ある五十代の女性が友人付き合いで悩んでいる。
これまでずっと仲良くしてきたグループがあるのだが、そのうちの一人の様子が明らかにおかしい。
どちらかというと口数が少なく、グループの中でも穏やかなほうだったその友人が、最近、やたらと人の悪口ばかりいうようになった。
しまいには、仲間の批判もする。
その女性の家に電話をかけてきて、ヒステリックにある特定の人物を批判する。
「どうしたんだろう。彼女たちケンカでもしたのかしら?」
それにしても一方的すぎるし、責める言葉もひどい。
気分が悪くなった女性は、その友人と少し距離を置くようにした。
その後、久しぶりに会うことになったとき、その友人の顔つきまで変わっていることに驚いた。
能面のように表情がないのに、少しでも違う意見を述べようものなら顔色を変えて反論してくる。
別れたあとも、電話やメールでしつこく突っかかってくる。
病的な感じがしたという。
こんなケースでは、距離を置くのではなく、関係を断ち切ってしまったほうがいい。
中途半端に関われば、向こうは執拗に追いかけてきて余計に面倒なことにもなりかねない。
人は環境によって変わる生き物だから、いつまでも同じとは限らない。
底意地の悪い人間に変身してしまう場合もある。
そういう人たちを「元に戻そう」などと思わないことだ。
「しばらく距離を置いていれば、きっと落ち着いてくれるだろう」というのは甘い。
こういうときは、スパッと関係を断ち切ったほうがいい。
思い切って友人関係を切ることができないのは、圧倒的に女性に多い。
女性同士の友人関係では、何でもかんでも包み隠さず話すことが求められるようだ。
しかし、仲がいいのはけっこうだが、「そんなことまで話してしまって大丈夫?」と心配になるときもある。
人は環境によって変わることもあるのだから、あまり深いことまで話してしまうのは危険である。
漫画家の柴門ふみさんは、「何もかも話し合い、分かち合い、許し合わねばいけないという親友ごっこ」が、小学生の頃からうっとうしくてたまらなかったそうだ。
そのため、「冷たい人」としていつも距離を置かれていたという。
しかし、柴門さんくらいでちょうどいいのだ。老若男女にかかわらず、一度「友人」について考え直す機会を持ってみるといい。
『湯神くんには友達がいない』(佐倉準著)というマンガがある。
読んでみると、なかなか面白い。
主人公の女子高生が転校先で知り合った湯神くんは、変人だが決してイヤなヤツではない。
ただ、他人と合わせることをしないだけだ。
「俺はウジウジと過去の人間関係に脳の容量を使うつもりはない!何故なら俺は、友達とかそういうものを必要としない人間だからだ!」と宣言してみたりする。
これは「冷たい人間」のセリフだろうか。
他者への悪意も嫉妬もないからこそ、いえるのではないか。
実際に、湯神くんはマイペースを貫いているが、人に迷惑をかけることはしないから、それなりに認めてもらえるキャラクターとなっている。
なかなか快適な生き方だと思うのだが、いかがだろうか。
シェイクスピアのセリフに「たいていの友情は見せかけであり、たいていの恋は愚かさでしかない」というのがある。
ここまで言い切る必要もないが、友人関係についてあまり大袈裟に考えないほうがいい。
「いらない」と思ったら、思い切って断ち切る。
本当に縁ある人ならば、断ち切ってもいずれまたいい形で付き合える日もくるだろう。
しかし、中途半端に距離感を保とうとしていると、どんどん関係は悪化していく。
そのほうが怖い。
大勢の人とゆるくつながってるとしても疲れる
最近、若い人たちの間で、何人もの人間が一緒に暮らす「シェアハウス」が流行している。
最初から何人かが集まって一軒家を借りるようなケースもあれば、不動産屋が用意したシェアハウス物件に入居するタイプもある。
こうしたシェアハウスでは、一つ屋根の下で、家族でも恋人でもない、ときには友人でもないアカの他人と一緒に生活をする。
そこにはもちろん、守らなければならないルールがある。
なぜ自由気ままに暮らせる一人暮らしではなく、そのように面倒な「共同生活」を選ぶ人が増えているのか。
理由を聞くと「家賃が安くすむから」という経済的な理由のほかに、「誰かと一緒にいられるから」「知り合いが増えるから」「みんなとワイワイしているほうが楽しいから」といった答えが返ってくる。
とにかく若い人たちは、一人になりたくない、誰かとつながっていたいようだ。
だからといって、彼らの多くが濃密な関係を望んでいるのでもない。
一人の人間と一本の太い糸を共有したいのではなく、多くの人たちと軽い糸でつながっていることを望んでいる。
だが、そうした関係は長く続けるのが難しい。
とにかくみんなで行動したがる人間と、ときには一人になりたい人との間に温度差が出てくるからだ。
恋人ができたり転職したりして状況が変われば、一人、また一人と離脱する。
それは、ごく当たり前のことだが、残されたほうとしては寂しさが募るだろう。
すると、誰かを縛ろうともしかねない。
こうした傾向は、スマホの使い方にも表われている。
いまの若い人たちは、もれなく「LINE」をやっている。
LINEの機能を使えば、あるグループに登録したメンバーに一斉に連絡ができる。
学生なら「今日の二限目は休講だって」と誰かが発信すれば、みんながその情報によって授業の空振りを免れる。
私からすれば、「ずいぶん便利なものができたなあ」と思う。
昔は電話による連絡網しかなかったから、一つのことを短時間で大勢に伝えるのは難しかった。
とくに固定電話のときは面倒だった。
いまは、それが一分もかからずにできてしまう。
ところが、この便利なツールが、逆に面倒をこしらえてもいるらしい。
二十代後半の女性が嘆いていた。
「この年になって、女子高生のグループみたいに、しょっちゅう仲間とやりとりをしなくてはならないのが苦痛です」
彼女は、同期入社の同僚や、学生時代の同級生などいくつかのグループとLINEをやっている。
そのうち、いずれかのグループの誰かがメッセージを送ってきたら、彼女はそれに返信しないわけにはいかないのだそうだ。
LINEの場合、自分が送ったメッセージを、相手がいつ読んだかがわかるようになっている。
だから、受け取ったほうは何かしら反応しないと「〇〇さんたら、読んでいるくせに何もいってこない」と批判されるというのだ。
その批判は、やがて仲間外れといういじめにつながっていく。
ケータイのメールなら、その点、相手が読んでくれたかどうか返事が来るまでわからない。
ときには、返信不要の連絡だってある。
LINEでの面倒事が、子どもたちの間で起きるのはわからないでもないが、いい年をした大人まで何をやっているのかと思う。
本当は、みんな、こうした関係に疲れているのではないか。
だが、なかなか自分からは「ほどほどにしよう」といい出せないでいるのだろう。
岡本太郎は、周囲との調和よりも、独自の芸術を追究する生き方をした。
彼は「友達に好かれようなどと思わず、友達から孤立してもいいと腹を決めて自分を貫いていけば、本当の意味で、みんなに喜ばれる人間になれる」といった。
多くの人たちと上手につながっているのは、たしかに大切なことだ。
さらに、いまの若い人たちは、むしろそうしたことに長けている。
まんべんなくつながっている軽い糸だ。
しかし、そのためにはいろいろと面倒なことが起きてくるのも避けられない。
そこまでして、多くの人と付き合いたいと思うのか。
100人の友より4,5人くらいの友が最高なのではないか。
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過度の気遣いは本末転倒
気遣いができる人間は魅力的だが、行きずぎると人との距離感をうまくとれなくなる。
両者の均衡が崩れてしまうからだ。
四十代の男性会社員は、同僚の体調不良を心配していた。
同僚は一カ月ほど前から持病の偏頭痛が悪化し、仕事中も相当つらそうにしている。
だから、雑務で自分が代わってあげられるものはなるべく引き受けた。
また、以前に自分がかかったことのある名医も紹介した。
同僚はとても感謝して、男性の好きなワインを贈ってくれた。
もちろん、男性はお返しが欲しくてやっているのではないから、その後も何かと同僚に気を使った。
ところが最近、何だか腑に落ちない気持ちになっている。
同僚は体調が快復しつつあるようなのだが、相変わらず雑務を自分に頼ってくる。
お礼もろくにいわなくなった。
それに、紹介した医者に行ったかどうかも報告がない。
さて、この同僚はずうずうしいのだろうか。
私は、そうは思わない。
男性が気を使いすぎたために、二人の間の均衡が保てなくなったのではないか。
人間は、もともと怠け者でわがままだ。
誰かが気を使ってくれると、最初は恐縮していてもだんだんそれに慣れてくる。
そして、「やってくれて当然」と思い込むようになる。
彼の過剰な気遣いが、同僚をそうさせてしまったのだろう。
上司と部下など立場が違う場合は、一方が多くの気を使うのは仕方がない。
だが、そうではない間柄なら、相手にも気を使わせなくてはいけない。
というのも、一方的にこちらが気を使いすぎると、それをずっと続けなければならなくなる。
相手にとっては「気を使ってもらうのが当然」となっているのだから、それをやらなければ「足りない」と思われる。
ふつうに接していたら不満を持たれる、というバカげたことが起きる。
さらに、そうした過剰な気遣いを、みんなが期待するようになる。
周囲は、二人を見ているのだから当然だ。
「あの人は気遣いがすごいね」と褒められようと思ったら、そういう無理をしなければならないのだ。
私は、人間関係はキャッチボールのようなものだと思っている。
何かを頼まれたり、引き受けたり、報告したり-そうしたお互いのキャッチボールで成り立っている。
誰かと長く続けようと思ったら、双方の気遣いが必要なのだ。
キャッチボールで大事なのは、相手が立っている場所にちょうど届くように投げることだ。
受け取りやすいボールであることも大切で、もし、子どもが相手だったら、誰もがフワッと優しく投げてあげるだろう。
こちらがそのように投げるのだから、向こうが投げるときは、向こうにも気を使ってもらえばいい。
「そんなボールでも、こちらがちゃんと取るから任せて」などということはない。
もしかしたら、相手は投げ返してこないかもしれない。
投げ返してこなければ、放っておけばいいのだが、どうも気になってしまう。
「どうしたの?何かあったの?」
すると、こちらの気遣いに慣れた相手はいうだろう。
「ちょっと疲れちゃったから、こっちに取りに来てくれない?」
ここまで心理的距離感がおかしくなってから、相手を責めても仕方がない。
均衡を壊したのは自分の過剰な気遣いなのだ。
「愚かな人に嫌われるのを喜びなさい。彼らに好かれることは侮辱でさえあるから」
カナダの詩人フィリックス・レクエアはいっている。
気を使いすぎる人というのは、相手を愚かな人にしてしまい、また、その人から好かれようと必死になっているようにさえ見える。
第三者から見れば滑稽でもあるのだ。