イライラを考える際に、案外無視できないのが、「イライラする自分に対するイライラ」です。
例:子どもの些細なことにイライラする自分にイライラする
イライラする自分を好きな人は、ほとんどいないはず。
些細なことにイライラする自分のことを、「人間として小さい」「人格ができていない」「心が狭い」などと感じている人は多いものです。
そして、イライラする自分にイライラする、という現象も珍しくありません。
それは、「これしきの些細なことではイライラしない」というのが、人間としての「本来あるべき状態」だと思っているから。
イライラしている自分は、「本来あるべき状態」から逸脱しているのです。
そして、イライラのコントロールは基本的に難しいものです。
イライラを簡単にコントロールできると思っている方は、この記事など読んでおられないと思いますし、様々なイライラのコントロール法が巷にこれだけ多く見られるわけがないでしょう。
イライラする自分にイライラすると「複合汚染」になる
「本来あるべき状態(これしきの些細なことではイライラしない)」とは違うことが起こっているのに、コントロールできないのですから、イライラする自分はまさにイライラの対象。
この例で言えば、子どもにもイライラ、そんな自分にもイライラ、自分をイライラさせる子どもにもイライラ、というように、イライラが「複合汚染」状態になっていることでしょう。
そして、イライラは、複合汚染になればなるほど「コントロールできない感」が強まりますので、ますますイライラがひどくなります。
この例のようにはっきりと自覚されていなくても、多くのイライラが、対象に対するイライラと、そんな自分についてのイライラが混ざったものになっているはずです。
例:コンビニで自分が並んだレジだけ遅かった
こんな状況では、いまどき一列に並ぶシステムにしていないコンビニにイライラしたり、レジ処理の遅い担当者にイライラしたり、やたらとたくさん物を買い込んでいる前の客にイライラしたり、といろいろなイライラがあるでしょうが、同時に、「そんなレジに並んでしまった自分」にもイライラしているはずです。
頭の中にある「なんで?」は、「なんでこんなレジに並んでしまったの?」「なんで自分はいつも運が悪いの?」というものでしょう。
こんなふうに、自分に対するイライラは、それ自体が独立していることもあれば、他の人へのイライラと複合汚染状態になってややこしいことになっている場合もあります。
自分へのイライラは、状況を作り出すことに何らかの加担をしてしまった(普段から整理・整頓をしていない、レジの選び方を間違えた、いつもそんなふうに運が悪い)ということへのイライラである場合もあれば、イライラする自分へのイライラ(これしきのことでイライラすべきではない)である場合も、両者の混合である場合もあります。
ポイント:イライラする自分自身にイライラ。こんな複合汚染には要注意
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イライラは困っているときの感情
いろいろなタイプのイライラの中で、いずれについても言えることは、「本来あるべき状態」とは違うことに対して「コントロールできない感」を持ったときの感情がイライラだということです。
ここからわかるのは、イライラしているということは、「自分が困っている」ということです。
確かに、「本来あるべき状態」とは違うことが起こっていて、それをコントロールできない、というのは困った状況ですね。
衝撃を受けたときにもイライラする、ということを見ましたが、衝撃を受けるというのも、かなり困った状況には違いありません。
「もう二度と衝撃を受けたくないモード」の一つとして現れるのがイライラなのですが、「また衝撃を受けるかもしれない」と感じる状況は、確かに困ったものです。
「困る」という言葉がピンとこない方は、「不愉快」と考えていただいてもよいのですが、本来気持ちよくいたい私たちにとって、不愉快な気分になるのはやはり困ったことです。
その困り方は、「不安」がメインである場合と「不自由」がメインである場合、両者が入り交じった場合など様々だと思いますが、いずれにしても「困っている」のは同じ。
「イライラは困っているときの感情」という理解は、とても大切です。
単に「イライラする」というところにとどまってしまうと、考えつくのは「発散」くらいですが、「困っている」と見ることで、本質的な解決が可能となるからです。
脱・イライラのためには、困っている状況から自分を助け出すか、そもそも困らないようにしていくか、というところがカギになってきます。
イライラが「本来あるべき状態」とは違うことに対して「コントロールできない感」を持ったときの感情だということを考えれば、そのポイントは二つ。
「本来あるべき状態」を再設定するか、「コントロールできない感」を解消するか、ということになります。
ポイント:自分が困っていることに気づく。気づくことこそ、イライラ解放への道。