主張すると争いになるというのは思い込み
「自分の気持ちに焦点を当てて主張するとすごくラクになる、というのはわかりました。でも慣れるのには時間がかかりそう」
「すごくシンプルです。だって、相手を憶測することも、打ち負かそうとする必要もないんですもの。相手の動きをうかがうクセがついてしまっているから難しいと感じるだけだと思います」
「そういうものだと思っていたんですね。
小さな頃から、『子どもは親の言いつけに従わなければいけない』って、逆らうと叱られていたんですね。
だから、自分の主張を通すには、両親と争って勝たなければいけないと信じ込んでしまって」
意識の底にこうした思い込みがあると、話す前からすでに攻撃的な気持ちになり、顔をこわばらせてしまうでしょう。
表情だけではありません。試しに日ごろ日常的に交わす会話を録音して聴いてみたら、顔が火照るぐらいひどい言葉を使っていると気づくかもしれません。
しかも、全く自覚はなしに・・・。
「無意識の底でいつも腹を立てているので、表情も態度もいつも怒っている。
そんな人たちがものすごく増えていると思います」
「私もそういう顔をしていたかもしれません」
「表情や言葉だけじゃないです。五感もそうです」
最近、匂いを感じられない人や味がわからないといった人が急増していますが、それらも否定的な意識が発達を阻害しているのだと私は考えています。
「例えば聴覚。敵対意識が強いと、耳を適切に使うことができないのです」
耳を適切に使うというのは、耳から入ってくる音や声を意識でさえぎらないで素直に聞くということです。
「そうですね。両親の小言なんか、やむまで耳をふさいでいます」
「どうして?」
「押しつけてくるからよ」
「あなたの意識は?」
「聞きたくない!それだけです」
「あなたの意識の中には、両親の話に耳を傾けると、その指示に従わなければならなくなってしまうという恐れがない?」
「そうですね。そう思っていますね」
そうだとしたら、彼女が耳をふさぎたくなるのは当然でした。
むろん両親は、彼女が言うように支配的な態度で子どもを従わせようとしているのかもしれません。
でも、彼女がそれに対して身構えて耳をふさいでいたとしても、親はあきらめないでしょう。
これは、相手が話そうとしているときに、「絶対いうことなんか聞かないぞ」といった態度で臨めば、よけい対立を深めるという典型的な例です。
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意見に耳を傾けることと従うことは違う
このように、「支配されるという恐れ」をもって他人の話を聞くと、知らず知らずのうちに自分のほうも否定的な態度をとってしまいます。
互いにそうやっていけば、争いにならないわけがありません。
さらに具合が悪いのは、そういう意識があると、相手がまったく攻撃していなくても、攻撃されているように受け取ってしまうということです。
「どんなにあなたの両親が支配的だったとしても、彼らの話はあくまでも両親の意見だという聞き方はできないでしょうか」
「絶対に押し付けてくるから、最初から相手にしないほうがいいです」
「その意識だ」と私は思いました。
彼女は相手の意見に耳を傾けることと、相手の意見に従うことを混同しているのです。
「相手の意見を聞いたら、必ず相手の意見に従わなければいけない」と考えてしまうのは実は彼女のほうだったのです。
むろん親が彼女に従わせようとしてきたことは事実でしょう。
「あなたには一人の人間としての意思がありますね。相手の意見は意見として尊重しても、それであなたが従わなければならない、ということにはならないはずでしょう?」
「それはそうだけど」
「両親に、自分の意思を言葉でちゃんと伝えたことありますか?」
「あるけど、たいていケンカになります」
「じゃあ、今度、両親が支配的な言い方をしてきたら、親がどんなに怒っても泣きわめいても、それはあくまでも相手の意見であって、自分はそれに従う必要はないという意識で聞いてみてほしいな」
相手がどんなに支配的に主張しようが、選択し決断するのは自分。
自分の確かな意思をもっていれば、相手を打ち負かして、納得させる必要はないのです。
「相手はそう考えている。私はこう考えている」
そこには互いに違った意見があるだけです。
相手の異なった意見は意見として参考にすることはあっても、自分の生き方に関しては、最終的に決定するのは自分。
不思議なことに、相手がどんなに怒鳴ろうが「相手が言っているのは単なる意見で、自分のことは自分で決める」という意思をもつと、聞こえ方もまるっきり違ってきます。
「そういうときに、自分の気持ちを中心にして、表現してみればいいんじゃないのかな。親子もそうだし、職場の人たちだって、自己表現を練習するためのよい相手役だと思ってほしいな」
「でも」と「あなた」を使わない
「自分の気持ちを中心にして表現するために、何かいい方法はないでしょうか」
「私たちが日ごろ使い慣れている言葉の中に、相手と摩擦を起こす言葉があります。それを意識して使わないようにするといいです。
「どんな言葉?」
「『でも』と『あなた』です」
他者に意識を向かわせがちな人は、「何でも批判、いつでも批判」という意識に占領されています。
批判することで優位に立とうとする目標があるからです。
そんなときについ使ってしまうのが、「でも」「あなたは」という言葉。
この言葉を頻繁に使うと、実際にどうなってしまうのでしょうか。
「母親が娘の部屋の汚さにたえかねて掃除をしてしまう」というシーンを、カウンセラーが母親役、彼女に娘役をお願いして、再現してみました。
「お母さん、また、私の部屋を片付けたでしょう。あれほど片づけないでって言っておいたのに」
「(でも)片づけないでと言われてもねえ。(あなたが)あんなにブタ小屋みたいに汚くしていたら、ほっとけないわよ」
「ブタ小屋でもいいわよ」
「(でも)そうはいかないでしょう。あんなに散らかして、目障りよ」
「(でも)私の部屋なんだから、どうなっても私の勝手でしょう」
「(でも)あなたの部屋だけじゃないでしょう。(あなたは)何でもかんでも使いっ放しで、部屋の暖房だって、蛍光灯だってついていたわよ。電気代がもったいないでしょう。お金払うのは親なんだからね」
「(でも)それなら、お母さんだってそうじゃない。冷蔵庫は開けっ放し。お風呂のお湯はよく止め忘れるし。この前だって、鍋を火にかけたまま電話していたでしょう。あれ、私が止めなきゃ火事になるところだったのよ」
「(でも)私だって忙しいのよ。たまには、あなたがしてくれてもいいんじゃないの。全部、お母さんがやらなきゃいけないってことはないでしょう」
「(でも)私だって忙しいのよ。仕事をしているんだもの。お母さんは専業主婦でしょう」
「ああ、そう。自分の部屋の掃除もできないぐらい大変なの。だったら、仕事、辞めればいいじゃない。どうせ、(あなたは)うちに一銭も給料を入れないんだから。あ~あ、母親ってただ働きで、損するだけだわ。子どもっていいわよね。家賃はいらないし、食事つきで、稼いだお金はスキーだ、海外旅行だって、全部自分のために使えるんだからね」
彼女が突然吹き出した。
「よくやっている会話です」
「相手が話している内容が理解できる?」
「いいえ、全然」
彼女が否定するように、お互いに相手を言い負かそうとしているために、相手が話している最中でも、相手をどうやって攻めてやろうか、どうやって言い負かそうかという思いばかりを巡らせてしまいます。
お互いに相手の話を聞く余裕などもてないでしょう。
そして、いつの間にか「片付ける」という本来の目的は消え去り、残るのは感情的なしこりだけ、というふうになってしまうのです。
もしこんな調子で彼女が親を言い負かしたとしても、親は快く口出しをするのをやめるでしょうか。
もちろん彼女は、このようなやり方がいいと思っているわけではありませんでしたが、他者をみて生きてきた彼女たちは、それに代わるやり方を知らないだけなのです。
とにかく、「でも」と「あなたは」は、そんな争いを引き起こす最たる言葉だと言えるでしょう。
「私は」という言葉は心地いい関係を作る
「でも」と「あなたは」を使わないためには、なるべく「私は」という一人称で話していくことが大切です。
そこを意識しながら、カウンセラーと彼女でこのシーンを再現してみました。
「お母さん、また、私の部屋を片付けたでしょう。あれほど片づけないでって言っておいたのに」
「(でも)片づけないでと言われてもねえ。(あなたが)あんなにブタ小屋みたいに汚くしていたら、ほっとけないわよ」
「ブタ小屋でもいいわよ」
「(私は)汚いと、気になって仕方がないのよね」
「まあ、確かに汚いけど・・・」
「そうなのよ。あなたの部屋だから、お母さんがお掃除する必要はないんだけどもね、(私は)つい、掃除したくなっちゃったのよ」
「そうだよねえ。掃除しないのは私が悪いんだものね。ただ、お母さんが気になるのはわかるけど、私にしかわからないものも置いてあるから、やっぱり、(私は)掃除はしてほしくないんだよね」
「そうねえ、あなたの部屋だからねえ。じゃあ、(私は)気にしないようにするから、もう少し、きれいにしてくれないかしら」
「わかった。(私は)これからやるようにするわ」
彼女はキツネにつままれたような顔をしました。
「どうしたの?」
「あんまりあっけなかったものだから」
「物足りなかった?」
「ちょっとね」
相手を責めたり揚げ足をとったりするやり方になじんでいると、そう感じるかもしれません。
しかし反面、その気分のよさも体感できたはずです。
「相手が責めてこないと、逃げたり闘ったりしなくていいから、余裕をもって話が聞けるものですね。
私も相手をやり込めようという気持ちにならないからラクでした。」
相手に意識を向けて、支配しようとするエネルギーがなくなると、そのエネルギーは自分の気持ちを表現することに向けられます。
そうやってお互いが支配し合うことなしに表現できれば、相手を理解しようとする気持ちも自然にわいてくるものです。
「母がこんなふうに言ってくれれば、歩み寄ろうって気持ちになれるのに」
「えっ?自分を認めてもらいたいために、それをお母さんに要求するんですか?」
彼女は「でも、お母さんが・・・」と言いかけてその後の言葉を呑み込みました。
「あなたがお母さんを認めなくていいの?」
理解し合うためには、どちらかが、最初に相手を認めなくてはなりません。
「相手がやってくれたら自分も同じようにやってもいい」ではいつまで経っても変わらないでしょう。
それこそが他者をみて相手を責めてしまう「でも」の意識なのです。
「認めるのが難しければ、無理に認める必要はないでしょうけど、少なくとも、『でも』という言葉をできるだけ控えて、自分の気持ちを中心にしながら『私は~』という一人称を使って言ってみる努力はできるんじゃないでしょうか」
誰が認めなくとも自分を自分で認める
「相手を認めるって、どうすればいいのでしょう」
「まずは自分を認めること。そうすれば、相手を認められるようになります」
この「自分を認める」というのは、他者からの評価や承認に関係なく、自分のどんな意思も気持ちも認めるということです。
例えば、彼女が意思をもって行動する場合を考えてみましょう。
そのとき、彼女が行動するのに相手の承認が必要なのでしょうか。
もちろん相手に認めてもらえるのは嬉しいことですが、相手が反対するからといって、青筋を立てて主張する必要があるでしょうか。
「何となくわかるけど、認めるってことが、私、いまひとつ、はっきりとしないんだ」
「そう?じゃあ、こんなふうに考えたらどうでしょう?あなたの家と敷地があって、あなたが自分の敷地内ですることは、すべて自由。
これが自分を認めるってことです。
同様に、相手が相手の敷地内ですることであれば、それも相手の自由ってこと。
お互いの家に迷惑をかけることがないのであれば、その境界線は守りましょう、ということなのです」
「ああ、そういうことなのですね。自分の家や敷地内だったら、自由にやっていい。相手に注意されたり反対されても、相手の敷地内に迷惑をかけていないんだから、『私は、これがしたいんです。だから、します』でいいということなのです」
「そうそう。だから、仮にあなたが自分の敷地内を汚くしていたとしても、それはあなたの自由ですね。相手に対して『汚くしていいですか』って、許可を求める必要はないでしょう」
「そうかあ。そうすれば、相手が相手の敷地内を汚くしていても、私もあまり気にならないってことなのですね!」
こんなふうに捉えると、お互いに、相手に対して「でも」や「あなたは」という言い方で、相手のやっていることや考えていることに口を出したり、指図しようとすることが、いかに不適切なことをしているか、ということがよく理解できるのではないでしょうか。
もし彼女が子ども時代に「自分を認めてくれない」扱いを受けていたとしても、いまの彼女は「自分の自由を認める」ことができるはずです。
それに気づかず、彼女が必死になって相手に自分を認めさせようとしてしまうのは、彼女が子ども時代の恐れを持ち越しているからでしょう。
「親に逆らうといきていけないという恐怖は、子ども時代のものですね。
あなたは仕事だってちゃんとこなしているし、家から放り出されたら飢え死にしてしまうという年齢ではないでしょう。
親があなたを認めようとしないからといって、ムキになる必要はないでしょう?あなたが自分で自分を認められるようになるために、あなたが最初に”子どもを認めようとしない親”を認めてあげてもいいんじゃないでしょうか?」
怒りと恐怖が、攻撃的にする
「『でも』って言葉を使ってしまうけど・・・どんなに私が穏やかに話そうと思っても、相手が攻撃的になっていたら腹が立つでしょう。私も同じようにやっつけたくなってしまいます」
攻撃に攻撃をもってすればよけい争いになります。
例えば、脅しで支配しようとしてくる相手に恐怖で反応すれば、相手は脅しで支配することを覚えてしまうでしょう。
それは相手に「私は脅しで主張されれば従います」というメッセージを送っているようなもの。
そんなやり方では相手との関係は変わらないのだということを、「無言電話の実験」を通して伝えようと思いました。
まず彼女がカウンセラーに恨みをもっていると仮定し、私に無言電話をかけてもらいます。
私が「怒って対応する」「優しい言葉をかける」「黙ってすぐに切る」「おびえる」の四つの対応をすることで、かけた側の彼女の気持ちがどう変わるのかを感じてもらいました。
まず、カウンセラーは怒って対応してみました。
「相手が怒っているとねえ、すごく愉快だった。どんなに怒ってもどうしようもないじゃない。勝った!って感じ。相手が怒っても、私は安全地帯にいるわけだから、もっと怒らせたくなって、また無言電話をするかもしれない」
では、優しく言葉をかけて相手を説得してみるのはどうでしょう。
「人によると思うわね。優しくしてくれた相手に悪いなあと思えばやめるでしょうけど、寂しかったり悲しかったりすると、優しい言葉をかけてもらいたくて、電話をしたくなるでしょうね。
そのうち相手と自分が親密な関係のように錯覚して、相手に逢いたくなるかもしれないな。
もちろん堂々と逢う勇気がないから、陰で相手の様子をうかがったりする感じかな」
無言電話だとわかるとすぐに切ってしまうのはどうでしょうか。
「つまらない。反応がないと『くそっ』って思うけど、何度かけても全く関心がないとばかりにすぐ切られたら、私は、そのうち飽きてきちゃうだろうな」
おびえて対応するとどうなるのでしょう。
私がもっとも知りたかったのはこのパターンでした。
これは受け手の一般的な反応だったからです。
「憎んでいる相手が怯えるというのは、かける側にとっては最高の報酬だと思う。
相手がおびえればおびえるほど愉快になる。
相手は私の手の中にあって、自分が運命の決定権を握っているんだという快感がわいてくる」
この実験の目的は、「相手の攻撃に対して、怒りや恐怖で対応すると、その関係はさらにエスカレートしていく」ということを確認することでした。
とりわけおびえというのは相手の行為をエスカレートさせてしまうのです。
怖がりだということを隠そうとしない
「じゃあ攻撃してくる人にはどんな対応をしたらいいの?」
「落ち着いて、自分の気持ちを表現すればいいです」
「でも、それって、自分の弱点もさらけ出してしまうってことでしょう。そんなことをしたら、相手になめられてしまいます」
確かに「なめられたくない」と考える人は多いでしょう。
しかし、相手が「なめる」態度をとっているからといって、それで自分に一体何が起こるというのでしょうか。
例えば彼女の前に、「なめる、なめない」を生き方の基準にしている人がいるとしましょう。
その人は、どこにいても誰に対しても「自分をなめるなよ」という態度で接します。
「なめるなよ」という意識でいる人は、自分がなめられないために、相手をなめてかかるような態度をとったりもします。
もちろん彼女にも「なめるなよ」という態度で接しています。
「なめられていると感じるのはだれですか」
「私ですが」
「そう、自分ですね。相手があなたをなめようがどう思おうが、卑屈になるかどうかは、自分自身が選択することですね。そんなとき、自分の気持ちを表現できる人ならこう言うと思います。」
『とても怖い表情をしてらっしゃいますね。それが気になって仕方がないのですが、どうされたんですか。私に何か不満がおありでしたら、おっしゃってくださいませんか』
「そんなこと言われたら、私だったら、ドキッとしちゃう」
「どういう気持ち?」
「虚をつかれるというか、狼狽してしまって、返す言葉がみつからない。心理的には負けています」
「なめるなよ」というのは、他者に意識を向けて身構えている姿勢です。
そうやって自分を守るために威嚇しなければならないのは、自分の中に他者に対する恐怖があるからでしょう。
その恐怖がどこから生まれるかというと、自己信頼の低さからです。
一方、自分の気持ちを表現できる人は、自己信頼の高い人です。
自己信頼の高い人は、相手が自分をなめる態度をとったからといって、それを不快に思うことはあっても、それで自分の評価を低くしたりはしません。
このように自分を正当に評価して信頼していれば、不快に感じたとき、相手を恐れることなしに、自分の気持ちを表現できるのではないでしょうか。
「うーん、誰に対してもそんなふうに言えればいいんでしょうけど、それが怖いから問題なんです」
「いいえ、別に相手を恐れるなって言っているわけではないです。あなたが怖いと感じるのなら、怖いということを、怖がりながらも言語化できればいいわけでしょう。
それには、自分が怖がりだということを隠そうとしないで、認めればいいんじゃないでしょうか。」
「そうですね、自分で認めてしまえばいいんだ。認めればラクですね」
「そう。自分をごまかさない」
その上で、自分の気持ちを言葉にしていけばいい。
それが自分の気持ちを大事にするということですし、また、自己信頼を高めることにもつながっていくのです。