理的安全基盤は脅かされていた。
それに対して毎日元気いっぱいの候補者のほうは、ただ単純に政治家になりたかったのである。
彼は落選したらどうしようとは考えない。
ただ、とにかく当選することをめざして頑張るだけである
承認欲求の強い怯える者は傷つきやすくもある。
人間がもし、世の中の栄枯盛衰を超越して自分の価値を確信できたら、どんなに幸せであろうか。
この世の中にはそのように幸せな人もいるし、逆にいつも怯えつつ傷つきながら生きている承認欲求の強い人もいる。
後者のタイプの承認欲求の強い人にとって大切なのは、やはり単なる欠乏から生じる困難と、それによって自分の価値が脅かされることの不安とはまったく別のことだ、ということである。
自分の怯えを承認欲求の強い人は欠乏ゆえとごまかさないことが大切なのである。
アメリカの心理学者、ロロ・メイは、オーストリアの精神分析医ジークムンド・フロイト、カレン・ホルナイ、アメリカの精神科医ハリー・スタック・サリヴァンらの一致した意見として、欲求不満それ自体は葛藤をひきおこさないと述べている。
マズローも同じことを述べている。
性的欲求についても同じことである。
性的不満がすぐに心の葛藤をひきおこし、人を不安にするわけではない
その欲求阻止によって、自分にとって大切な人から拒否されたと感じる時、承認欲求の強い人は自分の価値が脅かされたと感じ、不安になるのである。
メイもマズローも性的に解放された神経症者について述べている。
人は誰かとの人間関係を自分にとって大切であると思う。
その人との関係において自分の価値を感じていたりする。
もし性的欲求の不満がその人間関係を脅かすならば、その人は不安になろう
メイの原文は次のように書いてある。
“・・・frustration itself does not cause conflict.”
欲求不満それ自体は心の葛藤を呼び起こさない。
問題は欲求不満ではない。
このことは大切である。
ある女性は独身のままで生きても幸せであり、別の女性は不幸である。
それはその女性が自らの不満を、男性からの拒否と思うかどうかである。
“The problem is not the frustration in itself.”
問題は欲求不満それ自身ではない。
性的欲求という強い欲求においてすら、その欠乏そのものが人を不安に追いやるわけではない。
承認欲求の強い人はそれが自分の自尊心にとって致命的といえる傷を与えるとき、神経症への傾向を強めていくのである。
小さい頃、親に本当の意味で可愛がられた者は忍耐力がある、ということはよくわかる。
そのような人にとっては、欠乏は単なる欠乏でしかないのである。
欠乏によって生じる困難に耐えるだけでよい。
欠乏によって自分の人間としての本質的な価値は脅かされていない
小さい頃愛された人は、忍耐力があるというよりも、正確にいえば、欠乏に際して傷つかない、ということである。
外からは忍耐強く見えるけれど、実はそれほど忍耐しているわけではない。
逆に言えば、恩着せがましい親に育てられたような承認欲求の強い人は、忍耐していないように外からは見えるが、挫折や脅威や傷に想像できないほど耐えているのである。
人は同じように挫折しても、挫折のもたらす傷は同じではない。
自分の価値を信じている者は、その挫折に耐え、それを自分の成長の糧としてしまえる。
しかし自分の人間としての価値を理解できない承認欲求の強い人は、その挫折を生涯の重荷として、そこから立ち直れないこともある。
承認欲求の強い人は「べき」で人と付き合わないこと
われわれは親に気に入られるために生まれてきたのではない。
自我の形成にとって大切なことは何か。
それは小さい頃の周囲とのあたたかい人間関係であろう。
ことに母親との関係である。
人間は小さい頃身近な人に同一化して、その人を手本として自分のなかに取り入れていく。
自我の形成についての精神分析の本には必ず「同一化」という言葉が出てくる
ところで自我の形成にとって欠くことのできないこの同一化とは、どういうことだろう。
この自我の形成に必要な同一化が成功する条件は、その相手が「好き」であるということ。
始めに母子関係、そして父子関係から同胞関係、仲間関係へと同一化の対象をひろげてゆき、しだいに自我が確固としたものになっていくのであろう。
精神分析の本を読んでいると、よい対象関係、健全な対象関係という書き方がよく出てくる。
子どもは必ずしも親を「好き」ではない
そのようなとき、はじめに人間関係につまずいてしまうのではないだろうか。
そして母子一体化から、母子の分離発展というはじめての同一化体験が失敗に終わる。
そしてその失敗は、その後の自我の形成、その後の人間関係に悪い影響を与えることになる。
承認欲求の強い人の「嫌い」は自然の感情である
依存心の強い親の意のままにならなければ生きていけないとき、子どもはその親を好きになることがあろうか
親といるときは、その承認欲求の強い子にとってストレスでしかないだろう。
それにもかかわらず、承認欲求の強い子どもは親に頼らなければ生きていけない。
親に気に入られようと承認欲求の強い子どもは迎合し、親に隷属する。
子どもにとって一番いいのは、親を好きであること。
二番目にいいのは、嫌いであるとき嫌いであると思えること。
最悪は、嫌いであるにもかかわらず、親を恐れて好きであると思わねばならないことである。
親子未分化の家族の恐ろしさはここにある
依存心の強い親は家庭一点張りの行き詰るような愛を強調する。
それは親自身が愛に飢えているのである。
したがって、そのような神経症的愛を強調する裏に、家庭を自分の意のままにしようという支配の意図を隠している。
その意図については、親本人も目を背けている。
そのような家庭で承認欲求の強い子どもは、心の底の底では親が嫌いである。
子どもは親が嫌いであるという感情は、意志の力で無意識の領域に追いやられている
兄弟も嫌いである。
しかし兄弟姉妹仲よくというのが承認欲求の強い子どもは依存心の強い親の命令であるから、その感情も抑圧される。
嫌いという感情がどんなに抑圧されていても、嫌いという感情がある限り承認欲求の強い子どもは、同一化はうまくいかないのではないだろうか。
いずれにしても承認欲求の強い子どもは嫌いである以上、同一化はうまくいかず、結果として自我の形成もうまくいかない。
ちょっとしたことですぐに混乱してしまう
電車がちょっと遅れたとか、相手が約束どおりにこなかったとか、何でもないことで承認欲求の強い人はすぐにカーッとしたり、イライラしてしまう。
いずれにしろ自我の未形成な承認欲求の強い人は、今からでも自分の好きな人と付き合うようにすることであろう。
おそらくそれまでは付き合う「べき」人と付き合っていたのではなかろうか。
あるいは付き合うと得する人と付き合っていたのではなかろうか。
そして、それらの人を好きにならなければいけないと思っていたのではなかろうか。
自我のもろい承認欲求の強い人は、まず無意識の領域においても好きである人と付き合うことである。
そのような付き合いを大切にすることである。
自分を本当に認めてくれる人を見抜く法
無意識の領域の好き嫌いなどどうしてわかるか、という疑問が出てくるかもしれない。
まず、何だかわからないけれどその人といるときは夢中で話し込んでしまうとか、その人と会っていると楽しいとか、他の人といるときよりその人といると時間の経つのがはやいとか、そんな人は無意識の領域でも好きと思ってよいであろう。
何だかわからないけれど会いたいという人である。
要するに、ウマが合うとか合わないとかいうことである。
このとき今までの価値観から承認欲求の強い人は「立派な人」というのはまず危険である。
好き嫌いより、その人が立派か立派でないかということが、付き合うときの判断基準になっていたのを改めることである
誰と付き合うかというとき、承認欲求の強い人は今までの意識にある規範や判断基準に従ってはいけない。
今までの規範意識からして立派でない人でも、会ったあとでなんとなくその人のことをよく思い出すなどというときには、その人を無意識の領域では好きであると思ってよいだろう。
好きな人と一緒にいることで、自我の形成は促される。
このことは大切なことである。
なぜ好きな人と一緒にいることが自我の確立にプラスになるかといえば、実際の自分が受け入れられているからである
私たちは無意識の領域では、実際の自分を受け入れてくれる人を好きなはずである。
そして実際のその人を受け入れているはずである。
そのような相互応答が行われている。
本当はそのようなことが承認欲求の強い人は小さい頃に必要だったのである。
しかし不幸にして、そのような相互応答を幼少期にもてなかった承認欲求の強い人がいる。
成人してからでも、そのような体験をすることで遅れを取り戻すしかないだろう
お互いに好きなときは、相手に対する遠慮や気づかいから気疲れすることがない。
だから時間がすぐに過ぎてしまうのである。
したがって無意識の領域でも好きな人に対しては、別れた後でほっとするということはない
逆に、もっと一緒に話していたかったな、という心残りがある。
承認欲求が強い人はなぜ、「自分を不幸にする人」にしがみついてしまうのか
損得ばかりで生きてきた人、自己中心的利己主義者・・・そうした人で孤独になった人は、不思議に偽者にひかれていく。
他人や自分をごまかして生きてきた人、不誠実な生き方をしてきた人・・・そういう承認欲求の強い人は、真実の愛よりも、偽りの愛にひかれていってしまう。
自分を救うのにそういう承認欲求の強い人は、必要としている人を避け、自分を不幸にする人にしがみついていく。
本当に人間というものは不思議にできている。
他人と心がふれあったことのない承認欲求の強い人は、ふれあうことが怖い。
小さい頃、劣等感のない情緒的に成熟した親に育てられた人は、人との心の触れ合い慣れている。
何よりも小さい頃、親との心の触れ合いがあった
ところが、親に防衛的姿勢が強くあり、子どもの前で自分がいかに偉大であるかを示そうとしていたなどという承認欲求の強い人の場合は、心の触れ合いはない。
親は決して自分の落ち度を認めなかった、絶えず他人のあら探しをしていた、欲求不満のかたまりだったなどという承認欲求の強い人の場合は、子どもはその親と心の触れ合いをもてない。
そのようにして育った承認欲求の強い人は、心の触れ合いが怖い。
承認欲求の強い人は人と心が触れ合えるようになるためには、まず「べき=should」から解放されることである。
「べき」でなくてもよいのだ、と思うことである
そして承認欲求の強い人は「べき」でなくてもよいと思って行動しているうちに、心が触れ合えるようになる。
心の触れ合えない承認欲求の強い人は、触れ合いを求めている。
求めながら承認欲求の強い人は、触れ合えない。
そして疑似触れ合い体験を承認欲求の強い人は、誇張する。
他人と心が触れ合えないということが基本的に人を不安にする。