「現実を生きる」と「かりそめを生きる」

自己価値感人間は現実を生きています。

日々、「自分の人生を生きている」という実感を持っています。

勉強、仕事、雑務など、自分の本来的な欲求や願望とは異なった行動をおこなわなければならないこともたくさんありますが、それでも、基本的には自らの欲求、感情、関心に基づき、自ら選択して、自分が築いてきた生活を生きていると感じています。

自己無価値感人間は、現実をいきているという感覚が希薄です。

いまは仮の人生であって、自分の本当の人生は将来のいつの日にかはじまる、という感じを持っています。

それは、自分の本当の感覚、感情、欲求とは裏腹な自分を生きているためです。

日々の行動は、強制されて仕方なくおこなっている感覚が強く、虚しさの感覚やつらさばかりが感じられます。

こうした人の発する言葉は、現実的内容を失い、言葉だけのものになることが多く、「好き」とか「愛している」、「・・・したい」などと言っても、本当にいま感じていることがその言葉で表わされているかどうか、本人も疑念を持っているのです。

その場に身を置いているのですが、現実に全面的に関与している実感がありません。

現実を傍観者として見ている自分がいます。

たとえば、家族と食事をしながら笑っていても、その楽しい食事風景を自分が外から見ている、といった感じです。

自分の人生さえも傍観者としてみているかのような感覚があります。

自分の人生・後悔の人生

自己価値感人間は、現在の自分とその人生は、自分が築いてきたと感じています。

だから、自分の人生には自分に責任があると感じ、自分の人生を自分で引き受け、肯定しています。

もちろん、彼らが完全な人間というわけではありません。

欠点や弱点はあり、弱気や利己主義に悩まされることもあります。

しかし、彼らは、こうしたことに対しても、自分なりに誠実な態度をとろうと努力します。

これまでの人生で、達成できなかったことも多くあるし、悔いが残ることもありますが、トータルとして考えたとき、「わが人生に悔いなし」という姿勢で自分の人生を受け止めます。

このことは、やがてやってくる老いと死を、自分の人生の必然の出来事として、受け入れる準備ができていることを意味します。

ところが、自己無価値感人間にとって、人生はつねにがんばりの連続でした。

もしくは、がんばることにも値しない空虚なものでありました。

そのいずれにせよ、自分自身の人生を生きてくることができなかった、自分が夢見た人生とは裏腹な人生を過ごしてしまった、そんなふうに感じられます。

だから、ずっといつも「ここ」から「どこかへ」逃げ出したい気持ちがありました。

自分自身を生きてこなかったという思いは、老いを迎える年齢になって後悔や焦燥感、絶望感をもたらします。

これまでの人生を受け入れられず、かといって、自分の人生をやり直す時間はもはや残ってはいない、と。

このために、自己無価値感人間にとって、死は憧れであるか、とてつもなく恐ろしいものとして現れます。

がんばって、がんばって、もはや十分にがんばり抜いたという人は、死が人生という重荷から解放してくれる救いのように思われます。

なかには、自ら進んでこの道を選択する人もいます。

外界を威圧する思いでがんばってきた人にとって、死は決定的な敗北のように感じられます。

こうした人は、死後に寄せられる自分への評価を思いやり、老年期も安閑としていられません。

地位や名誉、金銭などにいつまでも固執し、死を恐れることになります。

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本人が気づかない心の屈折

自己価値感人間と自己無価値感人間の内面は大きく異なっています。

しかし、表面的にはその違いはわかりません。

それは、両者とも同じ場面で同じ行動をするし、同じ場面で同じ言葉を発するからです。

さらに、自己無価値感人間のほうが社会的に望ましい行動をとることも少なくないからです。

自己無価値感人間の内面の屈折は、幼い時期からはじまっています。

しかし、周囲の人も本人もそのことに気づかず、そのため、何の問題もないと考えて対処してきて、屈折は大きくなってしまうのです。

短いときには平行に見える二つの線が、はるかその延長線上では大きく隔たってしまうように。

この屈折を大きくさせないようにしようとすることが、子どもの反抗期と呼ばれる現象を出現させます。

第一反抗期にせよ、第二反抗期にせよ、反抗期とは、自己価値を守り、維持し、高めようとする子どもの叫びなのです。

自分の心が自己価値感人間の心とは異なるということは、本人でさえ気づかないものです。

本人が気づくのは、自分の心に敏感になる思春期以後で、それは最初、何か分からない違和感として体験されます。

そして、しだいに、自分とは正反対といえる心の動きをする人が存在することに気づきます。

こうした意識を持った人は、「普通の人は・・・だけど、自分は・・・」とか、「みんなは・・・だけど、私は・・・」などという言い方をします。

さらに、生活体験を積み重ね、人と親しく接するなかで、じつは「普通の人」が自分と同様な心理傾向を持つことを知ります。

このことは、大きな発見であり、自己無価値感人間としての苦しさを抜け出す一つの契機ともなるのです。

しかし、自己無価値感からくる生きづらさに苦しみながら、その本質に気づかずに生涯を終えてしまう人も少なからず存在します。