無気力な人の「弱点」が「不幸」に変わるタイミング
無気力な人とは、弱点が相手にばれないように、素顔の自分を抑圧して、心を消耗し、無気力になってしまった人のことである。
仕事や日常生活でも疲れている心に鞭を打って頑張り過ぎてしまう。
そこで無気力の人が気が楽になる心理を人間関係を軸に述べてみたい。
無気力な人の心理
ある人は人を恐れない。
ある無気力な人は人を恐れる。
何が賢い生き方か、愚かな生き方か。
ある人は見捨てられる不安に悩まされていないのに、ある無気力な人は悩む。
ある無気力な人は無視されやしないかとビクビクしているのに、ある人は恐れていない。
なぜある人は他人から拒否されることをそこまで恐れるのに、ある人は決して自分を犠牲にすることなく、自己実現に向けて努力することができるのだろうか。
この恐怖は、幼児期の親子関係に原因がある。
何よりも母親が必要な保護をその子に与えなかったということであろう。
無力のまま生まれてくる人間にとって、保護は欠かすことができない。
しかし、自分の心の葛藤に気をとられている母親は、子どもに対して保護者としての役割を果たさない。
無力な子どもにとっては、保護がなければ、現実は自分を殺すものでしかない。
現実を脅迫的に感じるのは当たり前の話である。
母親が自分を保護してくれるから、無力であっても生きていかれるのである
自分の心の葛藤に気を奪われている無気力な母親は、子どもを理解する能力がない。
つまり、無気力な母親は子どもが今何を必要としているかわからない。
無力な子どもが生きていくのに、この現実からどう守ればいいのかわからない。
自分の心の葛藤に気をとられている無気力な母親は、子どもの心に必要なものがわからない。
母親は子どもが何を求めているのかがわからない。
いや、無気力な母親はわかろうという姿勢が出てこない。
母親自身が自分の心の悩みで手いっぱいなのである。
母親自身が子どもとの関係で、子どもが母に何をしてもらいたがっているのか理解できない。
無力な子どもは母親の保護なしにはこの現実のなかで生きていけない以上、無気力な母親の保護が保証されていない状態で現実を恐れるのは生物として当然であろう。
無気力な人が無視されたときの痛みは忘れられない
神経症になる人も、極端に恥ずかしがり屋の人も、この恐怖を持っている。
無力な存在であって見捨てられる可能性があれば、無気力な人は死ぬほど恐れて当然である。
母から注目されたいと願いつつ無視されることがあれば、死ぬほど不安になって当たり前である。
無力な存在であれば、いつも見守っていてもらいたい。
泳ぎに自信のない者でも、そばで泳ぎの名人が見守っていてくれれば泳ぐ気になる。
必要なときにはその人がすぐに助けにきてくれるという安心感があってはじめて、泳いでみようという気になる。
ところがもし泳ぎの名人が無気力で自分のことに気をとられて、泳ぐ人のことなどかまっていられなかったらどうなるか。
心理学者のジンバルドーの『シャイネス』という本のなかに次のような文がある。
「母親から見捨てられた人は恐怖心をもつ、そしてこれから先の人生の不確かさに対処していくことができなくなる」というような意味である。
この見捨てられたエゴというのは、何も実際に母親から見捨てられるということだけではないだろう
心の不安な無気力な母親などもこのようなことを行なっているのである。
子どもに「ママのこと好き?」などと聞く母親も同じである。
自分の愛情飢餓感を子どもとの関係で癒そうとしているのである。
このような無気力な母親は、自分の心の中にある愛の飢えを子どもとベタベタすることで癒そうとしているのである。
もちろん露骨に子どもを嫌がる母親などは、子どもに恐怖心を感じさせる。
そしてジンバルドーは、このような恐怖をもっていることが、極端に恥ずかしがる人の特徴だという。
間違いなく極端な恥ずかしがり屋だと折り紙をつけられる人は、この恐怖をもっていると彼はいう。
無気力な人はいつも人から無視され、拒否されることを恐れている。
自分が何かをしゃべって、もしそれが無視されたらどうしようと恐れるから、無気力な人は寡黙になるのである。
大人になってみれば、自分のいったことが無視されたからといってどうということはない
しかし小さな子どもにとって、自分が必死でいったことが母親に無視されるということはつらい。
小さな子どもにとって自分が必死になって訴えたことに、自分の望むだけの注目が得られなかったことは淋しい。
そのような淋しさ、つらさを小さい頃イヤというほど体験しているからこそ、無気力な人は大人になっても無視されることを恐れるようになるのである。
無気力な人は大人になって無視されたとき味わうのは、小さい頃の感情の再体験でしかない。
小さい頃味わった淋しさを知っていればこそ、その淋しさを避けようとする。
小さい頃、自分の悲しさや喜びを充分に理解された人が、大人になってどうして無視されることを恐れて寡黙になることがあろうか。
あるいは、自分が必死になってやったことに対して嘲笑という拒否を味わった無気力な人はでなければ、どうしてそんなに他人を恐れることがあろうか。
無気力な人の劣等感と自尊心は同居する
拒否される、無視されるという恐れがあるからこそ、他人といると居心地が悪くなるのである。
無気力な人はもし変なことをすれば、軽蔑というかたちで拒否されると思えばこそ、人と一緒にいることが楽しめないのである。
裏切られたり、無視されたりすることのつらさを知っていればこそ、無気力な人はついつい他人を避けてしまうのであろう。
何かやって失敗して笑われたつらさを体験しているからこそ、積極的になれないのであろう。
拒否を恐れて善意に振る舞う、無気力な人も同じであろう。
極端な恥ずかしがりやもこのような無気力な人も、見捨てられたエゴの持ち主なのである。
大人になって拒否されることは、そんなに重大なことではない。
しかしそのとき、昔の古い感情を再体験してしまうのである
そのような無気力な人は、普通の人以上に何かを試みることを恐れる。
自分の力が試されることを恐れる。
普通の人以上に無気力な人は人よりすぐれたいと願う。
普通の人以上に力やお金や権威を手に入れれば、それだけ拒否される危険が少ないと思うからである。
普通の人以上に戦うことを恐れながら、普通の人以上に支配欲が強い。
このような無気力な人に素直さを期待しても無理であろう。
どうしても、ゆがんだものの見方しかできなくなるし、現実を自分の自尊心が傷つかないように解釈して受け取ることになるであろう。
ジンバルドーの『シャイネス』に、恥ずかしがりやの人の手記がたくさんのっている
そのなかの一つは、「私はダンスをするのがとても恥ずかしかった」という書き出しではじまる。
無気力で恥ずかしがり屋だから当然、自意識過剰である。
恥ずかしがり屋の無気力な人は、ダンスパーティーで自分から積極的に踊りを楽しむことはできない。
恥ずかしがり屋の人はなかなか踊りだせない。
この手記の人もそうだった。
自分はうまく踊れないのではないだろうかと恐れる
無気力な人は事実、踊りはじめはぎこちない。
ところが、一度そのなかに入ってしまうと、自分は称賛の的のような気がしてくる。
自分は人より劣っているという気持ちが一方にある。
しかし恥ずかしがり屋の無気力な人は、それだけではない。
他方に、他人を凌駕したいという気持ちをもつ。
「私は・・・恥ずかしかった」ではじまるその手記の最後は、次のような文で終わっている。
「私は心から他人を凌駕したいと望んだ」、ということである
無気力な人は他人よりすぐれたいと心から望むからこそ、うまくいかなかったとき恥ずかしいのである。
劣っているという意識だけで人は決して苦しむことはない。
劣っているにもかかわらず、すぐれたいと望むから無気力な人は苦しむのである。
すぐれたいと激しく望めば望むほど、自分の弱点に注意を集中することになる。
劣等感の深刻な無気力な人が、自分の弱点に気を奪われてしまうというのは、当然である。
劣等感が深刻だということは、それだけ他人よりすぐれたいという気持ちが強いということである。
完全主義が神経症的だというのも、このためである
無気力な人が自分の弱点が重大問題になるのは、それだけ他人を凌駕したいという気持ちが激しいということなのである。
そして小さい頃自尊心が傷ついていれば傷ついているほど、他人よりすぐれたいという願いもまた強いであろう。
神経症者とか執着性格者とかいわれる無気力な人が、非現実的なほど高い基準を自分に課したり、非現実的なほど高い要求や期待を自分にかけるのは、それだけ自尊心が深く傷ついているということなのである。
かつて自分が小さかった昔、自分にとって重要な人は自分の心を傷つけた。
その傷が無気力な人は尾を引いているのである。
大人になってもまだ、他人は自分を傷つけるかもしれないと感じるからこそ、他人が怖いのである。
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無気力な人が「他人の期待」に負けない自分になる
小さい頃深く傷つき成長できなかったということが、心の矛盾を生み出しているということは、今まで述べたとおりであるが、この心の矛盾の構造はどうなっているのであろうか。
一言でいえば「自我欠損」ということである
無気力な人は超自我とイド(精神の奥底にある本能的エネルギーの源泉)とのバランスをとる役目を果たす自我がないということである。
良心とか規範とかそういった言葉で代表される超自我というのがある。
生まれつきそのようなものをもって人間は生まれるわけではない。
規範意識が強すぎて自分は何がしたいかわからないような無気力な人は、この超自我に支配されてしまっているのである。
超自我は自分にとって重要な他人の期待でもある。
超自我に自我がのっとられてしまっているような無気力な人もいる。
のっとられるというより、制圧されてしまって動きようがないのである。
こんな無気力な人は当然、自己評価が低い。
現実を無視した「あるべき姿」が無気力な人の心を独占しようとしているからである。
さて、それではイドのほうはどうか。
これは衝動である
性欲であり、攻撃性である。
無気力な人は各種さまざまなわがままである。
幼児的一体化願望も、このなかに入る。
甘えの欲求から性の欲求までいろいろとある。
ところが、自我欠損だと、現実に照らしあわせて、これらの衝動を調整する機能がない。
つまり自我欠損とは、超自我とイドとが正面衝突してしまっているのである。
心の中は超自我とイドとの正面衝突で大混乱している。
信号であり交通規則であるところの自我がない。
四つ角で四方向から車が突っ込んで、道路が大渋滞しているようなものである。
自我がイドも超自我も制圧して、心の中を支配してこそ自分があるということであろう。
自分があるとか自分がないとかいうときの自分は、イドではないであろう
現実と照らし合わせて、そのなかでどのように欲望を達成するかというはたらきをするのが自我であり、現実と照らし合わせてどのように理想を実現するかというはたらきをするのが自我である。
無気力な人が非現実的なほど高い欲求を自分に課して苦しんでいるのは、自我が機能していないということである。
自我が機能していれば、非現実的なほど高い要求水準は自分の実行可能なところまでひきさげられる。
自我が機能していないから、無気力な私は恥ずかしがり屋ですということになる。
他人よりも上手にダンスをしなければいけないと感じるし、現実の自分を無視して高い基準を自分に課してくることになる。
そしてまた自我が機能していないから、無気力な人は他人の注目の的になりたいと思うし、ダンス輪のなかに入るとそのようになった気がしてくるのである。
自我が機能していないから、無気力な人は現実の注目と称賛に満足できない。
これが一方で恥ずかしがりながら、他方で高い評価を望む人の心なのではなかろうか。
自我は本来、このように矛盾したものを現実的に調整していく機能をもっているのである。
つまり先にあげた、ダンスをするのが恥ずかしいというような無気力な女性も自我欠損なのである。
無気力な人が陥りやすい思考。「理想」と「現実」は違う!
ドイツの精神医学者フーベルトゥス・テレンバッハは、メランコリー気質(親和型)の人の特徴について、「極端な几帳面さとその反面での自己要求の大きさ」をあげている。
無気力な人はこの二つが相反するかどうかには疑問があるが、これも自我欠損という見方ができるであろう。
メランコリー親和型の無気力な人は、たくさんの仕事をきちんとしあげようとする。
テレンバッハによるならば、「メランコリー親和型の人は、みずからに対する課題を高く設定したまま、それを引き下ろそうとしない」(木村敏訳『メランコリー』みすず書房)ということになる。
引き下ろそうとしない、というよりも無気力な人は引き下ろすことができないと表現したほうがいいだろう。
現実の自分に合ったところまで引き下げるのは、自我の役割である。
「メランコリー親和型の人のいまひとつ基本的特徴は、つまり自己の仕事に対する過度に高い要求水準である」(『メランコリー』)
産業社会において、仕事に対しては質量ともに高い要求水準が望ましいことは誰でも知っている。
しかし自我の健全な人は、その一般的な望ましさを現実の自分と照らし合わせて解釈し、実行する。
メランコリー親和型の人ばかりでなく、一般に劣等感の深刻な無気力な人もこれができない。
つまり無気力な激しい劣等感の持ち主には、自我が機能していないのである。
「何が望ましいか」という超自我に対して、自我のはたらきがうまくいってない。
自我が健全であるということは、それはそうであるけれど実際にはこうでしかない、という主張である
「何が望ましいか」ということに押しきられないということである。
自我が発達しない無気力な人の心のなかというのは、たとえば何が望ましいかという親の期待に圧倒され、占領されてしまっているのであろう。
心のなかにはその人がなくて、親の期待だけがある。
あるいは無気力な人は傷ついた自分だけがある。
高すぎる他者の期待に負けないだけの自分がないのである。
他者の期待に負け、自分の衝動に負け、この矛盾する両者が正面からぶつかりあっている無気力な人が神経症気味の人である。
「不安感」と「安心感」の正体。
自我が成長するためには、もちろん何よりも本当の親の愛が必要であるが、小さい頃そのように育てられなかった無気力な人には、自分の楽しみを見つけることも大切である。
とにかく自分はこれが好きで、これをやっていれば楽しいというものを見つければ、自分の能力があろうがなかろうが、一般的に望ましいものが自分にどのくらいあろうがなかろうが、それは以前にくらべて問題ではなくなってくる。
他人の期待をかなえることだけが喜びとなってしまっている無気力な人は、自我欠損である。
自分の楽しみを見つければ、一般的価値観に照らした自分というものがそれ以前にくらべて問題でなくなる
無気力な人は超自我に心を占領されてしまったからといって、衝動が消えてなくなるわけではない。
それは意識から消えることはあっても、無意識には残る。
そしてこの矛盾したものの正面衝突が葛藤であり、ここから不安も生じてくる。
他人の期待にかなうことだけが喜びになってしまっている無気力な人は、同時に他人のなかに否認を呼び起こすことを極端に恐れる。
それはひどい失望を自分にもたらすからである。
自我が健全であるということは、他人の是認や否認と関係のない、つまりそれに影響されない自分の世界をもっているということである。
自我欠損であればあるほど、他人の拒否や無視を恐れることになるのは当然である。
つまり、そこにしかその無気力な人の世界はないのであるから。
「一人の時間を楽しめる人、無気力で楽しめない人」
さらにここで重要な事に気がつく
無気力な人は孤独への極端な恐怖心もまた自我欠損なのである。
自我が健全に機能しているからこそ、人は一人でいることもまた楽しいということになる。
そして一人でいることが楽しいからこそ、人は一人でいることもまた楽しいということになる。
そして一人でいることが楽しいからこそ、他人の否認を極端に恐れない。
他人と一緒にいることもまた楽しいということになる
心の中が超自我とイドの正面衝突で大混乱している無気力な人は、一人でいることは死ぬほどつらいが、他人といることも恐ろしいということになる。
メランコリー親和型の人も、自分自身のためというあり方ができないという。
無気力な彼らのあり方は他者のためというあり方である。
表面上の言葉としては「他者のため」というとよくて、「自分のため」というと悪く聞こえるが、決してそうではない。
他者のためにしかあり得ない無気力な人は、自分が自分の内容となることが出来ない人なのである。
もっとやさしくいえば、無気力な人は一人では何をやってもつまらない、一人では生きていても空虚である、さらに一人では何もできない、一人では何をしていても不安でたまらない、ということである。
水泳の好きな人は、一人で泳いでいても楽しいであろう
それはそれとして充実しているであろう。
一人で泳いでいても意味を感じるが、またみんなで泳いでも無意味ではない。
ところがここでいう自分自身のためというあり方が不可能だという無気力な人は、一人で泳いでいたのでは不安でたまらないのである。
無気力な人はその無意味感にうちひしがれる。
つまりこのタイプの人は泳ぎであれ、読書であれ、仕事であれ、その活動自体に不安のない喜びを感じることができない。
一日静かな浜辺で一人で泳ぎ、ボーっとして過ごした
そこで無気力な人は「ああ、今日はいい一日だった」とは、それだけでは感じられない。
そのことが「何かの役に立っている」のでなければ無気力な人は気がすまない。
他人の役に立っている、自分の健康の役に立っていることで気がすむ。
他人の役に立っているといっても、それは身近な人に対してである。
それだけ身近な人に対して恩恵をほどこしたということで気がすむのである。
それだけ恩恵をほどこしたことで、その関係に安心する
無気力な人はそれだけその人に貸しをつくったということでほっとする。
他人の役に立つことで気がすむのは、自分の存在に負い目があるからである。
他人に対する愛情から他人の役に立ったことに満足感があるのではなく、無気力な人は自らの負い目の負担が軽くなったということにおいて、その一日に満足するのである。
自分に負い目があれば、無気力な人は自分自身のためというあり方はむずかしいし、自分の仕事に対しても過度に高い要求水準をもつことになるであろう。
そして無気力な人は負い目があるからといって、衝動がなくなるわけではない。
となると、繰り返し述べている超自我とイドが正面から衝突することになる。
そしてこの葛藤が無気力な人は不安を生み出すことになる。
「こんな人が行きづまる」
自分自身のためにあることができる人は焦らないで済むし、人に対しても要求がましいところがなくなる
一方、メランコリー親和型の無気力な人は、他人のために尽くすかたちで他人のためにあるという。
無気力な彼らのこのようなあり方と焦慮感とは関係がある。
テレンバッハはメランコリー親和型の説明のなかで、まず第一に几帳面さへの固着をあげ、第二に仕事の世界の秩序をあげている。
そしてその項で、次のようなことを書いている。
「・・・大きな仕事をこなしているにもかかわらず、充分に仕事をしなかったという感じを絶えず持ち続けているような人もいる」(『メランコリー』)
外から見ると充分な仕事をしているにもかかわらず、本人は充分な仕事をしなかったという感じを絶えずもちつづけるのは、本人に負い目があり、かつ失われてしまったものに対して充分取り返しがついていないというように感じるからであろう。
外から見る人は、負い目もないし喪失感もない
だからこのメランコリー親和型の無気力な人の感じ方が理解できないのである。
無気力な人が仕事をやってもやってもこれで充分とは感じられないのは、仕事の達成を通して何かを取り返そうとしているからであり、自分の存在に負い目があるからであり、自分のためにあるというあり方を可能にする自我が不在だからである。
テレンバッハは第三として、極端な几帳面さと自己要求の大きさの悪循環をあげ、さらに第四に対人関係の秩序をあげる。
そしてここで、メランコリー親和型の無気力な人の対人関係は、他人のために尽くすというかたちで、他人のためにあるということを書いている。
無気力に陥った人は「他人のため」を心のよりどころにするな!
他人のためにあるということと、仕事をやってもやっても充分な仕事をしなかったという感じを絶えずもちつづけるということは、同じことの表と裏のような関係である
どちらも無気力な人は自分のためにあるということが不可能なところからきているのではないだろうか。
無気力な人は自分自身が自分の内容となれないから、内容は常に外から借りてこなければならない。
そこで他人を借りてくる。
何かをして、無気力な人はそれが自分と他人との関係を強化するのに役に立てば安心する。
本来、他人のために尽くす、他人のために役に立つ、他人のために生きるということの内容は、他人と自分の関係を深めるということではなかろうか。
他人のために尽くすのは、それによって他人と自分の関係が深まるからである
しかし自分の存在に負い目がある無気力な人は、他人に尽くすことによってしか、つまり他人に恩恵を与えることによってしか、他人と自分の関係を強化できないのである。
無気力な人は自分自身が自分自身の生きることの根拠になっていないから、他人のために尽くさざるを得ないのである。
自分の生きることの根拠を築こうとしているのである。
仕事をやってもやっても、無気力な人は充分役に立っているかどうか不安なのである。
もっと役に立つことがあるのではないかという不安が残るのである。
仕事をどんなにやっても、無気力な人は自己不在からくる心の不安をまったく解消することはできない。
それは自分は愛されるに値しないと感じている人が、どんなに愛していると言われても、不安がまったく消えてなくならないのと同じである。
つまり無気力な人は他人のために尽くすというかたちでしか対人関係を維持できないことも、いくら仕事をしても充分に仕事をしなかったという感じを絶えず持ち続けてしまうのも、自我欠損の表と裏なのである。
他人のために尽くすということも、質量ともに高すぎる仕事をしようとすることも、無気力な人はいってみれば超自我だけしか心の中にないということである。
この超自我を現実に照らしてチェックする機能がはたらいていない。
そこで超自我が暴走してしまっている。
その暴走をとめるものがないのである
無気力な人は他人のために尽くすことが悪いのでも、仕事の目標を高く設定することが悪いのでもなく、悪いのは自我欠損ということなのである。
これらのことは自我欠損の症状なのである。
自我欠損の症状として、つまり原因が自我欠損で、その結果としての無気力な人は「他人のために尽くすこと」や「仕事に対する高すぎる要求水準」が悪いのである。
「不快な体験」から離れることができないのは?
負い目というのは、たとえば自分は世話をされるのに値しない人間なのに世話をしてもらったというようなときに、その人に感じるものであろう
無気力な人は自分は生きるに値しない人間なのに生きていると感じるのが負い目ではなかろうか。
自分は他人の不幸の原因でしかないのに生きていると思うとき、他人に負い目を感じるのであろう。
不幸の原因であるにもかかわらず無気力な人は親切にされたなどと思う時は、とくにそうであろう。
そう考えると交流分析などでいっている、親が子に与える破壊的メッセージというのは、大変恐ろしい。
たとえば”Don’t be”という「存在するな」というメッセージである。
「あなたさえいなければお父さんと離婚するのに」といわれて育った無気力な子どもなどは、このメッセージを受けている。
子どもの側からすれば、自分は母親の不幸の原因であるにもかかわらず、母親に世話してもらって生きているということになる。
一般的に恩着せがましい親などは、無気力な子どもにこのメッセージを与えることになろう。
こんなにおまえのために苦労していると恩着せがましくいわれれば、無気力に自分の存在に負い目を感じるようになるだろう。
そうして自分の存在に負い目を感じるようになれば、他人に迷惑をかけまいとするように気をつかうのは当然である
無気力な人はおまえは迷惑だというメッセージを与えられて育ったのであるから、他人との関係で臆病になるのも当たり前であろう。
“Don’t be”というメッセージを与えられて育って、他人との摩擦をおこせるわけがない。
自分の存在に負い目があればあるほど、無気力な人は他人とのいざこざは避けようとするだろう。
そしてその負い目をなんとか取り返そうとして他人に奉仕し、他人に喜ばれようとする。
考えてみれば、必死になって他人を喜ばそうとしている無気力な人の心には痛々しいものがある。
小さい頃、このような破壊的なメッセージを与えられなければ、否定的な自己イメージを持たなければ、他人の気持ちを傷つけないようにいつもびくびくしているなどということもないであろう。
「誰かと仲たがいが起きたりすると『気持ちが落ち着きません。万事をもと通りにおさめようと、いろいろやってみます』。
それが相手に受け入れられないと、『そのことが頭から離れなくなります』。
しばしば『喧嘩のことで心がいっぱいになってしまって、ほかのことはなにも考えられなくなり仲直りできるまで落ち着けない』ことになる」(『メランコリー』)
この文はテレンバッハがメランコリー気質の人の対人関係について述べたものである。
世の中には不快な体験の記憶がいつまでも尾を引いてしまう人がいる
無気力な人はこんなことはつまらないことだと頭ではわかっているのだが、気持ちではどうしてもその不快な体験から離れることができない。
ほんのちょっとした対立などどうでもいいことだと頭ではわかるのだが、無気力な人は気持ちのうえでは大変な迫力で迫ってくる。
頭で忘れようとし、くだらないとわかりながら、心のなかでは大変な力強さで迫ってくる。
そんな自分自身の存在を低く評価しすぎているのではなかろうか。
今、無気力な人は自分の存在は他人の迷惑になるどころか、他人の喜びにさえなるのだと自分にいいきかせることである。
「いいかげんさ」は健全な人間の証拠。
メランコリー親和型の人の負い目について述べてきたが、もう一つの特徴である几帳面さについて、もう少し詳しく見てみよう
テレンバッハはこの几帳面さについて、メランコリー気質の人の良心は特別に敏感な良心であり、その良心の要求を満たそうとすることだと述べている。
倫理的な世界における几帳面、それがメランコリー親和型の無気力な人の良心である。
無気力な人は自我が健全に機能しないから、現実に良心を適応させて、適当にやるということができない。
「いいかげんさ」というのが正常の一つのメルクマールになるのは、いいかげんさは自我が機能している証拠だからである。
几帳面さとは、超自我に忠実な無気力な人の特性ではないだろうか。
正確にきちんとしているほうがいいからと、隅から隅まで片づけ、厳密に考えることが無気力な人の超自我の要求であろう。
自我のはたらきはそれに対して、今日は疲れているから大まかに整理して、きちんと片づけるのは明日やろうという現実を考慮したはたらきである。
そこまで厳密に考えなくてもいいのではないか、というのが自我である。
つまり自我とは、完全ではありえない生身の人間がどう行動するのが最もよいかということを考慮してくれるものである
「すべて色情をいだきて女を見る者は、すでに心のうちに姦淫したるなり」というマタイ伝の有名な言葉がある。
しかし、情念を清めてはじめて正しい存在になれるといわれても、普通の男性には無理である。
当然のことながら、聖書の言葉は超自我の言葉である。
「なんじ姦淫するなかれ」という十戒の言葉もいいが、自我のはたらきが欠如すると、無気力な人は生きることの虚無感につながっていくであろう。
無気力な人によくいわれる規範意識の肥大化というのは、自我欠損の表と裏の関係である。
いわゆるタテマエとホンネである。
タテマエはみんな立派なことである。
それを否定することはできない。
しかし生身の人間としてホンネもある。
そこで生身の人間として正常な人というのは、そのバランスを保っている人なのである
規範意識の肥大化している無気力な人は、欲求に従うことが怖くなっているのである。
怖くて自分の欲求を無気力な人は実現できなくなっている。
しかし欲求がないかといえば、ある。
そこで欲求がありながらも無気力な人は欲求を満たそうとはしないのである。
この心の矛盾は、やはり自我欠損という症状である。
最後に繰り返すが、無気力な人は自分の存在は他人の迷惑になるどころか、他人の喜びにさえなるのだと自分にいいきかせることである。