発達は自我の分裂を伴う

分裂の必然性

前節で述べたメカニズムにより、子どもは親に適応し、心が発達していきます。

そして、心の発達には多かれ少なかれ自我の分裂と呼べる現象が伴います。

発達における自我の必然的な分裂という考え方は、研究者によりその内容や意識化の可能性において差異はありますが、精神分析では共通した考え方となっています。

たとえば、フロイトは、私たちは原初的な心であるイドを持って生まれ、この世界に適応するために自我や超自我が形成されてくると考えましたが、それぞれが相対的に自律的に発達し、互いに葛藤し合うものと考えました。

また、自我を脅かす衝動や願望、記憶等を無意識界へと抑圧してしまい、これが自我の機能を脅かすとしています。

ユングもまた、人が成長する過程で多くの潜在的な自我の可能性を抑圧してしまうと考えました。

そして、この抑圧され、実現できなかった自我の部分をも自我に統合することが自己実現の欠かせない要素だと述べています。

女性の精神分析家で、対象関係論的アプローチの開拓者とされるクラインは、分裂から始まる自我発達論を提唱しています。

彼女によれば、乳幼児は最初自分をも母親をも、個々バラバラの分裂した部分としてしか意識できません。

そして、しだいに自分とか母親とかの全体像として意識されるようになっていきます。

ところで、幼い子どもは外界に翻弄される存在なので、内面に大きな敵意(むろん大人が持つような意識的なものではありませんが)を持っており、この自分の敵意の処理に苦慮しているというのです。

このために、敵意のない「良い自分」と、敵意を持つ「悪い自分」とに分裂しており、また、この感情を外界に投射するために、母親もまた、「敵意のない安心できる母親」と「恐ろしい敵意を持つ母親」とに分裂しています。

健全な自我発達のためには、こうした悪い自分と良い自分を全体像として統合し、かつ母親の悪い部分をも全体像としての母親に統合することが求められます。

しかし、この統合の試みは、自らのうちに敵意を取り込むことでもあるので、幼い子どもを不安にさせます。

通常の母親は、安心と心地良さをもたらす豊富な体験を与えるので、子どもはこの不安を越えて、適切な統合を成し遂げることになります。

ところが、母親が情愛的な対象としてよりも、迫害的な対象として子どもに受け取られていると、母親を過度に理想化する必要に迫られ、敵意を持つ自己や迫害的な母親の部分を意識から脱落させてしまうなど、現実的な統合ができずに分裂が持続してしまうというのです。

以上、いささか抽象的に諸説を概観しましたので、次に、発達に伴い必然的に自我の分裂がもたらされる様子を具体的に見てみることにします。

適応としての分裂

赤ん坊のときには、親は自分に赤ん坊を合わさせようとするよりも、自分を赤ん坊に合わせようとします。

子どもが発達するにつれ、次第に子どもを自分たちの生活に合わさせようとするようになります。

発達とはこのような外界に適応する能力が高まることです。

したがって、発達を子どもの側から見ると、自我の本来の傾向と外界の要請との調整をはかることであり、その調整能力が向上することだといえます。

このために、発達とは、子どもにとって自分を押し通すか、外界に屈服するかという戦いともいえるのです。

子どもは、ごく幼いうちからこの戦いをしています。

食べたくないものを食べさせようとすると、しっかりと口を閉じたり、横を向いたり、吐き出したりして拒否します。

大人がある遊びに誘っても、それが子どもの意にそわない場合には乗ってきません。

また、自分の欲求を貫き通そうとして、大声で泣きわめく行為もみられます。

外界に対する子どものこうした戦いは、子どもが外的要請を受け入れることで終わらざるを得ません。

いつまでも素手で食事することはできません。

やがて、おしめははずされ、排泄はトイレでするようになります。

赤ちゃん言葉は卒業させられます。

幼稚園に行くときには、制服に着替えさせられるようになります。

このように、外界の要請に自分を折り合わせることができるようになることが発達なのであり、成長なのですが、こうした外界への適応に、必ずしも心がついていかないことがあります。

それが、漠然とした不満感とか、強制されることへの敵意などとして残ることになります。

こうした感覚や感情の蓄積が、適応した自分と、それに違和感を感じる自分との分裂へとしだいに発展していくのです。

しつけによる分裂

親がもっとも意識的に子どもに適応を迫るのがしつけです。

このために、とりわけしつけで、自分の感情や欲求、衝動、願望が、親から求められることとぶつかることが多くなります。

たとえば、幼い時期に自分が気持ちよいと感じる行動は、禁止されることが少なくありません。

指をしゃぶること、股間をさすって気持ちよくなること、思い切り散らかし放題に遊ぶこと、大好きなアイスクリームを二本以上食べること等々。

この「自分がしたい」と親の禁止とのぶつかり合いにおいて、子どもは「自分」という対象と、「自分以外」という対象とを意識させられます。

また、しつけでは、自分の心の中にある表出してよいものと、表出してはいけないものとを弁別しなければならないことも教えられます。

たとえば、「あの人の顔、おかしいね」とか、「おじいちゃん、臭いから嫌い」などと素直に自分の感覚や感情を表現することは禁止されます。

性的なことを口にしたり、他の人がトイレしているのを覗いたり、下半身を裸にして見たり、見せたりする行為も禁止されます。

さらに、しつけでは、自分の感覚や感情を優先するのではなく、親や他の人の感情や要望、期待、価値観を優先することを求められます。

「他の人の気持ちを考えなさい」とか、「自分ばかり楽しまないで、お友達にも貸してあげなさい」など、自分の感情よりも他の人の感情を優先することを直接強要されることもあります。

このようにして、しつけによって、自分の心や身体は内発的な欲求や諸感覚、諸感情の源ではなく、注意深く監視すべき対象ともなります。

しつけは、「監視する自分」と「監視される自分」との分裂を引き起こすのです。

この分裂によってしつけが成立し、子どもは社会的により適応した行動がとれるようになるのですが、本来、このプロセスは、子どもの喜びや達成感のなかで進行するものです。

それは、しつけを守れたことを親が喜んでくれるという喜びだけでなく、親が自分に愛情を向けていてくれるという喜び、自分が自分をコントロールできたという喜びの感覚などです。

これがあれば、子どもは自分というものをしっかりと保持しつつ、しつけに従うことになります。

「監視する自分」と「監視される自分」とを統合する自分が育っていくことになります。

ところが、こうした喜びや自分で律しているという感覚を喪失することでしつけが成立する場合には、両者を統合する自分が育たず、「監視する自分」と「監視される自分」との分裂が進行してしまいます。

「監視する自分」に縛られて、「監視される自分」は子どもらしい自由闊達さを欠いたものになります。

心はマルチチャンネル

成長すると、適応すべき対象が広がっていきます。

幼稚園や学校に入ると、保育士や先生、友達、および園や学校での決まりに適応しなければなりません。

そのために、子どもはそれぞれの対象・場面に適応した自分を作るようになります。

それぞれの自分は、ある程度自律的な発達を遂げていきます。

ですから、私たちの心は、もともとマルチチャンネルとして発達していくものなのです。

テレビのチャンネルを変えると番組が変わるように、私たちは、相手によって、この心のチャンネルを切り替えて接しているのです。

それにより、それぞれの対象と場所にふさわしい自分を生きているのです。

幼児でさえ、この心のチャンネルを切り替えて生活しているので、保育士に見せる姿と親に見せる姿とにギャップがあるのです。

あるベテランの保育士さんは、次のように語っていました。

「お父さんが迎えに来たとき、〇〇ちゃんが玄関でぐずっているのを見て、〇〇ちゃんでも、あんなことがあるんだと、びっくりしてしまいました。」

小学校中高学年ともなれば、大部分の子どもは友達に見せる顔と、親に見せる顔とが相当大きく異なってきます。

このために、親への普段の接し方を友達に見られるのを恥ずかしいと感じるようになります。

それで、友達がいるときには、親にわざと乱暴な口をきいたり、反抗したりする子どもがいます。

また、友達のなかでの言動を親に見られるのを避けようとするようにもなります。

中学生は、より意識的に場面ごとにチャンネルを変えます。

次のような中学生の声があります。

「放課後同じクラスのコ、4人でしゃべってたとき、4人とも自分のことを二重人格だと思うって言った。

学校の門をくぐるとそこから『えんぎ』がはじまるって。

ヨーイ、スタートでパッと表情をかえて学校用に顔をつくるって。

家にいる自分と学校にいる自分は全然ちがう。」(『学校で起こっていること―中学生たちが語る、いじめの「ホント」-』「進研ゼミ」中学講座編 ベネッセコーポレーション)。

大学生では、さらに意識的、意図的に相手に合わせて自分の役割を取ります。

「母親はとても支配的な人で、私が無力で依存的なのを歓迎するのです。

父親はそんな支配的な母から距離を置いていて、母から得られない精神的な安らぎを私に求めてくるんです。

それで、母親に対しては意識的に幼さを演じています。

父親に対してはしっかりした母親的な役割を演じています。」(女子大生)

大人になっても、妻(あるいは夫)に対して見せる姿と、会社で見せる姿とは多かれ少なかれギャップがあります。

会社でやり手で通っており、部下に対して厳しい上司が、子どもに対しては甘い父であり、妻に対しては依存的で服従的であったりします。

このように、私たちは、それぞれの対象と場所に適応するために、その対象と場面の期待に添った自分を作り、表現しています。

こうしたいろいろな自分のなかには、相互に相容れないかのように思われる「自分」が含まれることもあります。

たとえば、先の上司は、会社の自分の姿と妻への姿に真正面から向き合ったら、いささかとまどいを覚えるでしょう。

子どもは、いじめっ子に「へつらってしまう自分」を自分として受け入れることに抵抗を感じるでしょう。

こうした受け入れがたい自分を、多少とも自分と切り離すことで、心の安定を保っているのです。

この意味で、人は多かれ少なかれ多重人格的であるということができるかもしれません。