相手に「居場所」を与える

「居場所」を得たければ、人に「居場所」を与えること

居場所がない」「居場所がほしい」というのは、すべて、自分の感じ方に関する話です。

「人から見たときに『周りにとけ込んでいる』と見られたい」と思っている限り、本当に「居場所」を感じることはない、ということです。

また、受動的な姿勢で「居場所」を待っていてもうまくいきません。

実は、「居場所」感を得るためには、相手に「居場所」感を与えることがとても役立ちます。

「〇〇さんと一緒にいると、しっくりくる」「××さんと一緒にいると、とても安心する」「△△さんなら、何でも話せる」と「居場所」を感じてもらうことが一番なのです。

そんなふうに言ってくれる相手は、自分に「居場所」感を与えてくれます。

ここまで読まれて、もしかしたら、「自分の居場所だけでも汲々としているのに、まして人に居場所を与えるなんて・・・」と思う人もいるかもしれません。

あるいは、「自分は人付き合いが苦手だ」と感じている人もいらっしゃるでしょう。

でも安心してください。

「与えることは受け取ること」として扱います。

これは「ギブアンドテイク」ではなく、また、「親切は回り回って自分に戻ってくる」という意味でもありません。

ここで言う「与えること」と「受け取ること」は、同時に起こっているのです。

人に与えると、同時に、自分も受け取っているのです。

たとえば毒ガスを吐けば自分もそれを吸うことになります。

これは他人に対する姿勢も同じことです。

他人を攻撃的に扱うと、自分も傷つきます(相手をやり込めるときの爽快感、というのは「心の平和(やすらぎ)」レベルで見れば、ファンタジーに過ぎません)。

例:自分は政治に興味があって、議論には自信がある。

相手が何を言ってきても論破できると思っている。

でも、議論している最中の自分が「やすらか」かと言えばそんなことはない。

隙を突かれないようにいつもピリピリしている。

「居場所」があるかと言えば、そんなことはない。

ここは見落としやすいところなのですが、「自分が正しいことを言っている限り、心は平和」というのは幻想です

自分の思いを平和な気持ちで伝えている限り、心が平和というのはそのとおりだと思います。

しかし、議論の場面では、どうしても攻撃性が必要ですし、相手が言うことに対して「でも」と反論する必要があります。

そんなときの私たちの心臓に手を当ててみれば、バクバクしていることでしょう。

そもそも相手には相手の事情があり、現状のような結論を出しているのです。

そうであれば、いったいどういう事情からこのような結論に至ったのか、すべてを聴いてあげることが、距離を縮める最高の手段です

「どうしてそういう考えに至ったのか、差し支えなければ教えてくれる?よく理解したいから」と頼んでみれば、話してくれるかもしれません。

過去の失敗から防衛的になってしまっているのか。

今まで人からないがしろにばかりされてきたから、「どうせ」という姿勢が先に立ってしまうのか。

そういう相手の「ありのまま」を認め、安全な「居場所」を提供するとき、私たちは自分でもそのやすらかさを吸い取って、「ありのままの自己受容」「居場所」感を受け取ることができるのです。

「居場所のなさ」を解消する、手っ取り早い方法です。

ポイント:居場所感は、相手に与えると同時に返ってくる。

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感情に振り回されてしまう原因は、ジャッジメントにあった

私たちが「居場所のなさ」を感じているときには、間違いなく「ジャッジメント」を下しています。

客観的な評価(体温や血圧など)をアセスメント、主観的な評価をジャッジメント、と使い分けます。

ジャッジメントとは、相手や状況に対する自分の感想や位置づけのことです。

これも人間に備わった自己防御能力みたいなものです。

「この人は私のことをつまらない人間だと思っているのだろうな」「この場はわたしには合わないな」「なんでこの人たちはこんなつまらない話をしているのだろう」や、「どうして主催者はもう少し気を利かせて私を場にとけ込ませてくれないのだろう」など、ジャッジメントは「居場所」に関してもさまざまなものがあります。

「この人には何でも話せそうだな」とか「この人はちょっと危ないみたいだ」などと主観的な評価を下しながら、私たちは人との関係を調整しています。

そういう意味で、ジャッジメントは、安全に生きていくために備わった判断力、と言うことができるのです。

しかし重要なのは、ジャッジメントは、あくまでも「今の自分」にとっての主観的なものであり、決して「真実」とは言えない、ということです。

人によってジャッジメントは異なるものですし、同じ人でも時期によって、あるいは体調や機嫌によって、異なるジャッジメントを下すことは少なくありません。

例:直属の上司から、「君、こんな仕事の仕方でこれから務まるのかな」「給料もらっているんだから、もっと自覚をもって頑張ってよ」などと言われると、私はこの職場にいてはいけないと感じる。

例:「君にはかつてすごく期待していたんだけど、最近の仕事ぶりには不満だよ。推薦した俺の立場も考えてくれよ」と言われると、本当に迷惑をかけていると感じる。

これらの例に見られるような無自覚なジャッジメント(本来は上司の主観的評価に過ぎないのに、まるで絶対的なもののように語られている)の問題は、それをあたかも「真実のように相手に(もちろん自分にも)押しつけてしまうところにあります。

そして、そのメッセージは「現状ではいけない」というような性質のものが多いと思います。

実際に肩書きがさがったり、査定が下がったりすることによって、「私はこの職場にいてはいけないのだろうか」と居場所がないを感じた人もいるはずです。

ジャッジメントの押しつけは、往々にして批判的・暴力的です。

ワークショップなどでも、実験的に、他人の話に対する「善意に基づく」ジャッジを頼むと、皆さん「批判的な目で見てしまった」というような感想を述べられることが多いです。

「善意に基づいて」という条件をつけてもなお、です。

実は、居場所がないを解消するために一番大切なことは、自分のジャッジメントを手放すことです(そもそもが「居場所がない」という感覚そのものがジャッジメントですから)。

そのために重要なのは、人の話を「聴くこと」です。

ポイント:ジャッジメントの押しつけが「居場所のなさ」をつくる。

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相手の話をジャッジしないで聴く

私たちは、人の話を聴くときに、相手の話だけを聴いているわけではありません。

ほとんどの場合、自分の思考も共に聴いています。

「居場所がない」と感じるときは、「私はこんなところにいてよいのだろうか」という思考を聴いているのかもしれません。

あるいは、「何で私みたいな人間がここにいるのかと、みんないぶかしく思っているかもしれない」「みんな、何でこんなことが楽しいのだろうか」「みんなの話が全然分からない。どうしたらよいの?この後どういうコメントをしたら気が利くと思われるのだろうか」「主催者を失望させたので、次はもう呼ばれないな」などという思考かもしれません。

本来の話よりも、そちらの思考の音量のほうが大きくなってしまうと、「居場所がない」と強く思うようになります。

そこで、自分の思考を「脇に置く」のです。

「脇に置く」というのは、その思考に入り込んでもいかず、思考そのものにも評価を下さず、ただひょいと脇に置く感じです。

それからもう一度、話し手の現在に集中し直すのです。

何が「聴き上手」か、と言えば、それこそ相手に「居場所」を与えることのできる聴き方。

ありのままの相手を、評価を下さずに聴き、「安全」を提供することです。

安全を提供する、ということは、ありのままの相手と共にいる、変えようとしないということです。

「いろいろな事情があるんだな」というような感覚で話を聴けば、余計な評価を下さずに聴けます。

それは相手に「居場所」を提供すると同時に、そのような姿勢で人の話を聴いているときは、自分も居場所がないから解放されるのです。

なぜかと言うと、人の話を聴いているときに下す評価というのは、「こんな話、私が聴いてよいのだろうか」「この後なんとコメントしたらよいかわからない。困った」
「私はこの人ほどひどい状況に置かれたことがないので、申し訳ない」などというものだからです。

いずれも相手と距離をとるもので、ありのままを受け入れてほしい話し手にとっては完全に的外れなものなのです。

相手の話を本当に聴くことができれば、だまってそこにいても温かさが感じられるし、「そっか」程度の受け答えでも、話し手は救われるのです。

なぜかと言えば、アドバイス性の高いコメントというのは明らかな上下関係(聴き手が上)から出てくるものなのですが、「そっか」程度のコメントは、まさに対等な温かい言葉だからです。

ポイント:自分の思考は脇に置いて、相手のありのままの話を聴こう。

相手の感情を翻訳する必要がある場合もある

たとえば、会社で上司に叱責されるような場合、さすがに「そっか」というわけにはいきませんね。

こんなときには、まず「怒っている=困っている」と翻訳してしまいましょう。

困っているから、こんなに乱暴な口(悲鳴)をきくのだ、というふうに見ると、見え方が変わってきます。

そんなときには、やはり受け答え方は「すみません」になるでしょう。

ただし、それが謝罪である必要はありません。

このような「すみません」を「お見舞いのすみません」と呼んでいますが、どういう事情であれ、上司という役割を果たす中で困ってしまっている人に対して、一言お見舞いを伝えてもよいとおもいます。

困ってしまっている上司ですから、何か安心の材料があれば言ってあげてもよいでしょう。

これからやり方を改善しようと思っているところなど、思い当たれば教えてあげると上司は少し安心できると思います。

「パワハラ上司」などとジャッジしてしまうと自分も傷つきますが、「困っている上司」として見てあげると自分も楽になる、ということです。

ポイント:相手の怒りは、悲鳴ととらえる。

温かい気持ちが居場所をつくる

相手の話をジャッジせずに聴くということは、ただ現在の相手の話を聴くだけ。

より正確に言うと、相手の存在を聴く、というような感じです。

いろいろな体験をしながら生きてきた人が、今自分の目の前で話してくれている。

それは貴重なことだと思うのです。

話そのものをジャッジすれば、「つまらない」話かもしれませんし、「浮いている」話かもしれません。

でも、相手がここまで生き延びてきて、自分に向かって(あるいは自分が属するグループに向かって)一生懸命話してくれている、ということは事実なのです。

おもしろいもので、実際に、ジャッジせずに人の話を聴いていくと、どんな話も愛おしく感じてくるから不思議です。

話の内容にいちいち反応してしまうと、それは「評価を下している」ということになってしまうので、自分も不快ですし、「居場所」づくりにはつながりません。

人の話を、評価を下さずに聴くことの効果は大きいです。

挑戦的・攻撃的に話してくる人であっても、こちらがありのままを穏やかに聴いていれば、だんだん肩の力が抜けていきます。

そもそも、挑戦的・攻撃的に話してくる人は、自己防衛のために武装しているようなもの。

ありのままに聴いてあげれば、武装の必要はないと感じられてくるでしょう。

そんなところから、まずは「居場所」を自分でつくってみたらどうでしょうか。

「あの人はあれだけの業績を上げて、すごい。それに比べて自分は・・・」「どうしてこんなつまらない話をするの?」などという思考と共に聴くよりも、相手のありのままと共存するほうが、ずっと「つながり」を感じられるはずです。

相手が自慢話ばかりするときにも「自慢話なかりで嫌だ」とジャッジするよりも、「安全だから、そんなに自慢話ばかりしなくても大丈夫だよ。

今まで自慢せざるを得ないような、よっぽど厳しい環境にいたんだね」という温かい気持ちで聴いてみたらどうでしょうか。

こんなときには、話し手・聴き手のどちらにとっても「居場所がある」と感じられているのだと思います。

ありのままの自分がいても大丈夫な場。

それが「居場所」なのだと思います。

パワハラ上司のようなケースであっても、もちろん向こうはこちらに「居場所」を与えてくれませんが、「困っている、かわいそうな上司」として包み込むように見てあげると、自分自身の「居場所」を脅かされることはありません。

ポイント:話をうまく聴くコツは、相手の存在ごと聴くこと。

人を変えようとしてはならない

「居場所」感を持ちたければ、自分がその場にいるのは、あくまでも自分自身を癒やすため、と考えましょう。

「居場所」は、癒しを提供してくれます。

ですから、「居場所のなさ」の解消は、「自分の癒やし」につながりますし、生きる目標を「心の平和(やすらぎ)」だけにしていけば、「居場所」も「癒し」も得られます。

しかし、実際の対人関係の中では、相手に不満を感じたり、相手を変えるためのアドバイスをしたりしがちです。

これは、まさに、自分から「居場所」を手放すのと同じことです。

「本当のつながり」と「居場所」には深い関係があります。

人と人が集う目的は、お互いに評価を下し合うためではなく、自分自身の癒やしのためだ、と考えてみましょう。

そもそも、人は変えようとしても変わりません。

人が変わることはあっても、それはその人自身の準備ができたとき。

変わりたいと思っていた人の条件が整うときや、衝撃によって、変わることを余儀なくされるときなどです。

「どうして、この人はこんななのだろう」「自分はなぜとけ込めないのだろう」と思うところから「居場所のなさ」感が始まります。

自分の嫌いな価値観を持つ人を「嫌だ」とジャッジしたり、自分を「だめだ」とジャッジしたりすることは、「相手が自分の思ったとおりに変わってくれたらよいのに」「こんな自分でなければよいのに」と思っているということで、相手や自分のありのままを認める態度にはなりません。

それでは、自分のほうから心を閉ざすようなものです。

「どうしてこうなの?」と感じる嫌な場所でくつろぐことはできませんから、自分にとっても、相手にとっても、「居場所」にはなり難いと言えます。

相手のありのままを認めるというのは、相手の言うことの内容に何でも賛成するという意味では全くありません。

自分の意見は正反対でもかまわないのです。

でも、自分も含めて、価値観や考え方は、それまでの人生の反映です。

何を持って生まれてきたか。

どんな体験を積み重ねてきたか。

今日の体調や機嫌はどうか。そういうすべての「事情」が、その人の「現在」をつくっているのです。

単に、「変わってください」と言って変えられるようなものではありません。

相手を、あるいは自分を、変えようとして変えられないとき、私たちは居場所がないを感じます。

それは、サイズの合わない服を着ている。

窮屈だったり、自分の動きに全然合わなかったり、ということにもなるのです。

まずは、人を変えることはできない、と観念しましょう。

相手は相手なりに、そして自分は自分なりに、何かしら精一杯頑張っているわけで、それはそれなりに尊重する必要がある、ということです。

「精一杯」ということは、それ以上はないということなのです。

これは重要な視点です。

しかし、「プロセス」という視点を持ってみると、また違ったことに気がつきます。

たとえば、付き合いの長い人の欠点は「まあ、悪気はないようだから」「もう、あの人はお金にだらしがないから」と諦める、というように、人間関係にはプロセスがあります。

また、どんな人も、できる進歩は遂げているのです。

そのペースは人によって違うでしょう。

それでも、誰でも、自己嫌悪に陥り、「もっとよい人間になりたい」「もっと有能になりたい」「もっと優しくなりたい」と思っているのです(口では生意気なことを言っている人も、本質はそうだということが感じられます)。

ですから、相手の現状がどうであろうと、また自分の現状がどうであろうと、「プロセスが必要なんだな」とだけ思い、自分は自分の信じる道を進めばよいのです。

ポイント:人は、準備が整って、はじめて変わり始める。

自分に「居場所」がないときは、相手にも「居場所」がなくなる

自分が「居場所」を感じられるときは、相手も「居場所」を感じられる、と言えます。

人間は案外弱いもので、はっきり主張している人でも、何となく不安感を抱いているものです。

こんな自分がどう思われるだろうか、自分の主張は受け入れられるだろうか、という具合にです。

そんなすべてを、評価を下さずありのままに聴いていくと、相手は「居場所」を感じることができます。

一番の「居場所」体験は、自分をありのままに受け入れてもらえることだからです。

もちろん相手が多数の場合(パーティや職場など)、その「お互い」感は持ちにくいと思います。

でも、自分は常に「居場所」をつくるようにしていけば、自然と人が集まってくるのです。

「あの人は話しやすい」「あの人は感じがよい」「あの人は温かい」と思われる人は、往々にして人気者になります。

もちろんその「人気」は、派手な形で示されるものではありませんが、人が集まってくるタイプの人は、ちゃんと相手に「居場所」を与えているものなのです。

そして、そんなときは自分も「居場所のなさ」を感じてはいません。

なかには、他者からは「話しやすい」という評価を受けていても、自分自身が相当無理をしてしまっている、という人もいると思います。

本当は相手の話にイライラと評価を下しているのだけれど、「感じよくふるまわなければ」と思っているために無理が起こるのでしょう。

そういう方たちも、この際、「自分の心の平和」を唯一の目標にしてみれば、自分も楽になりますし、人からもさらに「話しやすい」と思われるのではないかと思います。

30代の女性。夫と子ども、そして夫の両親と暮らしているが、子どもが、自分よりも姑のことを慕っている。この家にいる意味もなく、親でいる意味もないように思える。

このケースを、お子さんの立場から見てみましょう。

三世代同居のお子さんの多くが、実は「居場所」に関した悩みを持っています。

とくに嫁・姑問題などがあるときには、「自分がどうふるまえば、おばあちゃんとお母さんは仲良くできるのだろうか」「自分がどうふるまえば、おばあちゃんはもっとお母さんに優しくなるのだろうか」など、いろいろ悩んでは、自分なりの行動(愚痴を聞くなど)をとったりしているものです。

つまり、お子さんにとって家庭が安全な「居場所」になっていない、と言えます。

もしも自分のお母さんが「この家にいる意味もなく、親でいる意味もない」と思っている、と知ったら、お子さんにとって家族関係は限りなく安心できないものになってしまいますし、自分のふるまいに対する罪の意識も強く感じられるでしょう。

現状をそのままにすることの唯一のリスクは、お子さんがお母さんから放置されていると感じる可能性です。

もしもそんなふうになっているようであれば、「〇〇ちゃんはおばあちゃん子だから普段は任せているけれど、困ったときとか、なんでもお母さんに話していいんだよ。

おばちゃんに話しにくいことも聴いてあげるからね」と言っておけば、お母さんの気持ちも伝わるでしょう。

くれぐれも、「〇〇ちゃん、お母さんとおばあちゃんとどちらが好きなの?」と問い詰めたりしないことです。

あるいは、何かを頼まれたとき「そんなことはおばあちゃんにやってもらえばいいでしょう」などと言うと、子どもはお母さんから突き放されたように感じてしまいます。

お子さんをめぐる嫁・姑問題の解決の秘訣は、それを「嫁・姑問題」にしないこと。

子どもから見たときのおばあちゃん(甘やかしてくれる、いたわりが必要、早く亡くなる)と、子どもから見たときのお母さん(優しいけれど必要なときは厳しい。反抗しても大丈夫なくらい若い。おばあちゃんよりも長く生きてくれる)は、全く違った存在であり、比較の対象にしないほうがよいのだと思います。

自分の存在意義を考えてしまうというのは、自分に評価を下しているということ。

それでは「居場所のなさ」を感じるのも当然です。

どんな子どもにとっても、親は特別な存在です。

自分のことも子どものことも無条件に信頼していければ、心の平和につながるでしょう。

つまり、「居場所」を感じられるのです。

ポイント:自分の心が平和だと、「あの人は話しやすい。感じが良い」と思われる。

他人のジャッジメントが気になるときほど、自分のジャッジメントを手放す

ここでは、主観的な評価(ジャッジメント)を手放すことによって他人に対する気持ちをコントロールすることをお話ししてきました。

しかし現実には、他者によるジャッジメントを強烈に受けて「居場所がない」と感じることも少なくありません。

「お前はここにいるべきではない」というタイプの評価は、口に出されればもちろんのこと、非言語的にも私たちを疎外します。

保守的」な人は不安が強いです。

「居場所を感じられないときには、まず自分自身のジャッジメントに注目してみることです。

ポイント:ジャッジメントを手放すと、可能性が増える

「居場所」を求めるのではなく、与えられる人間になる

居場所がないを感じるときは日常生活に多々ありますが、そんなときに、「与える」ということを意識している方はどのくらいいらっしゃるでしょうか。

居場所がないと感じるのは、より正確に言えば、「相手が居場所を与えてくれていない」ということです。

つまり、自分は受け取る側。

受け取る側はどうしても無力になります。

すべてが相手次第だからです。

「居場所がない」と「無力感」は、とても近い存在として感じられるのではないかと思います。

ここで提案しているのは、「居場所がない」を感じるときほど、自分が「居場所を与える存在になろう」ということです。

相手の存在をじっくりと聴き、「なるほど」と思うことによって、相手は居場所を感じるでしょう。

そして、そんなときの自分の精神状態は、穏やかなはずです。

評価を下しながら聴く場合は別です。

「どうしてこの人はこんなことばかり?」「そんなふうにしなければよいのに」などと考えながら聴いているときは、「なるほど」もありませんし、こちらのジャッジメントに反応した相手は、「自分が否定された」と思いますから、「居場所」を感じられないでしょう。

とても大切な考え方は、「与えることと同じものを、私たちは受け取っている」ということです。

自分が有害ガスを出せばそれを自分も吸い込むのと同じで、自分が人格を否定するようなジャッジメントを下すときには、それと同じようなものを自分も受け取っているのです。

ですから、自分が相手に「居場所」を与えるのであれば、自分も「居場所」を得ることになります。

自分が受動的にジャッジされる、と思うと、当然居場所がない感覚に結びつきます。

一方、自分は本来温かい存在であると信じ、どんなときにも「心の平和(やすらぎ)」を大切にしようと思うと、自分の中に「居場所」があることに気づくのです。

それを対人関係に当てはめ、自分の中に居場所がつくれれば、それをだんだんと周りにも広げていける、ということなのです。

もちろん、居場所がないという感覚からはフリーになれるでしょう。

進学校に行っても、レベルの低い学校に行っても、どちらでも居場所がない

この偏差値社会では、こんな問題が案外起こっていると思います。

「自分はもっとできるはずだから」「自分はそんな器ではないから」という理由で周囲から浮いているような気がして、居場所がないを感じることもあります。

この問題の本質も、やはり「ジャッジメント」へのとらわれにあると思います。

自分も含めた人間の価値を「偏差値」という一本の物差しでジャッジしてしまっているのです。

そうすると、「心の平和(やすらぎ)」は得られず、「居場所」も感じられないでしょう。

偏差値というのは、それぞれの事情を反映した一つの結果に過ぎません。

ジャッジメントを脇に置いてみれば、それぞれの多様なあり方が見えてきます。

偏差値の高い人が、必ずしも幸せなわけではありません。

家庭がうまくいっていない、ということもあるでしょう。

成績がよいがゆえのプレッシャーもあると思います。

あるいは、偏差値は低いけれどもとても優しく幸せな人はたくさんいます。

別に、優れたところが一つも見当たらなくてもかまわないのです。

与えられた条件の中で、一生懸命生きている、ということは誰でも同じです。

人間の多様性を知ることは、その人にとっての財産です。

それはひいては、人生にはいろいろな道がある、と自分を癒すことにもつながるでしょう。

ポイント:人間の多様性を知ると「居場所」が得られる

職場での「居場所」を感じられないとき

会社でできる後輩が入ってきたことによって「居場所」が脅かされているように感じる、という人についても、ここでお話ししてきたとおりの考え方を適用することができます。

つまり、自分に「居場所」がないと感じたら、相手に「居場所」を与えるということです。

後輩によって自分の「居場所」が脅かされていると思うのであれば、あえて後輩に「居場所」を与えてみたらどうでしょうか。

新しい職場に入って頑張っている後輩のありのままを、ジャッジせずに受け入れてみましょう。

すると、「何でも話せる先輩」になります。

そんな関係に、自分でも「居場所」を感じることができるでしょう。

もちろん、生意気な後輩なら、「先輩は、人はよいけれど仕事ができない」と、冷ややかな目で見てくるかもしれません。

でもそんな人でも、どこかで壁にぶつかったり折れたりするもの。

そんなときに唯一の相談相手になれるかもしれません。

そんなふうに思って準備をしていれば、「居場所」も感じられてくるでしょう。

そもそも、生意気な姿勢も、組織人としては望ましくないものです。

「まあ、まだ若いから」とありのままを受け入れてあげるだけでも、だいぶ雰囲気が変わります。

また、成果を求めてくる上司に対しても、「まあ上司だから仕方ないな」というようなおおらかな気持ちを持って、そのまま受け入れてみましょう。

それは決して、上司の求めるレベルを達成する、という意味ではありません。

上司には上司の立場があって、いろいろ求めてくるのだろうな、と達観するようなものです。

そんな視点に立てたとき、居場所がないもなくなっていることに気づくでしょう。

皆が忙しそうにしているときに、自分がすべきことやできることがわからない

これは比較的典型的な居場所がないですね。

強い疎外感、無力感などを感じると思います。

何かを手伝おうと思って人にうろうろついて歩いても、邪魔者扱いされることもありますね。

あるいは、開き直って何もしないでいると「気が利かない」などと言われる可能性もあります。

でも、こういうシーンは、自分の「気の利かなさ」ゆえに起こるのでしょうか。

会社などの組織で、このような余剰人員をつくってしまうのは、むしろ責任者側の割り振りの問題です。

「周りから必要とされていない。自分には居場所がない」と小さく考えてしまうと傷つきますが、「上司が仕事をうまく割り振れないんだな」と考え直せば、責任者に「私は手が空いていますから、できることがあれば何でも言ってください」と自分から声をかけ、あとは責任者の責任、と割り切るのがよいと思います。

仕事が与えられ間の暇つぶし法はいろいろあるでしょう。

なぜこういう考え方をしたほうがよいかと言うと、このような構造はいじめにもつながりうるからです。

自分にはわからない話題で皆がはりきっている。

でも、やる気があると伝えても、誰も自分にそのテーマを伝えてくれない。

これは、いじめとも言えるものでしょう。

ですから、責任の所在を明確にして、あとは自分のことをやっていればよいと思います。

「ダメ社員」「使えない奴」というレッテルを貼られている社員。社内で浮いている。そんな自分が恥ずかしい。同僚に話しかけたときの反応も(他の同僚と比べて)明らかにいまひとつ。

「ダメ社員」「使えない奴」とレッテルを貼られるのは、何か正当なきっかけがあったのでしょうか。

あったのであれば、まずは自分なりの反省と改善策をまとめて、上司に相談してみましょう。

「先日は申し訳ございませんでした!次からはこうします!」と元気に申し出られたら、上司も悪い気はしないと思います。

もちろん、すでにしでかしてしまったことへの謝罪はきちんとしてください。

しかしその理由が不明である場合には、やはり上司に聞いてみるべきでしょう。

いじめのケースがそうですが、自分には何も悪いところはなく、単に要領の悪い性格ゆえにスケープゴートにされてしまうこともあるのです。

これは、上司がきちんと対応すべき問題です。

ポイント:責任の所在を明確にすると「居場所」ができる

「今」に集中すると「居場所がない」が消える

居場所がないと焦ってしまうと、仕事のパフォーマンスにも関わってきます。

先ほどの例でも、上司の話を誠実に聴き、自分なりのベストを尽くす、という姿勢であれば、余計なエネルギーを消耗せず仕事に専念できるでしょう。

人間は、目の前のことに集中するときに最も力を発揮することができるからです。

「居場所がない・・・」「上司にかわいがられないのではないか・・・」などという考えに気を散らしていたら、持っている力も発揮できません。

「今への集中」は、「居場所」感を考える上でとても重要なことです。

皆さまにも体験があると思いますが、何かに心から集中しているときには、居場所がないなどという感じ方には決してならないものです。

そもそも何かに集中していると、「自分」という概念が消えますから、「自分はここにいてよいのか」「自分の居場所がない」など「居場所」云々の話にはならないのです。

先ほどお話ししたような「聴き方」は、「今」にいるための強力な手段の一つです。

他のことでも(パーティの裏方を手伝う、参加している子どもの世話をするなど)、「今」に集中できるものがあれば居場所がないは感じないでしょう。

そういう意味で、「今」は「居場所」と深い関係にあります。

仕事でも趣味でも、「今」に集中すれば「居場所のなさ」は消えていきます。

ポイント:居場所がないと感じたら、何かに集中してみよう

滅私奉公と与えるということの違い

ここまでを読んで、そうか、与えればよいのか、と、無理に自己犠牲をして与える人もいらっしゃるかもしれないので、追加の説明をしておきます。

自己犠牲は「居場所」感にはつながりません。

「与える」と言われると、何でもかんでも自己犠牲をして与えなければ、と思う方もいらっしゃると思います。

しかし、それはここで「唯一の目標」としている「心の平和(やすらぎ)」とは異なります。

意に反する自己犠牲は、私たちに被害者意識を与えるからです。

「やらされている」感が残るでしょう。

そして、「こんなに頑張っているのにとけ込めない」と、居場所がないを感じてしまうのです。

「与える」ことと、「自己犠牲」をすることは、似て非なるもの。180度違う話なのです。

ポイント:ムリな自己犠牲はしない。平和な心でできる範囲で居場所を与えよう。

自己開示には意味がある

「居場所」を感じるためには、自分の話をおもしろおかしくしなければならないと思っている人もいると思います。

しかし、「心を開く」ということと「何でも打ち明ける」ということは「別」です。

何を打ち明けるかは、相手に何をしってもらいたいかによって決まってきます。

自分と相手の関係の中で、相手に不必要な情報を伝える必要はないのです(もちろん関係性が深まっていけば、打ち明けることも増えるでしょう)。

自分のプライバシーは必ずしもさらけださなくてもよいものですし、とくに関係が浅く、まだ安全が感じられないうちは、さらけ出すことが危険につながる場合もあります。

打ち明けた人が、とても口の軽い人だったりしたら最悪です。

そこにジャッジメントが加わると、さらにひどいことになるでしょう。

ただ、一般的な原則で知っておくと役立つのは、「自己開示した分」と「居場所感」は比例するということです。

もちろん無謀な自己開示をしろというわけではなく、自己開示が少ないときは、「居場所」感が少ないのも仕方ない、ということなのです。

「居場所がない!」と感じるときは、「まあ、自分も警戒して付き合っているから」と納得できると思います。

一番大切なのは自分自身の安全です。

理想的には、少しずつ、温かく、信頼できるような雰囲気の中で試していきましょう。

もちろん相手を選んで、です。

安全な相手を選びましょう。

そうやって自分で「居場所」を感じていくと、相手にも同じものを与えられる、ということです。

ポイント:安全に自己開示していくと、「居場所」感が増える。

重要なことは共通点ではない

自己開示をすれば人とつながる、というのは、たとえばアルコール依存などの自助グループで言えることだと思います。

そうでない場で話すとギョッとされることでも、「そうそう自分も同じ」とわかってもらえるからです。

ですから、自助グループは、「居場所」を感じる典型的なケースでしょう。

ただ、テーマが同じ、ということは必ずしも必要でないどころか、時として弊害になります。

同じアルコール依存でも、そのきっかけも違えば、癒しの方向も違うからです。

「私と同じ!」という気持ちが強く出てしまうと、自分の世界に入ってしまい、相手から離れてしまいます。

私たちが聴きたいのは、あくまでも現在の相手

「私と同じ!」という思考は、できるだけ手放したほうがよいと言えます。

そして、それぞれの人が頑張っている現在を聴くように努力しましょう。

それが、自分にも相手にも「居場所」を与えることになります。

ポイント:相手との共通点探しに夢中にならない。

目に見えない相手に対しても「居場所」を与えると、「居場所」感を得ることができる

誰かに「居場所」を与えようにも、そもそも人間関係がない、という人もいるでしょう。

そんな人へのお勧めは「目に見えない相手に与える」ことです。

コンビニのレジのところにある募金箱でもよいですし、偽善団体でもよいでしょう。

経済的に恵まれていない地域の子どもたち、あるいは、戦時下の子どもたちなどに対する募金です。

ちょっとした小銭でも寄付すれば、居場所がないと強く感じることは減るはずです。

「自分なんていてもいなくてもよい存在だ」「自分なんていないほうがよいのだ」という気持ちと、「居場所のなさ」は深い関係にあります。

また、他人に「居場所」を与えることは、自分の「居場所」にもつながるものです。

ですから、少額の寄付でもよいですし、困っている人を助けるなどでも、なんであれ「与える」行動をすると気持ちの向きが全く変わります。

世界のあちこちにいる、貧困に悩んでいる人たちに「与える」ことができれば、自分もこの世界に「居場所」感を持てるのです。

パーティなどで居場所がなさそうにしている人に、ちょっと話しかけてみる、なども「与える」行動です。

「誰も話しかけてくれない」と受動的に思っていたときとは180度違う感じ方になるかもしれません。

ただし、人にはそれぞれの事情がありますから、皆がよい反応を示してくれるわけではありません。

せっかく話しかけたのに拒絶された、というようなときには、「ああ、何か事情があるのだろうな」と思ってあげれば十分でしょう。

自分の居場所問題ではなく、相手の問題だということです。

私には子どもがいない。自分が死んだ後につながりがない、ぽつんとした感じ。

おそらくこのような感じ方は、何かに衝撃を受けたときに強まるのだと思います。

他人が子どもの話を嬉しそうにするのを聴いたり、家族連れが楽しそうにしている様子を見たりすると、そこから衝撃を受けて、「ぽつんとした感じ」が強く感じられるのだと思います。

衝撃による感じ方は、多くの場合、再び日常生活を続けていくことによって和らいでいきます。

また、案外お勧めできるのは、親のいない子どものために寄付をすることです。

血のつながりはなくても、善意が伝わっていきます。

「次の世代に貢献できた」と思えれば、つながらない感じが改善されるのではないでしょうか。

これは、「居場所がほしければ、与えよう」と同じ考え方になります。

「見返りを期待せずに与える」ことと、「居場所」とは、大きな関係があるのです。

子どもの件に限らず、自分の存在意義が感じられない、というときには、目に見えない人に与えると、温かさと力を感じられると思います。

もちろん、道端で音楽のパフォーマンスなどをしている、「目に見える人」にチップを与えることも、自分の気持ちをある程度癒すと思います。

ポイント:見返りを期待せずに与えると、「居場所」感が得られる。