人間関係の戦場という職場を生き抜く

職場は「人間関係の戦場」でもある

家庭での人間トラブルが大きくなりがちなのは、「人間関係が近いこと」に原因があった。

職場ではどうだろう。

職場の人間関係トラブルの特性は一言で言うと、「(職場とは)本来感情を排除するべき場所である」ことに端を発している。

企業であれ、NPO団体であれ、「組織」は一つの目的を持って活動している。

メーカーなら商品をつくること、小売業なら商品を販売すること、マスコミなら情報を伝えること、そして、それらのことを通じて利益を上げること。

それが目的だ。

そのような目的のある集団作業の場面では、自分の疲労や感情は押し殺し、周囲に合わせて活動することが求められる。

その代価として報酬を得、自分の生活が維持できる。

だから職場でのさまざまな感情や苦痛は「我慢」され、「忘れる対処」を取られることが多いのだ。

しかしそれ以前に、職場というのは、非常にストレスが発生しやすいところだ。

まずはそれを確認しておこう。

というのも、一般的には理想の職場環境がイメージされやすいからだ。

理想を基準にしていると、職場で人間関係がうまくいかない自分を、いたずらに卑下したり、逆に職場に怒りを持ちやすくなる。

そこで、きれいごとではない「職場の本当のところ」をしっかり認識し、そこからスタートすることにしよう。

では、なぜ職場はストレスが発生しやすいのか。

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三つの視点から見てみよう。

まず、エネルギーの視点。

職場では、組織の目的を達成するために、それぞれのメンバーが、上下の役割、横の役割に分かれて活動する。

活動をするとは、「エネルギーを使う」ということだ。

”スーツを着た原始人”である私たちにとって、エネルギーを使うということはどういうことか。

原始人にとって、エネルギーを使い切ることは「死」を意味する。

それは、とても怖いことだ。

そこでエネルギーの消費に関しては、とてもシビアになる。

特にグループで活動する場合は、自分のエネルギーを供出するだけの十分な意味と十分な報酬を求めることになるのだ。

だからまず職場の属性として、エネルギーを提供する側と、報酬を提供する側の、暗黙のたたかいが生じやすい。

資本主義ではこの対立が大きくなる。

二つ目に、報酬と評価との視点。

では、十分な報酬が与えられていればいいのか。

そう簡単ではない。

「十分な」の期待が違うからだ。

報酬とは、お給料など、文字通りの金銭的な報酬の他、人によっては、やりがいや仕事の面白さ、世間の評価などもあるだろう。

組織の中で働く人は、使ったエネルギーに見合うだけの報酬をもらえる「期待」と、他の人に比べて報酬がどうかという「比較」に、非常に敏感になる。

十分なリターンがないと、当然不満を持つ。

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さて、では人は、自分の能力をどれぐらい正確に認識できるかという問題が生じる。

人は「自分は平均以上の能力がある」と思いやすい。

ある心理学の研究では、70%以上の人がそう答えた。

また、アメリカ、コーネル大学のデイヴィッド・ダニングとジャスティン・クルーガーは、ある試験で実力を四つのレベルに分けた。

同時に自分がどのレベルにあるかを自己評価してもらったが、実力最低グループの人たちは、「自分は平均よりましなレベルと自己評価していた(この認知的バイアスをダニング=クルーガー効果という)。

職場でも同様のことが起こりやすい。

ある人事担当者によると、多くの従業員が「自分は正当に評価されていない」と感じているそうだ。

ある人が、昇進しなかったとしよう。

「自分の実力をしっかり見てくれていない」と感じる。

もし昇進したらどうだろう。

「うれしいけれど、ちょっと遅いよね」と感じることが多いという。

結局、人事担当者は、いつでも不満を向けられるそうだ。

組織には「自分は正当に評価されていない」と思っている人が多くいる。

こうした不満は「怒り」になりやすい。

このように、職場とはエネルギーを使う場としても、その対価を受け取る場としても、もともと怒りが生じやすい、怒りの多発地帯なのである。

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上司部下という「役割」が拡大させる争い

さらにそこに、「役割」が加わる。

職場の人間関係が難しくなる三つ目の視点だ。

職場では、ある目的のために必要な作業を、個人が分担して活動が成立する。

問題は、どの仕事を誰が分担し、それを誰が決めるかだ。

多くの場合、当然上司がそれを決める。

上司は、部下にエネルギーの供出を求めなければならない。

部下は無意識のうちにそれに抵抗する。

もちろん、マネジメントの自己啓発書が教えてくれるような「全員がやる気を持ってやれる組織」が理想であり、そうする努力はするべきだ。

しかし、人はエネルギーを節約したがるという本質(一つ目の視点)を無視はできない。

多くの場合、上司がある役割を押し付け、部下が逃げるという構造が生じる。

そこで人間関係のトラブルが発展しやすい。

この上下の人間関係トラブルは、単に「仕事を受ける、受けない」を超えて、「服従するか、しないか」の争いになってしまいがちだ。

特に上の立場の人には、「俺が上だ、俺の言うことを聞け」という、服従させたい気持ちが生じやすい。

そうなると、実際の仕事の割り振りよりも、「どちらが上なのか。俺だ。お前は下だ」というような、「上下関係の確認の儀式」になってしまう。

この儀式は、クセになることも多いので、日頃は普通の上司なのに、ある特定の部下にだけ、この儀式を繰り返してしまうこともある。

はたから見ると、業務の範囲を超え、個人的に攻撃しているように見えるので、「パワハラ(パワーハラスメント)」として訴えられても仕方がない。

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役割をめぐる闘いは、同僚間でも生じる。

リーダーから与えられた各メンバーの仕事が、明確な時はまだいい。

誰の仕事かがはっきりしない「中間の仕事」は、エネルギーを惜しむもの同士の、「役割」の押し付け合いになる。

もともと怒りが生じやすいところに、このような仕事や責任の押し付け合いがあったら、そこには争いが生まれる。

表面的には、お互いの正義(個人的価値観)がぶつかるケンカだが、本音は原始人的な「やりたくない」という思いから発している。

この戦場は「ゴリ押しできるメンタルと押し付けの技術」の優劣で決まる部分があるので、負ける人はずっと負け続けることもある。

そうすると人間関係の悩みが深くなる。

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組織は疲弊すると、スケープゴートを求めだす

また、先の「上下関係の儀式」が、チーム全体として発生することもある。

疲労の度合いが高まると、他人への許容範囲が狭くなる。

それは個人だけではなく、チームでも同じことだ。

チームが多忙で疲れてくると、1人の人をスケープゴート(生け贄)にして、全員がその1人を批判したり、いじめたりするなどの現象も起きやすい。

「あいつが悪い。あいつよりも自分たちが上だ」と上下関係を確認して、一種のストレス解消をしてしまうのだ。

この時も、攻撃しているほうは「私たちは、彼を指導しただけ。いじっていただけ」と言うが、攻撃を受けるほうは、たとえ一矢は小さくても、それを多数の方向から受け続けるのだから、耐えられるものではない。

怒りの感情は、本来の目的を離れて拡大しやすい。

本来仕事ができればよかっただけなのに、いつのまにか問題が人間関係のもつれに育ってしまう。

仕事よりもそのことで、神経をすり減らしている人も多いのではないだろうか。

こうした意味で、職場は「人間関係の戦場」なのである。

価値観の差が、問題をより大きくしている

こうした職場の特性は、リーダーシップや労働運動などの発展のおかげで、かなり改善されてきているはずだ。

しかし、現実には、多くの人が職場の人間関係の悩みについて相談し、またパワハラ、過労自殺、メンバー同士の不仲などさまざまなトラブルが表面化している。

どうしてだろう。

それは、仕事・職場に対する「価値観の差」が大きくなっているからだ。

ある作業をして利益を上げ、それを各人に報酬として分配する。

この仕組みの中で、それぞれの人が、その仕事を、「人生の中でどう位置づけ、どれぐらいの熱意と情熱で臨むのか」が、一致していないのだ。

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ある人は単に賃金をもらう手段と考え、ある人はこの仕事をもっと大きくしようと思い、ある人は仲間と一緒に働ける環境を重視し、ある人は個人のキャリアアップの一ステップと考える。

当然、仕事に対する態度や優先順位が変わり、グループとしての行動に乱れが生じてくる。

そして、この価値観の個人差が、近年、特に激しくなっているのだ。

若者、年配者の差だけではない。

社会が豊かになり、さまざまな価値観を認める時代になっている。

その分、一緒に共通の目的の作業をすることが、以前よりかなり難しくなってきているのだ。

もちろん価値観の違いは、家族や友人関係にも訪れている。

家族はただ一緒に住むだけでも大変になってきている。

しかし、一緒に仕事をするとなると、その比ではない。

何を優先するのか、どういう態度で取り組むのか、何を犠牲にするのかなどの、価値観のズレが大きいと、仕事をすればするほど、不満が大きくなる。

不満は、自分とペースの合わない相手と、その相手を指導しない組織に向けられる。

具体的には上司だ。

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職場は我慢と忘れる対処で構築されている

職場では、これまで説明してきたような要素から、どうしても人間関係の苦痛が生じやすい。

一番多いのが「上司への不満」だろう。

しかし、ほとんどの人が、それをぐっと腹に収めて仕事をしている。

ある調査によると、職場での怒りを表さない人(黙るも含めて)が70%を超えている。

どうしてこうも忍耐強いのだろう。

経済的理由以外にもいくつかの要因が考えられる。

まずは、「子どもの心の強さ」。

仕事場では、自分の感情を極力抑えるという価値観は、日本人には「美しいもの」として植え付けられている。

愛する肉親を失っても職場に出るのが、プロフェッショナルだと感嘆される。

「社会人なら、個人的なことを職場に持ち込むな」と怒られる。

それが日本の文化だ。

だからどうしてしても「我慢」と「忘れる対処」が主体になる。

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ただ、年配の人と若者では、その中身が少し変わってくる。

年配の人は、年長「我慢」を鍛え、感情ではなく論理で仕事をしてきた。

自分の内面(感情)の問題にも「仕事での問題解決手法」を当てはめて対処する。

特に出世している人ほどこの傾向が強い。

感情の問題を理性で解決するのは、悪いことではない。

一つの有効な手段だ。

しかし、現実にはどうにもならないことでも、原始人的感情が働くのだが、そこは「完全無視」、つまり我慢してなかったことにしてしまう。

これが理性による一般的な解決法だ。

「考えても仕方がないじゃないか」が理性の言い分。

もちろん「感情をケアする」という発想も手段もない人が多い。

例えば、これまで心血を注いできたプロジェクトが、社長交代に伴う会社方針の変更で、突然、中止になったとする。

これまでかけた労力を考えると憤懣やるかたないのだが、会社の決定は会社の決定で仕方がない。

自分は、新しく自分に与えられた仕事を全うするだけ、とすぐに気持ちを切り替えて、新しい仕事に向かうようなタイプだ。

そういう人に「今不安なことはありますか?」と聞くと、「特にないですね・・・」と答える。

感情は「なかったこと」になっている。

しかし、その人に「では、最近よく考えることは何ですか」と聞くと、いろいろと悩みが飛び出してくる。

ないわけではないのだ。

これでうまくやれている時はいいが、ライフイベントなどの忍び寄る疲労によってうつ状態などになると、自分でも訳がわからないうちに、自分を責めたり、他人に攻撃的な態度をとってしまいがちだ。