痛みをコントロールすることに一生懸命になる人もいれば、痛みを生み出す状況をコントロールしようと試みる人もいます。
この人達は、痛みを取り去ったり、そこから逃げたり、癒そうとする試みとは対照的に、痛みの原因をなくそうとすることに望みをかけます。
アダルトチルドレンの完全主義
痛みに対する思考上の反応としてよくあるのが、完全主義です。
完全主義は、もし完璧に行動していれば誰からも批判されないし、だとしたらこれ以上傷つく理由もなくなるはずという信念によって煽られた考え方です。
けれども子ども時代に「どんなにがんばっても、まだ十分ではない」ことを学んでいる場合、完全主義は自己否定感を土台にしています。
その結果、自分はこれでよいと感じられるようにして痛みの原因を減らそうとする戦いは限度がなくなり、いつもひとよりすぐれているよう、常に一番になるよう邁進し続けることになります。
完全主義に凝り固まった人というのはたいてい、厳格で硬直的な家庭環境に育っています。
親に認められるため、あるいは拒絶される不安を減らすために、物事を「正しく」やらなければならなかったのです。
そして「正しい」とはつまり、間違いはひとつも許されないという意味だったのです。
アダルトチルドレンのテリィの場合を見てみましょう。
彼女は19歳、治療グループの中で完全主義について語ってくれました。
「中学生のとき、土曜の午後に友達の家に行きたかったから、その前に家の用事を全部片づけなければいけなかったんです。
だから土曜日の朝になると、私は父の前に顔を出して、やるべき用事のリストをもらいました。
父がタイプで打ったリストを手にして、仕事にとりかかります。
全部やり終わって父のところへ戻ると、父は次のリストを渡すんです。
それをやり終わっても、三枚目のリストを渡されるはめになるだけ。
四枚目、五枚目のリストが出てくることもしょっちゅうでした。」
想像がつくでしょうが、アダルトチルドレンのテリィが土曜の午後を友達と過ごせることはめったにありませんでした。
アダルトチルドレンのテリィがこの話をしたとき、涙が頬を伝いました。
アダルトチルドレンの彼女はしばらく黙り、それから考え込むようにしてこう言いました。
「だけど、ここにいる人達はみんな、相当むちゃくちゃな家で育ってるんですよね。
私なんか、まだましかもしれない。
あれはあれで身についたこともあったし。
もし何かを片付けたい人がいたら、私に聞いて。
すばやくやるコツを知っていますから」
そして彼女はためらいつつ、付け加えました。
「でも、本当に私が身につけたことが何かって、それは、私が何をやろうと決して十分じゃないってことです」
それこそアダルトチルドレンだったテリィが学んだことだったのです。
どこまでがんばろうと、決して十分ではないのだということが。
どこまでやろうとまだダメだった理由は、彼女の父親を喜ばせるなんて、人間である限りそもそも不可能だったからです。
土曜に繰り返された事態はアダルトチルドレンのテリィの問題ではありません。
父親の問題、彼の求めるコントロールや力の問題だったのです。
アダルトチルドレンのテリィが友達と過ごすのを許されるかどうかは、仕事をどれだけ完璧に素早くこなせたかどうかには関係ありませんでした。
だからアダルトチルドレンの彼女は今、まず自分の価値に気付いて、自己否定感にもとづくメッセージに反論することから始めればいいのです。
困ったことに、完全主義者のほとんどは、心の中に限度というものの感覚がありません。
自己否定感や怖れが四六時中背中を追い立てているので、常に自分がどこまでやれたかを外側の基準ではかっているのです。
子ども時代、彼らは努力して前に進めと教えられました。
一休みする時間も場所もなかったし、喜びや満足を味わう暇もなかったのです。
完璧さに基準をおくということは、あなたは決してそこに達しないということです。
あなたは子ども時代におとなからされてきたことを、心の中で自分に対してやり続けているのです。
いくらあなたが努力しようと十分でなく、よくできたと感じる体験をしていないのならば、あなたは「どれぐらいならよいのか」という感覚を身につけていないはずです。
おとなになった私たちは、自分がかつてどんなことで認めてもらおうとし、関心を向けてもらおうとし、ほめてもらおうと必死になってきたか、気付く必要があります。
私たちは全力を尽くしてきたし、自分は本当にこれでいいのだと理解することが必要なのです。
受け入れてもらえないと感じ続けてきたのは、私たちに価値がないからではありません。
外側から評価を下し、拒絶するぞと脅すことで力を手に入れようとしていた人達が、心においていった残骸なのです。
子どもの時にはわからなかったけれど、今はそのことを認めることができるはずです。
アダルトチルドレンの引き延ばしと、どっちつかずの態度
物事を引き延ばすこと、つまり計画にとりかかってもおわらせたためしがないとか、考えるだけで実行に移さないというのは、さらなる自己否定感から自分を守ろうとする防衛であることが多いのです。
完全主義と引き延ばしとは、密接な関係にあります。
先ほど例に挙げたアダルトチルドレンのテリィが、決して父親を喜ばせることができないと悟って、そもそも最初のリストを終わらせなかったとしても不思議ではありません。
けれどアダルトチルドレンのテリィは、引き延ばしの手段をとるしかない人々よりほんの少し自分を信じていました。
物事を引き延ばす人は多くの場合、自分に自信がなく、不安が大きいのです。
完全主義者が物事をやりとげる傾向が強いのは、ある種の達成感で自分を強くできるかもしれない可能性を感じているからです。
引き延ばしをはかる人の場合、その可能性すら見えないのです。
ほとんど関心を向けられず、計画を最後までやり遂げるどころか、それにとりかかるだけの励ましも得られなかった子どもたちがいます。
その子たちが何か絵を描いたりお話しをつくったりして親に見せるたび、親はそれをチラッと見て脇に置くか、あるいは見ることもなくどこかへやってしまう、というような目にあうことがあまりにも多かったのです。
学校の課題や宿題を完成させることへのプラスの働きかけが得られないと、子どもはどっちつかずの気持ちでやることになります。
彼らは「どうせだれもかまってくれやしない」と思い込むようになり、「だったら自分だってかまうもんか」という態度を身につけます。
その結果が、「引き延ばし」と「どっちつかず」なのです。
同じように子どもを痛めつけるのが、親は注意を向けるけれども常に批判的だったり、あるいは子どものやったことをからかったり人前でこき下ろしたりする場合です。
学校でごく平均的な成績だったアダルトチルドレンのスーは、高校一年のとき歴史の課題に夢中になりました。
「その学期の間じゅう、私はすごく一生懸命やって、私にしてはめずらしいことだけどでも本当に歴史がおもしろいと思ったし、先生も私のことを気に入ってくれていました。
今までで初めて、がんばろうって思ったんです。
ある晩、食堂のテーブルの上に次の日提出するレポートを広げていました。
両親が帰ってくるまでには時間があると思っていたから、母と義理の父が二人とも酔っぱらって笑いこけながら入ってきたときにはギクッとしました。
母は私に一体何をやってたのと聞いて、『アメリカは果たして第二次世界大戦に参入する必要があったのか?』という題をつけたレポートを手にとりました。
そしていきなり猛烈に怒り出して、私を共産主義者と呼んで、愛国心がないとののしったんです」
「信じられませんでした。
一分もしないうちに、二人そろって私を怒鳴りつけて、ありとあらゆる言葉で罵倒しました。
レポートを取り上げて、あの人達の言う『くずみたいな代物』を暖炉に投げ入れたんです。
そう・・・何が起こったか、先生にはとても言えませんでした。
ただ落第点をもらっただけ。
本当にたまらなかったけど、そんなにがんばったってしかたないってことを、初めからわかっているべきだったんです。
私が何をやっても、めったにいいことなんかないんですから」
アダルトチルドレンのスーの敗北感は、似たような体験が積み重なった末のものです。
彼女が何かをやり遂げる力を発揮しようとするたび、決まってケチをつけられてしまうのです。
数年たつと、レポート事件や他の小さな事件によって、「もし何かをやる気になったとしても、たぶんそのことには努力するほどの価値はない」と信じこむようになりました。
その結果、ごく若くして、アダルトチルドレンのスーは何かを達成するための努力をやめてしまったのです。
子どもが一生懸命やったことをけなされたり、こんなことではまだダメだとか頭が悪いんだと感じさせられる目にあうと、自分が本当にできそこないだと証明されないよう、どんな活動にも夢中になるのをやめるというやり方で自分を守ることを覚えます。
また、子どもが絶えず「もっとよくできた」誰かや、もっとよくできるであろう誰かと比べられていると、意欲を失っていきます。
アダルトチルドレンのトムは、いつも二人の兄と比較されていました。
「二人の兄は頭がよかったんです。いかにも利発で、学校でも優秀。僕はいつも『あの人達の弟』と言われて、それをずっと引きずるはめになりました。
僕は数学にも科学にも、兄たちみたいに興味をもてなかった。
友達と遊ぶほうが面白かったんです。
学校の勉強がいよいよわからなくなっても、両親は助けてくれずに『どうしてお兄ちゃんみたいにできないの』と言うだけでした。
だから僕はあきらめたんです。
僕は兄とは違ったし、兄たちのようになりたいとも思わなかったから」
引き延ばしには怒りが含まれている場合もあって、それは「じゃあいいよ―最後までやらないから」「テキトーでいいや。ベストを尽くしたりしないんだから」といった態度で表現されます。
こうした態度には、「そのままの私を好きになって。私が何をするかではなく」という粘り強い賭けも含まれているのです。
硬直したルールが存在する家族、間違うことが許されない家族、危険をおかすことや人と違っていることが許されない家族、目立つことが許されない家族においては子どもは自分から何かを始めようとしないことを学び、あるいは始めたことを最後までやらないことを学ぶのです。
こうやって育ったアダルトチルドレンの人にとって、何かをやり遂げるというのは驚異的なことです。