黙っていては自分の考えは伝わらない
「自分は自分、人は人」という人は、感情的な議論を好みません。
議論そのものは嫌いではなくても、相手が感情的になり、自分の意見を強く主張してくればいいたいこともいい出せなくなります。
「あの人に話てもムダだろう」とか、「これをいったら怒らせるかもしれない」と先回りして考えてしまい、結局、何もいわずじまいということが多いのです。
その結果、どうなるでしょうか。
いろいろなことを我慢したり、余計な仕事まで抱え込んだりします。
自分のペースを守りたいのに、それができなくなるのです。
いちばん損するのは「取り越し苦労」です。
「あの人はきっと忙しいだろうから、助けを頼んでも迷惑に思うだろう」
他人に負担をかけたくないという気持ちが争いの嫌いな人にはありますから、自分の希望や要求があってもいい出せないことがあるのです。
でも、しばしばそれで後悔したことがあります。
「ひとこといってくれればよかったのに」と、あとでいわれることがあるからです。
自分の考えや気持ちを口に出すことは、少しも悪いことではありません。
かりにそこから感情的なことばのやり取りが始まったとしても、そのときはそのときです。
意見のぶつかり合いは争いではありません。
要は自分が冷静で、論理的でありさえすればいいのです。
そのことをぜひ思い出してください。
どんなに争いが嫌いな人でも、黙っているかぎり自分の考えは相手に伝わらないのです。
態度で威圧する人は損をしている
押しの強い人にも、自分の考えをきちんといわないところがあります。
ただのぶっきらぼうとか、
口下手ではなくて、態度で威圧して相手を従わせようとするからです。
よく横柄な上司が部下に向かって「黙っていわれた通りにしなさい」とか、「説明する必要はない」といったことばを吐きますが、あれと同じです。
自分のキャリアや実績にものをいわせようとする人間も同じです。
「説明してもわからないだろうから」
「ここは任せてくれないか」
そういったいい方が出てきますね。
有無をいわせない態度ということになりますが、本人はそれで話が終わったつもりでも相手には何も伝わっていません。
すると、「勝手にすれば」とか「やればいいんだろ」ということになります。
それでもし、何か問題が起こったとしてもおたがい、どうしようもないのです。
「いわれた通りにしろ」と命じられればその通りにするしかありません。
結果に責任は負えないし、任せたことは最後まで任せっきりにするしかないのです。
つまりことばや態度で威圧する人間は、他人の協力を得ることができません。
自分の意見や考えをきちんと説明しませんから、いくら思い通りにものごとを進めても、何か問題が起きたときには一人でかぶるしかないのです。
ここでもいえることは、ものごとをスムーズに進めるためにはまず、話し合うという手続きを欠かしてはいけないということです。
話し合えば、事前に予期できたり防ぐことのできるトラブルがかならずあるからです。
話し合う事が出来ればその人のよさが見えてくる
私たちには好き嫌いがあります。
あの人は好き、その人は嫌いという、人間関係の好き嫌いです。
あるいは敵・味方の感覚です。
「彼はいつも私の意見に反対してくる」とか、「彼女ならわかってくれるだろう」といった、相手を敵に感じたり味方に感じたりする感覚です。
こういった感覚は、押しの強い人や他人と争う人ほど強いのですが、争いの嫌いな人にももちろんあります。
これは仕方ないでしょう。
ただ、「自分は自分、人は人」という人が自分の考えを相手に伝えようとか、わかってもらおうと思うなら、どういう相手であっても話し合う気持ちを忘れてはいけないはずです。
とくに、嫌いな相手や自分と合わないと感じる相手ほど、この話し合いの手続きが必要になってくるのです。
こういったことは、文章にしてしまえばだれでも「当たり前じゃないか」と思うでしょう。
でも現実には、ほとんどの場合、自分が嫌いな人間や意見の合わない人間とは最初から話し合おうという気持ちにさえならないのです。
「話さなくてもわかっている。どうせ反対するに決まっている」と考えるからです。
したがって、相手の考えや気持ちがほんとうのところはどうなのか、あるいは自分の考えや気持ちがどう受けとめられるのか、そこはわかっていません。
そしてもっと大事なのは、嫌いでも合わなくても、向き合って話してみればその思い込みが変わってくることがあるという事実です。
わたしたちはしょっちゅう、「話してみたら悪い人じゃなかった」とか、「あの人は嫌いだけれど、話してみれば頷けることもあった」といった感想をもちます。
すべて、話してみたからわかったことです。
争いが嫌いでも責任放棄はできない
もう一つ大事なのは、なんのために話し合うのかということです。
こちらの意見を通すためでしょうか。
相手の意見をつぶすためでしょうか。
勝ち負けにこだわってしまうと、話し合いは「どっちが言い負かすか」といった論争の場になってしまいます。
あるいは相手を黙らせたほうが勝ちです。
そこで争いの嫌いな人は「いわせておこう」とあきらめてしまう傾向があります。
どちらにしても、話し合うのはなんのためなのかという大事なことを忘れてしまうのです。
話し合うのはその場において「正しい答」を出すためです。
意見が食い違うから話し合うのは当然としても、どちらが勝つか負けるか決着をつけるためではありません。
たとえば仕事の方向性や、やり方について話し合うときでも、一人の出した意見をみんなで鵜呑みにしてしまうより、異なる意見がたくさん出てきたほうがいいでしょう。
それだけ選択肢が増えるのですから、より「正しい答」に近づくことができるはずです。
そこで自分の意見があるのに黙ってしまうと、「正しい答」からずれてしまう可能性があります。
そしてたとえずれた答が出されたとしても、話し合いの場にいた以上は従うしかないのです。
その結果、失敗したらだれの責任になるのでしょうか。
「自分は自分、人は人」という人に考えていただきたいのはそういう問題です。
「私は反対だったけど、いい争いになるから黙っていた」
もしそんな弁解をするようでしたら、情けないと思います。
争いの嫌いな人は、ときどき自分が火の粉をかぶるのがイヤで、修羅場を避けようとするからです。
穏やかな人、温厚な人が、じつは責任逃れの達人だったりすることはよくあるのです。
相手をわかろうとすることは人と話すこと
意見が食い違ったときにはじっくり話し合うこと。
どういう場合でも、それさえ忘れなければ争いが嫌いでも強く生きていけます。
これは勝ち負けとは無関係です。
強く生きていけるというのは、人と争わなくても自分の納得のいく生き方ができるということです。
自分で自分の生き方を窮屈にする人には、他人を色分けするクセがあります。
「あの人は嫌いだ」「あいつは味方だ」「彼女はA子の友達」「彼女はB子のグループ」そんな感じで一人一人を自分に「合う、合わない」「仲間か敵か」と分けてしまいます。
すると、だれのこともわかろうとはしなくなるのです。
自分と合うとか、仲間だと思ってしまえばもう、その人をすべてわかったつもりでいます。
この場合は、「どうせ話が合わない」というわかり方です。
「争いの嫌いな人」はおそらく、自分のこともわかってくれる人がわかってくれればいいと考えるでしょう。
この考え方じたいは少しも間違いではありません。
でも、あなたのことをほんとうにわかってくれる人は、少なくともあなたと話し合える人でなければいけません。
ただたんに、あなたを味方だと思っている人があなたをわかっているとはかぎらないからです。
そうだとしたら、もう敵とか味方とか、あるいは合う、合わないといった色分けは意味がなくなってきますね。
いちばん大事なのは、その人とじっくり話し合えるかどうかです。
いまの自分をわかってもらい、いまの相手の気持ちを知ることができるかどうかです。
人と話し合うことは、それじたいが、おたがいに相手をわかろうとする気持ちの表われになってくるのです。
最初から言うだけムダとあきらめたら逃げるしかない
「自分は自分、人は人」という人は、はたから見て少しむずかしいところがあります。
勝ち負けにこだわらない性格なのか、それとも負けるのがイヤだから争わないのか、そのあたりの性格がわかりにくいのです。
でも本人はわかっていますね。
やはり負けるのはイヤです。
負ければ悔しいし、屈辱感も味わいます。
だからなるべく争いの場に引き込まれないようにふるまうことが多いのです。
そこで、どうすれば争いに巻き込まれずに、自分のペースでやっていけるかを考えたのが前章までの展開だと思ってください。
でもこの章では、あえて争いに巻き込まれることを覚悟してもらいます。
相手が勝ち負けにこだわる人間、理屈や論理より力の優劣を前面に出してくる人間なら、ときには話し合ってもムダになります。
「余計なことをいうんじゃなかった」と後悔することがあるかもしれません。
それでもあきらめないでください。
ダメならそのときあきらめればいいのであって、最初からあきらめることだけはしないでください。
人間には踏みとどまらなければいけない場面がかならずあるのです。
どういう場合でも、「いうだけムダ」と思えば逃げるしかなくなってしまいます。
それは結局、答えを出すことを放り投げた問題が身のまわりに増えることになります。
こんな生きづらい環境はないのです。
ちゃんと話し合えば、人と争わなくてもマイペースは守れる
けれども「自分は自分、人は人」という人には長所があります。
どんな相手からも、「この人なら大丈夫」と思ってもらえることです。
「この人なら話せばわかってもらえる」
「この人の話すことなら聞いてやってもいい」
そういった気安さがあるのです。
穏やかな性格だからそう思ってもらえます。
落ち着いた態度だからそう思ってもらえます。
そのことを、どうか自分の長所として誇りに思っててください。
「それってナメられているんじゃないか」とは考えないでください。
なぜなら、勝ち負けにこだわる人や、話してもすぐにムキになる人は、最初から相手にしてもらえないからです。
争いの嫌いな人だからこそ、「この人がいうのなら聞いてやらなくちゃ」と思ってくれる人がかならずいます。
そして、じっくり話し合えばいくつもの答が返ってきます。
「とても聞いてもらえないだろう」と思った自分の意見があっさり同意されたり、相手も思いがけない本音をもらしてくれたり、たとえ対立しても譲り合えることが出てきたりするのです。
話し合うというのは、本来、争うことではなくて分かり合うことだというのがかならず実感できます。
争うのが嫌いな人だから、それが可能になるのです。
めざすのは自分のペースでコツコツやることでした。
人とじっくり話し合うことも、自分のペースのなかに取り込んでください。