苦しみから逃れる心の無意識に気付く心理

苦しみの心理

精神分析学の創始者ジグムンド・フロイドは悲観的に「人は常に苦しみたがる」と言う。

それを聞けば多くの人は「私は苦しみたがっていない」「私は幸せになりたい」と思うだろう。

同じようなことを言っているのはフロイドばかりではない。
カレン・ホルナイも、「人は不幸に伴う感情にしがみつく」と言う。
「拡散した外化」である。
心の中で起きている心理過程を、その人自身の外側で起きていることとして経験する傾向である。

たとえば、ある人は心の底でやりきれない虚しさを感じている。
生きる虚無感にたえられない。
その自分の人生の虚しさを直接感じるのではなく、友人の死や日常生活を通して感じている。

友人で社会的に活躍していた人を僻んでいる。
その友人が死ぬ。
すると「死んでしまえば、社会的成功なんて、どうってことない」と言う。
どこか心が安心する。

いろいろな友人の人生を解釈することに自分の虚無感が表現される。
いろいろな人生があったけれども、結局人生なんて「どうってことない」と解釈することで、自分の人生の虚無感を防衛する。
そのことで、かろうじて自分をこの世の中につなげている。

こういう場合でも多くの人は「私は不幸に伴う感情にしがみつかない」と言うだろう。

しかし、肉体的な病気と違って、心理的な病気は「正しく」意識するのは難しい。
多くの人は自分の心を間違って解釈している。

誰にでも理解できる病気と理解できない病気がある。

39度の熱が出た。
誰でも病気だと理解できる。
しかし心理的な病気は違う。

たとえば、依存症である。
依存症は「否認の病」ともいう。
ギャンブル依存症があっても「自分はギャンブル依存症ではない」と言い張る。
だから、ギャンブル依存症の治療には、本人ではなく周囲の人が相談に来ることが多い。

心理的な病については本人が「私は健康」と言い張りやすい。
肉体的な場合は違う。
39度の熱で「私は健康」と言い張り、寒い中をジョギングする人はいない。

「人は常に苦しみたがる」「人は不幸に伴う感情にしがみつく」という言葉を聞けば、「私は違う」と言うかもしれない。
しかし残念ながら、その通りなのである。

意識では「人は常に苦しみたがる」「人は不幸に伴う感情にしがみつく」とは思っていない。
しかし「無意識」ではそう感じている。

フロイドがなんと言おうと、カレン・ホルナイがなんと説明しようが、多くの人は、「人は常に苦しみたがっている」と思っていない。
意識ではどうであれ、自分が無意識で苦しみたがっていることに人は気がつかない。

しかし、自分の意識では「幸せになりたい」と願っているが、無意識では自分が苦しみたがっていることに人は気がつなかにかぎり、死ぬまで幸せにはなれない。

心の奥底にある「本当の痛み」に目を向ける

誰でも苦しみたくはない。
自分だって苦しみたくはない。
それなのに自分は呆れるほど苦しみに固執している―。
それに気がつけば世界は変わる。
ところが苦しんでいる人はなかなかそれを認めない。

それは、自分が苦しみにしがみついているということの態度が理解できていないからである。
それは幸せになりたいと思っているということの、生きる態度の本質が理解できていないからである。

多くの人が願っている、「幸せになりたい」という心構えは、それにふさわしい努力をしないで、幸せになりたいということである。
「私は苦しみたがっていない、幸せになりたがっている」ということの意味は、煙を避けて焚火にあたりたいということである。

カレン・ホルナイの言葉を借りれば、”神経症的要求”である。
要求が非現実的で自己中心的なのである。

実は自分は、無意識の世界では「自分の心の葛藤から逃げようとしている」のだと気がつけば、世界は変わる。
自分は真の自分の心の葛藤から目を背けようとしていると気がつけば、未来は変わる。

もし、それに気がついて「自分が、いまのこの苦しみに固執するのはなぜか?」と真剣に考えれば、自分の心の底がわずかに見える。
自分の心の底の底を素直に見つめるとすれば、自分の人生は変わり始める。

もちろん大変難しいことであるが―。

これほどまでに苦しんでもなお、自分が守ろうとしているのはなんなのか?
そしてそれは本当に守る価値があるものなのか?
もしかして、ただのガラクタではないのか?
いや、それ以上に猛毒のものではないのか?
私は何かに騙されているのではないか?
私はなにか妄想を持っているだけのことではないのか?
もしかして「私はただなにかを間違って学習してしまっているのではないのか?」。
ただそれだけのことではないのか?
「人は常に苦しみたがる」というフロイドがおかしいのか?
それとも自分のほうがなにか勘違いしているのか?

自分の「無意識」の心の葛藤に直面するなら、その疑問は溶け始める。

「人生は幸せになるようプログラムされている」という幻想を捨てよ

「人は常に苦しみたがる」「人は不幸に伴う感情にしがみつく」というフロイドやカレン・ホルナイと自分の考え方が違うのは、自分の人生に対する要求が非現実的で、現実無視だからである。

生まれて以来心身ともに虐待されて生きてきて、心の底から「幸せになりたい」と叫んでいる人もいるだろう。
「苦しみたがっている」などとんでもないと思うに違いない。

しかし、人生は幸せになるようにプログラムされているのではない。

そこが重大なところである。

幸せになるようにプログラムされていると”錯覚している人”が多い。

自分には怖いものがある。
恐れているものがある―。
それが、その人の人生の現実である。

それなのに、その人は「自分の人生に怖いものがあってはいけない」とひとりで勝手に思い込んでいる。
自分の人生に怖いものがある「べきでない」と思っている。

その人の根底にある人生観が間違っている。
そういう人は独りよがりの現実無視の人生観に頼って生きようとしている。
肉体的には大人になっても心理的には自立できないまま、皆が自分のゆりかごを「揺するべき」と思い込んでいる。

それが間違った思い込みであることに気がつかないし、気がつきそうになると、無意識が抵抗して認めない。

そして、「人生は幸せになるようにプログラムされているのではない」という現実を受け入れて生きている人の努力の結果としての人生と、わがまま放題で自己中心性の自分の人生の結果と比較して、自分の人生に失望する。

母親の愛に育まれて成長する人もいれば、冷たい母親に「お前なんか産まなければよかった」
といじめ抜かれて成長する人もいる。

父親から自立に向かって励まされて成長する人もいれば、父親から自分の存在を否定されて「お前なんか生きている価値がない」としつこく嫌味を言われながら、心身ともに殴られながら成長する人もいる。

自分がいなければ、親は間違いなく痛い目に遭っていたというほどすごいサディズムに痛めつけられながら、自らはマゾヒズムの役割を背負って成長した人もいる。

地獄の火あぶりの試練に耐えることでしか生き延びられない人もいる。
愛のあるコミュニケーションの中で成長した人もいる。

人はそれぞれ違った運命を背負って生まれてくる。

自分の運命を生きることが、自分の人生を生きることである。

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無意識に気付く心理

あなたが変われないのは、「変わらないと決めている」から

人は自分の心を誤解している。
その例として、人の意識と無意識は違うという実例を挙げたい。

ある本に、ジェイという薬物依存症患者の話が出ている。

彼は母親といるとき、なぜだかわけが分からず不快であった。
なんとなく不愉快なのである。
自分の人生はうまくいかない。
彼はうつ状態に陥り、このような環境の中で彼は薬物を始めた。

彼はもしニューヨークの母親のところに行けば、同じことが起きることを怖れた。

それゆえに彼は病院を出るときはカリフォルニアの父親のところへ行くことを望んだ。
そして行くことに決めていた。
病院を出る3週間前に母親にはそのように手紙を書いた。

父親はカリフォルニアに、母親はニューヨークにいたのである。

しかし、結局彼はこのプランを破棄した。
病院を出るとき、彼は意識ではカリフォルニアの父親のところに行くことになっていた。

しかし、無意識ではニューヨークの母親のところに行こうとしていた。
もちろん彼はそれに気がついていない。

彼はよい判断をしていたにもかかわらず、ニューヨークの母親のところに行ってしまった。

彼は口ではなんと言おうと、無意識では「私は変わりたくない」と、変わることを拒否していた。

人は自分の無意識を意識できない限り、無意識には勝てない。

しかし母親はボーイフレンドと住んでいて彼の部屋はなかった。
そして彼は祖母のところに住む。

やがて母親がボーイフレンドと上手くいかなくなって彼は母親のところに戻る。
そして退屈し、不幸であり、再び薬に戻ってしまった。

これといって特別の理由がない。
あるのは、母親と息子のナルシシスティックな束縛関係である。

ジェイは祖母のところにいたときには働いて、健全な人間関係を築いていた。
でも母親のところに戻る。
そしてドラッグを始める。

自分を無条件にかばってくれるもの、自分と第一次的につながっているもの、そうしたものから離れることはつらくてできない。
しかしつながっていることもまた不快になってくるのである。

「いつもダメなほうへ行ってしまう人」はエネルギーの使い方を間違っている

自分の中にある「自分が成長することを妨害する力」。
それがいかに強いかということに、私たちは気がついていない。
自分の「退行欲求」の強さに気がついていない。

ここが神経症的傾向の強い人の最大の問題である。

不幸になる人は自分のエネルギーの使い方を間違えている。

自分を消滅する方向にエネルギーを使う。

それに気がついてくれば、人々は幸せに向かって歩き始められる。

世界はもっと平和になる。

フロイドは「無意識」が意識に上がることに抵抗することを「レジスタンス」と言った。
その力のものすごさに悩んでいる人自身は気がついていない。

この記事は、自分の心を正しく理解するための記事である。
無意識にある「成長を妨害する力」を理解するための記事である。

神経症的傾向が強い人は意識では、自分の神経症を本当になおしたいと思っていることもある。

ところがなおしたいと思っているのは”現象”である。

たとえば、クヨクヨ悩む。
クヨクヨ悩む性格をなおしたい。

しかしそれは現象である。
それはおなしたいが、無意識の隠された怒りはなおすつもりはない。

原因はそのままで、結果をなおしたいという願いである。
食べたいだけ食べるが、太りたくない。
肥満は解消したい。
しかし適正な食事や運動はしたくないということである。

そこで「自分は本当になおしたい」と思っていると思ってしまう。
確かに意識の領域では「自分は本当になおしたい」と思っている。

人と仲良くしたいが、自己中心的人柄はなおさない。

病気をなおしてくれ。
それに嘘はない。
しかし「手術は嫌だ」と言うようなものである。

「自分のなにが問題なのか?」を理解すれば人生の先は輝いている。

まわりの人と上手くいかないのは、無意識にある独りよがりの正義感かもしれない。
意識の領域では正義感でも、無意識の領域では復讐心であるというだけのことかもしれない。

「私はこう思っている」ということと、「私が本当にそう感じている」こととは違う。

そのことに気がつくだけで、行き詰まった人生が拓ける。

「もし彼らが自立したいなら、そして過敏に傷つきたくないなら、あるいは人々に愛されたいなら、自分の自分に対する態度を変えなければならない。
彼らはそれを理解することを無意識に拒否している。」

ここで理解してもらいたいのは、自分は何を無意識に拒否しているのかということである。