自分を許せれば他人も許せるようになる
他人をどうしても許せない例
もっと人に寛容でありたい。
もっと心の広い人になりたい。
そんな悩みを持っている人は、何か怒りやイライラを感じたときに、「相手を許したい」と思うのと同時に、「でも、やっぱり相手が悪いんだ!」という思いを手放せないでいます。
「怒り」というのは、「相手と戦う」ために存在する感情であり、それゆえその勢いは激しく、人の心と体を乗っ取る力がある―。
このことで、「人が怒るとなぜ、どのように相手を許せなくなるか」というメカニズムを知るために、ある夫婦のエピソードを取り上げてみましょう。
美容室に勤務していたAさん夫婦が郊外に家を買い、念願だった自分たちの美容室をオープンしました。
開店祝いに、友人たちがお金を出し合って素敵な看板をプレゼントしてくれました。
そこで、少し奥まった、わかりにくい場所にあるお店へとお客さんを誘導するために、道路の角にその看板を設置することにしました。
すると、看板を立てたその日のうちに、地域に長年暮す町内会長の女性がやってきて、「あそこに看板を立てるのは禁止です。別の場所に移動してもらえませんか?」といいます。
しかし、町内会長さんが指示した別の場所に看板を立てても、すごく見えにくく、意味がありません。
「せっかく友達がプレゼントしてくれた看板なのに!」と思うと、悔しさがこみあげてきて、町内会長の女性の顔を思い出しただけでもムカムカ、イライラしてきました。
その日の夜、用事で出かけていたAさんの夫が帰ってきました。
夫は話を聞くと、「べつに邪魔になっていないんだから、いいじゃないか。よそ者を排除するような、そんな人は許せない。なんなら、土地の持ち主を相手取って訴訟を起こしてもいい!いまからそれを町内会長に伝えにいこう!」という話になりましたが、その日はもう遅かったので、なんとか怒りを鎮めて一晩、眠りました。
翌日の朝、Aさんの妹がお店の様子を見にやって来たので、「じつはこういうことがあって・・・」といきさつを話すと、その妹は、「お姉ちゃん、この店にとってのお客さんは、どんな人たちを想定しているの?」と問いかけてきました。
Aさんは、「・・・このニュータウンの人だよ」と答えました。
妹は「じゃあ、看板があるから人が来る、来ないじゃなくて、本当に重要なのは、地元の人の評判や口コミじゃないの?それなら、町内会長さんを敵に回すなんて、もっとも避けなくてはいけないことじゃないの?」と、諭されました。
Aさんは「・・・うん。それもそうよね・・・」と反省し、夫とも話し合い、町内会長さんのもとに謝罪に赴き「お騒がせして、すみませんでした。看板は、お店の前に置くことにしました」と報告しました。
すると、「ありがとう」といって、その後、何人ものお客さんを紹介してくれた、という話です。
この話を聞いて、あなたはどう思いますか?
「当たり前だよ、郷に入れば郷に従え、でしょう」と思うでしょうか。
たしかに、事態を客観的に見れば、ごく当たり前の判断です。
しかし、怒りの感情に乗っ取られると、当たり前の判断さえできなくなる危険性があるのです。
自分が攻撃されたと感じたらその瞬間に「相手をやっつける」という目的に思考を向けるのが、怒りの感情です。
その怒りの感情に乗っ取られると、人は相手を攻撃することばかり延々と考えはじめ、「本来の目的」を失ってしまうのです。
訴訟とまではいかずとも、Aさん夫婦が、怒りの感情に身を任せて町内会長さんを攻撃していたら、どうなっていたでしょうか?
おそらく、本来の目的である「お客さんに来てもらう」ことを見失って、「看板をどこに立てるか」にこだわり続け、エネルギーを消耗し、地域の人たちからは変な噂を立てられ、結果的にAさんの美容室は閉店に追い込まれたかもしれません。
そのような残念な事態は、「相手を許せない」ことが原因で、誰にでも、日常的に起こりうるのです。
感情の鎮静化に大切だったもの
このAさん夫婦のエピソードには、次のようなプロセスがありました。
- 店を出した
- 看板を設置したところ町内会長から文句をいわれた
- 腹が立ち、悶々とした
- 夫が帰ってきて「許せない!」と一緒に盛り上がった
- 一晩寝た
- 翌朝、妹が来て「この店にとってのお客は誰?」と諭された
- 町内会長に謝りにいった
この1~7の中で、Aさんが「怒り」を鎮めたポイントはどこにあったでしょうか?
まず挙がりそうなのが、6の「翌朝、妹が来て『この店にとってのお客は誰?』と諭された」というところでしょう。
もちろん妹のアドバイスはとても有効でした。
でも、それだけでしょうか。
怒りの感情がピークになっている状態を「赤コンピューター」と呼ぶとします。
「赤コンピューター」状態のとき、人は全身全霊で相手をやっつけることを考えています。
もし、妹が来たのが前日で、まだAさんが「赤コンピューター」の激しい怒りにとりつかれていたときだったらどうでしょう。
妹が、「この店にとってのお客は誰?」
などといって諭しても、Aさんは「何言ってんのよ!この近所のことなんてちっともわかってないくせに!」とさらに怒りパワーを高めたかもしれません。
妹のアドバイスが有効だったのは、「翌朝」だったからです。
つまり、5の「一晩寝た」というのがものすごく重要で、一晩たって、Aさんの「赤コンピューター」が、多少なりとも冷静な「青コンピューター」状態になっていたのがよかったのです。
人は、怒りに燃えて「赤コンピューター」になっているときには、どんなに正しい意見や助言を提供されたとしても、なかなか冷静に受け取れないものです。
むしろ火に油を注ぐようにますます怒りが増幅されて、勢いを増していく危険すらあります。
さて、5「一晩寝た」ことの他に、Aさんの「赤コンピューター」が青に変わったポイントがもうひとつあります。
それは、4の「夫が帰ってきて『許せない!』と一緒に盛り上がった」というところです。
「えっ、Aさんの夫はむしろ妻の怒りの火に油を注いだのでは?」と思うかもしれません。
もし、みなさんがAさんの夫だったらどうしたでしょうか。
「まあ、しょうがないんじゃないの。ご近所さんと揉めるのも得策じゃないし、看板ぐらい、いったん引っ込めたら」という人も多いかもしれません。
しかし、それだとAさんは、「誰も私のことをわかってくれない!私は被害者なのに!」と、ますます「赤コンピューター」の色を濃くしていったでしょう。
Aさんの夫は一緒になって怒って、Aさんの「味方」になってくれたのです。
これによって「自分一人で戦わなくてもいい」と感じたAさんは、怒りのレベルを下げることができたのです。
感情の三つのレベル
Aさんのように、完全に怒りに乗っ取られ、「赤コンピューター」状態になっているときには、人に寛容になるなど不可能です。
遭遇したのが小さな出来事の場合、それに対して湧き上がる感情の勢いもそれほど強くなく、感情の勢いが落ち着くまでの時間も短くてすみます(第一段階)。
この第一段階より大きな出来事に遭遇した場合、第二段階となり、それに対して起こる感情の勢いも倍になり、勢いが落ち着くまでに要する時間も倍になります。
さらに、たとえば交通事故に遭う、震災に遭うなどの大きな出来事に遭遇した場合、それに対して起こる感情の勢いも大きくなり、勢いが落ち着くまでも長い時間を要します。
感情の勢いがもっとも強い第三段階では、人は「過覚醒」の状態になります。
あらゆることに対してイライラし、音やにおい、ちょっとした物音にも敏感になります。
これは、命の危機に対して全身が総毛立っているような状態で、まさに「真っ赤なコンピューター」状態といえます。
繰り返しますが、人はこのような状態のときに、他人に対して「寛容になる」など不可能です。
寛容力を発揮できるようになるまでには、「物理的な時間」が必要で、自分の感情が「真っ赤なコンピューター」状態から、「うすい赤コンピューター」状態に、さらに「青コンピューター」状態に落ち着いてくるのを待つしかありません。
時間をかける以外の方法としては、このあと紹介する「怒りの感情の波を小さくする呼吸法」や「怒りの点数化」「怒りの記憶を七つの視点で見直す方法」などのテクニックを使うなどして、「青コンピューター」に落ち着くようセルフケアを行なうのが有効です。
怒りを解消することは他人も自分も許すこと
イラッときたらまず呼吸
怒りの感情が強い状態を「赤コンピューター」、冷静な状態を「青コンピューター」とここでは表現していますが、じつはカウンセラーのような「プロの聞き役」は、クライアントの「赤コンピューター」状態を「青コンピューター」状態に変えるスキルを持っています。
たとえば、クライアントが「上司がルールを無視するのが許せない!」と怒っていたとします。
このようなときは、まずひととおり、気が済むまで話してもらったあとで、こうお伝えします。
「なるほど、あなたが怒るのもしかたありません。
あなたは仕事をルールどおりにしっかりやりたいと思っている。
なのに上司はルールを無視する。
あなたは、何を基準にすればいいかわからなくなってしまいますね。
仕事はやりにくくなるし、イライラしますよね。
その怒りは、あなたにとって当然の怒りですよ」
このようにお伝えすると、だんだんと怒りの勢いが弱まっていくのです。
こういう人は、「怒ってはダメだ、怒ってはダメだ・・・」と、心のどこかで抑制しようとしているから、逆に怒りが収まらないのです。
だから、怒っていいんだ、怒って当然だ、なぜなら、その怒りの感情は自分を守ってくれているからだ、と理解してもらう。
こうすることによって、カウンセラーはクライアントを「青コンピューター」状態にしていくわけです。
一人でできる「怒りの収め方」―「赤コンピューター」を「青コンピューター」に変える方法としては、まず「呼吸」を意識することがあります。
「イラッときたら、まず呼吸」と覚えてください。
先の例の「上司が許せない!」と思ったのであれば、「自分は上司に怒っている」と、その怒りの感情を認め、上司がいる場所からできるだけ距離を置きます。
別室に行くとか、可能であればちょっと外に出るのもいいでしょう。
なぜかというと、怒りというのは原始的な感情であり、”敵”が視界に入っている限りは、なかなかコントロールするのが難しいからです。
そして、まず数回、大きく深呼吸をします。
それから、「い~ち」「に~」とゆっくり数えながら深く呼吸するようにしてください。
すると、怒りの勢いが少しずつ、やわらいできます。
怒りを感じる出来事に集中している意識が、「呼吸を数える」ことにむいていくためです。
そして、自分の怒りに「ありがとう」といいます。
怒りを否定せず、その存在を認め、自分を守ろうとしてくれていることに感謝するのです。
怒りを点数化する
呼吸を整え、怒りの感情に感謝することによって心が落ち着いてきたら、次に行なってほしいことがあります。
それが、「怒りの点数化」です。
「自分がこれまで最大限に怒ったときを『10点満点』とすると、いまの自分の怒りは何点になるか?」を考えるのです。
最初は、「八点」と思っていても、考えるうちに「いや、あのときの怒りはこんなレベルじゃなかったから、今回のが八点ということはないな。
せいぜい5点ぐらいかな」と点数が落ちてくるときがあります。
もし点数が落ちなくても、それでいいのです。
こうやって、点数をつけている時間に、「赤コンピューター」が少しずつ「青コンピューター」にクールダウンしていくことがこのワークの狙いです。
怒りに効く言葉を言ってみる
もうひとつ有効なのが、怒りに関する名言や格言を言ってみることです。
たとえば、「短気は損気」のようなシンプルなものや、徳川家康の「怒りは敵と思え」、トルストイの「憤怒は他人にとって有害であるが、憤怒に駆られている当人にとってはもっと有害である」といった言葉もあります。
ボーヴォワールは、「どうにも乗り越えられない障害にぶつかったときは、頑固さほど役に立たないものはない」といっています。
オードリー・ヘップバーンは、「いばる男の人って、ようするにまだ一流でないってことなのよ」といったそうです。
あなたも、好きな小説家や俳優、スポーツ選手、歴史上の偉人などの言葉から、お気に入りの「怒りを収める言葉」を見つけて、いざというときにつぶやいてみてください。
その言葉を思い出す作業で理性脳である前頭葉が活性化し、実際につぶやくことで物事を少し客観的に見られるようになります。
シンプルな方法ですが、一方向に偏りがちな考えを切り替えるのに効果的です。
7つの視点から怒りを客観的に見る
怒りの感情を排除しようとせずにしっかりその存在を認め、呼吸を数え(整え)、怒りを点数化して、お気に入りの格言を思い浮かべ、つぶやいてみる―。
これらを実践すれば、怒りの勢いを確実に弱めていくことができるはずです。
しかし、怒りの勢いが弱まったからといって、すぐに客観的な考えを持つことができるわけではないことも、知っておきましょう。
相手に対する「怒り」そのものはだいぶ収まったとしても、相手に対する「警戒心」が残ったままだったり、「疲れ」が蓄積したままだったりすると、何かの刺激が入ったときに、「やっぱり、あいつは許せない!」と、再び「赤コンピューター」に戻る確率が高いのです。
そこで実践してほしいのが、
「七つの視点切り替え法」です。
たとえば、あなたが上司で、ミスをした部下を叱ったら逆ギレされた―という例を挙げて考えてみましょう。
その後、部下との表面的な関係は一応、修復しましたが、やはり何か釈然としない思いが残っています。
怒りは人を視野狭窄に陥らせます。
そこで、次のような「七つの視点」から出来事をとらえ直してみるのです。
1.自分視点
・私は何が一番傷ついた?
・私は疲れている?
・私は最近、嫌なことが積み重なっている?
・私は相手に何か恨みがあった?
・私がいったことは正しい?それとも思い込み?
2.相手視点
・相手は何をしたかった?
・相手は何か不安や不満があった?
・相手は何か伝えたいことがあった?
3.第三者視点
・他の人から見たら、自分はどう見える?
4.宇宙視点
・宇宙から(上から)見たら、自分はどう見える?
5.時間視点
・(たとえば)一カ月後は、部下との関係はどうなっている?
・(たとえば)三年前は、自分は(部下と比べて)どうだった?
6.感謝視点
・相手に感謝できるとすれば、どんなこと?
7.ユーモア視点
・この出来事を笑いのネタにするとすれば?
1.の「自分視点」だけでなく、さまざまな方向に視点を広げてみることで「違うとらえ方」ができるようになります。
違う視点でとらえることができれば、「やっぱり、あいつは絶対に許せない!」という呪縛からもいつのまにか解放されていきます。
他人も自分も許す技術
ネガティブな記憶を書き換える技術
さて、怒りのケアのためにもうひとつ、有効なテクニックをご紹介しましょう。
それは、
「ネガティブな記憶をポジティブな記憶に変えて心に収める技術」です。
ネガティブな記憶というのは、その人にとってインパクトが強く、本能が「危険だからしっかり覚えておけ」と働きかけてくるので、心の奥底に残ってしまう危険性があります。
たとえそれを力ずくで忘れて生活していても、ネガティブな記憶は常に「待機」していて、疲れたときやストレスがたまったときになどにパッと表れ、それによってイライラしたり、苦しんだりします。
すると、「自分はまであの出来事を引きずっているのか。情けない。やっぱり自分はダメだ・・・」と、自信を失うことにつながってしまうこともあります。
だから、ネガティブな記憶を、ポジティブなもの、あるいは、ポジティブまではいかなくても「ネガティブではないもの」に変えておく必要があるのです。
そこで有効なのが、「モデルの力」というものを使うことです。
あなたが「あの人みたいに考えられたらいいな、行動できたらいいな」と思う人をイメージしてみましょう。
そのモデルの人物に成り代わって、自分がうまく対処しているシーンを細部までシミュレーションしてみるのです。
私自身がよく使っているモデルは、『釣りバカ日誌』のハマちゃんです。
トラブルに遭遇してもめげずに、常にポジティブで、切り替えが早い。
情に厚くて、曲がったことは許せなくて、誰に対しても平等に接して、奥さんや仲間から愛されているキャラクターの持ち主―。
腹が立った出来事を思い出したときなど、「ハマちゃんだったらどうしたかな?」と振り返ってみると、自分だけでは絶対に思いつかなかったような対処法が見えてきます。
ハマちゃんだけでなく、TPOに合わせて、歴史上の偉人や、あるいは尊敬する防衛大学校時代の先輩など、さまざまな人物にモデルとして登場してもらうこともあります。
こうやって、「モデルの力」を借りてあらためてシミュレーションすると、「うまくいかなかった体験イメージ」の上に「うまくいったイメージ」をかぶせることができます。
すると、「次に同じようなことがあったら、きっとうまくやれるはず」と、感じられるようになるのです。
そうなったら、もうその体験や相手はそれほど危険な対象ではなくなり、覚えておく必要もなくなるのです。
性善説で生きたほうが疲れない
あなたは、性善説と性悪説、どちらの立場でしょうか?
どちらが正解・不正解ということはありませんし、人の考え方や価値観はそれぞれですから、どちらであってもいいと思います。
しかし、「性善説」で物事をとらえるほうがさまざまな意味から寛容力を高くする作用があると思います。
「性悪説」の人は、猜疑心と警戒心が強いため、いつも緊張しています。
緊張しているということはエネルギーを消耗させているということですから、疲れています。
疲れは寛容力を下げる直接的な原因である、ということは、これまでも繰り返し述べてきたとおりです。
たとえば、新卒で社会にはじめて出たり、転職してこれまでとはまったく違う環境に身を置くことになったりしたとき、誰でも大きなストレスを抱えますが、「性善説」の人は、こういうピンチのときに、人に「助けて」と頼ることができます。
そして、実際に手を差し伸べてもらえるのです。
しかし、「性悪説」で、他者や社会を疑いや恐怖の目で見ている人は、人に頼ることができないため、救いの手もなかなか差し伸べられません。
これは、とても苦しい生き方だと思いますが、現代は、「性悪説」に傾きやすい社会といえます。
ネットを見れば、人の悪意や敵意が満ちていますし、生活の中でも「お互い様」より、「権利」を主張し合うことが多くなってきました。
クライアントの中にも、「いざとなっても誰も自分を守ってくれない」という思い込みからなかなか抜け出せない人がいます。
特に、過去にいじめを受けたときに誰も守ってくれなかった、といった経験を持っている人は、大人になっても人を疑い、警戒し、人に頼れない人が多いようです。
人との関わり方における価値観には、その人がこれまでどのように生きてきたかが、大きく影響しています。
人に優しくされた経験、冷たくされた経験、傷つけられた経験などのすべてが、その人の、周囲とのコミュニケーションに影響を与えているのです。
したがって、その価値観を急に変えようとするのは、難しいことですが、できるだけ「性善説」で物事をとらえたほうが人に寛容になれるし、人生がいきやすくなる、ということはお伝えしておきたいと思います。
規則やマナーに厳しい人の本音とは?
秩序ある社会生活を送るうえでは、法律の他にも、人々が守るべき一定の規則やマナーがあります。
規則やマナーは、「こういうとき、人はこうあるべき」という”常識”によって定められています。
しかし、それは、どんなときにも、どんな人にも、どんな場面にも当てはまるものではありません。
この規則やマナーをすぐに持ち出して、人を責める人がいます。
「なんで規則を守らないんだ!」
「これって常識でしょう!?」というふうに。
じつは、そんな「ルールに厳しい人」というのは、自分にも厳しい人が多く、日常生活でいろいろなことを「我慢」しています。
すると、「自分はこんなにも我慢しているのだから」と、人にも我慢することを強要し、寛容ではいられなくなるのです。
たとえば、あなたが管理職―課長だったとして、「部下というのは、いついかなるときも上司のことを最大限に敬わなくてはならない、言葉使いも限りなくていねいでなくてはならない、それがルールだ」と考えていたとします。
そして、上司である部長に対してあなたは常にそれを心がけ、気を付けて接していますが、ある日、あなたの部下の一人が、その部長に、自分のルールからしたら考えられないような、なれなれしい言葉づかい、態度で接しました。
当の部長はまんざらでもなさそうでしたが、あなたは黙っていられません。
そして、「君ね、今日はたまたま部長の機嫌がよかったかもしれないけれど、ああいう態度は社会人として問題だ!」と叱りつけたりします。
しかし、そんなあなたは、部長に対して常に気を遣い、言葉を選び、恭しく接していることに疲れているのかもしれません。
本当は、もっと部長のふところに飛び込んで、楽に会話がしたいのに、近しい関係をつくりたいのに・・・と、すごく「我慢」をしているのかもしれません。
自分が「許せないこと」は、もしかしたら自分が「我慢していること」なのかもしれない、と考えてみることも、自分自身の「怒りのツボ」を発見し、寛容力を高めるための有効な方法だと思います。
人はそう簡単には変わらない
たとえば、何度注意しても同じ失敗を繰り返す部下。
そんな部下に対して、
「なぜ、この部下は変わらないのか?」
とイライラする―。
しかし、人はそう簡単に変わるものではないのが現実です。
むしろプレッシャーをかけられたり、責められたりすることによって反発心が湧き、逆に「変わりたくなくなる」のが人間です。
責めてくる相手に対して怒りの感情が湧き、「屈服したくない」と思うのです。
そして、「よい、悪いじゃなくて、あなたのいうとおりにだけはなりたくない!」という、ねじれた方向に向かっていくことも多々あります。
これは、反抗期の子どもにもそのまま当てはまりますね。
「お母さんがいうから、やらない」というあのパターンです。
親が子どもの行動を変えたいとき、昔からいわれているコツがあります。
これは、上司が部下の行動を変えたいときのヒントにもなると思いますが、
「本人が変わりたい、と思うように仕向け、そうなるまで待つ」ということです。
本人が自ら変わりたいと思えば、自然と行動パターンが変わり、それが定着しません。
なぜでしょうか。
そこには「時間×回数」の違いがあるからです。
たとえば、好きでサッカーのリフティングの練習をする子の「時間×回数」は、いやいやそれをやっている子の「時間×回数」を圧倒的に上回っていきます。
当然、定着力に差がつき、実力や結果の違いとなってはっきり表れます。
自分が原因かもしれないと思ってみる
「うちの子は、何度いっても片付けをしない!」
と怒っているお母さんに、セラピストは、「叱ってもなかなか片付けるようにはならないものですよ。お子さん自身が、片づけが必要だとか楽しいと思わないかぎりは」とお話しします。
たとえば、子どもが片づけないから結局、親が片づけている、というのであれば、それをやめてみるのです。
すると、「自分が片づけないと物がなくなったり、物につまづいて転んだりして、本当に困る」と、片づける必要性が子どもの中で高まります。
その結果、さらに、片づけると気持ちがいいんだ、あるいは、ちゃんと片付けられると自信も湧いてくるんだ、という「内面的な報酬」に気付けば、自ら進んで片付けられるようになる可能性が高まります。
では、片づけをしなくても子どもが困っていないようだったらどうするか?
片付ける必要性を感じていないようだったらどうするか?
今度はお母さんが、自分自身の常識をチェックしてみることです。
たとえば、片づけにも程度がありますが、「完璧な片付け」を子どもに求めているのかもしれません。
ちょっとちらかっているだけで不快に感じている自分のほうに原因があるのかもしれません。
他人へのアドバイスはかなり難しい
「よかれと思って注意をしたのに、まったく伝わらなかった」
「相手のためを思って助言したのに、怒らせてしまった」
そんな残念な経験をしたことはありませんか?
数多くのクライアントと出会い、さまざまな注意や助言をしてきた、ある著名なセラピストは、「人に注意をしたり、助言をしたりするのは本当に難しい」ということを言っています。
なぜなら、人はみんなそれぞれの考え方や生き方があり、みんなそれぞれに頑張っているからです。
その人たちに対して「ああしろ」「こうしろ」と注意したり助言したりすると、ほとんどの場合は「反発」が返ってきます。
たとえば、こんなケースがありました。
ある定年を間近に控えた夫が、「料理を教えて」と妻にいいました。
妻は「いいわよ!」と上機嫌になって最初は教えていましたが、しだいに「その包丁の持ち方は直したほうがいい」「ブロッコリーの芯は食べられるんだから捨てちゃダメ!」などとあれこれ「ダメ出し」をはじめました。
ぞのうち夫は、「いちいちうるさい!俺にも自分のやり方があるんだ!」とキレました。
すると奥さんは、「教えてっていうから教えたのに、その態度はなによ!」と応酬・・・。
よくある光景といえます。
でも、夫の心の中を想像してみると、怒った気持ちもわかります。
夫には、「料理を学んで、今後は自分がときどきつくって妻の家事の負担を軽くしてやりたい」という気持ちがあった。
「その気持ちが伝わって、妻も喜んでくれるのではないか。自分もちょっと頑張れば料理くらいできる。
それも褒めてもらえるだろう」という気持ちもあった―。
なのに、いかに「正しい助言」だったとはいえ、「ダメ出し」ばかりされては、自分の思いやりを無視されたようで、腹が立ちます。
それでキレてしまった、というわけです。
アドバイスを受け入れられないと、「なんて自分は素直じゃないんだ。寛容じゃないんだ・・・」と自分をせめがちですが、そうではありません。
そもそも、人はアドバイスを受け入れにくいものなのです。
ですからアドバイスをする側は、「そうとう言い方を工夫しないと、相手に配慮しないと、うまくいかない」と自覚したほうがいいでしょう。
そのアドバイスが正論であればあるほど、相手は痛いところを突かれて「攻撃された」と受け取り、反発をしたくなるものなのです。
特に、ちょっと疲れている人。
少し自信を失っている人。
こんな相手に向かって「正論」のアドバイスはしないこと。
「自分はダメだといわれた」「努力が足りないといわれた」と受け取られます。
そして相手は、「これ以上、エネルギーを使ってはならない」という本能からの訴えによって、耳を塞いでしまうものなのです。
どうしても苦手な人がいて当然
「この人に会うと、なぜかあとでどっと疲れを感じる」
そんな人はいませんか?
それは過去の経験による、本能的な反応である可能性が高いのです。
過去に自分に苦しい思いをさせた人―その人と話し方が似ている、たとえば怒ると机を叩くところなんかはそっくり・・・。
こんなふうに認識すると、本能は警戒心を高めます。
するとエネルギーをたくさん消費し、疲れるのです。
そんなとき、気をつけなければいけないのは、「苦手な人がいるなんてダメだ」「なんとかしてこの人を好きにならなければ」と、自分をむりやり変えようとして苦しむことです。
「私はどうもこの人が苦手だ」―そんな人は、誰にだっています。
「この人は、みんなに好かれている。でもやっぱり私は嫌いだ」―そんなことは、よくあることなのです。
もちろん、「対立」したり、「敵」にしたりしてしまわないよう、気を付ける必要はありますが、「好きになる」必要などありません。
「自分はこの人が苦手だ」と思ってしまう自分を認めたうえで、その人とはうまく距離を取って、自分がエネルギーを失ってしまわないよう、疲れてしまわないよう淡々と、あっさり付き合うことを心がけてみるのはいかがでしょうか。
苦手な相手を好きになれるように自分をむりやり変えようとしたり、あるいは、まかり間違っても「自分が好きになれるように相手を変えよう」などと考えたりしないことが大切です。
どうしても相手が許せないとき
ここまで、「相手を許せない!」と思ったときにどう気持ちや感情を整理するか、相手に対して寛容になるか、そのコツについて述べてきましたが、それでも相手のことがどうしても許せないという思いが消えない、という人にお伝えしたいことがあります。
前項の「どうしても苦手な相手」に対してと同じ考え方ですが、
「そこまで相手を許せない、と思うのであれば、もうそのままでいい。許せないままでいい」
ということです。
なぜか。
「原始人モード」でご説明してみましょう。
あなたが属する集団の中で、あなたを敵視し、迫害する「許せない人」がいた。
そのようなことが何年も続いた。
それなのにある日突然、「仲良くしよう」と手のひらを返すような態度を取ってきた―。
さて、あなたは相手のことを信用できますか?味方だと思えますか?
思えませんよね。こちらを油断させ、おとしいれるワナかもしれません。
では、どうしたら相手への警戒心はゆるむでしょうか?
たとえば、自分がケガをしたときに助けてくれた。
病気になったら看護してくれた。
仕事を肩代わりしてくれた・・・そのような行動が、どれくらい続けばいいでしょうか。
一週間では、とてもじゃないけど警戒心はゆるみません。
一カ月だと、どうでしょう。
まだまだだと思います。
三カ月や半年がたって、「もしかしたら、大丈夫かも」というレベルでしょうか。
そして数年が経過してようやく「もう警戒しなくてもいい」と思えるのが普通ではないでしょうか。
それでもどこかに小さな警戒心は残っているものです。
それくらい、人は、「許せない人」に対する警戒をなかなか外せないものなのです。
なぜなら、そんな相手に対してはできるだけ警戒を解かないほうが、自分自身の身を守るために有利だからです。
ここまで紹介した方法をひととおりやってみて、それでもうまくいかないときは、「これは、自分を守るためにも、持ち続けてもいい感情なのだな」と、いったん受け入れてください。
「いつまでも、根に持っているなんて、自分はダメだ」
などと、自分にNOを出さないことです。
むしろ「これでいいんだ」といまの自分にOKを出すことができれば、「相手をどうしても許せない自分」を許すことになります。
そうすれば、「どうしても許せない相手」のことも、やがて許せるようになるかもしれません。
■関連記事
自分を責めない寛容力
怒りの感情コントロールで寛容力を培う
不寛容な人が寛容力を培うには
寛容力が無い人が寛容力を育む方法
想像力が他人も自分も許す
嫌なら会社をやめろは、ナンセンス
いつも元気な人は、心の調子が悪い人の状態をイメージしにくいものです。
たとえば、うつ状態にある人の心の状態というのは、元気な人にはなかなか想像しにくいものです。
だから、うつ病で仕事を休む人に対して、「なんだかんだいって、怠けているんでしょう?いいよね、寝ていられて」
などと嫌みをいいたくなるのです。
うつ病で会社を二ヵ月間休んでいた人が、久しぶりに出社した。
けれども、午後になるとやっぱり調子が悪いといって帰ってしまったとします。
そのとき、
「〇〇さん、家ではずっと寝ているらしい。そんなの、社会人としてあり?私たちは頑張って仕事をしているのに。そんなにつらいなら、さっさとやめればいい」
と、こんなふうに思いがちです。
しかし、カウンセリングで当人の気持ちを聞くと、
「本当は、なんとしても頑張りたい。職場のみんなにも迷惑をかけている。申し訳ない気持ちでいっぱい。でも、苦しい。体も動かない。自分が情けなくて仕方がないです」といいます。
この当人の言葉を職場の人たちに伝えても、
「でも、こちらから見たら、給料をもらいながら休職して、うらやましい立場ですよ。代わってもらいたいくらいですよ」
などといってくる人がいます。
そんな人に対して、セラピストはこう尋ねます。
「よく考えてください。あなたは本当に、彼がうらやましいと思いますか?休職して給料も減らされている状態で、いつ自分の症状がよくなるのかもわからない。
これから何年もかかるかもしれない。
それを楽だと思いますか?あなたはその立場に甘んじたいですか?」
するとようやく、うつ患者のつらさ、苦しい状況に気付くのです。
このような人たちには、うつ病で苦しんでいる人だって、他の人と同じように、元気に働いて、価値のある仕事をして、社会にも貢献して、意味のある人生を送りたいと思っていること、でも、なかなか思いどおりにならずに苦しんでいることを、よく理解してほしいと思います。
たしかに人は、楽をしたがるところや、怠けたがるところもあります。
しかし、それ以上に、「充実してやりがいのある人生を送りたい」という気持ちを持っています。
「怠けることや休むことだけが人生の目的だ」という人などいないでしょう。
他人の痛みをわかったつもりになってはいけない
ある著名なセラピストはカウンセラーとして、うつに悩むクライアントなど、人の苦しみを自らのイメージだけで「わかったつもりになってはいけない」と常に気をつけています。
だから、「つらいよね、よく休めばすぐによくなるよ」とか「休んだら必ず元気になれるよ」など、「すぐによくなる」「必ず元気になれる」ということを、軽はずみにいわないように気をつけています。
こういう励ましは、本人に対して響かないどころか、「なかなかよくならない」ことへの罪悪感をよけいに増幅させてしまう危険性があるからです。
何をしていても、何をしていなくても苦しくて、つらくて、吐き気までしてくるのがうつ症状です。
これを一般の人に伝えるときには、「高熱にうなされて、ハァハァと息苦しさに耐えている。
起きていても、寝ていても辛い。
でも、熱を計っても平熱。
いったい自分がどうなってしまったのかわからない。
そんな状態ですよ」というと少し理解してもらえたりします。
そんな状態の人に、「いまからちょっと渋谷で打ち合わせをしてきて」というのは過酷すぎます。
本人にとっては、駅に行って、電車に乗るのすら大変なのです。
うつ病になると、その症状のひとつとして「死にたくなる(希死念慮)」ことがあります。
人が死にたくなるとき、「死んだらどうなるのか?」ということはあまり考えていないということです。
むしろ、「死んだらもう苦しまなくていい」ということだけを考えています。
たとえるなら、熱い炎に手をかざしていて、熱くてしかたがないから手をどける―そのくらいの発想、感覚でしかないのです。
残された家族はどうなるか、あと一カ月頑張れば事態は変わるのでは、といったことなど考える余裕もないのです。
当面の苦しみから逃れるために、自らの命を絶ってしまう。
その瞬間のことは記憶にないくらい、追い詰められるのです。
もちろん、うつという症状のつらさもさまざまな段階があるのですが、うつ状態の人を見て「怠けている」とか「自分ならそうなる前にうまく対処する」というのは、少し想像力が不足しているといえます。
うつの人とつきあうのは、イライラするものです。
どうしても怠けているように思えるし、自分の都合のいいように行動しているように見えてしまうからです。
でも、ここで紹介したように「うつの人の立場、考え方、感じ方を知ると、同じ行為を違う視点で見ることができます。
これが「価値観を広げる」ということです。
このとき自分が持っている価値観を否定する必要はありません。新しい価値観を増やしていけばいいのです。
これこそ「寛容力」を育てる王道だと思います。