ひとりぼっちが辛いとは

ひとりぼっちが辛いとは

ひとりで外食(ぼっち飯)ができない

ひとりぼっちを苦痛に感じる顕著な例として、外での食事があります。

もちろん、「ひとりで食事をすることのどこが問題なの?」と思う人もいるでしょう。

しかし、「ひとりぼっちで食べていると、寂しい人だと思われるのではないか」

と不安を感じて「他人の目」が気になったり、友達や恋人と楽しく食事をしている人たちを見て「私はなんて孤独なんだろう」と落ち込んだ地したことがある、という人も少なくないはずです。

実際に、そういう気持ちのために、本当は食事をとる必要があるときでも、ひとりぼっちで食べるくらいなら食事そのものを抜いてしまう、という人もいますし、どうしても食べなければならないときには、本を読んだり、音楽を聴いたり、という「ながら食い」をして、「食事をしている」という要素をできるだけ小さくしようと努力したりする人もいます。

そうすれば、メインは「読書」「音楽」のほうになり、食事は「ついでにしていること」にできるからです。

職場などでは、ひとりぼっちで食べているところを人目にさらすことがどうしても耐えられない、というときに、ひとりぼっちでいられる場所、例えばトイレの個室で食事をすませてしまう、という話も聞きます。

もちろんトイレが食事に向かない場所だということは十分にわかっているし、自分自身もそんなことはしたくないけれども、それほど「一緒に食事をする相手もいないのか」という目で見られることが怖いのです。

また、「ひとりぼっちでいると、寂しい人だと思われるのではないか」「性格的に問題がある人だと思われるのではないか」という思いから、本当はあまり好きではない人とでも一緒に行動してしまい、行きたくもないところに行かされたり、つまらない思いをしたり傷つけられたりする、ということもありますね。

さらに、SNSが事態を難しくしています。

フェイスブックなどSNSの普及により、「どれだけ多くの人とつながっているか」という実数が目に見えるようになってきた、という現実があり、「つながっている人の数が少ないと恥ずかしい」と感じる人が少なくありません。

ネット上でつながっている人の数が、本人の人気や魅力、どれほど他人から関心を抱かれ必要とされているかを示すように思われてしまうからです。

この考え方を採用すれば、つながっている人数がすくない人は、それだけ「魅力のない、価値のない人」ということになってしまいます。

ですから、つい必死になって「つながっている人の数」を増やす努力をしてしまいがちになるのです。

そのために払う時間的・精神的犠牲も、また大きなものです。

リアルな空間でもひとりぼっちにならないために汲々とし、ネット空間でも「つながっている人の数」のために汲々とし、ということになると、消耗してしまいますね。

そんなことでは、ありのままの自分でいることができず、人生の質も下がってしまうでしょう。

人生をよりよくするためにも、心地よい人間関係を持つためにも、「他人の目」を気にせず、一人でいられることは重要です。

他人の目を気にして、「ひとりにならないこと」を中心に生きてしまうと、いろいろな犠牲を払わなければならなくなります。

ポイント:リアルな空間でもネット空間でも他人の目を気にして目に見えるつながりを追うと、生きづらくなる

■関連記事
負い目を感じる心理と対処法

なぜひとりぼっちが嫌なのか

私たちは、なぜそこまでひとりぼっちを嫌がるのでしょう?

ひとりぼっちで外食するときに、「ひとりぼっちでいると、寂しい人だと思われるのではないか」「性格的に問題がある人だと思われるのではないか」などと考えてしまうのは、なぜなのでしょうか?

また、ツイッターやフェイスブックなどで、「つながっている友達の数が人より少ないのが恥ずかしい」「自分も友達が多い人間だと思われたい」などと感じてしまうのは、なぜなのでしょう?

そこには、「一緒に行動している人が多い=友達が多い」「ネット上でつながっている人が多い=友達が多い」という思い込みがあります。

それ自体が決して正確なものではないのですが、その背景にはさらに「友達が少ない=人間としての魅力がない、必要とされていない」という思い込みがあります。

それ自体が決して正確なものではないのですが、その背景にはさらに「友達が少ない=人間としての魅力がない、必要とされていない」という思い込みがあります。

自分自身にひとりぼっちに対するネガティブな思い込みがあるからこそ、自分の中にある「他人の目」を通して、ひとりでいる自分の状況を「友達がいない」「魅力がない」「必要とされていない」という意味に短絡的に解釈してしまっているのです。

他人の目とは、自分自身の「小さいトラウマ」に起因する内なる声です。

人は小さいころからさまざまな評価を受けて育ちますが、なかにはネガティブな評価もあります。

ネガティブな評価は心を傷つけます。

そういった日常生活でのネガティブな評価などによってできた心の傷を、少しのトラウマと呼んでいます。

どんな人にも少しのトラウマはありますが、少しのトラウマ(あるいは虐待など、本格的なトラウマ)を与えてくる人しかいない環境で育った方もいます。

そして他人の目を強く気にしてしまう多くの方に共通しているのが、少しのトラウマを数多く抱えている、ということです。

他人の目が気になってしまう人は、身近なところに批判的な人、心配性の人、過干渉な人が存在したため、成長過程で自分をありのままにさらけ出し、安心するという経験をしていないことが多いのです。

「少しのトラウマ」で傷ついた人は、他人を自分に評価を下し傷つける存在と認識します。

そしてこれ以上傷つくことがないように、「他人の目」を気にするようになるのです。

成長過程で「ひとりは寂しい」「ひとりでいるなんて、性格に問題があるのではないか」というメッセージを受け取り、ひとりぼっちでいることにネガティブな評価を受けた人ほど、「ひとりでいると、変な奴だと思われるのではないか?」と他人の目を気にしてしまい、大人になっても「ひとりぼっちがつらい」と感じがちだと言えます。

ポイント:他人の目は少しのトラウマに起因、「ひとりぼっち=人として問題がある、魅力がない」という思い込みがある。

■関連記事

ひとりぼっち=問題のある人は小学生~高校生の価値観

群れる生活の価値観

では、そもそもなぜ私たちはこんなにも当たり前のように、「ひとりぼっちでいる人は、寂しい人」「友達の『数』が重要」などという考えを信じてしまっているのでしょうか。

小学校中学年~高校生くらいの感覚としては理解できます。

小中学生は、基本的に、閉鎖空間の中で、行動様式としてはほとんど自由のない「群れる」生活を強いられているからです。

特に女子は、小学生中学年~高学年くらいから、本格的に群れ始めます。

これは中学生になっても、強化される一方です。

いじめの多さも、ここからある程度、説明することが可能でしょう。

基本的には常に一緒にいて、同じ課題を与えられ、一緒に行動しなければならないので、「それぞれの人が違う」という、人間としての多様性に目が向かなくなってしまうのです。

この時期に、それぞれの人が違う、それぞれの人に事情があるということをきちんと学んでおけば、その後の人生もずいぶんと変わるはずです。

人を簡単に決めつけたりすることもなくなるでしょう。

このあたりは教育に求めたい役割です。

閉鎖空間における団体行動では、それぞれの多様性よりも、「性格がよければ好かれる。性格が悪いとはぶかれる」という、極めて単純な図式ができてしまいます。

この時期には、まさに、「友達でいること」と「一緒に行動すること」、そして「好かれていること」が一致しているのです。

「ひとり=おかしい」という見方は、本来ならば、閉鎖空間での団体行動を求められる、高校生くらいまでの価値観なのです。

ポイント:閉鎖空間での”群れる”生活が「ひとりぼっち=おかしい」という価値観を生む。

■関連記事
エディプスコンプレックスの解消

学生の価値観のまま大人になっている

さて、ここに、「ひとりぼっちでいたくないとき」の例について、健康な現役女子高生が書いた文章があります。

ご本人の許可を得て、ご紹介します。

具体例1.教室を移動する際に、一人になるのが嫌だ

教室移動をする時にひとりぼっちなのが嫌だ。

理由は、通りすがりの人たちに、友達がいないと思われるのが嫌だから。

友達がいないと思われると、つまらない学校生活を送っていると思われる。

悲しい人だと思われる。

せいかくがあんまりよくないとか、付き合いづらい性格だと思われる。

小学校~高校中盤くらいまでは、「同じように行動する」ことを学校側からも強く求められます。

そしてそこから外れる人は、「どこか欠点がある人」と思われがちですし、実際にそのようなコメントをする教師もいます。

教師の教育目標が、「きちんと団体生活ができるようになること」に置かれているからでしょう。

同じように行動することが基本なので、それができないのはどこかおかしい、ということになってしまうのです。

お昼休み、お弁当をひとりぼっちで食べるのが嫌

お弁当をひとりぼっちで食べるのが嫌だ。

理由は、みんなが騒がしくやっているのに、自分だけ寂しいから。

お昼休み中ずっと話さないと疲れるから。

大人になれば、食事の場所は自分で選べるもの。

しかし、小中学校、そして多くの高校が、同じ場所でそろって昼食をとることを求めます。

すると、ひとりぼっちで食べていることがあまりにも目につくのです。

ここで「疲れる」と書かれているのは、ひとりぼっちで食べている寂しさや恥ずかしさ、緊張に耐える結果なのでしょう。

先生の話で分からないところがあるとき

先生の話を聞いているだけではわからないこともある。

友達に聞いてみないとわからないこともある。

わからないことは、本当は誰にでも聞いてよいのですが、やはり小学校中学年~高校くらいまでは、「いつも一緒にいる子に聞く」のが常識になっています。

普段は友達づき合いしていないのに、わからないときだけ聞くのはとてもハードルが高いですし、「ずうずうしい」と思われがちです。

部活動

部活とかは友達がいないと楽しいものじゃない。

部活こそは、まさに友達同士が交わる場。

大人がカルチャースクールにひとりで通うのとは全く違った「団結力」が必要となります。

友達がいないと、その「団結」から外れてしまい、特に孤独を強く感じることになってしまいます。

部活に入らない「帰宅部」が許される学校もありますが、それはそれで「暗い」「青春をエンジョイしていない」「協調性に欠ける」と思われることも多いようです。

トイレ

トイレに行くときにひとりなのが嫌だ。

友達がいないと思われるから。

だから、連れションが発生する。

これは特に女子に多いと思うのですが、「トイレに一緒に行く」というのは友達としての証というような印象があります。

学校という閉鎖空間で、人間としては必ずいかなければならないトイレ。

本来、排泄のタイミングはひとりひとりが違いますし、いつトイレに行ってもかまわないはずなのですが、「誰もが行かなければならないトイレ」にひとりで行くと、「友達がいない」という目で見られてしまうわけです。

ちなみに、大人になってから知り合った女性同士で、「中高時代、トイレにひとりで行けたかどうか」という話題になることがあります。

その時代に「トイレにひとりで行けた」ということは、相当、自立したユニークな女性、という感覚があるのでしょう。

そのくらい、「トイレにひとりで行けるかどうか」は象徴的なこと、と言えるのだと思います。

さて、これらは小学校、中学校、と経験してきた高校生の言い分です。

学校という閉鎖空間で、同じ課題を与えられ、一緒に行動することを求められ、人間の多様性について学んでいない子どもたちのことを考えれば、万事が「なるほど」と言えるものです。

しかし、ここに書かれたことは、驚くほどに、「他人の目」が気になって「ひとり」を怖がる、大人の悩みに、近いと思いませんか?

だから「ひとりぼっちでいるのが嫌」というのは年齢にかかわらず普遍的な認識なのだと言いたいわけではありません。

ここで提起したいのは、「ひとりぼっちになることに抵抗があるのは、学生時代の価値観から脱却できていない、「本当の大人」になっていないということではないか」という視点なのです。

ポイント:ひとりぼっちに抵抗があるのは、学生時代の価値観から脱却できておらず、本当の大人になっていないから。

まとめ

他人の目を気にすると、現実でもネットでも辛くなる。

ひとりぼっちが嫌なのは、ひとりぼっちは恥ずかしいことという小さいトラウマの積み重ねからなる。

閉鎖空間での群れからひとりぼっちがうまれる。

ひとりぼっちに抵抗があるのは、学生時代の価値観から抜け出せていないから。