自分の領域と相手の領域をきちんと区別する
疲れる気遣いは「相手」というよりも「自分」を気にしているものです。
するとすぐに、「では相手のことを考えよう」ということになりそうですが、ここには注意すべきポイントがあります。
「相手のことを考えよう」と思うあまり、「余計なお世話」をしてしまう人がいるからです。
「自分の領域」と「相手の領域」とは
自分がどう思われるかという不安から気遣いするのはやめよう、そして次に目を向けるのは自分の領域と相手の領域を区別する、ということです。
領域と言うと分かりにくいかもしれませんが、気遣いを考える上でとても大切な概念です。
私たちにはそれぞれの感じ方があり、その感じ方には自分の事情が反映されています。
事情というのは、持って生まれたものや、育った環境、現在置かれている状況や、今日の気分など、まさに「自分にしかわからない事情」なのですが、これらの事情に基づく、自分にしかわからない領域を自分の領域と考えて下さい。
自分にしかわからない領域のことを自分の領域と呼ぶのですから、当然、相手の領域は相手にしかわからないもの。
つまり、自分にはわからないのです。
実は、対人関係の多くの問題が、相手の領域に入り込んだり、自分の領域について責任を持たなかったりする結果として起こってきます。
たとえば、相手の領域に入り込む人は、相手の事情も知らずに何かを決めつけたりします。
夫婦で子どものこともじっくりと考えて出した「離婚」という結論なのに、平気で「離婚するなんて子どもがかわいそう」と決めつける、などというのはその典型例です。
また、自分なりに仕事の優先順位を考えてうまくやろうとしているのに、「言われたことにすぐ手をつけないから、仕事ができないんだ」などと決めつけるのも、その一つです。
自分の領域に責任を持たない人は、「言わなくてもわかるはず」と、何も言わずに自分の顔色を読ませようとしたりします。
すると、「相手はわかっているはず」と思い込んでいますから、相手がそれに反する言動をとったりすると「私が嫌がるってわかっているくせに!」ということになります。
どちらも対人関係のトラブルにつながってしまうのです。
余計なお世話になるのはなぜ?
気遣いについても、実は相手の領域に入り込んだり、自分の領域に責任を持たなかったりすることが問題になってきます。
疲れる気遣いは自分が相手からどう思われるかを気にするものだということをお話ししましたが、気遣いをしたときに相手がそれをどう受け止めるかは、専ら相手の領域の話です。
同じ気遣いをしても、とても満足して喜ぶ人もいれば、余計なお世話と感じる人、足りないと感じる人など、その反応がさまざまなのは、それが基本的に相手の領域の話だからなのです。
相手の領域の話は、自分には本当のところわからないものですし、それを直接コントロールすることもできません。
わからないものをわかったような顔をすれば「決めつけ」「余計なお世話」ということになりますし、コントロールできないものをコントロールしようとすれば「押し付けがましい「独りよがり」ということになります。
何と言っても、わからないことを読もうとするのは疲れます。
相手の顔色や雰囲気から、見えない手がかりを一生懸命探すことも疲れますし、それがはずれている可能性を常に気にしていなければなりません。
せっかく相手の領域のことを読んで気遣いしてあげたのに相手が気づかない、あるいは迷惑そうにしたりすると、「感謝の気持ちがない」と怒りを感じることもあるでしょう。
「あんなにやってあげたのに・・・」という思いも、自分を疲れさせていきます。
自分が考える相手と実際の相手は違うかもしれない
相手の領域のことはわからない、と言われてしまうと、「あれ?相手の立場に立って考えることが気遣いの基本なのでは?」と思うかもしれません。
もちろんそれはそうなのです。
しかし、ここで重要なのは、相手の立場というのが、あくまでも自分が考える相手の立場だという認識です。
それはもしかしたら実際の相手とは違うかもしれない、という自覚を常に持つことが重要なのです。
もちろん、自分が考える相手と実際の相手のずれをできるだけなくしていくことが、よい気遣いにつながるのは間違いありません。
「かゆいところに手が届く」と言われるのは、まさにそのような気遣いのことでしょう。
かなりの細部に至るまで、「自分が考える相手」と「実際の相手」が一致しているわけです。
自分が考える相手と実際の相手を近づけるためには、相手についてよく知る努力が必要です。
もちろん、人間についての一般的な知識は役立ちます。
たとえば私のような仕事をしていると、人を見たときに比較的短時間でどういうタイプの人なのかを把握することができます。
それでも、それぞれの人には独特の事情がありますから、何でもかんでも一般化できるわけではありません。
大体の傾向はつかめても、細部については、一人一人のストーリーをよく聴き、どんなことを大切にして生きている人なのか、世の中をどんなふうに見ている人なのか、どんなところが苦手な人なのかを知る必要があります。
相手について知ることは、相手の領域に立ち入ることではない
相手について知るということは、もちろん相手の領域のことについて知るということなのですが、それは決して「相手の領域」に入り込むという意味ではありません。
相手の領域について外から見て気づけることにきちんと気づく、という意味です。
たとえてみれば、相手が自分の領域の外にも見える形で「この部分、立ち入り禁止」「この部分、取扱注意」「この部分、大歓迎」などの標識を立てているようなもの。
相手の領域に入り込まなくても見えることがたくさんあるのです。
「わりと礼儀を大切にする」「プライベートな話をするのは好きではない」「ある程度雑談をしないと親しくなれない」「服装についてほめられるのが好き」などという特徴は、相手を知ろうとする努力の中で知っていくことができます。
そういう「標識」が見えてくれば、それに合った形で気遣いしていけばよいだけです。
気遣いが足りない人や余計なお世話をしてしまう人、つまり実際の相手とずれた気遣いをしている人を見ると、相手を知ろうとする努力をさっさとやめて何らかの結論を出してしまっている人が多いように思います。
愛想がよい人だと思えば、「オープンな人=プライベートな話題もOKな人」と思ってしまい、ずかずかとプライベートな質問をしたりしてしまいます。
あるいは、相手が何かで悩んでいるということだけ聞いて、「助けを必要としている人」と決めつけてしまい、どんどんアドバイスしていく、などということもあります。
こうやって少ない情報で相手を決めつけてしまうと、実際の相手とずれてくるのも当然のことです。
そんなとき、実際の相手をよく見ると、ちゃんと「標識」を立てていることも少なくありません。
愛想はよいけれども、公私の区別はしっかりとつけている、という人の場合、プライベートな質問に対しては口数が少なくなったりしているものです。
また、悩みはあるけれども、別に人に助けてもらおうと思っていない人の場合、アドバイスをうるさくされると困った顔になったり「まあ自分で何とかできると思いますから」などと言ったりしているものです。
でも、さっさと決めつけてしまっている人には、そのような「標識」が目に入らないので、「ずれ」がどんどん大きくなってしまいます。
自分の領域に責任を持つということは、自分が思っている「相手」は、あくまでも自分が考える相手だという自覚をしっかりと持つこと。
そして、それは「実際の相手」とは違うかもしれないという可能性を常に頭に置いて、相手を知ることに意識を向けていく、ということです。
それはとても大変そうなことだと思われるかもしれませんが、実際には、自分自身の人生を退屈から救い、豊かなものにしていく効果があります。
わかりきった相手と一緒にいるとマンネリ化してしまいますが、「へえ、こんなところがあったんだ」と相手に新鮮な発見をするのは楽しいものです。
相手の領域を尊重することは相手には事情があると認めること
相手との関係がまだ浅いときには「標識」もほとんど見えないでしょう。
そんなときに「相手の領域」に入り込まず尊重するというのは、違和感を覚える相手の反応や言動について、「詳細はわからないけれども、何か事情があるのだろうな」と思ってあげることです。
相手をよく知るようになれば、その事情がわかる日も来るかもしれません。
かなり変わったパーソナリティが、生まれ持ったものであり本人には何の責任もないどころか生きる上での苦労につながってきた、というようなことがわかるかもしれません。
人に対して不信感をむき出しにする特徴は、虐待やいじめの後遺症なのかもしれません。
最近イライラしてばかりなのは、子どもが不登校になって心配でたまらないからかもしれません。
そういう事情がわかれば、人間として共感してあげることもできるでしょう。
でも、相手の「事情」をすべて知ることは不可能ですし、特に関係が浅いときには知らなくて当たり前です。
ですから、「詳細はわからないけれども、何か事情があるのだろうな」という認識はとても正確なのです。
知らないことなのですから、それについて何かを勝手に決めつけたりせず、ただ相手のありのままを受け止めてあげることが正解です。
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自分の領域に責任を持つことが元気になる気遣いのコツ
疲れる気遣いのもう一つの問題は、自分の領域に責任を持っていないということです。
「元気になる気遣い」のポイントは、自分が元気になること、つまり、自分が気持ちよいと感じることなのですが、自分が何かを感じるのは自分の領域の中です。
「自分の気遣いを相手が喜んでくれなければ自分は気持ちよくなれない」という姿勢は、実は自分の領域の話を相手に委ねてしまっているということだと言えます。
もちろん私たち人間は相手の反応によって影響を受けますが、それがすべてを決定するわけではありません。
最終的に感じるのは自分だからです。
相手をどのようにとらえるかによって、自分の感じ方を変える自由があるのです。
まずは自分の標準的な気遣いを考えてみる
相手がどんな「事情」を抱えていようと気持ちのよい自分でいられるように、まずは「自分の標準的な気遣い」を考えてみましょう。
これは、一人の人間としての自分が「こういうふうに振る舞うと気持ちがよい」というレベルのもので、どんな人に接するときにも共通する雛形みたいなものです。
挨拶をする、お礼を言う、などといった社会的な基本姿勢もそうですし、自分に余裕があるのであれば、人に親切にする、できるだけ笑顔でいる、というのもそうでしょう。
挨拶をしないときよりもしたときのほうが気持ちよいですし、お礼を言わないよりも言ったほうが気持ちよいものです。
人に親切にするのも、笑顔でいるのも、やはり気持ちがよいものです。
これらはいずれも私たちの「本来は親切な存在」という本質に合った形だからです。
コンディションが悪い時でも大丈夫
先ほど挙げた標準的な気遣いの例のうち、親切にしたり笑顔でいたりすることについて「自分に余裕があるのであれば」という条件を付けたのには理由があります。
自分が手一杯のときに人に親切にしたり、自分がひどく落ち込んでいるときに愛想よくしたりしようとすると、自分に無理がかかってきて「気持ちよい」と感じられなくなるからです。
そうは言っても、自分のコンディションが悪いときには「元気になる気遣い」ができないということではありません。
そんなときにも、自分の領域に責任を持つことが元気になる気遣いのコツとなります。
たとえば、自分が手一杯で人に親切にする余裕がないのであれば「本当は手伝ってあげたいけれども一杯一杯でごめんね」「大変なのに本当に頑張っていて、すごいね」と言うのも気遣いです。
なぜかと言うと、大変なときというのは、物理的な大変さだけが問題なのではなく、「誰も気にかけてくれない」という孤独感や報われない感じが大変な感覚をさらに強化するからです。
物理的には手伝えないとしても、「あなたが大変な状況にいることはわかっている」と伝えることが、「気にかけてもらっている」という安心感を相手にもたらす一つの気遣いになるのです。
手伝えない事情も手伝いたい気持ちも相手が大変な状況にいるという認識も、すべては自分の領域の話です。
つまり、それを伝えられるのは自分だけなのです。
ですから、それらを伝えることも、自分の領域に責任を持つ、ということになります。
伝えずに相手にくみ取ってもらおうとするのはその責任を放棄しているということですし、最悪の場合、相手は「私のことなんてどうでもよいのね」と誤解してしまいかねません。
また、自分がひどく落ち込んでいるときには、「ひどい失敗をして今すごく落ち込んでいるので、立ち直るまで暗い顔でいます。すみません」などと言えば、相手は、自分が嫌われているわけではない、自分が怒らせたわけではない、と知ることができます。
これも相手に余計な心配をかけないという意味で、立派な気遣いになります。
そして、そんなふうに周りの人とやりとりすることによって、こちらの気持ちもちょっと楽になってくるものです。
「大変だね」という目で見てもらえれば温かさも感じるでしょうし、「立ち直るまで暗い顔でいます」などと言うときには自分でもつい笑ってしまうかもしれません。
いずれも、元気になる気遣いは自分を元気にする、というよい例です。
自分の標準的な気遣い+相手に合わせた工夫=元気になる気遣い
もしも相手についての情報がある程度あって、相手の「標識」がある程度見えているのなら、自分の標準的な気遣いにそれを上乗せしていくことができます。
たとえば、目上の人と共に行動するときには車のドアを開けてあげる、という気遣いを標準にしていても、相手が「年寄扱いされたくない」という気持ちを強く持っていることを知っていれば(相手がそういう「標識」を立てていれば)、そのときだけはドアの開閉を本人に任せるという気遣いができます。
これは気遣いの根本を変えてしまったわけではなく、「目上の人にはできるだけ礼儀正しく振る舞う」という気遣いの形を、相手に合わせて調整しただけのことです。
相手のことを全く知らないときは
しかし、相手のことを全くしらないような段階では、このような「相手に合わせた工夫」というものができませんから、相手に喜んでもらえない、という現象も起こってきます。
そうやって考えてみると、「知らないのだから仕方がない」ということがわかるとおもいます。
相手には相手の事情があって、こちらの標準的な気遣いを嬉しく思えないということは十分にあり得ます。
あるいは、その日に単に機嫌が悪かったり、何かの悩み事で頭がいっぱいだったりして、とても気遣いに気づけない、ということもあります。
気遣いに感謝するというのも一種の気遣いだと言えるのですが、そんな余裕がない日もあるのです。
そんな人に対して、「自分の気遣いに対して必ず喜んでほしい」と要求することは、かえって酷だと言えるでしょう。
相手の領域をコントロールしようとしていることになってしまいますね。
自分の標準的な気遣いをしたところ相手が機嫌を損ねた、というような場合、それは基本的に相手の領域の話ですから、原則通り、相手の領域を尊重すればよいのです。
つまり、「詳細はわからないけれども何らかの事情があるのだな」と考え、相手のありのままを受け入れる、ということになります。
形としては「大変失礼いたしました」と謝る、ということになりますが、それはこちらの非を認めるというよりも、いたわりの一言です。
同じ「大変失礼いたしました」でも、「自分側の非」と考えてしまうと、疲れる気遣いに入ってしまいます。
「自分のどこがいけなかったのだろうか」「読みがたりなかったのはどこだろうか」などと不安でいっぱいになってしまうと、「不安のメガネ」で相手を見ることになりますから、相手を見る目がさらに歪んでしまいます。
すると、「実際の相手」を知ることができなくなってしまい、ますます気遣いがずれてしまう、ということにもなりかねません。
元気になる気遣いは、相手の領域を尊重するところから、なのです。
まとめ
- 自分の領域は自分にしか、相手の領域は相手にしかわからない
- 自分が思っている「相手」は、あくまで「自分が考える相手」
- よく知らない相手でも、ありのままを受け入れれば、それが気遣いとなる
「自分が考える相手」と「実際の相手」のずれを減らす努力をする
標準的な気遣いをした上で、相手の反応に違和感があるときは「何か事情があるのだな」と考える