傷つきやすい心と自己価値感

人の中にいることが苦痛な人は、傷つきやすい心を持っています。

他の人の悪意ある言葉に傷つくことはもちろん、相手の何気ない言葉や行動にも傷ついてしまいます。

こうした傷つきやすい心は、あるがままの自己に価値があるという実感、すなわち自己価値感の弱さに根源があります。

自己価値感の弱さは、劣等感、無力感、自己卑下などとして現れますが、次のような状態も自己価値感の弱さを表現しています。

すなわち、「自分のやりたいことが分からない」「自分がなにが好きなのか分からない」などという状態です。

「べつに」とか「どっちでもいい」「とくにない」などという言い方にも、自己価値感の希薄さがうかがえます。

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この点に関し、優れた感性を持つある女子学生が興味深い話をしてくれました。

彼女が中学のころ、学期末試験の一日目が終わって家に帰ると、「どうだった?」と母親が聞きました。

「だめだった」と答えると、「だから、普段からしっかり勉強しときなさいと言ってるでしょ」と言われました。

二日目にも同じことを聞かれたので、「わりあいできた」と答えると、「あなたの『できたわ』は、疑わしいものだわ」と言われました。

三日目は、どちらに答えようと救いがないので「わからない」と答えると、「自分のことなのに分からないわけないでしょ」と叱られてしまいました。

またあるときは、「一生懸命やれば成績はどうでもいいのよ」と母親が言うので、一生懸命勉強をしましたが、答案はほとんど白紙で出しました。

すると戻ってきた点数を見て、「こんなんじゃ、勉強している意味ないわよ」と叱られました。

これでは、子どもは自己価値感を育てることができません。

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弱さや未熟さ、劣等生などを持った、あるがままの自分を受け入れられないと、虚構の「真の自己」への逃避がなされず傷つきやすい心になります。

たとえば、試験に失敗すると、たまたま調子が悪かったためであり、本当の自分はこんなもんじゃない、と思い込もうとします。

あるいは、しがない自己価値感が十分育まれていない傷つきやすい心のフリーターである人は、一発当てて五年後には人から注目されている自分を脳裏に描いて自分を慰めたりします。

ところが、この自己は客観的な事実の裏付けがありませんから、虚構のものだと自分で意識しています。

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この虚構であるという事実を意識化させられると、自分の根底が揺さぶられたかのように感じ、傷ついてしまうのです。

このように、ゆるぎない自己価値感が形成されていないと、他の人の評価が自己価値に直結します。

このために、自己価値感が十分育まれていない傷つきやすい心の人はちょっとした失敗や批判が、自己存在そのものを脅かすかのように感じられてしまうのです。

他の人に過度な期待を持ち、過度に依存している場合も、傷つきやすい心になります。

過度の期待を持てば、それだけ期待は裏切られ自己価値感が十分育まれません。

過度に依存していれば、それだけ相手の拒否行動に頻繁に出会うことになります。

注意すべきは、こうした期待や依存は無意識のものであることです。

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たとえば、二人の時はうまくいくが、三人になるとうまく付き合えない人がいます。

親友が自分よりも他の友達により多く好意を示しているように感じて、自己価値感の心が乱されてしまうのです。

これは、自分だけに関心を集中してほしいという親への依存姿勢を、無意識のうちに親友にも当てはめてしまっているためです。

他者に過度に依存していると、その人達としていることよりも、人間関係そのものに意識が集中しがちになり、傷つきやすい心になります。

たとえば、仲間でテニスをしていても、プレーを楽しむより、誰が誰を誘ったとか、誰が誰と組むかなどということに注意がいってしまうのです。

こうした人間関係への過度の関心が、それだけ多く傷つきやすい心が傷つく場面を見出すことになります。

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筋肉は適度な負荷を与えられることによって強化されます。

病原菌への免疫力は、弱められた病原菌を体内に注入することによってつくられます。

心も同様に適度の傷つき体験によって免疫力、すなわち自己価値感が高まります。

そうした体験が不足すると、傷つきやすい心のままにとどまります。

たとえば、優等生の息切れ型といわれる登校拒否があります。

優等生でまったく問題のなかった生徒が、なにかをきっかけに突然、登校拒否になってしまう事例です。

きっかけは、皆の前で教師に叱られるとか、試験の出来が悪いとか、皆の前で苦手な体育をしなければならないなどです。

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他の生徒ならなんでもないことなのに、これまで優等生で傷つく体験が少なかったために、自我が多少でも傷つく体験に耐えられないのです。