学歴に劣等コンプレックスを抱いて、「私は学歴が低いから、成功できない。」と考える。
逆に言うとこれは、「学歴さえ高ければ、私は大きく成功できるのだ」という理屈にもなります。
これは、劣等コンプレックスの持つ、もう一つの側面です。
自らの劣等感コンプレックスを言葉や態度で表明する人、「AだからBできない」と言っている人はAさえなければ私は有能であり、価値があるのだ、と言外に暗示しているのです。
劣等感についてアドラーは「劣等感を長く持ち続けることに我慢できる人は誰もいないと指摘しています。劣等感は誰もが持っているものだけれども、いつまでもその状態を我慢することはできない、それほど重たいものだということです。
劣等感がある状態、それは現状の「わたしに」何かしらの欠如を感じている状態です。そうなると問題は欠如した部分を、どのようにして補てんしていくかです。
もっとも健全な姿は、努力と成長を通じて補償しようとすることです。たとえば勉学に励んだり、練習を積んだり、仕事に精を出したりする。
しかし、その勇気を持ち得ていない人は、劣等コンプレックスに踏み込んでしまいます。
先の例でいうなら「学歴が低いから、成功できない」と考える。
さらには「もしも学歴さえ高ければ、自分は容易に成功できるのだ」と、自らの有能さを暗示する。
今はたまたま学歴と言う蓋に覆い隠されているけれど、「ほんとうのわたし」は優れているのだと。
そして、劣等コンプレックスは、もうひとつの特殊な心理状態に発展していくことがあります。
それが「優越コンプレックス」です。
強い劣等感に苦しみながらも、強い劣等感に苦しみながらも、努力や成長といった健全な手段によって補償する勇気がない。かといって「AだからBできない」という劣等コンプレックスでも我慢できない。「できない自分」を受け入れられない。
そうなると人は、もっと安直な手段によって補償しようと、考えます。
それは、あたかも自分が優れているかのように振る舞い、偽りの優越感に浸るのです。
身近な例として挙げられるのが、「権威づけ」です。
たとえば自分が権力者、これは学級のリーダーから著名人まで、さまざまです、と懇意であることを、ことさらアピールする。それによって自分が特別な存在であるかのように見せつける。
あるいは経歴詐称や服飾品における過度なブランド信仰なども、ひとつの権威づけであり、優越コンプレックスの側面があるでしょう。
いずれの場合も「わたし」が優れていたり、特別であったりするわけではありません。
「わたし」と権威を結びつけることによって、あたかも「わたし」が優れているかのように見せかけている。
つまりは偽りの優越感です。
その根底には強烈な劣等感があります。
10本の指すべてにルビーやエメラルドの指輪をつけているような人は、美的センスの問題というより、劣等感の問題、つまり優越コンプレックスの表れだと考えた方がいいでしょう。
ただし、権威の力を借りて自らを大きく見せている人は、結局他者の価値観に生き、他者の人生を生きている。
ここは強く指摘しておかねばならないところです。
また、自分の手柄を自慢したがる人。過去の栄光にすがり、自分が一番輝いていた時代の思い出話ばかりする人。
これらもすべて、優越コンプレックスだといえます。
わざわざ言葉にして自慢している人は、むしろ自分に自信がないのです。アドラーは、はっきりと指摘してます。「もしも自慢する人がいるとすれば、それは劣等感を感じているからにすぎない」と。
もし本当に自信をもっていたら、自慢などしません。
劣等感が強いからこそ、自慢する。自らが優れていることを、ことさら誇示しようとする。
そうでもしないと、周囲の誰一人として「こんな自分」を認めてくれないと怖れている。これは完全な優越コンプレックスです。
よって対人恐怖症、社交不安障害の人は優越コンプレックスと同等なのです。