気が弱い人が自信をもつための心理

気が弱い人とは

気が弱いとは、他の人にとって小さな出来事でも、大変な出来事として捉えてしまうことである。

大勢の前でのスピーチなどで委縮してしまうことなどあるであろう。

そこで、気が弱い人がどうしたら自信がつくかを対人関係を軸に記してみる。

気が弱い人の心理

気が弱い人は親しい人間関係が築けない人。

人間関係をどうしていいか分からなくて悩んでいる気が弱い人が多い。

そして、いつも人が自分に何かをしてくれることを期待している人がいる。

その”何か”をしてくれないから、相手を憎み、悩むのが気が弱い人である。

相手に殴られたから相手を恨むのではない。

相手が自分の期待することをしてくれないから、気が弱い人は相手を憎むのである。

無条件に愛されることを気が弱い人は相手に求め、無条件に愛してくれないから相手を憎む。

そこにお菓子がある。「どうぞ」と言ってくれると思ったら、言ってくれなかった。

そこで、言ってくれない相手を気が弱い人は憎む。

「何で言ってくれないのだ」と相手を恨み、生きるのは「辛い!」と思う

それが気が弱い人である。

自分を励ましてくれる目標の探し方。

大きな意味で、人生の目的についても心理的に健康な人は、自分にふさわしい人生の目的を持つ。

しかし心理的に不安で、その不安を回避しようとして、他人に優越しようとする気が弱い人は、自分にふさわしくない人生の目標を立てる。

他人に優越することで、心の不安から逃れようとする気が弱い人は、どうしても非現実的な目標を立ててしまう。

非現実的な目標をもってしまうのは、心に深刻な不安があるからである

そして気が弱い人はその不安から逃れるための手段に、他人からの優越を選ぶのである。

「心の不安から逃れるためには、自分はこれこれでなければならない」、そこから目標が決まった。

そこに問題があるのである。

理想化された自己とは、まさにそのようにして生じたものである。

だから現実の自分を気が弱い人は無視している。

気が弱い人の心理的成長の二段階

よく、恋は隠しても他人にわかるという。

隠しても出てしまうのは、恋だけではない。

実は自己蔑視もそうである。

なんとなくその気が弱い人の態度は不自然であり、高慢になる。

虚勢を気が弱い人は張る。

虚勢を張る人のその姿の向こうに、ひどく自信のない姿が見える。

頭隠して尻隠さず、という格言がある。

自己蔑視という頭を隠しても、虚勢という尻がどうしても出てしまう。

その尻にあたる部分である。

栄光化された自己というのも、尻の部分である

つまり、自己実現をしようと意図するなら、なぜ気が弱い人は自分は自分を軽蔑してしまったか、という原因にまで遡らなければならない。

おそらく多くの人は、そこに神経症的な親を発見するであろう。

子どもに自己を同一視し、その栄光によって親自身の劣等感の解消をはかろうとした親を発見するのではなかろうか。

親からの心理的離乳というのには、二段階ある。

初めは親からの、いわゆる単純な心理的離乳。

次が親の与えた価値観からの離脱

親から心理的離乳を遂げたつもりでいながら、いつまでも親の与えた価値観から離れられない気が弱い人もいる。

神経症的な親と心理的に対決できるようになりながら、生涯親の与えた価値観からは離脱できない人もいる。

つまり、社会的名声以外に価値を見出せない人である。

せっかく神経症的な親と対決しながら、どうしても社会的名声を得ていない人のなかに尊敬できる人を見つけることのできない気が弱い人もいる。

あるいは親からの心理的離乳を完遂できないために、生涯名声に反感を示す気が弱い人もいる。

神経症的な親から心理的離乳を完遂できた人は、名声に対して素直な拍手を送り、同時に社会的名声を得ていない人のなかに、心から尊敬する人を見つけることができるものである。

名声を得た人を尊敬しつつ、社会的にマイナーな人の持つ心のやさしさに感動する

ということは、他人が名声を得ようが得まいが、そんなことはさして重要なことではなくなる。

重要なのは自己実現ということになる。

自己実現が最大の関心事になれば、他人に干渉しようとしなくなるし、ひねくれることも、ひがむことも、妬むことも、すねることもなくなるのではなかろうか。

自己実現に関心がなければないほど、気が弱い人は他人のすることが自分に心理的に影響を与える。

他人のすることが自分を傷つける。

不安であれば不安であるほど、気が弱い人は他人のことが気になる。

自分のすることを夢中でしている人がいる。

心理的に安定している人である。

そしてそのようになったときには、自分が自分を尊敬できるようになっている。

そして自分の人生にふさわしい目標を持って、自己実現的な人生を送れるようになっているのではなかろうか。

非現実的な目標に固執する気が弱い人は、不安の解消を間違えてしまった人である。

そのようなことに固執して神経症的になった気が弱い人は、人の上に自分を置くことで安心しようとした。

しかし名声を求めるよりも、現実の自分を愛してくれる人を求めるほうが、はるかに有効な不安解消の方法だったのである。

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気が弱い人は自分を恥じる気持ちを隠すな

栄光は不安から人を救わないが、愛は不安から人を救う

栄光は人に安心を与えないが、愛は人に安心を与える。

神経症になってしまった気が弱い人、神経症的自尊心を持ち続けて、ただぶらぶらしている人は、親から真の愛が与えられなかったので、その代わりに栄光を求めた。

しかし、気が弱い人がこだわるべきは、栄光ではなく、愛だったのである。

与えられなかった愛にこだわるべきだった。

得られなかった愛を気が弱い人は得ようと、そのことにこだわるべきだった。

親だけが愛を与えるわけではない。

神経症的な気が弱い人は、本気で愛を求めてはいない。

本気で愛を求めると、その人に何が起きるか。

自分を恥じる気持ちが消える方向に向く

気が弱い人の自分を恥じる気持ちは、そう簡単に消えるものではない。

しつこく残る。

これでもかこれでもかと、その気が弱い人にしつこくつきまとう。

しかし本気で愛を求めれば、とにかく自分を恥じる気持ちから離れる方向に向く。

先にも書いたとおり、神経症的な気が弱い人は、自分を恥じる気持ちがありながら、それを隠す。

自分は恥ずべき存在であるという劣等意識から逃れるために、人は栄光をついつい求めてしまう。

そして恥ずべき存在であるという気が弱い自分の気持ちがあまりにも苦しいため、栄光にしがみつく。

栄光にしがみつくといっても、実際に栄光が与えられるわけではない。

想像のなかの自己栄光化である。

気が弱い人は想像のなかで栄光化された自己像にしがみつくということである。

もったいぶっている気が弱い人は、心の底で自分を恥じているのである。

自分の通っている学校をよく、程度が低いと批判だけする気が弱い人がいる。

こんな学校程度が低い、と批判する人も同じように、自分を心の底で恥じているのである。

認めるのはあまりにもつらいから、こんな学校程度が低い、と批判している。

この会社はいい加減だと批判する人がいる。

そして別の会社に気が弱い人は行く。

またそこでも同じように、こんな会社程度が低くているのがいやだとやめる。

自分はこんな会社にいるような程度の低い人間ではないという、気が弱い神経症的な自尊心を守ろうとしているのである。

しかし、そういう人が本気で愛を求めだしたら、そこにいる人のよい点が見えてきたかもしれない

もし本気で気が弱い人が愛を求めだしたら、冷たい人と、心優しい人の見分けがついたかもしれない。

本気で気が弱い人が愛を求めたら、自分はそんな恥ずべき人間などではないと思えてきたかもしれない。

少なくとも自分は恥ずべき人間だという思い込みに、疑問ぐらいは持ったかもしれない。

そもそも、なぜ気が弱い自分はそんなに恥ずべき人間なのであろうか。

栄光化されていないと自分は価値がないのだろうか。

他人は別に栄光化されていなくても価値があるのに、なぜ気が弱い自分だけは栄光化されていないと価値がないのか。

人とつきあうのに、他人以上に栄光を必要とするのは、他人以上に自分が不安だからである

他人は栄光化されていなくても人とつきあえるのに、なぜ気が弱い自分だけは栄光化されていないと、人とつきあえないのだろうか。

人が普通に生きられるのに、なぜ気が弱い自分は普通に生きられないのであろうか。

スイスの哲学者、カール・ヒルティは『幸福論』のなかで、非常に尊敬されている人、あるいは非常に権力のある人、あるいはその他の声望の高い人を見たら、己の想像に欺かれて彼を幸福だと、嫉妬しながら思わないように用心するがいい、と述べている。

まさにそのとおりである。

ところで彼は、どういう人が間違ってそのように思うかについては書いていない。

ヒルティがいうように嫉妬して思うのは、他人に優越することで不安から逃れようとした人である

不安でない人は、そのように間違って思うことはない。

不安を回避するために、気が弱い自己を栄光化することに熱心な人が間違うのである。

自己実現に熱心な人は間違わない。

気が弱い人の本当の「自分らしさ」とは何か?

ある、二十六歳の奥さんである

結婚して四年になる。

すでに三歳になる子どもが気が弱い彼女にはがいる。

二年前ぐらいから彼女は付き合っている大学生がいる。

彼が卒業するのを機に、彼女はご主人と別れたいという。

ご主人にも満足していないが、彼女はその大学生にも満足していない。

彼女には一人前の大人になりたくないという願望があるようである

彼との結婚をもう彼女は決心しているのか、と聞いてみた。

「それは彼の気持ちしだいです。

彼がどうしても私と結婚したいといえば結婚しようと思いますけど・・・」

積極的に自分から意思を表明して、責任をとるのが怖いようである。

子どもは彼女はどうするのか聞いてみた。

「彼がいいといえば連れていくつもりなんですけど・・・」

連れていっても、連れていかなくても、彼女は彼の責任にしたいのである。

彼女は子どものようにすべてに渡ってあなた任せである

生き方が身勝手な彼女であるが、彼女は自分の生き方をまるで個性的であるかのように思っている。

「私、平凡な生き方って好きじゃないんですよね」

身勝手な気が弱い人は、よく自分のことを個性的と解釈している。

他人と同じ基準で評価されることに自信がないとき、芸術家を気どったり、革命家を気どったりする。

何かを気どることは、気が弱い人の逃避でしかない。

他人と同じ基準で評価されたのでは、自分が人から無視される存在でしかないという不安である。

心の不安を気が弱い人は他人に優越することで解消しようとしているから、「個性的な自分」という想像のなかの自己像に固執するのである。

ところで、付き合っている大学生に対する不満というのは、どういうものなのであろうか。

自分のことを棚に上げて、怠け者だという不満である

「これから先、一緒に生活していこうというのに、懸命に働こうっていう気持ちがないみたいなんですよ。

お金をためることを目標にしてもらいたいんですよね、私は」

他人の力を借りて気が弱い彼女は、自己栄光化をはかろうとしている。

自分が額に汗して働くのではなく気が弱い彼女は、人に働いてもらって財産をつくりたい。

自分の想像上の栄光化された自己像に近づきたい

自分の自尊心を保つために、気が弱い彼女は、型にはまった生き方がいやだといっている。

このような自尊心を「神経症的自尊心」という。

現実から逃避する気が弱い自分を守るために、型にはまった生き方がいやだといっているだけである。

「ひとりよがり」の気が弱い人の深層心理。

カレン・ホルナイは、神経症的要求の特徴として、自己中心性もあげている

気が弱い人は一言でいうと、神経症的な自分が病気になると、皆は駆け付けるべきだと思っているということである。

そのとき他人が病気の自分のところに来るのに犠牲を払う必要があるということが、考えに浮ばない。

とにかく「自分が病気である」「自分が悩んでいる」ということが気が弱い人はすべてで、他のことは考えられない。

他人には他人の事情があるということがわからない。

自分がこんなに悩んでいるのに、気が弱い人は相談にのってくれなかったといって、友人に裏切られたと騒ぐ。

その人が友情問題で裏切られたという背景には、ナルシシズムがある

自分が悩んでいるということが、気が弱い彼にとって現実のすべてなのである。

相手に対して、できることとできないことがある

そんなことは相手の立場を考えればわかる。

しかし、自分の現実が相手の現実と違うということが認識できない気が弱い人がいる。

気が弱い親切な人、お節介な人

彼らは相手との距離がわからない。

上司に親しみを感じると、気が弱い自分に上司も同じように親しみを感じていると思う。

たとえば新入社員の不満を聞いていると、次のようなことがある。

上司は自分のめんどうを親身に見てくれないというのである。

その上司は結婚している。

それなのに気が弱い彼は家族より、一カ月前に知り合った自分のほうが上司にとって感情的に近いと思っている。

たまたま親しさを気が弱い自分が感じたとて、上司にとって自分は多くの部下のうちの一人であり、上司には奥さんも子どももあり、昔から仕事をともにしてきている同僚もいる。

自分にとっての相手の意味と、相手にとっての自分の意味とが違うとということが理解できない

多くの気が弱い人が、自分から相手への距離と相手から自分への距離とが違うということがわかれば、世の中の人間関係の不平やいざこざはどれほど減るかとよく思う。

相手の立場から見て、自分はどのような位置にいるか、それが理解できないために不満になる。

人間関係で不平不満を持つ気が弱い人にとって、自分の知っている現実が唯一の現実なのである。

したがって彼らは、相手のいうことに耳を傾けられない。

自分の体が自分の知っている現実が唯一の重要な現実である。

だから、気が弱い人はありがた迷惑ということもわからない。

自分が何かをしてあげれば、気が弱い人は相手はありがたがって受け取るのが当たり前と信じている。

このような親に育てられた子どもはたまらない。

子どもがしてほしくないことをして、子どもに感謝の念を要求する

そして子どもが感謝するのが当たり前だと信じて疑わない。

もちろんこのような関係は、親子関係ばかりではない。

このように自己中心的な上司に出会った部下もたまらない。

しかしそれはある年齢になってからであり、その影響は少ない。

親子、上司というのではなく、友人にとってもこのような神経症的な気が弱い人はたまらない。

自己中心的な人は、自分がこんなに親切にしてあげているのにと、相手に不満になる。

自己中心的な人は、相手が求めているものの内容がわからない。

相手は何を求めているのかを理解しようとするより、自分はこんなことをしてあげたいということばかりに注意がいく

そして自分の善意の動機を気が弱い人は強調する。

こんなにしてあげようとしているのに、ということである。

こんなにしてあげているのに、と不満になった時には、一度自分と相手が求めているものは違うのではないかと、反省してみることである。

相手が求めているものと気が弱い自分が求めているものとが、違うから自分としてはそれだけよいことをしているつもりなのに、相手がそれに反応してこないのである。

たとえば名誉を求めている気が弱い夫がいる。

名声をその夫は強迫的に求めている。

そして必死で働き、それなりの名誉を獲得した。

奥さんもおかげで周囲の人から尊敬の目で見られるようになった。

しかし奥さんは、いっこうにうれしそうな様子をしないし、沈んでいる。

そこでそのご主人は怒る。

「俺がこんなにしているのに・・・」そのご主人は、自分が偉くなれば奥さんも皆に尊敬されて嬉しいはずだと思い込んでいる。

奥さんが求めているのは、「何々夫人」ということではない。

そのようなことは少しも嬉しくない。

自分が一人の女性として、何か仕事をして自己実現したい。

夫が偉くなくても自分の自由があり、自分の好きな事ができる、それがこの女性の願いである。

この女性は気が弱いご主人のように、強迫的に名誉を求めていない。

名誉がそれほど嬉しくない

その女性にしてみれば、自己実現を犠牲にして名誉を求めるなど信じられない。

そこに気がつかない二人は、いつもいさかいを起こす。

そのような密接な関係でなくても、ある気が弱い人が知人を喜ばそうとして何かをしてあげる。

しかし相手は嬉しそうにしないことがある。

そんなとき、してあげた気が弱い人のほうは不服になる。

求めているものが違う、このことをわかる人とわからない気が弱い人とでは、人間関係のいざこざが全く違う。

「好意」が「迷惑」に変わるとき

「好意の押し売り」とは、よくいったものである。

断わると悪い気がするので気が弱い人は好意を受けるが、内心は迷惑である。

人間関係が上手くいかないのは、たいてい他人への理解力が欠如しているからである。

自分がこんなにしているのに、人間関係がうまくいかないと不満な気が弱い人は、一度自分は自己中心的なのではないかと反省してみることである。

恋愛論で、女性は自分の肉体を与えたときに世界を与えたような気持ちになるが、男性は玩具をもらったような気持ちになる、という主旨の格言がある。

「猫に小判」ということわざもある。

また本人は小判のつもりでも、相手はまったく小判とは思っていないときもある

自分の求めているものと、相手の求めているものとは違う。

このことが自己中心的な気が弱い人にはわからないので、何をしても相手から押し付けがましいと受け取られるのである。

自己中心的な人が何か知ると、大変である。

知っていることが、気が弱い自分の知るに値する唯一のことと思うからである。

自己中心的な人は、ひとりよがりの自己満足で気が弱い人はあるから、社会的に生産的な仕事ができないのである。

ドイツの精神分析医、エーリッヒ・フロムがナルシシストについて次のようにいっている。

何でもないことを言うのに、気が弱い人は大層なことをいうようなふりをする。

当人は驚くほど興味深い話をしているつもりである

自分が話していることばかりに気が弱い人は関心がいき、相手がどのような気持ちで聞いているかに関心がいかない。

悩んでいる人は自己中心的な人が多い。

悩んでいる人は、気が弱い自分一人が悩んでいるような気持ちになっている。

悩んでいる人はよく、自分の陥っている悩みが最大と思っている

これが悩んでいる気が弱い人の特徴である。

失恋で悩んでいる人が、劣等感で悩んでいる人に向かって、なんで恋人がいるのにあなたは悩んでいるのかと不思議がったりする。

気が弱い人が「自分を好きになる」ための第一歩

心理学者のカレン・ホルナイによると、神経症的要求の特徴の一つは「非現実的」である

たとえば、自分は病気にならない、いつも健康でいたい、いつまでも若くいたい。

他人には自然の法則を当てはめるが、気が弱い自分には当てはめない。

生身の人間なら病気をするときもあるし、健康なときもある。

年をとれば体力は衰える。

それなのに、神経症的な気が弱い人は年をとってからも、若者と体力を競うようなことをする。

結婚して、いつも配偶者の機嫌がよくないと怒りだすというような人がいる

それは相手に、いつも機嫌よくしていることを要求しているからである。

それはまさに神経症的要求である

生身の人間なら機嫌のいいときもあるし、機嫌が悪くなるときもある。

そして逆にいえば、機嫌がよくないときに無理せずに振る舞っていてもいいというようなところは、家庭しかない。