ある時、頭も性格もよかった人が高校を中退した。
以来、大した仕事にもつけず、仕事自体がないときもあり、酒のうえのトラブルも絶えなかった。
母親は自宅に同居させ、借金を肩代わりし、留置場から救い出すということを繰り返していたが、ある日、もうたくさんだと息子を追い出し、今後いっさい手助けしないと宣言した。
そこで叔父は上司に交渉し、甥を雇ってもらうことにした。
ある日の午後、セラピストのもとに若い女性が相談にやってきた。
彼女は麻薬のとりこになった夫を救おうと不毛な努力を続けていた。
緊張の毎日に、夫はもとより、自分の生活までガタガタだという。
彼女が何をしてきたか、ながながと話すのを聞くうちに、その一言ひと言が昔のセラピストを思い出させた-友人を救おうとして失敗した経験を。
その女性は夫に、彼の両親に報告すると脅したが、ほんとうに言いつけるつもりはなかったという。
私も本気でなく、同じようなことを友人に言った。
夫が体がいうことをきかずに会社を休むときはいつでも、いやいやながら会社に電話をかけ、病気だとうそをつく。
夫の行状を自分の親友にすら話したことはない。
セラピストも友人の問題を、秘密にしておくことに協力していた。
セラピストの昔の思い出にふけっていたので、彼女には対応が充分でなかったかもしれないが、どうしてもセラピストもこの女性も相手を救えなかったかを考えたおかげで、突破口が開けた。
そのとき、はっきりとわかったのだ-自滅的になった人を救おうとするとき、善意はまるで役に立たないということが。
現代社会のつらい現実のひとつだが、いい性格なのに、どうしても人生を破滅させたいといって譲らないような人が大勢いる。
あなたの身近な親戚や友達にも、せっかく入った学校を中退する、お金の管理ができない、なかなか定職につけない、しじゅうぶらぶらしている、さらには自分の健康まで害しているといった人がいるにちがいない。
私たちは誰でも、ときどきはある意味で自滅的になることがあるが、ここでいうような人たちは、それがフルタイムの職業になってしまっているのだ。
彼らは自分で自分を傷つけ続けながら、まわりの人たちに気をつかわせるのが常で、それがまたじつにうまい。
いい人は、そんな相手を必死に救おうとする。
自滅的な行動は、無知や愚かさのほかに、仕事のプレッシャー、虐待、心の傷、心の病気が誘引になる。
ただ、それらの原因は一部で、自滅的な行動の大半はいわゆる、依存症状として起きる。
依存症の原因と結果を知る
依存症になるのは何らかの痛みを和らげるために、代わりの行動に逃げたとき、または薬物を乱用したときだ。
痛みを和らげるためにとる行動には、ギャンブルやセックスのような低レベルのものもあるし、食べる、働く、釣りをする、クロスワードパズルにふける、買い物をする、コンピューターに向かう、テレビを見る等、それ自体はまったく問題のないものもある。
もともとはごく普通のこういった行動が破滅的になってしまうのは、人間関係を維持する、修復する、締め切りを守る、技能を開発する、生活を立て直すといった、ほかの行動をするのがいやで、そこから目をそむけるための逃げ道になっているからだ。
それ自体は正常な行動でも、闘いや痛みを避けるためにやっていると、極度に夢中になったり、繰り返すようになる危険をつねにはらんでいる。
私たちは誰でも、多少は依存症的なものを何かもっているが、自分自身や人間関係へのダメージは比較的少なく、ほとんど無視できる。
よくないと自分でもわかっていながら、ときどきやってしまうことがあるが、生活に大きな支障は起きない。
一方、薬物の利用を含め、痛みから逃れるための行動は、繰り返していると、痛みに耐えられなくなったときにますますそれに頼るようになり、どんどんコントロールが利かなくなり、そのうち本物の依存症になってしまう。
皮肉なことに、こうした行動は、もとの痛みよりもはるかに大きな痛みをもたらす。
たとえば買い物依存症になった人は、憂うつな気分を吹き飛ばしたくて、派手に買い物をしたいという衝動に駆られるが、その結果、いらないものまで買ったり、お金がないのに買うようになる。
店に入るとハイな気分になるが、実際には借金が雪だるま式に増え、買い物に行く前よりブルーな気分になる。
依存症になると、ほんとうの自分を隠さなければ、という気持ちになるので、そのためのダメージもある。
依存症とは、自分自身と自分が大事に思う人たちに、うそをつかなければいけないと思わせる行動だ、と言った人がいる。
自分を欺く行為は、現実と幻想、夢とうつつを区別する能力をゆがめる働きをする。
その結果、物事、とくに自分のほんとうの姿が見えなくなる。
そうなればもちろんちゃんと働けなくなり、責任ある行動もできなくなるから、深く親密な人間関係も維持できなくなる。
さらに依存症の人は、自分に責任をもつのに必要な自由を失う。
依存することは自由の逆だ。
はじめのうちは抱えた痛みが和らぐので、自分が苦痛から解放されるだろうと思うが、じつはその先に束縛が待っている。
そのうち、もとの痛みより大きな苦痛を伴うことに気付いて、やめなければと思いながらも、やめられなくなってしまう。
依存症のもとになった買い物などの行動をやめると、さらに耐え難い痛みに襲われるという、誤った考えにとらわれるようになるからだ。
そして毎日、困惑と無力感が募るにつれ、その自滅的な習慣と闘う力はしだいにうすれていく。
なぜ、他人を救おうとするのか
身の回りの人に自滅的な嗜癖があるとき、いい人はどう反応するだろう。
- 仕事がいやで酒びたりにになっている友人を思うと、夜眠れない。
- 過食症の姉を見ていると嫌悪と恐怖を覚える。
- 同僚の金づかいが荒く、借金がかさみ、絶望に陥るのを見ていられない。
- 息子がテレビゲームのとりこになり、勉強せず、学校も中退しそうで、心配でしかたがない。
- 自分で自分を傷つけ、相手にもなげやりで、うつになっていく友人に心が痛む。
- 肺気腫で命も危ないのに、禁煙できないでいる隣人に絶望している。
苦しむ人を心から気の毒だと思うし、いい人になるように育てられているので、私たちは彼らを助けたいと一生懸命になる。
しかし善意と真摯な努力にもかかわらず、嗜癖行動はますますエスカレートし、望みはますます遠のく。
そうなるのは、いい人の勘違いによる行動も影響している。
他人を救おうとする三つの勘違い
自滅的な人に対するいい人の勘違いは、彼らを救おうとすることにある。
救済行動はふつう、三つの段階を踏む。
最初は、無意識に問題があることを否定する。
依存症の人の恥を知り、痛みを分かち合うのは耐え難くて、すべてうまくいくだろうという希望的観測をもつ。
事実を知ったときの最初のショックと希望の瞬間から目をそむけてしまうのだ。
問題に目を向けないわけにはいかないとわかると、これはそんなに深刻な問題ではない、と思おうとする。
深刻さを認めざるを得なくなると、心の中で、あるいは周囲に目をやり、みんなもやっているのだからいいじゃないか、と納得しようとする。
あるいは、解決法などないと思い込む。
この段階でいい人が間違った行動をとると、依存症の人に対して問題行動はないと伝えることになる。
たとえば、彼らの話を心の奥では疑っているのに黙って受け入れる。
自滅的なふるまいについて気付いていて、黙っていることも、話題にしない。
心は無限の自己欺瞞が可能だという。
人は目の上に厚い毛布をかけ、見たくないものは見ないようにできる。
愛する人たちの自滅的行動を見ようとしないのもその表れだ。
それは皮肉にも、依存症の人の重大な問題を否定するだけでなく、自分をも欺くことになる。
依存症の人を問題から救おうとしているのに、その問題の存在を否定しているのだから。
勇気をだして相手の問題を心配していると熱心に言っても、聞く耳をもたなかったり、怒られたりする場合もある。
そうなると、心配するほうは救おうとしても無駄だとか、勝手にしろ、というきになるかもしれない。
自分の知識不足や力不足を認識して、気後れする人もいるだろう。
問題に直面するのを恐れるだけでなく、失敗の恐れも手伝って、ますます問題を直視しようとしなくなるのだ。
いよいよ問題を否定できなくなると、今度は相手をコントロールしたり、罪悪感や恐怖を使って強迫さえしようとする。
人の目をつかって脅す-「わが家の恥だわ」「お母さんがどう思うと思うの?」「友達に知られるぞ」「すぐにやめないと、クビになるぞ」-これが第二段階だ。
同じことをお節介なアドバイスでも取り上げたが、こちらのほうが表現が激しく、極端になりやすい。
依存症状がひどくなるにつれて、行動を正そうとする努力もエスカレートする。
相手は抵抗し、こちらは激しさを増す。
相手がもっと抵抗すると、だんだんイライラし、腹が立ってくる。
やがて、気が狂いそうになる、もうどうしようもない、これ以上、一分たりともがまんできないと思うと、最後の手段に走る。
「もう、きみとの関係を切るぞ」と脅すことになるのだ。
とうとうコントロールもだめだとわかると、今度は相手の庇護にまわる。
これが第三段階だ。
依存症の人と一緒になって、トラブルを周りの人から隠そうとするのだ。
アルコール依存症のために仕事に支障を来すと、上司に気づかせないようにする。
ギャンブルで借金がかさんだら、内緒でお金を渡す。
息子が法にふれて捕まったら、ひそかに保釈金を積む。
いずれの場合も、秘密を守ることに協力する。
この救済は、社会的な結果から救うことであって、依存そのものや、その身体的、法的、金銭的トラブルから救っているわけではない。
この努力は、依存症の人のエネルギーを間違った方向に向け、ほんとうにするべきことから遠ざける結果になる。
こうした行動は、いい人は友達を救うべきだと思っている人からは、認められるかもしれない。
しかし、じつは間違いなのだ。
なぜ、人を救おうとすることがいけないのか
救助は成功しない。どんなにがんばっても、彼らを変えられないし、依存の問題は解決しない。
事態をますます悪化させる
救済は権利を与える行為だという専門家もいる。
無意識ながら、依存していてもいいという権利を与えているからだ。
ある意味では、自虐的な人々を虐待しているともいえる。
悲しい皮肉だが、善意から自分を傷つける行動をやめさせようとして、じつは事態を悪くしている。
もし彼らが経ち直っても、それはいい人の救済の努力のおかげではない。
それにもかかわらず、ということになる。
相手の依頼心を強める
依存症の人が私たちの応援を得て自分の問題を自分で解決できれば、成長と喜びを味わうことができるが、救おうとする行為はそのチャンスを奪う。
自立の力を奪うことで、いい人は彼らの自尊心、自信、満足感の喪失を促しているのだ。
不純な動機を隠している
アドバイスを与えるときと同様、人を救おうとするいい人は、じつは自分の利益のためでもあるのに、相手のためだけというふりをしている。
たとえば、思いやりのない人間と思われたくない、家名を汚したくない、依存症の人本人も含め、すべて思い通りにしたいなど。
隠れた動機に充分気づいていても、いい人はそれを表に出すことはない。
自分自身も傷つく
自分たちまで渦に巻き込まれ、憔悴してしまう。
相手を変えるどころか、自分たちのほうが変えられ、行動の仕方も変わってしまう-それも悪いほうに。
いつも人を救いたがる癖がつく
こんなふうに考えてみよう。
私たちは家族や友達が自分を傷つけるのを見ていられなくて、その苦痛から逃れるために救済しようとする。
それを繰り返さないではいられない。
状況をコントロールしたいと思う。
彼らを救えば、感謝と喜びが与えられるからそうしたいと思う。
自分の行動が助けになっているという証拠などひとかけらもないのに、また事態が悪化していることにも往々にして気づいていながら、それを続ける。
そう、大切な人が自滅的な習慣のとりこになっているのは事実だ。
だが、彼らを救おうとしている自分自身も「中毒」しているのだ。
思いやりがあり、誠実であれば助けになるかといえば、必ずしもそうではない。
妻を虐待する夫も、妻を心から愛しているのかもしれない。
虐待された妻は、夫が私を愛しているのは分かっている、と言うだろう。
しかし、愛を感じることと、愛することとの間には大きな違いがある。
さらに、彼女なしには生きられないと思うことは、彼女を愛することにはならない。
愛は本来、相手を解放するもので、虐待はしない。
所有し、コントロールせずにはいられないような、中毒的で虐待的な欲求は、愛ではない。
依存症の人を救う中毒に陥っている私たちも、ちゃんと気づく必要がある。
依存症の人を心から心配しているとしても、救済は愛ではない、間違いだ。
依存症の人も自分もこれ以上傷つけたくなかったら、今すぐ救済中毒から立ち直り、人を救おうとすることをやめなければならない。
他人を救おうとする癖を直す練習
救済をやめる第一歩は、やめると決心することだ。
その決心を確かなものにするために、紙に書いてみよう。
救済をやめれば、これ以上問題を悪化させることも、頭にくることもない。
そのために相手は糸の切れた凧のようになって、自滅への坂道を転げ落ちるかもしれない。
そんな家族や友達のことが、やはり心配だろうが、救済をやめるとは見捨てることではない。
彼らを立ち直らせるために、まだ重要な役割を果たさなければならないのである。
ただ、救済者になるのをやめると決心しないかぎり、彼らの役には立てない。
非救済者になることは、相手に対する自分の行動を変え、彼らが自分から変わるまで放っておくことだ。
本人が自ら変わりたいと思わないかぎり、依存症の人の生活が変わることはない。
またその瞬間がまったく来ないこともありうると覚えておこう。
変わりたいと決して思わない場合もあるのだ。
非救済者になることは、自分にも相手にも確実にメリットになる。
救おうとしていた間、いい人であるあなたは、相手が自分の所有物であるかのように、彼らが自分自身の問題であるかのように行動したはずだ。
この所有感覚は相手を侮辱することになり、自分を消耗させることにもなった。
救済しなければ、それに終止符が打たれ、自分が相手のじゃまをすることも、彼らが自分の重荷になることもなくなる。
アドバイスをやめたときと同様、相手から離れ、一歩下がって中立の立場で、彼らが自分から立ち直るのを見守るのだ。
おせっかいをやかなければ、頭がおかしくなることもなく、相手が自分から立ち直る手伝いをするという、健全かつ所有しあうのではない関係がつくれる。
「相手を変える」から、「自分を変える」に頭を切り替えさえすれば、救おうとする習慣はやめられるかもしれない。
しかし、気がついたら、もとどおりになっていることも充分ありうる。
そのやり方が体にしみついているためだ。
この状態に戻らない内面的な力をつけるために、次の三つの方法を試そう。
ほんとうの自分を知る
依存症の人を救おうとするのは、自分と相手とを重ね合わせ、相手の問題を自分の問題にしているからだ。
相手を助けるのは自分を救うためともいえる。
だから相手を救済できないと、自分も挫折感を覚える。
言い換えると、依存症の人の自滅的行動に、自分もコントロールされてしまっているのだ。
これを避けるには、自分は彼らとは別の、もう一つの価値ある存在だという見方をするといい。
人間は本来は社会的動物だが、だからといって、一人ひとり、独自の人格であることが否定されるわけではない。
あなたには独自の遺伝子と独自の生活体験があり、さらに、あなたの心の中にすみ、あなたに強い影響を与えている独自の人々がいて、そのためにほかの人と違う存在になっている。
自分とまったく同じ生い立ち、体質、個性、気性、意識をもっている人間は、世界中どこにもいない。
お互いに孤立しているのではない。
ただ、あなたはほかの人とは違う、あなただけの身体的つくり、アイデンティティ、価値をもった個別の存在だということなのだ。
だから、自分の生き方を人に決めさせたり、他人の問題で自分を消耗させたりすべきではない。
私たちは人に対しての責任はあるが、その人の責任をとる必要はない。
自分の責任だけをとればいい。
自滅的な身近な人を思いやっても、その人の面倒をみるために生きているわけではない。
大事なことは、自分はどこまでやり、相手はどこから始めなければならないかを知ることだ。
自分が何者であるか、相手のために自分は何をし、何をしないか、どこで袂を分かつかを、自分でも知り、相手にも知らせる必要がある。
そのために最初にすることは、自分の感情を受け入れること。
プラスの感情だけでなく、マイナスの感情も受け入れることだ。
いい人が親である家庭で育った場合、自分の感情を意識しにくいかもしれない。
感情は信じるな、否定し、拒むものだと教わったからだ。
どんな感情ならもってよく、ほかはいいけないか、子ども時代に教わったことに支配されて、大人になってもマイナスの感情を感じたら追い払おうとする人もいるだろう。
あるいはどんな感情であれ、激しい感情はすべて心の奥底に沈め、何も感じない人もいるだろう。
たとえば、すばらしい幸運に驚き、とっさに大喜びしたり、何かをなしとげて喜んだり、急に異性に魅かれても、その「喜び」や「興奮」を認められない人がいる。
あるいは友達に怒りを覚える、家族がしたことに傷つく、同僚が怖いといったマイナスの感情に恐怖を覚える人もいるだろう。
そうした喜び、興奮、怒り、痛み、恐怖、さらにはそのような感情を恐れること、そのすべてが、あなたが何者であるかを構成している。
そしてほんとうの自分らしく存在するには、それらの感情をありのまま受け入れなければならない。
それにはまず、自分の感情に足を踏み入れ、奥深くまで踏み込み、それを意識のレベルに引き上げることが必要だ。
そのためには立ち止まって心を静かにし、体の中から語り掛けるものに耳をかたむけなければならない人もいるだろう。
あるいは自分の感情を書き出し、一つひとつ、自分の大事な部分だと意識的に認めるのも役に立つだろう。
相手と自分を切り離す
依存症の人から自分を切り離す第二の方法は、自分の考えを信じると心に決めることだ。
その考えが信じるに値するかどうかは、あなたの尊敬する誰かに打診してみるといい。
しかし、条件つきで人を受け入れることが安心だと教わってきた場合は、人から挑戦されないように、拒否されたり、ばかにされたりしないように、自分の考えを誰にも言わないできたかもしれない。
そのため、自分で考えたり、自分の考えを表明したりするのをためらい、どういう考えであるかもわからないまま、あきらめてしまうかもしれない。
自分の考えがわからなかったり、信じられないと、自分を一人前の人格としてみることは難しい。
そうなると、依存症の人から自分を切り離して考えることも難しくなる。
誰でも、ときには自分の考えが不確かになることはあるが、それは普通だ。
自分の考えを生み出したり、はっきり考えられないと思い込んでいる状態が問題なのだ。
自尊心をもつには、理性的に自分の判断を信じ、自分の思考力を尊重しなければいけない。
自信をつける一つの方法は、創造的な考えや論理的な意見をもったときに、立ち止まって考え、紙に書いてみることだ。
思いついてすぐに、いいか悪いかを判断してはいけない。
すべてを考慮に入れ、百パーセント客観的に判断することなど不可能だからだ。
ときには、ばかげた考えや無意味な考えをもつことは誰にでもある。
しかし自分の考えを振り返り、紙に書くと、考えがはっきりするし、自信と自尊心が増していく。
人から言われるのではなく、自分の中から一個の人間としての自信が湧いてきたら、自分が何者であるかを他人に決めてもらったり、他人の失敗と自分の失敗を同一視したり、いつも彼らの生活の責任をとる必要もなくなるだろう。
自分の考えをきちんと伝える
救済の努力をやめたことを、相手が拒絶やプレッシャーだと解釈しないだろうかと思うかもしれないが、やめたことを相手に告げることで、その状況に対処できる。
なぜ以前は救済しようとしたかを自分が理解していたら、それを相手にはっきりと述べ、今はどういう関係をもとうとしているか、説明できるだろう。
・以前はあなたを仕事中毒から救おうとしていたわ。
あなたのことが心配だったのはほんとうだけど、あなたに気に入られたかったのも事実なの。
誠実じゃないわけではないの。
私の努力がどんな影響を与えるかに気付いていなかったのよ。
あなたには仕事中毒を治してほしいと思うけれど、あなたを救おうとするのはやめる。
・これまで、おまえの問題を否定し、行動をコントロールし、覆い隠そうとしてきた。
それがどんなに間違っていたかがわかったので、やめる。
おまえが好きだからアルコール依存をやめてほしいけれど、これからはおまえが自分で努力しなくちゃならない。
・こんなことを言うと、もうどうでもいいのではと思うかもしれないけれど、自分を傷つける行動からきみを救おうとするのをやめる。
これまでは、きみのためにならないことをして、悪かった。
どうか僕を許して、これからは自分で努力してほしい。
きみのことが好きだから、成功してほしいんだ。
このように、言葉にして説明すれば、相手も理解できるし、あなたを感情的に縛らなくなる。
あなた自身も、もっと強い自己意識と決断力をもてるようになる。
自助グループの手を借りる
それでもときには、自分の感情や考えに自信がなくなり、依存症の人の責任をとろうとする行動に戻りそうになるだろう。
そこで、それまでの間違った努力を許し、率直に意見交換ができ、非救済のやり方を支援してくれる、うまが合う仲間とつながりをもつといいかもしれない。
アルコール依存症などは、自助グループもある。
簡単ではないかもしれない。
予想外に勇気がいることもあるだろう。
だが、あなたの努力を支援してくれる人たちを探すことは、人を救うのをやめる大事な要素になるし、このグループの中で経験する、これでよいのだという気持ちは、救わなくちゃいけないと思ったときの空虚感や痛みを取り除いてくれるだろう。
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救うのではなく、力になる練習
誰かを救済するのをやめ、自分を変えるなら、その決心を確かなものにしよう。
- 自分の感情や考えを受け入れ、強い自分をつくる。
- これまで救おうとしてきた相手に、自分の決心を伝える。
- 自助グループの手を貸りる。
これで依存症の人の自主的な努力を助ける用意ができた。
ここで、次の方法を学ぼう。
相手の行動を描写する
依存症の人に対して、その自滅的な行動を描写してあげる。
いい悪いの判断はせず、相手が何をし、それがどんなふうにその人を傷つけているかを指摘する。
早ければ早いほど、また、直接的かつ、状況描写でかつ具体的なほど、効果がある。
- 飲酒のために、数日間、仕事ができなかった。
- 先月分の請求書の支払いができなかった。今もまた、金がないのに必要のない買い物をした。
- 稼ぐより使うほうが多いから、借金がどんどん増えている。
- 今の食事の仕方を続けていると健康を害する。
- 麻薬を使っていると、そのうち警察沙汰になる。
- たばこの吸い過ぎで、のどをやられている。
次に、どうしてほしいか、あなたの気持ちを伝える。
どうすべきかといったアドバイスや、道徳心に訴えることは、思慮を欠いているし役に立たず、公平でもない。
- 飲酒について専門家の援助を受けてほしい。
- 手遅れにならないうちに、計画的な金の使い方を考えてほしい。
- 食事の仕方について、医師に相談してほしい。
- 麻薬をやめ、生活を立て直してほしい。
- 禁煙クリニックへ行ってほしい。
これは否定、コントロール、過保護の正反対だ。
友達を救おうと時間とエネルギーを大量に費やす代わりに、彼らがしていること、それがどんなふうに害を及ぼしているかを、ただ描写する。
依存症の人の行動を大目にみるのでも、関係を切ると脅すのでも、悪いことだと責めるのでもない。
依存症の人が-あなたではない-自分で対処するようにその行動を明らかにし、あなたがどうしてほしいかを述べる。
あなたの目的は、依存が少しでも軽いうちに、自分で対処するように仕向けることなのだ。
警鐘を鳴らしても行動はやまないかもしれないが、少なくとも、依存の事実が明らかにはなった。
もはや、誰もふれようとしないひどい行為でも、苦しい秘密でもない。
また相手もあなたのことを、自分を痛めつけるのをやめ、生活を立て直してほしいと率直に言ってくれるほど心配してくれる人だとみるようになっただろう。
たとえ一生、続くとしても、定期的に、何度も繰り返すことが重要だ。
依存症状が始まった初期に行えば、たいへん効果がある。
依存をおおっぴらにすると同時に、その根本原因に対処することも助けになる。
専門家は、大部分の依存は、罪悪感、羞恥心、あるいはその両方が根にあると、ほぼ異口同音に言う。
自分を責めないように力になる
人は、倫理や社会常識、尊敬する人、あるいは自分自身が、自分のした行為は不道徳だとか、倫理に反する、または自分や環境、そして他人に害を及ぼしたと判断するとき、罪悪感を覚える。
自分や他人を傷つけたときにもつ罪悪感は正当な罪悪感だ。
とくにわかっていながら行為を犯すと、罪悪感はいっそう強くなる。
この罪の意識から依存症になる人は多い。
それを配慮して、依存症の人がこの罪の意識に正面から立ち向かい、自責の念から解放され、依存症と闘う力をつけるよう助けることができる。
依存症の人が罪悪感に支配されたくないと思うなら、自分のしたことを謝ると同時に自らを許し、適切で可能ならつぐないをし、依存するようになった行動をやめる必要がある。
罪悪感には人の考えや行動を変える力がある。
だから無視するのではなく、それに対処しなければならない。
残念なことに、いい人である友人やカウンセラーが対応の仕方を間違い、この力を軽視すると、罪悪感のプラス面が失われ、逆に人を依存症に駆り立てるマイナスの力だけが増幅されてしまう。
誰かが罪悪感を感じているとわかったら、それを認め、許そう。
無視したり、すぐに相手を非難したり、拒否したりすることは、何の助けにもならない。
あなたにとっては、無条件に受け入れる愛を実践するチャンスだ。
許し、率直になれれば、相手が罪悪感に正面から立ち向かって自分を許す、大変な助けになる。
依存症の人がこのステップを踏めれば、罪悪感からかなり解放され、逆に評価されているという感じをもち、責任ある行動をとるために必要な性格を伸ばすことができるだろう。
もし罪悪感が自滅的な行動の原因になっているなら、次の方法がある。
- 他人や自分を傷つけた行動を認める。
- それに対して自分を許し、適切なつぐないをする。
- 自滅的な行動をやめる。
また、それを支援するには、次のように言えばいい。
・その借金がもとで、きみも傷つき、私も傷ついた。でも私は許そう。どうか自分のしたことを認め、自分を許し、二度としないと決心し、やり直してほしい。
もちろん、相手が言われたとおりにするとは限らない。
相変わらず自滅的行動を続けるかもしれない。
彼らを救う助けになるという保証は何もない。
しかし面と向かって相手を許し、どうしてほしいかを直接いうことで、相手が変わる可能性はずっと大きくなる。
無視したり、過ちを隠したり、コントロールしたり罰したり拒絶を試みることは何の効果もない。
許すことにこそ、全力をつくそう。
しかも、何度となく繰り返し相手を許さなければならないかもしれない。
自分が繰り返すばかげたこと、有害なこと、何のメリットもないことで何度も自分自身を許すように。
あなたを傷つけた人を繰り返し許すというのは、その行動が許されるものだと宣言することではない。
彼らの不完全さを受け入れ許すことであり、それによって依存症の人はあなたの愛を知り、自分を愛し始めるかもしれない。
・あなたが買い物を続けるのをやめさせられないが、こう言うことはできる。あなたが好きだ。あなたを許そう。あなたも自分を許し、助けを得てほしい。私もあなたの努力を応援するから。
失望より怒りのほうが大きいときは、まず、最初に、こう言っておくこともできる。
・物を買うために盗みを働いていることを知ったとき(相手がしたこと)怖くなり、怒りが込み上げた(自分の気持ち)。
なぜって、それは法を犯しているし、大事なあなたを傷つけることだから(あなたがそう感じた理由)。
正当な本物の罪悪感に対して、正当でない、にせものの罪悪感というものもある。
的外れな自責の念のことだ。
実際、その気持ちが生じる環境は多くあり、いろいろなかたちをとるのだが、その根拠が非現実的なので的外れなのだ。
的外れな自責の念は、歪んだ自己像や世界観から生じる。
その種は、道徳的に厳しすぎる親や、恐怖や罪悪感を手段にして若者をコントロールしようとする宗教家などによってまかれることが多い。
そこから育った草は、ほんとうの罪悪感と同じくらい本人を苦しめる。
だから、子ども時代に強制的に植え付けられた極端な道徳教育の枠から出られない人は、そのために自滅的になる傾向がある。
たとえば、子ども時代にしたささいなことにひどい罪悪感を感じ、大人になってもそれをもちつづけている人がいる。
八歳のときに母親の財布から千円盗んだことが、いまでに重荷になっている、といったものだ。
両親の離婚や、極端な例では世界の飢餓問題など、自分のせいでないことに罪悪感を感じる人もいる。
それがどういう性格のものか正しく把握できないと、そのマイナスの力が大きくふくらみ、ほかの力とも結びついて、自分を罰する嗜癖行為のもとになる。
あなたの大好きな人が、明らかに的外れの罪悪感を抱いていたら、立ち止まって検証してほしいと促そう。
立場を取り換えてみるのも役に立つ。
つまり、子どもの時、母親の財布から千円盗んだことで、あるいは世界を救えないことで、あるいは完璧でないことで、私を責めてくれと頼む。
それから、どんな罰がいいか、考えてくれと言う。もし相手があなたを責め、罰することができないなら、自分自身の自責の念が的外れなものだと気づき、リラックスし、長年の心の痛みから解放されるかもしれない。
もしそれができないなら、その罪悪感が本物であるかのように対応するからと言い、相手を許し、相手にも自分を許すように促す。
にせものの罪悪感は本来、理性的なものではない。
だから論理的な思考が通用しない場合もあるだろう。
自分の罪悪感にしがみつき、苦しみも自滅的行動も手放さず、あなたが何をしても自由になれない人もいる。
しかし、罪悪感がにせものだと気づいてもらおうとするあなたの努力と、相手のことを気にかけている気持ちを理解し、自尊心を取り戻し、的外れな罪悪感を捨てて新しい生活を始められるひともいるだろう。
私なんか価値が無いと思う気持ち
羞恥心は罪悪感よりずっと複雑な感情だ。
行動学の専門家も最近まで真剣に取り上げることがなかったので、それがどういうものか、まだよくわかっていない。
しかしほとんどの専門家が合意している、罪悪感と羞恥心の違いがある。
悪い行為をしたときに感じるのが罪悪感であり、自分が悪いと思ったときに感じるのが羞恥心だという。
つまり、罪悪感の根っこには自分が行った行為があり、羞恥心の根っこには自分自身があるということだ。
もちろん、健全な羞恥心もある。
たとえば、自分が理想以下でいることにいい気持ちがしないのも羞恥心のせいだし、今の自分とあるべき自分とのギャップを気づかせるのも羞恥心だ。
こうした感情が生じるのは自然なことで、いい効果がある。
だから、誰かの権利を侵しても非難されはしないと思っても、羞恥心が働いて思いとどまり、相手を尊重した行為がとれる。
羞恥心は私たちに、本人が本来もっている価値、自分の自由に適度の制限があること、それを超えたときに悲劇的結果が生じることを思い出させてくれる。
マイナスの衝動にブレーキをかけ、笑いものになるのを防ぐだけではない。
そうした衝動を建設的なかたちに導き、生活に安全と満足をもたらす。
しかし、健康的で建設的で必要性のあることをさせない羞恥心、少なく見積もっても、汚れたり、焦点が合っていなかったり、壊れたメガネをかけたときのように自己像を歪める羞恥心は害になる。
このような羞恥心は欠点を誇張し、自分にはいいところなんて何もないと思わせる。
そういった羞恥心をもつ人は、心に描く理想像や尊敬する人のようには決してなれないと思ってしまう。
その状態が進むと、自分に価値が見いだせなくなり、自己嫌悪に陥り、いわゆる心の病気にかかる。
恥ずかしいと思うことをたった一つでもすると、自分はひどい人間だと思い、みじめになる。
自分には特別な好意を受ける「資格」がないうえに、「役立たず」だと思う。
誰にもそんな「資格」はないし、「役立たず」な人などいないのにもかかわらず、だ。
自己批判の悪循環の中で、自分にやさしくなれないために、ますます自己嫌悪に陥り、羞恥心にさいなまれ、その苦痛を和らげてくれるものに手当たり次第に頼るあまり、依存症の深みにはまる。
恥ずかしさに襲われた人は、自分も他人も、いちばん身近な人さえも信じられなくなるので、健全な人間関係が築けず、孤独な生活を送りがちだ。
自分が属す社会からの応援もなく、その非社会的で自滅的な行動について注意を受けることもない。
その結果、深い孤立感を味わいながら、一方で、皮肉にも、自分自身は信じていないまわりの人の承認を求めて、認めてくれているというしるしが少しでもないかと必死に探すという、たいていは虚しい努力をするようになる。
こういう人を依存症から解放するには、価値がないのはその人自身ではなく、羞恥心だと理解させなければならない。
この真実に目覚めさせ、傷を癒やすよう促すことが、私たちにはできる。
ここで忘れてならないのは、私たちの仕事は彼らを救うことではなく、全面的に相手とつきあい、彼らの痛みを聞き、忍耐強く共感するということだ。
自滅的行動を許すのではなく、いい悪いの判断をせずに黙って耳を傾け、どれほど相手のことが好きかを伝え、拒否することなど決してないと、表す。
温かい抱擁や、言葉でその気持ちを繰り返す。
繰り返し安心させる必要があるかもしれないからだ。
また、羞恥心に縛られているので、あなたのことが信じられないかもしれない。
でも、あなたがありのままの彼、彼女を受け入れ、何があろうと見捨てないのだと示せば、信頼関係をつくることに大いに役立つだろう。
また、どんなときでも、相手を人として尊敬する態度をつらぬけば、あなたが相手を気にかけており、評価などする気はなく、信頼に足る存在だとわかってもらえるだろう。
自分の生活をめちゃめちゃにし、そのために人に心配をかけているが、それでも愛されているのだとわかってもらうこと-それが、あなたが与えられる最高のプレゼントだ。
相手に話を聞いてもらえたら、折をみて、問題の源が何かを探し、それを言葉にして話すよう勇気づけよう。
依存症の人にとっては、たやすいことではないし、羞恥心は罪悪感より対処が難しいことが多い。
感情的にも大きな傷跡を残す場合もある。
また、羞恥心は自分の中からよりは、さまざまな外からの力で起きるが、羞恥心に引きずられている人には外の力は見えないし、考えようともしないものだ。
羞恥心の根っこを考えるためには、直面しがたい真実と対決しなければならないかもしれない。
だから恥ずかしいという思いを無視し、内緒にし、その結果、皮肉にも、また悲しいことに、ますます羞恥心に支配されることになるのだ。
しかし、具体的な根拠を自ら探す気持ちになれば、事態は逆転する。
羞恥心は力をなくし、立ち向かうのも拒否するのもずっとたやすくなる。
心の傷を克服する手助けをする
有害な羞恥心をつくり出す三つの原因を見つめ、どうすれば依存症の人がこの力を打ち負かす手助けができるか見てみよう。
社会的な偏見による心の傷
社会の偏見や差別は、人に、肌の色、経済水準、性、性に関する教育を恥じるという過ちを犯させる。
これらの要素は自分ではどうしようもないことで、そもそも他人にはそれを恥じさせる権利などない。
それなのに、自分のせいにしてしまう人もいる。
いろいろなかたちで排斥されたり、社会的に人間性を否定されてきた出自をもつ人には、依存症や自滅的行動が多いものだ。
もしこの問題で苦しんでいる知り合いがいたら、出身や性が原因だから自分は非難されて当然などと思わないように言おう。
相手が自分から考え直し、自分を肯定することができない場合は、あなたが代わりに言ってあげよう。
思いやりのあるあなたのプラスの評価を直接やさしく投げかけられれば、相手は、自分の羞恥心は意味もない、捨てていいものだと思いはじめるかもしれない。
子どものころ親から受けた心の傷
小さいときに、親や兄弟姉妹から拒否されたり、虐待された経験のために、今でも、自分は価値がない、いい生活を送るに値しないという気持ちでいるかもしれない。
虐待の事実が家族の秘密にされた場合、傷は深まり、自分がその家に生まれたことを悔やみ続けているだろう。
「そうした記憶や感情をもつのはつらいでしょうね」と言って、相手の痛みを共有しよう。
そして相手に傷を受け入れるように言い、同時に傷跡をつつくのではなく、傷が自然に治るのを待つように、そして傷跡や痛みがうすれるのを思い描くように促す。
それによってダメージを受けるかもしれないが、嗜癖行為から解放されるには、過去の犠牲者として生きることを拒否し、人生の新しいスタートを切らなければならない。
社会的にだめな人間だと思い込む心の傷
現代社会では、経済力、権力、職業的地位、名声などがない人は敗者と見なされる。
この評価をあまりにも安易に受け入れ、自分の失敗で自らを規定し、それを引きずっている人が多い。
しかも残念なことに、家族や友人も他人と比較して、「おまえは悪い、弱い」と繰り返しけなすので、自分はやはりだめな人間なのだとますます思ってしまう。
そして、ほんとうにそうかどうかに関係なく、力不足を恥じる思いに日夜さいなまれることになる。
そのマイナスの自己像を崩すために、まず、「あなたは敗者ではない」と言ってあげよう。
誰にでも欠点はあり、欠点のない人などいないこと、人間なら失敗はいつでもあり、何も恥ずかしいことではないこと、自分を卑しめたり見捨てる必要はないことを指摘しよう。
あなたの話を聞かないようなら、失敗は自分を敗者にするのではなく、そこから学ぶ機会を与えてくれる教師なのだと話してみよう。
また自分の失敗を率直に話してもいい。
そのときは次の三点を明確にしよう。
- 自分もありのままでいて大価値のある人間だいに、
- 恥ずかしいと思うようなことを自分もしたことがある
- でも自分は敗北や恥辱に人生をコントロールさせない選択をした。
あなたが自分の失敗をユーモアを交えて話すことも、そんなに深刻ではないと思わせる助けになるかもしれない。
失敗に関しては自分の右に出る者はいないだろう、などと言ってみてはどうだろう。
いっこうに変化がない場合は、専門家に相談するように頼むこともできる。
それでも、救ったほうがいい例外
ここまで話して、あなたがどんなに努力しても、相手がそれにこたえてくれるとは限らない。
悲しいことに、薬物依存者は、仕事、結婚、子ども、あるいは命さえ危険になるまで薬物を使用する傾向がある。
もし早期に彼らの行動に対応し、応援ができれば、命まで失う前に、彼らの気持ちを解放し、やめさせることができるかもしれない。
もちろん、そうならない可能性もある。
アルコールや薬物依存症の人が危険な段階に達すると、次の三つのケースが起こりうる。
- 薬物が死を招く、あるいは自ら命を絶つ、
- 自分から立ち直ろうとする、
- 家族などが強制的に援助を受けさせる。
危機的状況では、介入と呼ばれる行為をする必要があるかもしれない。
介入というのは専門用語で、取り返しがつかなくなる前に依存症の人を専門家の本格的なケアにゆだねることをいう。
もう大丈夫、ちゃんと力になれる
あなたは、依存症になり、自滅的になった人と建設的に接する方法を学んだ。
もちろん、努力がうまくいかないこともあるだろう。
言うまでもなく、あなたが何をしようと、嗜癖や依存症に勝てない人の苦痛とともに生きなければならないこともある。
またあなたが救済をやめたために、相手からも、また救済の意義をまだ信じている他人からも、批判されるかもしれない。
さらに、自分がしていることはほんとうに相手のためになっているのだろうかという不安とも闘わなければならない。
しかし、もう相手に自滅的行動を続けさせることはなく、それによって相手のためにも自分のためにも事態を悪化させることはない。
相手があなたの愛を受け入れ、生活を変えることもある。
あなたの、相手を受け入れるという精神と、相手を尊重した率直さと、救うのをやめたことが効果を表し、自分で自分を救うために必要な、自由な心が取り戻せるかもしれない。
そうなれば、自分自身の生活が安定するだけでなく、相手が立ち直るのを応援でき、回復を一緒に喜ぶことができる。
もう人を救おうとするのはやめよう。
まとめ
依存症になると、それを隠さなければと思い、それもダメージになる。
そして毎日、自滅的になり、事態は悪化していく。
依存症の人を救おうとすることは、その依存症そのものを否定することになり自滅的になる。
自滅的になっている人に対するいい人の勘違いは彼らを救おうとしていることにある。
救済しなければ彼らの邪魔をすることも、自分の重荷になることもなくなる。
誰かが罪悪感を感じていたら、それを認め、許そう。
自分の生活をめちゃくちゃにし、周りの人を心配させているけれど愛されていることを伝えることがあなたにできる最高の行いである。