嫌悪の言葉が嫌悪の感情を引き出す恐怖
言葉の使い方を誤ると、嫌いな人を、ますます嫌いになっていく。
また、言葉の力を活かすと、逆に、嫌いな人でも、好きになっていく。
その意味である。
では、なぜ、そうしたことが起こるのか?
言葉には、不思議な力があるからである。
すなわち、「嫌悪の言葉」は、「嫌悪の感情」を引き出し、強化する。
逆に、「好感の言葉」は、「好感の感情」を引き出し、強化する。
言葉には、その不思議な性質があるからである。
心理学の分野では、しばしば、次の格言が語られる。
人は、嬉しいから、笑うのではない。
笑うから、嬉しくなるのだ。
これは、現代の心理学が認める、一面の事実である。
すなわち、人間の「心」(心理的状態)と「身」(身体的行為)とは、実は、表裏一体のものであり、人間には、「心が動く→身が動く」という性質だけでなく、「身が動く→心が動く」という性質も、同時に存在する。
例えば、ある人が、「これから、あなたの人生にとって、とても大切な話をしましょう。心を整えて聴いてください」と言ったとする。
すると、我々は、誰もが、ごく自然に、まず「体の姿勢」を整える。
背筋を伸ばす、手を前で組む、椅子の座り方を正すなど、まず「体の姿勢」を整え、そのことによって、「心の姿勢」を整える、ということを行う。
なぜなら、我々は、「身」を整えることによって、「心」も整うということを経験的に知っているからである。
また、宗教的技法においては、道元の「只管打坐」という言葉、すなわち、「ただ、坐れ」という言葉に象徴されるように、まず、座禅という「身体的な行為」に徹することによって、「心理的な状態」を、禅定の状態にしようとする。
これも、人間の「心」というものをある状態にするためには、「心」そのものに直接働きかけるよりも、まず、「身」に働きかけることが、「心」の状態を変える最も効果的な技法であることを知っているからである。
多くの宗教的技法が、身体や言葉を使った「修行」を重視するのは、それが理由である。
こうした人間の「心」と「身」が表裏一体のものであり、「心が動く→身が動く」という性質だけでなく、「身が動く→心が動く」という性質が明確にあるということは、心理学の分野だけでなく、哲学の分野では、メルロ=ポンティの「身体」の思想、宗教の分野では、「心身一如」という言葉として広く認められている。
そして、この「身」と「心」の関係は、「言葉」と「心」の関係においても、同様である。
すなわち、人間には、「心が動く→言葉を語る」という性質だけでなく、「言葉を語る→心が動く」という性質もある。
先ほどの格言に倣えば、次の言葉も、一面の事実である。
人は、相手を嫌いになるから、嫌悪の言葉を語るのではない。
嫌悪の言葉を語るから、相手を嫌いになるのだ。
人は、相手を好きになるから、好感の言葉を語るのではない。
好感の言葉を語るから、相手を好きになるのだ。
では、なぜ、「身」と「心」の関係だけでなく、「言葉」と「心」の関係においても、同様のことが起こるのか?
なぜ、嫌悪の言葉を語ると、相手を嫌いになり、好感の言葉を語ると、相手を好きになるのか?
三つの理由がある。
言葉は、身体を通って心に繋がる
「言葉」とは、そもそも、「口」や「舌」、ときに「下腹」という身体的な部位を動かすことによって語られるものであるため、実は、我々が思っている以上に、身体的な性質を持っている。
分かり易い例を挙げれば、スポーツ競技で、最大のピンチやチャンスのときなど、選手が下腹に力を入れて、大声で「ファイト!」と自分自身に向けて叫ぶのは、「口」「舌」「下腹」などの身体を通じて、「プレッシャーに負けそうになる自分」や「弱気になりそうになる自分」の「心」に働きかけている場面である。
これは、「心」に「ファイト!」という気持ちが沸き上がってきたから、「言葉」として表現しているのではなく、「言葉」によって「心」に働きかけている場面である。
このように、我々は、「言葉」を使うことによって、ある「心」の状態を引き出すことができるが、そのため、「嫌悪の言葉」を語ることによって、「嫌悪の感情」を引き出してしまうことも起こる。
心の深い世界は、矛盾している理由
言葉は、我々の深層意識の世界に働きかけ、「心」の状態を変える力を持っている。
これは、いわゆる「自己暗示の効果」と呼ばれるものである。
一つの「言葉」を語り続けることによって、自分の心の奥深くに、その言葉の想念が浸透していくという心理的プロセスであるが、この心理的プロセスを意識的、能動的に使おうとすることが、「自己暗示の技法」である。
例えば、スポーツ競技においては、目標に挑戦するとき、「自分はできる」という自己暗示を繰り返すことによって、プレッシャーに負けない強い心や、自分の力を信じる不動の心を引き出す「心の技法」が、しばしば唱導されている。
この場合には、「自分はできる」というポジティブな言葉を語り続けることによって、心にポジティブな想念を浸透させようとしているが、逆に、ネガティブな言葉を語り続けると、心にネガティブな想念が浸透していく。
それが、先ほど述べた「嫌悪の言葉を語ると、相手を嫌いになる」という心理的プロセスでもある。
すなわち、周りに対して誰かに対する「嫌悪の言葉」を語り続けると、その言葉の想念が、自分の心の奥深くに浸透していくため、ますます、その相手を嫌いになっていくという心理的プロセスが存在する。
しかし、「自己暗示の効果」について、こう述べると、読者の中から疑問の声が挙がるだろう。
「自己暗示の効果と、よく言われるが、実際に、『自分はできる』という言葉を、いくら繰り返して語っても、あまり、それが心の奥に浸透していくようには思えない」
実は、こうした印象を持っている読者は、少なくないだろう。
なぜなら、言葉を繰り返し語ることによって、自分の心の奥深くに、その想念を浸透させるということは、「自己暗示の技法」について語っている本が述べるほど、簡単ではないからだ。
では、なぜ、簡単ではないのか?
端的に述べよう。
深層心理は「矛盾」しているからである。
すなわち、我々の深層意識は、表層意識で「こういう想念を深層意識に浸透させよう」と考えた瞬間に、逆の方向に動く傾向があるからだ。
例えば、「深層意識に『自分はできる』という想念を浸透させよう」と考えて、その「自分はできる」という言葉を、何度も、何度も表層意識で繰り返すと、何が起こるか?
実は、深層意識に、逆の想念、「自分はできないのではないか」「できなかったらどうしよう」という想念が蓄積していく。
例えば、受験の前の日に、「明日の試験は、絶対に合格する!」と周りに言うと、必ず、一方で、「駄目だったら、どうしよう」という気持ちが、心の奥深くに生まれる。
そうしたことは、我々の誰もが経験していることだろう。
このように、深層意識というものは矛盾した性質を持っている。
従って、我々が、この「自己暗示の技法」を真に身につけたいのであれば、この深層意識の矛盾した性質を、深く理解しておく必要がある。
では、深層意識への想念の浸透は、どのようなとき、起こるのか?
この問いへの答えは、深層意識の「矛盾」な性質がゆえに、逆説的な答えになる。
表層意識が、深層意識への「想念の浸透」を意図していないとき深層意識への「想念の浸透」が起こる。
すなわち、深層意識への「想念の浸透」は、「この想念を、深層意識に浸透させよう」とか「この想念を、どのようにして深層意識に浸透させるか」などといった形で、表層意識が考えていないときに、むしろ、起こる。
そのため、日常、何気なく使っている言葉は、深層意識に想念として浸透していく。
毎日、「ああ、まただ・・・」「やっぱり、だめか」といった否定的な言葉を口にしていると、その想念は、確実に、深層意識に浸透していく。
そして、同様の理由で、誰かに対する感情的な批判や非難、悪口や陰口は、それを深層意識に浸透させようと考えていないからこそ、「自己暗示の効果」が生まれ、その言葉の想念が、恐ろしいほど、心の奥深くへ浸透していく。
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深層意識で生える自己嫌悪や対人不安の危険
他の人の前で、誰かに対する嫌悪の言葉、感情的な批判や非難、悪口や陰口を言うと、我々の心の奥に、「自分に対する嫌悪感」(自己嫌悪)や「相手に対する不安感」(対人不安)の感情が生える。
例えば、他人の人の前で、ある人物に対する批判や非難を感情的に語ると、表面的には、一瞬、溜飲が下がったような気がするが、実は、心の奥深くで、つい感情的になってしまった自分、その人のいないところで批判や非難をしている自分への「自己嫌悪」の感情が生まれる。
私の高校時代、何人かの同級生が集まって話をしていたところ、たまたま、話題が、そこにいない同級生への批判になっていった。
そのとき、そこにいた同級生の一人が、「おい、彼は、ここにいないんだぜ」と言って、その話をさえぎった。
その瞬間に、そこにいた同級生たちは、私も含め、たしかにその通りと思い、何か、後ろめたい気分を味わった。
実は、我々の心には、そうした心理的プロセスがある。
また、やはり、他の人の前で、ある人物に対する悪口や陰口を感情的に語ると、心の奥深くでは、「その人物もまた、どこかで、自分の悪口を言っているのではないか・・・」や「その人物もまた、誰かに、自分の陰口を言っているのではないか・・・」といった「対人不安の感情」が生まれる。
我々が、感情的に誰かを批判や非難したり、悪口や陰口を言ったとき、しばらくして、何かの「後味の悪さ」を感じるのは、実は、多くの場合、「深層意識」に生まれる、この「自己嫌悪」や「対人不安」に他ならない。
感情的批判は相手の欠点を浮き上がらせる
嫌いな相手を感情的に批判すると、ますます、その相手の欠点が目につくようになっていく。
なぜなら、先ほど述べたように、嫌いな人を感情的に批判すると、心の奥深くで、つい感情的になってしまった自分への「自己嫌悪」の感情が生まれるからである。
そして、我々の深層意識は、その「自己嫌悪」から逃れようとして、相手を感情的に批判した自分を「正当化」するために、しばしば、さらに相手の非や欠点を探し始める。
そのことによって、「自分があの人物を批判したのは、間違っていない」と、自分の姿を、無意識に正当化しようとするのである。
例えば、ある部下をメンバーの前で、感情的に叱ったマネジャーがいるとする。
このとき、彼の心の奥深くでは、そのことへの自己嫌悪と、自分を正当化したいとの心理が動き、その部下の欠点や問題点を、さらにさがそうとしてしまうことが、往々にして起こる。
では、どうすれば良いか?
できることならば、誰かを感情的に批判したとき、自身の心の中で、「三つの内省」を行うべきであろう。
第一に、誰かを感情的に批判したとき、自分の心の奥深くに、「自分を許せない思い」や「自己嫌悪の感情」が生まれていることに気がつく。
第二に、相手を感情的に批判した自分を正当化したくなる「小さいエゴ」の動きを見つめる。
第三に、相手の非や欠点をさらに探して、自分を正当化しようとする「小さいエゴ」の動きに気がつく。
もし、我々が、この「三つの内省」を行うことができれば、「言葉の怖さ」という落とし穴に陥ることを避けることができるだろう。
相手に感情的非難をすると、より攻撃的になる
嫌いな相手を感情的に非難すると、ますます、その相手に対して攻撃的になっていく。
すなわち、誰かを感情的に非難すると、心の深いところで、「相手も、どこかで、自分を非難しているのではないか?
「相手も、今後、自分を非難するのではないか?」といった「他者不安」の感情が生まれる。
そのため、深層意識の世界では、防衛本能が働き、「自己防衛」に向かい、その相手に対して、ますます攻撃的になっていく。
実は、歴史的な人物で、この心理の機微を熟知していた人物がいる。
豊臣秀吉である。
彼は、あることで、主君である織田信長の激しい怒りを買い、自宅での謹慎を命じられたとき、謹慎中の屋敷内で、敢えて、飲めや歌えの宴会を催した。
信長は、家臣から謹慎中の秀吉の様子を聞き、笑いながら「猿め!」と言ったと伝えられる。
これは、秀吉が人間の心理と信長の人柄を熟知していたからできたことであろう。
秀吉に対して激しく叱り、謹慎を命じた信長にしてみれば、心中、秀吉が、自分に対してどのような気持ちでいるかが気になっている。
それに対して、宴会を催してみせたのは、「殿、私は、この度、謹慎を命じられたこと、いささかも根に持っておりません」とのメッセージであっただろう。
もし、このとき、秀吉の屋敷が静まりかえっていたならば、信長は、「あいつ、何を考えているのか?良からぬことを考えているのではないだろうな?」という疑心暗鬼に駆られたであろう。
ある意味で、秀吉は、信長の心の中の「対人不安」の感情が増長しないように振る舞ったのである。
これは、我々の日々の仕事と生活においても、大いに学ぶべき人間心理の機微である。
例えば、部下が上司から厳しく叱られたとき、その部下に対して、自分から謝りにいくことをアドバイスすることが多いが、その意味は、その部下の保身のためではなく、上司に対して、「私は、叱られたことを、素直に受け止めています」というメッセージを送ることが大切であるという意味である。
そのことによって、上司の心の中の自己嫌悪を和らげ、その心を楽にし、無用の懸念で苦しまないようにするためである。
日々の人間関係において、何かの摩擦があったとき、この「私は、根に持っていない」「私は、気にしていない」「私は、こだわっていない」というメッセージを相手に送ることは、人間心理の機微を考えるならば、相手に対する、大切な配慮である。
ちなみに、この人間心理の機微は、実は、逆も同じである。
例えば、部下が上司から厳しく叱られたとき、部下の心の中にも、「この上司は、自分のことを嫌いなのだろうか?」「この上司は、もう自分を見限ったのだろうか?」といった気持ちが芽生える。
その心理の機微を考えるならば、叱った後、敢えて、別件で、上司から部下に声をかけることも、大切なことであろう。
ある職場でも、部下を叱った後、目も合わせない上司もいたが、叱ったことを忘れたかのごとく、昼食に誘う上司もいた。
後者の上司は、達人であろう。
以上、「『嫌悪の言葉』が『嫌悪の感情』を引き出す」ということの「三つの理由」を述べてきたが、このように、我々の心は、誰かを感情的に批判や非難したり、誰かの悪口や陰口を言うと、その人間をますます嫌いになっていくという傾向がある。
その人間心理の機微を理解しておくことは、良き人間関係を築いていくために、極めて重要であろう。
心の中で相手を誉めると、嫌悪感は解消されていく
さて、ここまで、人は、相手を嫌いになるから、嫌悪の言葉を語るのではない。
嫌悪の言葉を語るから、相手を嫌いになる。
という人間心理の機微について語り、「言葉の怖さ」について語ってきた。
しかし、この人間心理の機微は、それを、逆に活用するならば、「言葉の不思議」と呼ぶべき素晴らしい何かをもたらす。
すなわち、我々が、言葉を正しく使えば、
人は、相手を好きになるから、好感の言葉を語るのではない。
好感の言葉を語るから、相手を好きになる。
ということが現実になる。
例えば、ある企業では、「嫌いな人を好きになる」ための方法として、よく上司や先輩が、こう語る。
「嫌いな人がいたら、その人の長所を見つけ、言葉にして誉めよ」
これは、たしかに、実行できれば効果的な方法であるが、読者の中には、こうした疑問を持つ方もいるだろう。
「長所を見つけ、言葉にして誉めよ、と言われても、嫌いな本人に向かって誉めるということは、なかなかできない・・・」
これは、ごく自然な心理であるが、「言葉にして誉めよ」という言葉の意味は、必ずしも、「直接、本人に向かって誉めよ」という意味ではない。
まずは、「本人のいないところで誉める」ことから始めるのでよいだろう。
例えば、それが職場であるならば、職場の他の仲間がいるところで、その相手を誉めるということをすると、自然に、そのメッセージは、本人にも伝わっていくだろう。
しかし、この「誉める」ということの大切さは、直接、間接に、本人に伝わっていくからではない。
この「誉める」ということは、たとえ、そこに本人がいなくとも、そして、メッセージが本人に伝わらなくとも、それ自身で、大切な意味を持っている。
なぜなら、嫌いな人を「誉める」という行為は、誰よりも、まず、自分の心の中を浄化してくれるからだ。
すでに述べたように、我々が、心の中で、誰かに対する「嫌悪感」を持っていると、深層意識の世界に「自己嫌悪」の感情や「対人不安」の感情が生まれ、その否定的な感情が自分自身を傷つけ、苦しめていく。
その意味で、「本人のいないところで誉める」という技法は、それらの否定的な感情を浄化していくという技法であり、自分にとって、極めて重要な意味を持っている。
それゆえ、この「本人のいないところで誉める」という技法は、必ずしも、職場の仲間など、誰かがいるところで誉めることを意味していない。
深夜に、一人、日記に向かい、好きになれない相手に対する「誉め言葉」を書くだけでも、心の中の何かが、大きく変わっていく。
そして、こうした技法を続けていくと、いつか、一人、夜道を歩きながらでも、「好きになれない相手」に対して、ふと、「けれど、彼の、あの部分は、良いところなんだが・・・」や「しかし、彼女の、この部分は、長所なんだけれど・・・」といった思いが浮かんでくるようになる。
すなわち、この「本人のいないところで誉める」という技法を続けていると、自分の心の中が浄化されるだけでなく、次第に、心の中にある「相手に対する嫌悪感」も薄れていき、ときに、「相手に対する好感」さえ芽生えてくる。
そして、このことが、いつか、その本人と顔を合わせたとき、大きな意味を持つ。
なぜなら、すでに述べたように、コミュニケーションにおいては、表情や眼差し、仕草や身振り、態度や雰囲気など、「言葉以外のメッセージ」として伝わるものが八割だからである。
従って、こちらの心の中に、多少なりとも「相手に対する好感」があれば、それは、この「言葉以外のメッセージ」を通じて、必ず、相手に伝わっていく。
いずれにしても、人は、相手を好きになるから、好感の言葉を語るのではない。
好感の言葉を語るから、相手を好きになる。
ということは、一つの真実である。
そして、ここで言う「好感の言葉を語る」とは、「好感の言葉を心の中で唱える」ことでもよい。
そうであるならば、我々は、「好きになれない人」に対して、いま、この瞬間にも、その人の姿を心に描き、その人の長所を、「彼の、あの部分は、良いところだ」「彼女の、この部分は、長所だ」と、心の中で唱えることができる。
この「心の技法」は、いま、この瞬間にも、心の中で実践できる技法に他ならない。
まとめ
嫌悪の言葉は嫌悪の感情を強化し、好感な言葉は好感な感情を強化する。
人間の深層意識は矛盾が含まれている。
悪口や批判をすると、自己嫌悪に陥ったり、対人不安になったりする。
相手の良い所をみつけ誉めると、その人に好感をもつことができる。