問題解決の糸口は親子関係にある
長い間心の底に積もったイライラが、いまの対人関係に表われる。
たとえば、ある人が小さいころから父親との関係で「服従と敵意」の矛盾した関係に悩まされていたとする。
表面的に父親に服従しているが、無意識では父親に敵意がある。
そんな矛盾した関係を未だに心理的に解決できていない。
それをいま付き合っている人、恋人であるか、同性の友人であるか、職場の人間関係であるか、夫婦関係であるかは別にして、「移し替える、置き換える」。
これが「トランスフォーム」である。
ある28歳の若者が何回職場を変えても上役とうまくいかないと悩んでいる。
いまの上役ともまたうまくいかないと思っている。
しかしそうではない。
過去の父親との関係が解決していないからである。
彼には反抗期がなかった。
父親に対する服従で反抗期を避けて生き延びた。
しかし父親には無意識に激しい敵意がある。
その父親への隠された敵意が、いまの上役にトランスフォームされているのである。
彼は何度職場を変えても今後も上役とはうまくいかないだろう。
それはいまの上役との関係が本質的な問題ではないからである。
過去の未解決な問題がいまの状況にトランスフォームされてしまう。
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他人のことが気になる心理は無意識にあり
毒親育ちの子どもが生きづらさを乗り越えるには
子ども時代に、依存心や甘えが酷い親に、子どもは甘えることができなかった。
いつも言いたいことを我慢していた。
その不満が抑圧されていることもあるし、意識されていることもある。
ただどちらにせよ不満であることには変わりはない。
小さいころ親とのコミュニケーションに失敗した人は、さみしさを抱え込む。
さみしさは本当にの感情を認識することを妨げる。
自発的感情から嫌いであっても、「嫌い」という本当の感情を認識できないで、付き合ってしまう。
さみしいときに、質の悪い人と関わってしまう。
たちの悪い人たちとは、自分に心の傷があることを認めていない人たちである。
相手が心の奥底でなにを感じているのかを考えない。
だから相手に対して思いやりがない。
お互いに励まし合う関係ではない。
苦しい状況で励まし合う。
それが親しい友人である。
さみしさや劣等感から人との関係を始める人は、誰からも愛されてないし、誰からも親しい友達とも思われていない。
皆にとってただ都合のいい人というだけの存在である。
自分が皆から軽く扱われていることが本人は分からない。
深刻な劣等感も、本当の感情を認識することを妨げる。
そういうときに、やはり質の悪い人と関わってしまう。
質の悪い人たちとは、相手と困難を分かち合う努力がない。
だから友人といっても慰めや安らぎを与えることはできない。
信じあう心がない。
ふれあう心から安らぎを得ることはない。
問題は、その自分たちの関係が偽りの関係で、慰めや安らぎを与える関係ではないということに気がついていないし、そういう関係であることを認めていないことである。
なにより最大の問題は、心理的に未解決な問題を抱えて身動きができなくなっている、という現実から目を背けているということである。
「自分たちが生きることが楽しくないのは、自分たちがなにを認めることを拒否しているからか?」ということに関心がいけば、次第に道は拓けてくる。
しかしそれを認めない。
そういう偽りの人たちとの関係が続く中で、無意識に怒りや悔しさが堆積されていく。
そうした人間関係が続けば続くほど、無意識にはどんどん問題が山積していく。
本来は、人と触れ合うことで心の支えができる。
コミュニケーション能力が育成される。
親しい友人の励ましは、所属への願望を満たす。
「共同体の中の個人」の基本的欲求を満たす。
これと逆の関係なのが、質の悪い人との人間関係である。
自己執着で相手がいない関係。
社会的に孤立していないかもしれないが、心理的には孤立している。
心理的葛藤を抱えている。
それぞれが心理的に未解決な問題を抱えて身動きができなくなっている。
そうした少年期、青年期を通して、無意識に問題を抱えた中高年期の大人になっていく。
大企業のエリート社員のうつ病やエリート官僚のうつ病、パワー・ハラスメントやDV、幼児虐待などで、隠されていた無意識の本質が表に現れてくる。
「狂気の人間というのは、どんな結びつきをつくることにも完全に失敗して、格子のついた窓のなかに入れられていないときでも、獄に入れられている人間のことである。
生活する他人と結び付きをもち、関係をもとうとする必要性は、避けられない欲求であり、それを満たすことによって人間の正気がたもたれる。」
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子どもを支配したがる親、子どもにしがみつく親
たとえば密着の願望、つまり幼児の甘え、「一体化願望」を満たしていくれるのは親である。
甘えの欲求が満たされていれば心の中に所属感ができ、心は安定している。
その甘えの欲求が満たされず、一体化願望を持ったまま親となったら、その親の子どもは自分の世界を持つことに罪悪感を持つ。
一体化願望を持つ親にとって、子どもが自分の世界を持つことは絶対に許せないことである。
それは自分に刃向かうことである。
そうなれば子どもは外で遊ぶことを恐れる。
子どもは友達ができることを恐れる。
それは一体化願望を持つ親が望んでいないから。
友達と楽しく遊ぶことは心の中で親を裏切ることになる。
親が一体化願望を持つということは、親は子どもに無限の密着を求めていることである。
人は一般に自分の心の葛藤を解決するために人を巻き込む。
そのときに一番巻き込みやすいのが子どもである。
つまり、親が心理的に問題を抱えていれば抱えているほど、子どもを巻き込む。
深刻な心の葛藤であればあるほど子どもを巻き込む。
子どもを巻き込む親は、自分が他の誰にも手を出せないからである。
そこまで親が弱い。
つまりまったく自立できていない。
親が心理的にまったくの幼児である。
人は相手の「無意識」に反応するから、無意識に問題を抱えている親は子どもに好かれない。
無意識に深刻な問題を抱えていない親は感情が吐けている。
一旦不機嫌になってもいつまでも不機嫌でない。
無意識に深刻な問題を抱えている人は、いつも我慢をしている。
それでなんとなく暗い人間になる。
ときには不自然な明るさを過剰に演じる。
問題は、その人の無意識が成長を拒否していることである。
本人は、自分が成長を拒否していることに気がつかない。
無意識の領域では、その人は自分の依存心にしがみついている。
ネクロフィラスが無意識の中にある場合もある。
つまり死に対する関心がある。
それは権威主義的な親に従順に生きてきた結果である。
その結果、感情的盲目性によって行動する。
それは無意識の必要性から生じている。
長年にわたる隠された怒りで、自分が自分をコントロールできなくなっている。
いつもイライラしている、クヨクヨ依存症になる。
親が隠された「怒り」に支配されていると、子どもは「基本的不安感」を持つ。
「基本的不安感」とは、カレン・ホルナイによれば、親の「必要性」にしたがって育てられた子どもの持つ心理状態である。
カレン・ホルナイの言うように神経症的傾向は、子どもが親の「必要性」によって育てられた結果である。
たとえば、親は自分の無価値感から子どもに関わる。
そういう親は子どもに恩着せがましくなる。
あるいは、親の愛情飢餓感から子どもにかかわる。
その結果、親子の役割逆転になる。
つまり親のほうが子どもに甘える。
その結果、子どもは親の過剰な期待が重荷になる。
親が隠された「怒り」に支配されていると、子どもは、自分とは別の固有の人格を持っているということがどうしても認められない。
スチューデント・アパシー(学生無気力症)になった学生が次のように言った。
「お母さんはいろいろなことをしてくれた。でも僕のしてほしいことをひとつもしてくれなかった」
母親は子どもにいろいろな要求があった。
それは神経症的要求である。
そして息子である他者は、母親にとって自己化されている。
その母親にとって他人は、自分の延長としての他人であって、自分とは別の固有の人格を持った他人ではない。
大人になっても、いわゆる「他者の誕生」がない。
他者はいるのだけれども、自分とは別の人格を持った固有の他者ではない。
とにかく自分しかいない。
自己中心性からどうしても抜けきれない。
難しい表現をすれば「共同体の中の個人」という生き方に失敗しているのである。
自分を毒する人から距離を置く
しがみついているかぎり幸せにはなれないものに神経症的傾向が強い人はしがみつく。
神経症的傾向が強い人は自分を不幸にするものにしがみついている。
人でも、ものでも。
嫌いな自分に執着する。
嫌いなあの人に執着する。
自分が嫌い。
でも自分を素晴らしく見せたい。
あの人が嫌い。
でもあの人によく思われたい。
人が嫌いなくせに、人から嫌われることを避けようとする。
「私は苦労している、苦労している」と、文句を言いながらも、苦労する生き方をやめない人がいる。
自分から苦労する生き方にしがみついている。
そういう人は、犠牲的役割を演じることによって、相手から同情や愛情を求めているのである。
あるいは心の底で相手に罪の意識を要求しているのである。
罪の意識を持つように相手を操作している。
それに気がつかない。
また、その犠牲的役割によって自分の存在証明を得ているのである。
その犠牲的役割によって自分の価値を感じているのである。
だから文句を言いながらもその役割を手放さない。
その犠牲的役割をやめてしまえば、自分が自分でなくなってしまう。
生き甲斐がなくなってしまう。
そして、勝手に自分でそのような犠牲的役割をしていながら、周囲には恩着せがましい。
したがってそのような人といるとなんとなくこちらが責められているような気持ちになる。
こちらからすれば「そんな犠牲的役割をあなたに頼んでいないよ、あなたが勝手にしているのでしょう」と言いたくなる。
自分は無意識に問題を抱えているということを無視すると、自分で自分の首を絞めることになる。
ある高齢の悩んでいる人がいる。
不安が深刻でいつも体調を崩している。
その人にいろいろと質問していくと、ある人のことが気になっているようである。
「その人のことがきになっているのでは?」と聞いてみると、「違う」と言う。
そこでいろいろとどうでもいいことを含めて聞いていくと、いろいろなことを話し出す。
「あいつは相手にしていない、悩みでもなんでもない」と言いながら、無意識では重要視している。
だから、その人のことを悪く話した後では体調は回復する傾向がある。
もし、そうならなぜ、そんなに気になるのか?
「なぜ?」と問い続けなければならない。
自分は、なぜあの人たちと揉めているのか?
揉めている本当の原因は?
もめている原因の、隠れたる本質は、ほとんどの場合双方の無意識に隠されている感情である。
自分の心はまだ幼児、と認めればトラブルは解決に向かう。
自分を苦しめている問題は意識でなく、無意識と認めれば解決に向かう。
ところがその無意識を認めないからどんどん迷路に入る。
悩みが解決できないのは、いまの神経症的立場を変えないからである。
いまの神経症的立場に固執するからである。
神経症的要求をする人は、自分の立場に固執する。
固執する人をたとえてみれば、次のようである。
フロリダでスキーはできない。
しかしフロリダでスキーをしたいという立場を変えない。