敏感性性格のくやしさとは
無気力的傾向の者にとって耐え難いのは、やはり損失ということである。
それは所有と喪失ということをめぐって心が動いているからである。
所有欲が強ければ強いほど、損失はそれだけ耐え難い。
美しい風景を見損なったということは、比較的耐えやすい。
いや、なかにはほとんど気にならないという人もいる。
美しい音、美しい色に対する欲求の激しい人は、やはりそのようなものを味わう機会を失ったことの衝撃は強い。
しかし所有と喪失にのみ関心のある人にとって、美しい音に対する機会を失ったということは、それほど大きな問題ではない。
円高で損をした、株で損をしたということが、その人にとってどれだけ大きな問題であるかは、その人の欲求の性質によって決まってくる。
株のことでよく主婦などが後悔をする。
後悔をした主婦は、とにかく利益が大切だったのである。
後悔をした主婦の自我は、ほとんど全面的にお金に関与していたのであろう。
もしその主婦が音楽が好きだったらどうだろう。
クラシックファンなら、その好きなクラシックを聴くことで、損失の痛手をいやすことができたであろう。
なんて私はばかなことをしたのだろう。
あのお金さえあれば、すばらしい音楽会に何回いけたろうと思うかもしれない。
しかし自分の好きな指揮者のオーケストラの演奏を聴けば、やはり心はなぐさめられる。
自分はどこか間違っていた。
どこか自分らしくないことをしてしまったと反省することになるだろう。
しかし後悔した主婦はそうではない。
彼女にとって生きることの目標はお金であったのだろう。
その生きる目標となったお金を失ったからこそ、「あのとき、あんなことをしてさえいなければ」と執拗に繰り返すのである。
彼女にしてみれば、くやんでもくやみきれないのは、そのお金の損失は取り返しがつかないからである。
この人生には「取り返しのつかない」失敗というのがある。
しかしたいていの「取り返しのつかない」失敗というのは、その人の心の傾向によって、そのようになっているだけである。
所有に一切の価値を置く人にとって、多額のお金を失うことは、「とり返しのつかない」失敗である。
しかしものを所有することに、それだけの価値を置いていない人にとって、円高や株によって損をすることは、「取り返しのつかない」失敗ではない。
「人生なんてこんなもんだよ」と、ある人にとってはケロッとしていられることでも、資産の獲得と所有に執着する人にとっては、永遠の悲嘆になる。
一つの事業に一緒にとりくんでいて、それが失敗したとき、その失敗のもつ意味、心理的影響は、まったくその人たちによって異なるだろう。
さらにわれわれは、ケチと思われることを恐れる。
そのことは、じつは貪欲でケチな人間だからではなかろうか。
貪欲とかケチとかいうと、不快な響きがあるが、要するに、無気力傾向をあらわしている。
所有にこだわる、資産の獲得と所有はほとんど生きる目標にまでなっている、それこそが心の貧しさをあらわしている。
心の豊かさとは所有することではなくて、それを味わうことである。
立派な家を所有する人は、経済的には豊かである。
しかしその立派さを味わうことができないなら、心の貧しい人であろう。
春になったら春の木々を楽しみ、秋には落ち葉を楽しむ人が、立派な家を所有しながらも心豊かな人なのだろう。
しかしそれならなにも家を所有することはない。
借りていれば充分である。
ところが人によってはそういう家をもっている、所有しているということに価値を置いている人がいる。
ものを所有することに異常にこだわるのは、心の中にそれだけなんらかの弱点があると反省する必要があるのではないか。
また日本人は貯蓄をよくする。
とにかく他国民に比較してよく貯金をする。
家を所有することと貯金をすることに異常に高い価値を置く国民は、やはり心理的にどこか病んでいるといっていいのではなかろうか。
そしていったん所有したものは、決して失うまいとしがみつく。
自民党の機関紙を調べていけば、スローガンにどれだけ「繁栄」という言葉がたくさんでてくるかわかる。
それだけ「繁栄」という言葉をアピールしたいということであろう。
そんなわれわれであれば、損失ということはつらい。
得するか損するかで、一喜一憂することは避けられない。
人間というのは内的に空虚であればあるほど、お金や資産の所有に執着すると思っている。
それらのものは内的空虚から目をそらしてくれる。
もちろん当人は、このことを意識していないことが多い。
つまり自分の空虚感を抑圧している。
そして、他人の人生の虚しさをヒステリックに攻撃するのは、自らの抑圧した空虚感を他人に投影しているからであろう。
なぜ敏感性性格の自分は、その石につまずいてくやしいのか
執着性性格の人などは、他人によく思われることにこだわる。
メランコリー型の人も、他人の拒否を恐れて善意に振る舞う。
要するに他人の為の存在である。
彼らは自分のために存在することができない。
このように他人に迎合していく過程で、自分を犠牲にせざるを得ない。
はじめは、たとえば母の保護を求めて母に迎合していく。
大人になっても周囲の人に自分をよく印象づけようとして、自分の内的欲求を犠牲にしていく。
このように外的には適応するが、内的には適応していない。
つまり自己不在であり、そこには空虚感がある。
この空虚感にとって所有ということが意味を持つのではなかろうか。
だからこそ、無気力な人は、他人によく思われないと気が済まないという特徴とともに、所有ということにこだわるという特徴がある。
無気力の契機として、親族が亡くなったりすることなどがあげられる。
そのとおりであろう。
しかし子どもが死ぬというとき、それは愛する子どもが死ぬというのではなく、所有の喪失という意味になるのであろう。
ある意味で、お金や資産の獲得と所有は、空虚感の抑圧行動という側面があるのかもしれない。
それだけに心の底の底では、どんなに資産をもっても、自分の心の焦りや虚しさは解決されないと気づいている。
ところで経済的損失ばかりではなく、不快な印象に長くつきまとわれる人がいる。
敏感性性格的な人である。
損にとらわれ、所有にこだわるということはいままで述べたごとくであるが、それ以外にも、そもそもちょっとした失敗でも、きわめて深く感じ取り、傷ついてしまい、長いあいだ忘れることができない。
クレッチマーの『新敏感関係妄想』に出てくるヘレーネ・レンナーという女性がいる。
彼女は小さい頃から並外れて敏感であり、秀才で努力型であった。
その彼女は、学校で一度席次が落ちると残念でたまらなかったという。
小学生の中には席次をまったく気にしない子もいれば、気にしていてもすぐに席次の落ちたことを忘れる子もいる。
しかしヘレーネのように、なかなか忘れられない子もいる。
敏感性性格的な人は、自分がひとりで、ものごとを不快にしているにすぎないということを知ることが大切である。
お金をなくす、成績が下がるというようなことでなくても同じである。
性的失敗などが敏感性性格者にはこたえる。
そのことに自分の注意が集中して離れなくなってしまう。
その失敗という不快な印象につきまとわれ、痛めつけられ、苦しみ続ける。
そこに注意が固定してしまう。
そして「予期不安」という問題がおきてくる。
また失敗するのではないかとあらかじめその場面を考えて、不安な緊張に襲われてしまう。
しかし相手の側は、失敗したということさえ忘れていることがある。
つまり自分ひとりの心の中の働きで、不快になっているだけなのである。
不快な印象に長くつきまとわれて忘れられないのは、自分の心の中にその原因があることを忘れてはならない。
先ほどのヘレーネにしても、席次が下がることを気にしてとらわれているのは、彼女自身なのである。
周囲の人はそれゆえに彼女の評価を変えたりすることはないだろうし、また気にもしないし、そのとき気にしたとしても忘れてしまうに違いない。
それは、彼女が学校では首席でなければ我慢できなかったというところに原因があるのだろう。
首席でなければ我慢できないと、席次が落ちたら残念でならないだろう。
経済的損失がつらくて、いつになってもその不快感から抜けられず、あのときあんなことさえしていなければと、取り返しのつかないことをとり返そうと嘆き悲しんでいるような人も、なにをやっても、100%もうからなければ気が済まないというところがあるのではないだろうか。
「普通の人は百度もそこを平気で通り過ぎてゆくのに、敏感な人間は最初でもつまずいてしまう釣合のとれていない一隅を示している」(新敏感関係妄想)
石につまずいて転んだとしても、それは石そのものが悪いわけではないだろう。
つまずいても転ばない人がいるし、転んでも忘れてしまう人もいる。
なかには、つまずかない人もいる。
結局、石を自分の人生にとってどういう影響力のあるものにしてしまうかというのは、その人の心の中の不安や葛藤の問題なのである。
赤ん坊が親の関心を求めて泣くとき、それは攻撃性である。
それと同じように、無気力になるような人は周囲の人に愛情を求めて攻撃的になっている。
「生きるのが辛い!」と無気力者がいうときには、赤ん坊が泣いているときと同じである。
無気力者がいう「生きるのが辛い!」は赤ん坊の泣き声である。
それは隠された攻撃性である。
「つらい、つらい」と嘆いているのは、つらいといっているのではなく、愛を求めているのである。
「私にもっと注目して」「私のことをもっと重要視して」といっているのである。
無気力者がもし周囲の人に直接攻撃性を向けたら道は拓けるのである。
直接、面と向かって「私はあなたのその態度が許せない」と叫べば、解決の糸口は見つかる。
そのとき自分が見える。
そのときに救いがたいほどの自分の依存心や不安に気がつく。
自分は周囲の世界に助けを求めながら、周囲の世界を攻撃していることに気がつく。
自分は不安である、そしてその不安は攻撃性を含んでいる。
自分は攻撃的不安から助けを求めていたことに気がつく。
そして自分は力を求めていたことを認めれば、道は拓ける。
そこが、いま自分がいる位置である。
幼稚園で園児が逃げる。
そういうときには先生は逃げた園児を追いかけなければいけない。
園児は追いかけてもらうために逃げたのである。
攻撃としての逃亡ということがある。
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前述のアドラーは攻撃的不安という言葉を使っているが、不安に攻撃性が隠されていることに、不安な人は気がついていない。
敏感性性格の人の不安がまさにアドラーのいう攻撃的不安であろう。
人はなぜ力を求めるのか?
そのもっとも重要な原因の一つは攻撃的不安であるという。
自分が不安なときに、自分が攻撃的になっていると気がついている人は少ない。
悩みに変装した攻撃性は力を求める。
力への願望のもっとも重要な要因の一つはこの攻撃的悩みであるとアドラーはいう。
アドラーがいうように、この攻撃的悩みには、力への願望がもっとも巧妙に隠されている。
だから敏感性性格の人に大切なのは、視野を広げることである。
「私は強くなろう」としないことである。
ありのままの自分でいようとすることである。
価値にはいろいろな価値がある。
強いことはよいことという視点を、多くの中の一つの視点とすること。
それで敏感性性格を乗り越える。
敏感性性格の人は、自分の不安と、その裏で自分は優越感を求めている、力を求めていると気がつくことが、救いへの道である。
異常なまでに「他人が自分をどう見ているか?」を気にするのは、ひかえめな態度の裏で優越感を求め、力を求めているからである。
先に他人が自分のことをなんとも思っていないのに、「自分のことをどう思っているだろう」と気にする人は、その心の底に、他人に特別にあつかってもらいたいという欲求があると書いたが、同じ趣旨である。
敏感性性格の人が「くやしい!」と嘆くことに隠されているひそかな目的は、優越への願望である。
彼の行為の目的は他人と協力するのではなく、他人に優越することである。
優越への願望、力への願望は隠されている。
そしてそれは常に満たされていない。
発揚性格の場合には、その不満は「くやしい!」と叫んで、表面的にも爆発する。
だからわかりやすい。
赤ん坊が泣いて、攻撃的になって助けを求めているのと同じである。
しかし敏感性性格の人の「くやしい!」は、爆発しない。
心の底に抑え込まれる。
子どもが「わーわー」騒ぐのは、どうしていいかわからなくなっているからである。
なにがほしいかわからなくなっているからである。
「助けてくれ!」と叫んでいるのである。
敏感性性格の人もどうしていいかわからなくなって、心の底では「助けてくれ!」と叫んでいる。
しかし自分を隠して、助けを求めているからうまくいかない。
自分を隠して「助けてくれ!」と叫んでいるから効果がない。
自分を隠しているから、幸せになりたいと思いつつ、今日やるべきことがわからない。
自分自身を知っている人の努力は実るが、知らない人の努力は実らない。
敏感性性格の人は、自分の嫉妬心に気がつくことが救いへの道である。
嫉妬深い人はものごとに関心があるのではなく、優越しているか、優越していないかにのみ関心がある。
まさに「私が先か、他人が先か」にのみ関心がある。
彼らは自分の野心を認められない。
しかし他人の優位も認められない。
自分が優位に立ちたいけれども優位に立てない。
そうなれば他人の足をひっぱる以外に生きる方法はなくなる。
そして彼らは優越することが唯一の喜びになる。
人より優位に立ちたい、人が自分より優位にいることが気に入らない。
敏感性性格の人は優位への願望が強いから、どうしても人と自分を比較する生き方になる。
「表面的に」所得、地位、名声等々で自分と他人を比較する。
ほんとうに幸せな人をうらやましく思っていない。
あの人は優しい、心のゆとりがある生活をしている。
そういう人をうらやましがらない。
自分と他人を「強迫的に比較する」のは、他人に優越したいという劣等感と、人が恵まれているのが許せないという憎しみがあるからである。
しかし自分の劣等感と憎しみに気がついていない。
周囲より優位に立つばかりでなくその優位を相手にも認めさせようとするから、よけいいがみ合いが激しくなる。
相手も優位に立とうとし、その優位をこちらに認めさせようとしているのであるから、こちらの優位を認めるはずがない。
お互いに相手の優位を認めるはずがないのに、その優位を認めさせようと激しくいがみ合う。
そうなると自分の関心が相手に縛られてしまう。
相手に少しでも勝つか負けるか、相手がこちらを少しでも軽く見るかどうかというような、ささいなことがものすごく重要なことになってしまう。
交流分析で慢性的で定型化された不快感情を「ラケット」という。
たとえば、みじめさを誇示する、めそめそ泣く、あるいは深い失望のため息をつく、憂うつな顔をする。
こうして相手に罪の意識をもたせて、こちらの思うように相手を動かす。
そしてラケットには人を変えようとする意図が隠されているという。
このラケットがアドラーのいう「社会的に表現された攻撃性」であろう。
そしてこのラケットを交流分析では「心のマフィア」と呼んでいる。
まさにアドラーのいうようにそれが攻撃性をあらわしていることを示している。
体の熱は病気の症状である。
悩みは、いま心が変わることを求めているのである。
悩みは、自分の人生をより意味あるものにする機会である。
敏感性性格のくやしさは慢性的不快感情の一種であろう。
敏感性性格の人は、くやしいし、生きているのが辛い。
そうした態度で攻撃性をあらわしている。
「私はこんなにつらいのだ」という悩みは攻撃性を表現している。
同時に優越を求めている。
力を求めている。
でも、心の底では自信がない。
悩んでいる人を見ると、心理的に健康な人はその悩んでいる人が一人で他人と関係なく悩んでいると思ってしまう。
じつは悩んでいる人は周囲の世界に働きかけているのである。
彼らが、心の底で「くやしい!私はあなたたちが嫌いです」と思っているからといって、その人たちから離れようとしているわけではない。
逆にしがみついている。
「私はくやしい、私はあなたたちが嫌いです、でもあなたたちがいないと生きていけません」ということである。
アドラーは、攻撃的不安は力を求めるもっとも重要な要因であると述べている。
しかも同時にこれがもっともうまく隠されている。
彼らが力を求めるのは政治家が露骨に権力闘争をするのとは違う。
政治家が権力を求めるような態度を、彼らはもっとも軽蔑する。
じつは敏感性性格の人は、無意識に力を求めている。
先に述べたごとく小心な野心家である。
そこに彼ら自身が気づかない限り、いつまでも安心感を得られない。
「なにかが心配のときは、常に、自分が回避している中心的な事実があるのです。
その中心的な事実は、あなた自身を変革せよという要求が、たえずあなたの前にあらわれるはずです」とシーベリーは述べている。
敏感性性格の人の中心的な事実、それは「力を求めていること」である。
さらに他人から積極的関心がほしいという欲求をもっているということである。
敏感性性格の人が、充実した人生を送るには、「求めるものを変えること」である。
敏感性性格の人には、心の触れ合う「我が友」がいない。
「我らの仲間」という意識がない。
くやしさ、怒りをおさめるのは権力ではなく、「私には友がいる」という感覚である。
くやしさは、隠された怒りの表現であり、満たされない力への願望の間接的表現であり、慢性的不快感情である。
まとめ
取り返しのつかないことはほとんどない。
心の豊かさとはそれを所有することではなく、味わうことである。
敏感性性格の人は力を求めている。
敏感性性格の人は求めることを変えることである。