自己肯定感を高めるには他人をリスペクトする

リスペクトの本当の意味

自己肯定感が低いと、様々な問題が起きてしまい、幸せな人生から遠ざかってしまいます。

では、どのようにすれば自己肯定感を高められるのでしょうか。

そこでカギとなるのが、「他人をリスペクトする」ということです。

他人をリスペクトできれば、自分のこともリスペクトできる、つまり自己肯定感が高まる。

「リスペクト」の意味をきちんと共有しておかないと、全く逆方向の話になりかねませんので、ここでよく見ておきましょう。

リスペクト(respect)を単に英和辞典で訳すと、「尊敬」という言葉がまず目を引きます。

ここでお話ししていくリスペクトは、むしろ「敬意」なのですが、せっかくですから、「尊敬」についても考えてみたいと思います。

「尊敬」を広辞苑で調べると、「他人の人格・行為などを尊びうやまうこと」とあります。

これは、人格や行動、業績などに対して「尊い」「優れている」という評価を下し、敬う、という意味になります。

この種の「尊敬」は、社会のあちこちにあります。

斬新な企画力と粘り強い交渉力でヒット商品を作った上司を尊敬している。

優れた人格や優れた業績を持つ人に対して、尊敬の念を抱き、できることなら自分もああなりたいけれども無理だろうな、などと思ったりするのは、多くの人になじみがある感覚だと思います。

実は、このような感覚は、同じ「リスペクト」の訳語であっても、ここでお話しするリスペクトとは対極にあるものです。

優れているから尊敬する、という考え方では、自分から見たときにとても優れているとは思えない、あるいは社会的に「優れている」という評価を得ていない人に対して、尊敬の念を抱くのは難しいでしょう。

無理やり長所を見つけ出して「尊敬しています」と言っても、虚しいものですし、不誠実です。

このように、「優れている」という条件のもとに「尊敬している」という感覚を持つものを、ここでは「条件つきのリスペクト」と呼んでおきましょう。

ポイント:「〇〇だから尊敬」は条件つきのリスペクト

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「無条件のリスペクト」とは?

一方、「〇〇が優れているから」という条件なしに、まさに無条件で、その人の存在に対して感じることができる「リスペクト」があります。

これは、日本語で言えば、「尊重」「敬意」ということになると思います。

この世の中では、それぞれの人が、いろいろな事情を抱えて生きています。

生まれ持った性質、体質、能力も違えば、育てられた環境も違い、周囲にいた人たちも違い、経験してきたことも違うでしょう。

そうした事情の中、それぞれができるだけのことをして生きています。

もちろん、「できるだけのことをしている」ようには見えない人もいるかもしれません。

努力しないのに、えらそうなことばかり言う上司を見下してしまう。

実際に、このような上司を「尊敬」することは難しいでしょう。

しかし、その人が努力しない(ように見える)のは、生まれつき集中しにくい性質なのかもしれませんし、虐待やいじめの結果として集中しにくくなっているのかもしれません(集中困難は、トラウマやうつ病の症状の一つです)。

あるいは、過去に努力したことが報われず、その心の傷が癒えていないのかもしれません。

なんの理由もなく努力しない(ように見える)人などはおらず、よくよく聴いてみるとみると、努力できない(ように見える)理由があるのです。

また、それなのにえらそうなことばかり言う、というのにも理由があるはずです。

あまりにも自己肯定感が低いために、一生懸命自己を正当化して虚勢を張っていないと社会的に自分を保てないのかもしれません。

下手に出たら人から侮られる、と思っているのかもしれません。

いずれも、持って生まれた性質や、ここまでに体験してきたことの影響を受けて、今があるのです。

そうした事情を知ると、「いろいろと大変なことがあるのに、その人なりの試行錯誤をしながら頑張って生きているのだな」という感覚を得ることができるかもしれません。

これが、無条件のリスペクトです。

その人が何かに優れていなくても、頑張って生きている、ということに敬意を感じることができる。

敬意とまではいかなくても、その存在を「努力しない人間には意味がない」と切り捨てることなどせず、「かけがえのない存在」として尊重できる。

あるいは、傷つきながらも、不器用であっても、その人が生きていることに愛おしさを感じられる。

そういった感覚です。

そうは言っても、関わる人の事情をすべて知ることなど不可能です。

それぞれの事情は、本人にしかわからないわけですから。

しかし、「事情があってのことなのだ」と思うことは、誰に対しても可能です。

つまり、無条件のリスペクトとは、「〇〇だから」とか「〇〇した人は」などと条件をつけずに、ありのままを無条件に受け入れる、ということ。

「おかしいのではないか」「こうしたらよいのではないか」などと、評価を下したり、相手を変えようとしたりすることなく、「いろいろな事情の中での現状が、これなんだろうな」と思うことなのです。

「ええ!?神様でもないんだから、そんなことできない!」

「なんでそんなことをしなければならないの?」

と思うかもしれませんよね。

これを、「どんな相手も受け入れるべき」と道徳の教科書のように読んでしまうと、確かに苦しくなるでしょう。

しかし、ここで思い出していただきたいのが、目的です。

それは自己肯定感を高めることでした。

「無条件のリスペクト」という考え方を知ることが、自己肯定感を高めるカギになる、ということだけここでは押さえておいてください。

あの人の現状には、いろいろな事情があるんだろうな。

そう思えるとき、私たちはどんな人に対しても、優しくなれますし、リスペクトすることができます。

相手のことを「かけがえのない存在」として尊重すること。

社会的な立場や業績などとは関係なく、それぞれが与えられた事情の中で一生懸命生きているのですから、すべてが貴重な存在なのです。

ポイント:「〇〇だから」という条件を手放す

大切なのは「評価を下さない」ということ

「あの人は〇〇ができるから尊敬する」というのは、もちろん悪いことではありません。

しかし、先ほどお話ししたように、それはあくまでも「条件つきのリスペクト」です。

どんな人にも優れたところがあるのだから、そこを見つけて、人を好きになるように心がけている。

こんなふうに「どんな人にも優れたところがある。それを見つけなさい」と育てられた人も多いと思います。

しかし、どう見ても、その「優れたところ」が見つからない、という場合も少なくないのではないでしょうか。

そもそも、「優れたところ」を見つけるためには、「その人に評価を下すこと」が必要となります。

「あの人は優れた人だ」ということ自体が、すでに評価です。

自分が下した評価があって(あるいは社会的な評価に自分が同意することによって)、それに基づいて尊敬の念を抱く、というのは「条件つきのリスペクト」です。

つまり、「条件」と「評価」は同じようなものなのです。

ポイント:評価を下すから、リスペクトできなくなる

「評価」を手放すと、何が見えてくるのか?

一方、無条件のリスペクトは「評価」を基本としていません。

どんな事情があれ、その人がこの世に生まれてきて、その人なりに生きてきた、という事実そのものを尊重するのです。

もちろん、その生き方は、自分から見れば理想的なものではないかもしれません。

あえて、その生き方に「評価」を下そうとすれば、「とても尊敬できない」ということになるかもしれません。

しかし、そのような「評価」をいったん手放して、様々な事情に思いをはせてみてください。

「同じような条件を与えられたら、自分だって同じようになっていただろう」と想像することは決して難しくないでしょう。

自分にはなんの責任もない条件(生まれ持ったもの、生育環境、経験してきたこと)によって生き方を縛られる、ということは、本人にとっても大変なことです。

「生きづらい」と言う人たちは、まさに、そのような条件を抱えていると言えます。

逆に、人から尊敬されるような人は、それなりに、生まれ持ったものに恵まれていたり、身近な人や体験に恵まれていたりすることが多いものです。

私は恵まれた環境ではなく、むしろ逆境の中で頑張ってきました。いくら事情があっても、頑張れない人をリスペクトできません。

「逆境なのに頑張った」という人は、能力の他に、「頑張る力」や「楽観性」に恵まれていたとも言えるでしょう。

人との出会いに恵まれていたのかもしれません。

同じ条件で育てば、やはり多くの人が同じように、「頑張れる人」になれることでしょう。

このように、人は、自分では左右できないことによって、生き方の多くを規定されているのです。

にもかかわらず、「〇〇ができるかどうか」というところだけに注目してしまうと、まるでその人が怠け者であるように見えたり、ダメな人間であるかのように思えたりするでしょう。

ポイント:人はみな自分では動かせない”条件”に縛られている

「できない」裏には”事情”がある

私の彼は全く向上心がない。仕事もサボることばかり考えているし、家でもだらだらしているし、注意しても「自分はこれでいいんだ」と開き直る。とてもリスペクトできない。

この彼のように、口先では「自分はこれでよい」と言う人もいるでしょう。

そういう人は、あまりにも自己肯定感が低いため、現状よりも向上するなどということがイメージできないのかもしれません。

質の高い人生を送る資格など、自分にはないと思っているのかもしれません。

あるいは、今以上を望んでまた絶望するのが怖いのかもしれません。

とにかく様々な事情があるのです。

たとえば、パラリンピック。本来スポーツをする上で多大なるハンディを背負った人たちが、最大限の力を尽くし、見る人に感動を与えます。

成績だけを見れば、身体障がいのない人たちのオリンピックに比べて「成績が悪い」という評価になるでしょう。

しかし、そんな「評価」にとらわれる人がいるでしょうか。

むしろ、「逆境の中、本当に頑張っている」とリスペクトする人が多いと思います。

このように、パラリンピックの場合は身体的な障がいなど、「様々な事情」が見えやすいでしょう。

しかし、心の問題の場合はそれが見えにくいので、「怠けている」などと勘違いされやすいだけなのです。

確かに、中には、「悪者」としか言えないような人もいます。

嘘をついたり、人の厚意につけ込んだりして利益を得ているような人です。

でも、その人がそんな人になったことには、やはり事情があるでしょう。

「人は裏切るものだ。自分の得だけを考えなければ生きていけない」という弱肉強食の考え方を植え付けられて育ったのか、あるいは、「正直者は損をする」ということを身にしみて感じるような環境にいたのか・・・。

もちろん、一部には、生まれつき、共感する能力が低い人もいて、彼らは他人の苦しみに鈍感です。

しかし、そういう人たちであっても、環境の影響を全く受けてこなかったわけではありません。

ですから、本当に「人の心がわからない、残酷な人」と思える人は、先天的な要素に、後天的な要素も加わった人、つまり、人間として人とのつながりや温かさを楽しんで生きることを許されていない気の毒な人、と言うことができます。

彼らだってなんらかの条件が少しでも違っていたら、違う人生が展開していたかもしれないのです。

ポイント:人は向上したい生き物である

「ありのまま」を受け入れる、ということ

さて、世の中には実に様々な人がいるのですが、よくよくその人の話を聴いてみると、それぞれに理由があるものです。

その「理由」を知ることができれば、現実は現実として受け止めることができますから、相手の「ありのまま」を受け入れることができるでしょう。

しかし、その事情を「よくよく聴いてみる」ことができる相手は決して多くないものです。

多くの人について、私たちはその事情を知ることができません。

それでも、その人がそんな振る舞いをするには、なんらかの事情があるということは事実です。

ですから、その事情がわからなくても、「何か事情があるのだろうな」と思うことが合理的なのです。

「何か事情があるのだろうな」と思うことができれば、「この人はこんなふうに振る舞うべきではない」などという考えが起こらなくなりますので、相手の「ありのまま」を受け入れることができるようになります。

「ありのままを受け入れる」というのは、「内容を肯定する」こととは違います。

他人への暴力など、どう考えても肯定できないことはあります。

「暴力を肯定できない」ということと、「その人の事情を知れば、こんなふうになったのも仕方がないと思う」ことは問題なく両立します。

「ありのまま」の受け入れというのは、現実に逆らわないということ。

現実にはそこに至る事情があるのであって、それは受け入れるしかない性質のものだ、と認識することなのです。

「誰かを尊敬している」という場合、それは、「〇〇に優れているから」などという「評価」が決め手になります。

しかし、「様々な事情がありながら、一生懸命生きている存在」へのリスペクトであれば、評価も条件もいりません。

つまり、相手に対して「〇〇に優れているから」などという評価を下している限り、万人をリスペクトすることはできないけれども、評価を手放して、それぞれ事情があることをイメージできれば、むしろ制約の多い中でも一生懸命生きている相手をリスペクトすることはできると思うのです。

その感じ方は、「愛おしい」というものであったり、「力強さを感じる」というものであったり、「誠実さ」であったり、「本当によく頑張ってきたね」というねぎらいであったり、様々でしょう。

暴力など、明らかに他害的な行動をとっている人に対しては、「こんなふうにしか振る舞えないなんて、気の毒に」という感じ方かもしれません。

暴力をふるう人で自己肯定感が高いという人は見たことがありません。

詳しい事情はわからなくても、自己肯定感が極端に下がるような人生を歩んできたのでしょう。

そして、暴力がふるわれるときというのは、実際には、暴力をふるっている本人が「助けて」という心の悲鳴をあげている場合が多いもの。

本来助けを求めているだけなのに、助けの求め方を知らなかったり、不器用すぎたりするために、暴力という行動をとってしまうのです。

助けが必要なのに、それを自らぶち壊しにしてしまっている、という姿を見れば、「気の毒に」と感じることができるでしょう。

こうして見てくると、無条件のリスペクトというのは、相手の言動に対して抱くものではなく、人間という存在の根源についての感じ方だと言えます。

前進する生き物である人間の力を感じたり、何度も失敗しながら人を愛そうとする姿勢を感じたり、悪条件の中、不器用ながらもなんとかしようとしているエネルギーを感じたり、ということなのです。

ポイント:頑張っている存在自体をリスペクトする

リスペクトされると、どんな人でも変わっていく

さて、「無条件のリスペクト」とはどういうことものか、少しずつイメージできてきたのではないでしょうか?

次に、「無条件のリスペクト」を向けられたとき、人はどう感じるのか、を見ていきます。

それは基本的に自分の「ありのまま」を受け入れてもらえる体験、ということになります。

何を話しても大丈夫、余計なアドバイスなしにじっくりと話を聴いてもらえる、他の人だったら「え?」というような反応を示すところでも穏やかに聴いてもらえる。

「大変だったね」というような、暗黙の温かさがある。

こんなところから感じ取れるのは、やはり「安全」と「温かさ」でしょう。

よく、「あの人にはなんでも話せる」「あの人には安心して話せる」「あの人は話しやすい」と言われるような人は、自然と相手をリスペクトしているのだと思います。

もちろん、たとえ相手からリスペクトされていたとしても、人によっては、様々な事情から、「安全」や「温かさ」を感じにくい、という場合もあります。

今まで人からひどく虐待されてきたような人は、そうそう簡単に他人を信用できるようにはならないからです。

「今は優しそうな顔をしているけれども、どこかで裏切るかも」

「話を聴いて、共感している素振りだけれども、心の中では馬鹿にしているはず」などと、警戒心や不安を持って相手を見る癖がついてしまっていると思います。

だからと言ってその人をリスペクトすることに意味がないわけではありません。

むしろ、だからこそリスペクトが重要なのです。

その人がそれまでに見てきた人間像は、リスペクトの「リ」の字もないような性質のものだったと思います。

そんな人でも、リスペクトの気持ちを持って接し続けていけば、だんだんと、新しい文化に慣れてくるものなのです。

リスペクトが通用しないように見える人ほど、リスペクトを必要としているのです。

ポイント:心を閉ざしている人ほど、受け入れられたい

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友達がいても寂しいのはなぜ?

友達が少ないので、いつも寂しい。

「あの人は友達がたくさんいていいな」と思うようなとき、私たちは「友達の数」の少なさが自分に寂しさを感じさせていると思いがちですが、本当にそうでしょうか。

実は、これもリスペクトの問題として見ることができます。

そもそも、「友達の数」は、「寂しさ」を感じる際の、本質的な原因ではありません。

「友達はたくさんいて、人気者ですらあるのに、いつも心の中は寂しく孤独感でいっぱい」という人はつねに存在するのです。

友達がたくさんいるのに、なぜ孤独なのでしょう。

友達の数だけ増やそうとすれば、どうしても自分を「作る」という作業が必要になります。

友達がどれほどいても、「本当の自分」「本当の気持ち」は誰にも話せない。

本音を話して嫌われると困るので、自分の気持ちを隠したり、作ったりして、「好かれそうな自分」を演じている、という人が多いのではないでしょうか。

「本当の自分」ではなく、「作られた自分」で人と関わっている限り、そこに孤独感があるのは当然です。

「本当の自分」は、否定されたまま、誰とも関わることができていないからです。

SNS(ツイッターやフェイスブックなど、インターネット上のソーシャル・ネットワーキング・サービス)時代の今は、そこでどれほど多くの人に支持してもらっているかを気にする人が少なくないと思います。

SNSでたくさんの人に支持してもらっている人を見ると、「あの人は人気があっていいな」「あの人は人から重要視されていていいな」という気持ちになります。

また、自分のSNSのフォロワーや「いいね!」の数が少ないと、自分が否定されているような、自分は人間としての価値が低いような、感じがするものです。

そんなときに、自分の価値が低いように感じないためにはどうしたらよいのでしょう。

ここでも、自分でなく相手に目を向けてみたいと思います。

寂しさを感じるときは、まず、「周りにいる人をリスペクトする」ことから考えてみて下さい。

相手をリスペクトするのであれば、こちらもできるだけ誠実でいたいもの。

実は、自分を「作って」人気者になろうとしている、ということは、相手をだましているということになります。

それは、相手をリスペクトする態度とは全く違うものです。

また、「こういうふうな姿を作っておけば好かれるだろう」と、相手を見透かしたような姿勢も、リスペクトとは言えないものです。

さらに、「友達が少ないから」と、相手を「数」として見ているところも、気になります。

理解してくれる人がいるのであれば、親しい人は本当は一人でもよいはず。

ところが、「数」を競うようになると、相手は単に自分を引き立たせてくれる材料に過ぎなくなってしまうのです。

自分の人気度を示すための「頭数」として利用しているようなものです。

これも、リスペクトを欠く姿勢、と言えます。

自己肯定感が低いと、相手をリスペクトすることができませんし、相手をリスペクトすることができない人は、概して自己肯定感が低いものです。

ですから、相手をリスペクトできない人は、どれほどSNS上の友達がいっぱいであっても、自分を肯定できず、寂しさを感じるのは当たり前なのです。

また、SNSではなくリアルな友達の場合でも、相手に好まれそうな人間像を演じていると、結局「作っている」わけですから、同じことになります。

相手に好まれそうな人間像を演じる、と言うと、あたかも相手をリスペクトしているかのように見えるかもしれませんが、実際は逆です。

相手をリスペクトするということは、誠実に関わるということ。

しかし、自分を作って、「これなら好きでいてくれるでしょう」という姿勢でいることは、誠実な関わり方ではありません。

相手の「ありのままの自分を受け入れてくれる能力」、つまり「人を許容する能力」をはじめから低く見積もっているようなものだからです。

むしろ自分の欠点を正直に話す方が誠実だと思います。

もちろん、相手の事情によっては、正直に話すと攻撃してきたりうるさく干渉してきたりする、などという場合もあるでしょう。

そんな場合は、自分を「作る」のではなく、距離を置くようにしていくほうが、自己肯定感を損ねずにすみます。

ポイント:嘘をつけばつくほど、寂しくなる

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「決めつけ」から自由になる

でもやっぱり、いい加減な人はリスペクトできない。

リスペクトとは「ありのまま」を受け入れること。

なんであれ、決めつける姿勢(つまり評価を下す姿勢)はリスペクトとは対極にあると言えます。

「あの人はいい加減な人だから」「あの人は怠け者だから」・・・というふうに人を決めつけてしまうと、リスペクトからは遠ざかってしまうのです。

一方、「嫌な人」「〇〇な人」のような「決めつけ」を手放して相手を見ると、多くの場合、「頑張っている姿」が見えてきます。

たとえば、「どうしてこの人はこうなんだろう」「なぜこうできないんだろう」と思う人がいたとしましょう。

そんな人に対して、「どうせやる気がない」「どうせ甘えてる」と「決めつけ」ることをせず、その人の事情に耳を澄ましてみると、その人なりに頑張っている姿が見えてくるのです。

多くの人が、症状のためにできないことについて、「自分が悪い」と自分を責めているものです。

そこで、今何ができないのか、それについてどう思っているのかを聴いていきます。

そのことについてクライアントの家族等が理解を示すと、「相手の不適切に思える言動は、相手の事情のため」という見方が容易にできるようになっていきます。

他の人間関係でも「決めつけ」を手放して人を見ると、つねに「頑張っている姿」が見えてくるのです。

子どもなどは典型的な例です。

子どもが嘘をついたとき、「嘘をつくなんて、人間として最低だ」と決めつけずに事情をよく聴いてみると、失敗したけれども修復の仕方が分からなくて、唯一知っている「嘘をつく」という手法で乗り越えようとしたなど、心細いながらも建気な姿が見えてきます。

人間とは、本来頑張って前進する生き物なのだと思います。

誰もが与えられた事情の中で頑張っている。

傷ついて一見立ち止まるようなときがあっても、「前進したい」という気持ちもどこかにあって、そのジレンマの中で苦しんでいる。

あまりの悪条件に見舞われて、「前進したい」という気持ちを見失いながらも、どこか諦められないでいる。

そんな姿が見えると、「どうして何も努力しないの?」と思っていた気持ちは消え去り、「苦しい中よく頑張ってきたね」という気持ちになれるのです。

これこそが、相手をリスペクトする姿勢です。

もちろん、どんな事情があろうと受け入れられない「行為」や「態度」はあります。

そういう「行為」などについては、適切なところに訴え出てもよいのです。

事情があるからと言って、その結果をすべて引き受ける必要などありません。

ただ、ある「行為」に対処する際にも、「とにかく嫌」「信じられない」「人間とは思えない」という気持ちでいるのと、「あんなに異常な行動をとるようになったのは、よほど深い事情があるのだろうな」と思えるのとでは、そこから受けるストレスがずいぶん違うと思います。

それがどれほど正当なものであっても、怒りや嫌悪感というネガティブな気持ちは、抱えているだけ自分を傷つけるものです。

毒素を心身にため込むようなもの。

ですから、「相手には事情があるのだな」という見方をすることは、自分にとってもデトックスになると言えます。

対処が必要なことがあれば対処しつつも、毒素はさっさと自分から出してしまう、という姿勢をとれるようになってくると、うまく自分を大切にできているという感覚を持つことができ、自己肯定感も高まってきます。

ポイント:「相手に事情がある」と気づくと、自分も癒される