自分で自分が嫌になるとき

自己嫌悪してしまうのは向上心がある証拠

「自分はなんてダメな人間なのだろう」
「こんな自分は大嫌いだ」
と自己を全否定したがる人がいます。

自分をとても卑小な存在とみている人の目には、周囲の人たちが安定した大きな存在のごとく映るものです。

そして、いよいよ自分が小さくみえてくるのです。

そんなときは、”嫌われている自分”と”嫌っている自分”とをしっかり分けて考えるのがよいでしょう。

嫌われている自分というのは、ケアレス・ミスを重ねては「私はなんて不注意なのだろう」と批判され、今晩中に仕上げなければならない仕事を持ち帰りながら誘いを断りきれずに夜更けまで飲んできて、「私はなんて意志が弱いのだろう」とあきれられているその「私」のことです。

つまり、何らかの欠点をもった情けない自分です。

自己嫌悪を感じるからには、これとは別に、批判し、あきれる側の自分、つまり”嫌われている自分”に対して”嫌っている自分”がいるはずです。
これは、かなり立派な存在なのではないでしょうか。
理想をしっかりと掲げ、こうあるべき自分のイメージを漠然とながらももっているからこそ、現実の自分をみて批判したくなるわけです。

この二つの自分が対峙するところに「自己嫌悪」が成り立つのです。

ということは、自己嫌悪というのはかなり高等な存在様式といえるのではないでしょうか。

かえって問題なのは、自分を批判し、嫌悪する側の自分が欠落している人のほうです。
自分を嫌悪する自分がある限り、そのせめぎあいをバネにして成長しつづけることができます。

自分の長所・短所を書き出して採点してみよう

この世の中を生きる限り、必ず自己嫌悪が生じるものです。

ためしに世間で活躍している人たちを考えてみればよいでしょう。
新聞や雑誌をめくれば、現在活躍中の政治家・実業家・芸能人などの記事が目につきます。
なるほど優れた才能や人並みはずれた努力が感じられるというケースもありますが、策略をめぐらし競争に勝つという図式を当然のごとく受け入れなければ今の自分はなかったというケースも少なくないようです。

自分の長所・短所を書き出して採点してみよう

この世の中を生きる限り、必ず自己嫌悪が生じるものです。
ためしに世間で活躍している人たちを考えてみればよいでしょう。

新聞や雑誌をめくれば、現在活躍中の政治家・実業家・芸能人などの記事が目につきます。
なるほど優れた才能や人並みはずれた努力が感じられるというケースもありますが、策略をめぐらし競争に勝つという図式を当然のごとく受け入れなければ今の自分はなかったというケースも少なくないようです。

きっと彼らも、自己嫌悪にさいなまれながら成功者としての位置にたどりついたに違いありません。
領空を侵犯されたとして他国の飛行機を撃ち落とすのは、動物のナワバリ争いと同じです。
首相や社長の座をめぐる争いや、企業間の業界トップの座をめぐる争いなどは、サル山のボスの座をめぐる争いと同次元のものです。
当事者として自己嫌悪を感じないほうがおかしいでしょう。

誰にも「自分が嫌いだ」という思いにかられることがあって当たり前なのだということがわかるでしょう。

それは向上の意欲の表れなのです。

だからといって、自分を全否定するのは、あまりに自分がかわいそうです。

修学旅行の晩に中学生や高校生がよくやる余興に「人気投票」があります。
クラスの異性の魅力度を採点するのです。
もしかすると、あなたもやったことがあるかもしれません。

その際、念の入ったものだと、総合的印象として好き・嫌いを問題とするだけでなく、分析的にみていくことをします。

優しさは?頭の良さは?運動神経は?顔は?スタイルは?声は?ファッション・センスは?・・・と各要素ごとに採点していきます。

そして、全得点をたして総合順位を出すのとは別に、要素ごとに全投票者の合計点を計算し、各部門賞を出すのです。
その結果、見かけがパッとしないから目立たなかったけれども、A子はみんなから優しい女の子との評価が高いのだなあ、と新たな発見をしたりするわけです。

あまり趣味のよい遊びとはいえません。
でも、これを自分自身に試してみるのはべつにかまわないでしょう。
全体的印象として自分を嫌い、自分を全否定する傾向のあった人も、部分的自己のチェックにより新たな発見ができるはずです。

自分のどこが特にダメなのかを明確にし、そこを重点的に批判します。
自分のなかのよいところは正当に評価してほめてやり、許せる部分は大目にみてやることにしましょう。

こうすることで、自己嫌悪は成長のバネとして正常に機能することができるのです。