真実とわざとらしさ

”真実から眼をそらさない”

人生の基本的なところの挫折から眼を背けた人間に食いものにされる人がいる、というのはどういうことであろうか。

たとえば、臆病な男が、仕事がしたくても自分が試されるのを恐れて仕事に挑戦的になれない。
この三十男が、十代の後半なり二十代初めの女の子に恋をして、いろいろと歪んだ価値観を植え付ける。

「男の世界はどんなに汚いものか、その世界にいる人間はゴマスリばかりで楽しいことなど何もない。
卑屈な人間で愛情など平気で裏切っていく。そんな世界で男たちは自らを消耗させていく。
本当に馬鹿なもんだよ」

女の子は、その挫折した男の歪んだ価値観を信じていく。

また、コンプレックスの共有は、女性の側に何か挫折があって、その挫折を認められないでいる時にも起きる。

二人とも「自分は挫折してしまった」ということを感じている。
しかし、どうしてもそれをみとめることはできない。

そこで、「自分は挫折してしまった」という感じ方を意思の力で抑圧する。
その感じ方は無意識へと追いやられるのである。

そして、二人で時代に背を向けて「くだらないなあ」「バカだなあ」「あいつらにはなんにもわかってないんだよなあ」「世の中なんて、本当にいい加減なもんなんだよ、それをあいつらはまったくわかってないんだよなあ」などといいあう。

コンプレックスを共有して時代に背を向けたら、あるのは自己満足だけである。

先に挙げた(参照)
ウェインバーグの家庭の例の場合を見てみよう。
家族を神聖なものと思い、「我が家は一番」と言っていた家庭に何が起きたか。

彼の二人の兄はアルコール中毒になった。

彼は事業に成功したが友人もできず、結婚もできなかった。
ただ、彼だけは自分の家庭の不自然さ、抑圧に気付いて、普通の人間になっていく。

今まで述べてきた”わざとらしい楽しさ””わざとらしい明るさ””わざとらしい笑い声”などは、真実から眼をそらしている人々のものである。

コンプレックスを共有するとは、共同で真実からめをそらしていることなのである。

真実から眼をそらすとは、もちろん抑圧のことである。

コンプレックスを共有した集団の中にいると、外の世界の人々と親しくなることができない。
それは、親しくなることを恐れるようになるからである。

他の者と親密になることは、集団への裏切りのように感じてしまうのである。

われわれに大切なのは、何を抑圧しているかということの反省と同時に、誰とそれを共有しているかということである。

自分が今賞賛し、敬愛している人間をもう一度点検することも必要である。
それは、われわれが自分の抑圧を手助けする人を称賛し、敬愛するからである。
その人が閉鎖的な集団をつくろうとしているか、開放的な集団をつくろうとしているか、それがひとつの目安になる。
分たちだけで閉鎖的な集団をつくり、外の人間をバカよばわりしているとすれば、危険である。

挫折した人間同士で、お互いに挫折から眼をそらしているということもあろう。
あるいは、挫折した人間に巻き込まれて、自分も真実から眼をそらしてしまっているということもあろう。

われわれが無関係にならなければならない人間は、自分をだましていた人間ばかりではない。
コンプレックスを共有していた人間とも、気が付いた時には、無関係にならなければならない。

対人恐怖症、社交不安障害を克服するには”わざとらしさ”を見極める眼を持つことである。