他人の言動に惑わされる

他人の言動に惑わされないとは

他人の言動に惑わされないとは、周囲の言動を気にせず自信を持って生きることである。

なぜ他人の言動に惑わされるのか

他人が自分のことをなんとも思っていないのに、「自分のことをどう思っているだろう」と気にする他人の言動に惑わされる人は、その心の底に、他人に特別にあつかってもらいたいという欲求があるような気がしてならない。

やはりいろいろなことを気にし過ぎる他人の言動に惑わされる人というのは、甘えたくても甘えることができない幼年時代というのがあったのだろうか。

甘えの欲求が満たされないゆえに、妄想患者がもつような見当違いの考えに悩まされるのかもしれない。

自分の周囲にも自分と関係のない人がたくさんいる。

その人たちにとって自分はなんでもない存在なのである。

また自分の近くにいる人だって、その人のすべてと自分のすべてが関係あるわけではない。

近くにいる人だって、自分に関係のない部分はあるし、自分の中にもその人にとって関係のない部分があってもいい。

しかし幼児的一体感というのは、それを許さない。

神経質な人は「気にするな」といわれても他人の言動に惑わされてしまう。

それはやはり、なにか本質的なものが満たされていないので、「気にすまい」という意志の力ではどうにもできないのである。

なにも要求されないのに要求されているように感じてしまう他人の言動に惑わされる人がいる。

なにも期待されていないのに期待されていると感じてしまう他人の言動に惑わされる人がいる。

実際にはまったく自由であるにもかかわらず、周囲からの重圧感に苦しんでいる他人の言動に惑わされる人もいる。

それにはいくつかの原因が考えられよう。

一つには、小さい頃、家で実際にいろいろな要求や期待をかけられていたということがある。

小さい頃、気持ちのすみずみまで干渉され、支配され、どのように感じるかをいつも要求されていたという人もいよう。

あなたが感じるように感じてはいけません、私が期待するように感じなさい、私があなたにこう感じてほしいというように感じなさい、という暗黙の命令にしたがっていたような子どもは、大人になってもなにか周囲から期待されているように感じようとする。

周囲の大人がその人の内面になんら要求をしていないときでも、要求されているかのように感じる。

古い不快な経験を再体験しているのである。

他人からなにも要求されていないのに要求されているように感じようとしてしまうのには、その他にもう一つ原因があるように思う。

それは抑圧と投影である。

その人自身が周囲に対していろいろな要求と期待をもっている。

しかもそれは幼児的なものである。

小さい子の甘えというのは、結局は周囲に対する要求である。

もちろん密着の願望でもある。

周囲の人間が自分を理解し、自分を受け入れてくれることを要求するのが甘えであろう。

そしてその自分というのが、自己中心的な自分である。

つまり自己中心的な自分に理解を示し、際限もなくその自分を受け入れてくれることを、甘えている者は求めている。

周囲に対して、ああしてもらいたい、こうしてもらいたいという、わがままな要求がある。

そのわがままな要求を抑圧する。

立派な大人であるためには、こんな幼児的な一体感をもっていることは許されない。

そこで自分の中にあるこの甘えの欲求から目をそむける。

自分の中にある甘えの欲求を認めない。

その甘えの欲求を自分の意識の外へと意志の力で追いやる。

これが甘えの抑圧である。

そして精神医学者のユングが述べるごとく、抑圧されたものは投影される。

つまり他人の中にこの甘えの欲求を見ようとする。

実際には自分の中に他人への欲求や期待があるのに、それを認めることなく無意識へと意志の力で追いやったため、逆に他人が自分に対して欲求をもっていると感じてしまうのである。

実際には自分の中に、他人に「こうしてほしい」という要求がある。

それを抑圧したために、他人が自分に「こうしてほしい」と要求しているように感じる。

「こうしてほしい」と要求されていないのに、「こうしてほしい」と要求しているように感じる。

「こうしてほしい」と要求されていないのに、「こうしてほしい」と要求されているように感じてしまう。

周囲からの重圧感である。

そして他人の言動に惑わされる多くの場合、古い体験の再体験と、抑圧と投影が重なる。

というのは、小さい頃、甘えの欲求を満たされずに抑圧した人というのは、実際にその当時は周囲の人からいろいろ要求されていた人であることが多いからである。

親の甘えを子どもが満たしてやらなければならないときには、たいていこの二つが同時におきる。

他人の言動に惑わされる

まわりからの要求が重いんです

ところで、周囲からなにも要求されていないのに要求されていると思い重圧感をおぼえる他人の言動に惑わされる人は、ときに実際の期待を感じることができない。

たとえば周囲に心優しい人がいる。

そして重圧感に苦しんでいる他人の言動に惑わされる人を、何となくかわいそうだと思う。

そして、何かあの人は自分で自分を縛っているようだとわかる。

そこで、あの人がもっと自由であってくれたら、自由にしていいのに、と思う。

しかし重圧感に苦しむ他人の言動に惑わされる人は、この心優しい人の心のうちを感じることができない。

そうした意味では重圧感に苦しむ他人の言動に惑わされる人というのは、あまり現実に接していない人なのである。

ただ自分ひとりの、ひとりよがりな世界に閉じこもってしまい、自分の心を周囲に投影し、それを現実と錯覚しつつ生きている。

自分が現実と考えているのは、自分の心そのものにほかならない。

表の態度だけはひかえめな他人の言動に惑わされる人の心の底には、じつは周囲への強い要求がひそんでいたりする。

もちろん、ひかえめな人自身はそのことに気がついていない。

こうして遠慮深い他人の言動に惑わされる人は、ひかえめに振る舞うことを期待されていないところでも、ひかえめに振る舞ってしまう。

遠慮深く、生真面目で堅苦しい人が感じているほど、周囲はその人に「こうあってほしい」と期待していない。

他人がなんとも思っていないのに、「どう思われているのだろう」と不安になることや、他人がなにも要求していないのに要求されているような重圧感に苦しむことは、妄想ではない。

たしかに妄想とはいわないが、その自分の錯覚を自覚するためには、この妄想患者の心理を勉強することが役に立つように思う。

自分の気にする苦しみも第三者から見ると、あんな奇妙なことになるのかもしれないとわかることで、他人のことをきにするバカらしさに気づくからである。

「自立への願望」が芽生えるとき

実際には誰も束縛していないのに束縛されているように感じる他人の言動に惑わされる人というのは、心の底では他人と密着したいという甘えの願望が残されているのではないだろうか。

つまり妄想患者の考え方のおかしなことを思って自分の感じ方の間違いを理解すると、どこかさみしくなったりする。

他人は自分とそこまでからんでいないのだ、自分は束縛されていないし、他人は自分にそこまで関心をもっていないということがわかると、ふと自分に頼りなさを感じる。

自分は実際には自由なのに束縛を感じていた、自分は錯覚していたのだ、じつは自分は自由なのだと感じたとき、ふっとつまらなさ、さみしさを感じる。

つまりその人は、束縛感の中で依存性を満たしていたというところもあるのである。

ただその束縛感が耐えがたくなってきたということは、他人の言動に惑わされない自立への願望が強まってきたということでもある。

であれば、ふっとしたさみしさ、ふっとしたつまらなさ、ふっとした頼りなさにもかかわらず、実際のあるがままの現実に接して生きていくほうがよいであろう。

「絶えず見張られている」ような束縛感をもつ他人の言動に惑わされる人は結構いる。

自由でないのである。

べつに大学生にでもなれば親が絶えず見張るわけはないのに、心の中では絶えず見張られているように感じる人もいる。

警察に見張られているといえば妄想になるが、心の中では親に見張られているような束縛感があって自由でないという大学生はたくさんいる。

外であったことをなんでもかんでも親に報告しなければならないような気持ちになっている大学生などは、絶えず親に見張られているような束縛感をもっているくちである。

心の中で親の許可がなければなにもできないという人々である。

そのような人がさらに大人になって社会人として働きだした時、実際には自由なのに、許可を受けなければなにもできないような気持ちになったり、誰も自分のことを特別に注目しているのではないのに他人の言動に惑わされたり見張られているような気持ちになるのだろう。

絶えず見張られているという束縛感は、心の底で絶えず見張っていてほしいという幼児的願望と結びついている。

だからこそ、他人は自分に「こうあってほしい」というような期待をもっていないのだということが理解されると、他人の言動に惑わされないがふっとさみしさととまどいを感じるのである。

小さい子どもは母親のすべてを要求する。

しかし大人になればつきあう相手のすべてを要求しているわけではない。

しかし自分のすべてを要求されていると感じてしまう他人の言動に惑わされる人はいる。

自分のすべてを要求されていないのに要求されていると錯覚する他人の言動に惑わされる人は、実は心の底で相手のすべてを幼児のように要求しているのである。

幼児が母親に対するように、自分が相手に対したときどうなるか。

相手が幼児に対する母親になる。

つまり自分のことを絶えず見張って保護し監督する人になる。

束縛感は自分の相手に対する幼児的願望の照り返しなのである。

自分が相手を自由にしてあげられるだけ心理的に成長したとき、はじめて自分も自由になれる。

そこまで堅苦しくものごとを考えなくてもいいのにと思われるほど、小心で生真面目で几帳面な人は、心の底に意外な願望をもっているものである。

それに気がつくことで、自分を縛っていた堅苦しさから救われるのではなかろうか。

実際には時間があるのにせきたてられるような気持ちになる。

外側の環境がその他人の言動に惑わされる人をせきたてているわけではない。

内面的にせきたてられている。

そういう他人の言動に惑わされる人は現在に不安なのである。

いまという時点にひとりとどまることが頼りないのであろう。

先にいけばその頼りなさが救われると思う。

とにかく「どこへいくのだかわからないけど、急がなければ」とせきたてられている人について、オーストリアの精神医学者、フランクルも書いている。

また、そこにいくにはまだ時間があり、ここでゆっくりしていていいのに、その目的地へと急ぐ人もいる。

それは「いま、ここ」にいることが内面的に不安だからであろう。

その目的地に着けば安心できるような気がしているのである。

しかしそこに着けば着いたで、落ち着いていられなくなり、また次のあせらなくてもいいことをあせってしなければならなくなる。

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「いま、ここ」にある自由

ところで、なぜ「いま、ここ」にいることに不安を感じるのだろうか。

それは「いま、ここ」において見張られていないからではなかろうか。

「いま、ここ」で見張られていないので、頼りなくなってどうしていいかわからなくなって、戸惑ってしまい、次のところへとあせっているのではないだろうか。

「いま、ここ」にいることを許可されていない、「いま、ここ」にいることを要求されていない、「いま、ここ」にいることを期待されていない、そのことが不安なのではないだろうか。

「いま、ここ」で自分が縛られていない、自由であることが心もとないのではないだろうか。

「いま、ここ」に、あなたは自由ですと放りだされていることに心理的に耐えられないのではないだろうか。

人は縛られないときには規則によって縛られることを自ら求めていく。

秩序の中にいないと不安なのは、秩序で自分を縛ろうとしているからである。

それが杓子定規な性格といわれる他人の言動に惑わされる人であろう。

杓子定規な考え方、杓子定規な感じ方、杓子定規な理解の仕方、それはそうすることで安心しようとしているのであろう。

杓子定規であることで、許可されてされているという安心感がある。

なにに許可されているかといえば、規則に許可されているということである。

なにかであることを要求され、「こうあってほしい」と期待されないと、ふっと頼りなくなってしまうが、規則に従っていれば、その頼りなさ、つまらなさ、さみしさ、無意味感からは解放されることになる。

杓子定規な性格の人というのは、規則、きまりにしがみつくことで安心しようとしているのである。

だからこそ杓子定規な他人の言動に惑わされる人というのは、いつも不安な緊張をして小心翼々としたところがある。

まただからこそ、杓子定規な性格の人とか、外側からの理由がないのにいつもあせっているような人とかいうのが、他人がよいとも悪いともなんとも思っていないのに、「どう思われているのだろう」と不安になったり、他人が「こうあってほしい」と期待していないのに、期待されているように他人の言動に惑わされて感じてしまうのである。

他人の期待をかなえることばかりで生きてきてしまうと、他人の期待なしにはなにもできなくなってしまう。

そこで他人の言動に惑わされる小心な倫理性ということも出てくるのではないだろうか。

倫理的であることは、他人の期待にかなっていることである。

こりかたまった信仰心などというのも、そのようにして自分を安心させようとしているのである。

それにしがみついているときだけ安心できるようになってしまっているのであろう。

それだけに、このような人にとって倫理的葛藤は普通の人以上の苦しみとなる。

まとめ

他人の言動に惑わされる人というのは、小さい頃親に支配されて育ったのである。

思い重圧感に縛られる人はひとりよがりの世界で生きている。

杓子定規な他人の言動に惑わされる人はいつも重圧感を感じている。