嫌いな人を好きになれる理由
人生においては、なかなか好きになれない人がいる。
その「感情の問題」は、どうしようもない。
しばしば、そういう声を聞く。
では、誰かを「好きになれない」ということは、「感情の問題」なのだろうか?
たしかに、嫌いな人を「好きになる」ことは、容易ではないだろう。
しかし、嫌いな人を「好きになろうと思う」ことはできる。
それゆえ、ここでの心の技法は、
その相手を好きになってしまおうと思う
である。
この技法の意味を説明するために、また、一つのエピソードを紹介しよう。
これは、ある青年Aさんが企業に就職し、新入社員として歩み始めたときのエピソードである。
四月一日の入社式を終え、都内での一週間の新入社員研修を終えた後、人事部長から新入社員全員に対する訓示があった。
そこで、人事部長が語った言葉が、いまも心に残っている。
「君たちは、明日から、当社の各部署に配属になる。
そこで、一つ、アドバイスをしておこう。
配属になったら、最初に、その職場を見渡しなさい。
そして、その職場で、最も好きになれそうにない人を、見つけなさい。
そして、その人を見つけたらその人を、好きになりなさい」
この言葉を聞いたとき、一瞬、耳を疑った。
なぜなら、「最も好きになれそうにない人を、好きになれ」ということは、無理な要求だと思ったからである。
そもそも、好き嫌いは、感情の問題であり、意志では、どうにもならないのではないか?
それが、この人事部長の言葉を聞いたときの、最初の思いであった。
しかし、その後、現場に配属になって仕事を始めると、この人事部長の言葉の意味が、少しずつ分かってきた。
なぜなら、配属になった現場においても、上司や先輩たちが、ときおり、「人を好きになれ」という言葉を語っていたからである。
そして、たしかに、企業の現場では、部署に配属になったり、チームに参加したとき、まず、その部署のメンバーを好きになり、そのチームのメンバーを好きになることが、最初の大切な仕事であった。
もとより、それは、言葉で言うほど簡単なことではなかったが、その部署やチームで、良い仕事をしようとするならば、必ず求められる大切な心構えであった。
そして、企業の現場で、そうした「人を好きになる」という努力をしていると、次第に、好き嫌いということは、変えがたい「感情の問題」ではなく、努力次第で変えられる「意志の問題」であることが、身体的に分かるようになってきた。
しばしば、世の中には、「嫌いなものは、嫌い」という言葉を簡単に発する人がいるが、それは、残念ながら「成熟した精神」とは言えないだろう。
もとより、人間には、「どれほど努力しても好きになれない人」というものがあることは否定しないが、「嫌いなものは、嫌い」という言葉は、少なくとも、「好きになる」ための努力を尽くした後に、心から零れ落ちるようにでてくるべき言葉であろう。
そして、一人の未熟な人間であるAさんの人生を振り返ってみても、出会った当初、「この人は好きになれない」と思った人物と、何年かの歳月を共に歩み、不思議なほど深い結びつきになることは、何度もあった。
そして、その歩みの軌跡は、振り返れば、まぎれもなく、自分自身の人間としての成長と成熟の軌跡でもあった。
それゆえにこそ、「その相手を好きになろうと思う」ということを、人間関係に処していく大切な「心の技法」として、述べておきたい。
では、「相手を好きになろう」と思ったとして、どうすれば、その「好きになれない人」を、意識的にすきになることができるのか?
もとより、「嫌いな相手を好きになる」ための簡単な方法は無いが、そのための参考になる、「人間をみつめる視点」は、幾つかある。
それを、ここでは「五つの視点」として述べておこう。
本当は、欠点は存在せず、個性だけが存在する
そもそも、なぜ、我々は、誰かを嫌いになるのか?
しばしば、我々は、人を好きになれないとき、「彼の、あの欠点が嫌いだ」「彼女の、あの欠点は、我慢できない」といった言葉を使うが、そもそも、この欠点とは何か?
科学の世界に、この言葉の意味を示唆してくれる、興味深い言葉がある。
それは、「発酵」と「腐敗」という言葉である。
実は、科学の世界における、この言葉の定義を知ると、誰もが、その「非科学的な定義」に驚くだろう。
例えば、牛乳を「発酵」させると「ヨーグルト」ができる。
一方、牛乳を「腐敗」させると「腐った牛乳」ができる。
では、「発酵」と「腐敗」の違いは、何か?
その違いを、科学の教科書には、こう書いてある。
「発酵」も「腐敗」も、微生物が有機物質を分解する性質。
そのうち、人間にとって有益なものを「発酵」と呼び、人間にとって有害なものを「腐敗」と呼ぶ。
この「発酵」と「腐敗」に関する定義を読むと、読者は、「科学的客観性」を超えた「人間中心」の主観的な定義に、驚くのではないだろうか?
そして、この「発酵」と「腐敗」の定義についての「人間中心」の視点を見ると、それが、人間の「長所」と「欠点」を論じるときの「自己中心」の視点と似ていることに気がつくだろう。
すなわち、我々は、「発酵」と「腐敗」の定義を論じるとき、人間にとって有益なものを「発酵」と呼び、人間にとって有害なものを「腐敗」と呼ぶが、同様に、我々は、「長所」と「欠点」の定義を論じるとき、自分にとって好都合なものを「長所」と呼び、しばしば、自分にとって不都合なものを「欠点」と呼んでいる。
例えば、いまここに、一人の人物がいる。
彼の性格について周りの意見を聞くと、全く逆の評価が戻ってくるかもしれない。
「彼は、おっとりとした性格なので、一緒にいると、気持ちが安らぐんですね」
「彼は、とろいところがあるので、急ぎの仕事などを頼むときは、イライラしますね」
また、ここに、別な人物がいる。
彼女の性格について周りの意見を聞くと、やはり全く逆の評価が戻ってくるかもしれない。
「彼女は、てきぱきと物事に処する性格なので、一緒に仕事をすると、助かるんですね」
「彼女は、短気な性格なので、一緒にいると、なんか気が休まらないんですね」
このように、一人の人物の性格は、それを見る立場と、置かれた状況によって、「長所」にもなれば、「欠点」にもなる。
そう考えるならば、実は、世の中に、本来、人間の「長所」や「欠点」というものは存在しない。
存在するのは、その人間の「個性」だけである。
そして、我々は、その人の「個性」が、自分や周囲に好都合な形で発揮されたとき、それを「長所」と呼び、自分や周囲に不都合な形で発揮されたとき、それを「欠点」と呼んでいるだけに過ぎない。
誰かに対して、「彼の、あの欠点が嫌いだ」「彼女の、あの欠点は、我慢できない」といった思いが浮かぶとき、我々は、この「長所」と「欠点」の定義を思い起こすべきであろう。
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嫌いな人は、実は自分を映している
このタイトルを述べると、驚きを感じる読者もいるだろうが、実は、この言葉は、しばしば、真実である。
例えば、一般に、家庭などで、父親と娘が、よく意見がぶつかるという場合がある。
こうした状況を、よく見てみると、この父親と娘、遺伝的に互いの性格が似ているということが原因になっていることも多い。
遺伝的には、娘が父親の性格に似て、息子が母親の性格に似るということは、しばしば起こると言われるが、この場合には、似た性格だからこそ、互いに父親と娘が、反発するということが起こっている。
また、例えば、企業などで、ときおり、こうした会話を耳にする。
会議で、二人の課長の意見がぶつかり、少し感情的な議論になった後、参加者の会話である。
「A課長、何で、B課長の意見に、あんなに反対するのだろうか?少し感情的な反対のような気もするんだが・・・」
「A課長は、B課長のことが、嫌いなんだろうな・・・」
「どうして、そう思う?」
「だって、そうだろう。A課長とB課長、二人とも、性格が似ているんだよ・・・」
「なるほど・・・。やはり、そうか・・・」
では、なぜ、「自分に似ている人を、嫌いになる」、もしくは、「嫌いな人は、自分に似ている」ということが起こるのか?
これは、我々人間の心には、「自分の持つ嫌な面を持っている人を見ると、その人に対する嫌悪感が増幅される」という傾向があるからである。
そのため、「嫌いな人」の嫌いな部分をよく見てみると、自分の中にある嫌いな部分と同じであることに気がつく、すなわち、「自分に似ている」ということに気がつくのである。
これを、少し難しい言葉で表現すると、
「他者への嫌悪の感情は、しばしば、自己嫌悪の投影である」
という言葉になる。
たしかに、人間には、自分でも嫌いな「自分の欠点」を指摘されると、それを認めたくないため、感情的に反発したくなる心理があるが、同様に、相手の姿の中に、自分でも嫌いな「自分の欠点」を見ると、それを見たくないため、その相手をますます嫌いになるという心理がある。
特に、相手の姿の中に、自分自身が心の奥深くに抑圧している「自分の欠点」を見つけると、それが「自己嫌悪の投影」であることさえ気がつかず、相手に対する嫌悪感を持つことがある。
そうした人間心理の機微を理解するならば、人生で「好きになれない人」や「嫌いな人」に出会ったとき、その人の持っている「欠点」が、自分の中にもあるのではないかと考えてみることも一つの方法であろう。
昔から語られる「相手の姿は、自分の心の鏡」という言葉は、この人間心理の機微を語った言葉でもある。
そして、「他者への嫌悪の感情は、しばしば、自己嫌悪の投影である」ということを理解するならば、我々は、もう一つ大切なことを理解しておく必要がある。
自分の中にある欠点を許せないと、同様の欠点を持つ相手を許せない。
この「自分の中にある欠点を許す」ということは、実は、我々の深層意識の世界に関わる、深く難しい課題であり、それができるようになることは、容易ではないが、我々は、この心の機微も、理解しておく必要がある。
古典に語られる「自分を愛せない人間は、他人を愛せない」という言葉は、この心の機微の深みを語った言葉に他ならない。
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共感とは、相手の姿が自分の姿に思えること
では、なぜ、このことが大切なのか?
なぜなら、「相手を好きになる」ためには、「相手に共感する」ことが、最良の道だからである。
しかし、世の中で、この「共感」という言葉が、「賛同」という言葉と混同して使われることがある。
例えば、「僕は、A君の意見に共感しますね」「私は、Bさんの考えに共感します」といった使い方である。
しかし、ただ相手の意見や考えに「賛同する」ということと、相手に「共感」するということは、全く違うことである。
また、相手の意見や考えに「賛同する」ことが、その相手を「好きになる」ことを意味するわけでもない。
また、世の中では、この「共感」という言葉が、「同情」という言葉と混同して使われることもある。
しかし、この「同情」という言葉には、どこか、相手と自分の間に「心理的な距離」がある。
そして、密やかな「上からの目線」が忍び込む。
一方、「共感」という言葉には、それが無い。なぜか?
「共感」とは、相手の姿が、自分の姿のように思えることだからである。
例えば、いま、部下の指導で苦労をしている二人の主任、A主任とB主任がいる。
二人とも、それぞれ、若手社員のC君とD君を、夜遅くまで懇切に指導をしている。
しかし、あまり物覚えのよくないC君とD君の指導に、かなりの時間とエネルギーを取られている。
少し疲れた表情の二人に、「どうして、そんなに頑張って部下を指導しているのか」と聞いてみると、A主任からは、次の言葉が返ってくる。
「いや、C君を見ていると、何か、可哀想に思うんだよ・・・。
誰かが指導をしてやらないと、このままじゃ、使い物にならないからな・・・」
これに対して、B主任にも同じ問いを投げかけてみる。
すると、この言葉が返ってくる。
「たしかに、D君は、少し物覚えが悪いので、指導に苦労するな・・・。
でも、彼を見ていると、自分の若手社員の時代を思い出すんだな。
自分も、あまり物覚えが良い若手じゃなかったなって・・・。
それを粘り強く指導してくれた先輩や上司がいたんだよ。
だから、自分も、頑張らないとな・・・」
このA主任の姿、たしかに、夜遅くまでの部下指導には頭が下がるが、どこか部下のC君に対する「同情」という心境で動いている。
一方のB主任、部下のD君に対する「共感」で動いている。
D君の姿が、若き日の自分の姿のように思えるという「共感」が、このB主任を動かしている。
この「賛同」と「同情」と「共感」、いずれも、我々が抱く「よき感情」であるが、「共感」という感情は、「相手の姿が、自分の姿のように思えること」であるため、「賛同」や「同情」という感情に比べて、相手との心の関係を、より深いものにしていく。
それゆえ、我々が、人生において、「好きになれない人」や「嫌いな人」と巡り会ったとき、相手に対して、この意味における「共感」を抱くことができれば、その人を、少しでも「好きになる」ことができるだろう。
例えば、ある人が示す人間としての「未熟さ」を見て、嫌悪の感情を抱くとき、一度、その感情から離れ、「その人もまた、自分の未熟さを抱えて苦しんでいる」ことを理解し、「自分もまた、人間としての未熟さを抱えて苦しんできた」ことを思い起こすことができれば、その人に対する否定的な感情は、少しでも薄れていくだろう。
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相手の心に正面から向き合うだけで、関係は良くなる
では、なぜ、この正面から向き合うことが必要か?
なぜなら、人間関係がおかしくなるときというのは、多くの場合、心の深くで、相手と「正面から向き合う」ことをせず、相手を「斜に構えて」みているからである。
例えば、「あの人は、ああいう人だから」「この人は、どうしてこうなんだろう」「しょせん、言っても分からないから」「もう、無理だろう」といった冷笑的な眼差しや皮肉な眼差しで、相手を見ている。
そして、こうした眼差しで相手を見ているかぎり、相手も、無言のメッセージで、それを敏感に感じ取り、相手もまた、「斜に構えて」こちらを見るようになる。
さらには、こちらと「正面から」向き合うことを避け、心を閉ざしてしまう。
また、この「相手に正面から向き合うことができない」ということは、実は、家庭の中での人間関係において、しばしば起こる。
こう述べると、意外に思われる読者がいるだろうが、実は、それが真実である。
では、なぜ、家庭における親子や夫婦が、互いに「正面から向き合うこと」できないのか?
それは、互いに、根拠のない思い込みがあるからである。
「自分は、子どものことは、よく分かっている」
「親父のことは、毎日、顔を合わせているから分かっている」
「夫婦なんだから、女房のことは、誰よりも知っている」
「亭主のことは、細かな癖まで、知り抜いている」
そうした「思い込み」があるからである。
しかし、現実には、親子といえども、夫婦といえども、互いに独立した一つの人格である。
どれほど永い年月を共にしても、互いに、その心の奥深くがわかっているわけではない。
それにもかかわらず、それを分かっていると思い込む。
そして、自分の勝手な「思い込み」で相手を見る。
それが、家庭の中での人間関係において、「相手に正面から向き合うことができない」ということが起こる理由である。
従って、親子関係であっても、夫婦関係であっても、家庭の中での人間関係がおかしくなったとき、最初に行うべきことは、「相手のことは、分かっている」という「思い込み」を捨て、相手を一人の独立した人格として見つめ、心で「正面から向き合い」し、相手に耳を傾けることである。
それをするだけで、何かが変わり始めるだろう。
このように、家庭の人間関係であろうとも、職場の人間関係であろうとも、友人・知人の人間関係であろうとも、我々が、相手の心に「心で正面から向き合う」ことができるならば、それが、どれほどこじれた人間関係でも、何かが変わり始める。
ときに、おかしくなった人間関係が、不思議なほど、好転していくときがある。
それは、なぜか?
相手に心から向き合うこととは、相手を一人の人間として敬意を持って接する」ことだからである。
そして、我々の心の中の、その「敬意」もまた、無言のメッセージとして、相手に伝わるからである。
相手を好きになろうと思うことは、最高のメッセージ
一般に、世の中では、「人間は、自分を好きな人間を、好きになる」ということが言われる。
たしかに、一般の人間関係において、この言葉は、真実であるが、「好きではない人間を、好きになる」ことは、簡単ではない。
しかし、「好きではない人間を、好きになろうとする」ことは、決して、難しくない。
そのためには、ある一つの「心の技法」を行うことである。
それは、どのような技法か?
相手の「孤独」や「寂しさ」を見つめることである。
すなわち、我々人間の誰もが抱えている「孤独」や「寂しさ」を見つめ、その「孤独」や「寂しさ」が相手の中にもあることを知り、その姿を、虚心にみつめることである。
この人生において、我々は、誰もが、独りで生まれ、独りで去っていく。
それゆえ、この人生において、我々は、どれほど素晴らしい家族や友人に恵まれても、心の深いところで、「孤独」を抱え、「寂しさ」を抱え、生きている。
そして、その「孤独」と「寂しさ」がゆえに、この人生において、我々は、誰かから愛されたい、誰かから好かれたいと願って、生きている。
この欠点も未熟さも抱えた自分を、そのまま受け入れてくれる人との出会いを願って、生きている。
もし、我々が、そのことを理解し、その深い眼差しにおいて、相手を見つめるならば、その人を、すぐには好きになれなくとも、「この人を好きになろう」という思いが浮かんでくるだろう。
かつて観た、ある映画のワンシーン。
主人公が、相手に向かって叫ぶ言葉が、心に残っている。
「俺は、あんたのことが、嫌いだ!大嫌いだ!だけど、好きになりたい!好きになりたいんだ!」
この「相手を好きになりたい」と思う心、それは、必ず、相手に深く伝わる。
なぜなら、相手を好きになろうとすること、それは実は、最も深い、相手への思いやりであり、最高のメッセージだからである。
まとめ
嫌いな人を好きになるよう努力することで人間関係は円滑にいく。
人間には本来欠点というものはなく、個性がある。
嫌いな人がいるとき、それは自分自身を映し出している。
相手に心を開くことで人間関係は円滑にいく。