人間関係に無理しない方法

人間関係に無理をしない道

人間関係に無理をするとは

不幸なことに、「相手の期待をかなえることが人生の意味になってしまった人間関係に無理をする人」は、相手の期待を誤解する

人と仲良くなるには無理しないほうがいいのに、無理をする。

それは昔、そうした人間関係で無理をする方法が、親との関係で成功しているからである。

いつも不機嫌な親に育てられた人間関係に無理をする人は、大人になってから、素直に自分の感情を出したほうが好かれるのに、自分の感情を抑える。

人に好かれようとして、人間関係に無理をして逆に嫌われる態度をとる。

神経症的傾向の強い人の非利己主義的行動の動機は、自己不在である

あるいは自己執着である。

自分を信じられないと、どうしても人間関係に無理をする。

そこで無理をするから、ドイツの社会心理学者、エーリッヒ・フロムがいう、次のような症状が出てくる。

たとえば抑うつ、疲労、働くことへの無気力、愛の関係の失敗というような症状である。

自分がない”から、ある症状であろう

人間関係に無理をして非利己主義的行動をしているうちに、不満に変わったのである。

彼らはなぜ、これらの症状がでるほど人間関係に無理をしていたのか。

それは相手に人間関係に無理をする人は、「私はこんなに良い人です」と、自分を売り込んでいたからである。

なぜ、自分を信じられないと人間関係に無理をするのか。

関連記事

本当の非利己主義的行動の動機は、他者への愛である

人間関係に無理がないから、前述のような症状は出ない。

親しい人がいれば、それほど人から好かれることが重大ではなくなる。

それほど評価されることが重要ではなくなる。

いい人だと思ってもらうことが、それほど重要ではなくなる

人間関係に無理をしなくなる。

しかし親しい人がいないと、それらのことが重要になり、人間関係に無理をする。

結果として人間関係に無理をする人は、ストレスを抱え込む。

相手に対して劣等感があると、相手を自分にとって重要な存在にしてしまう

相手によく思われることを人間関係に無理をする人は、重要なことにしてしまうのは、他ならぬ自分の劣等感そのものなのである。

そしてその人によく思われようとして人間関係に無理をすると、心の底でいよいよ自分を弱く感じるようになってしまう。

関連記事

無理しない心を許せる相手が、1人でもいる幸せ

「”他人の期待をかなえることで他人から気にいられること”が、自分の人生の意味になってしまった人」は、自分の欲求を明確にすることができない

人間関係で無理をしている状態である。

そして自分の欲求ではなく、人間関係に無理をする人は、相手の欲求を叶えようとする。

しかしそのときに、正確に相手の欲求を人間関係に無理をする人は、かぎ分けることはまずできない。

不幸なことに、「相手の期待をかなえることが人生の意味になってしまった人」は、相手の期待を誤解する

「相手はこのように望んでいる」と、人間関係に無理をする人は、間違って思い込む。

相手の真の欲求でないことを、人間関係に無理をする人は、間違って相手の真の欲求と決め込む。

「その欲求をかなえてあげなければ、自分は見捨てられる」と、人間関係に無理をする人は、間違って思い込んでいる。

そんな人達が出会うと、人間関係に無理をする人は、お互いに気に入られようとして、自分でない自分を演じる。

恋愛するとお互いに「こうしたら気に入られる」と本人が思っている男と女を演じる

そして、そこには人間関係に無理が生じる。

お互いに「相手に気に入られないのではないか」と心配している。

そこでお互いに人間関係に無理をする人は、自分の弱点ばかりを気にする。

そこに人間関係に無理が生じる。

関連記事

お互いに実際の自分では気に入られないと思い込んでいる

たとえそれが本当に弱点であったとしても。

たいていは、こちらを「そのような弱点を持った人間」と、相手は見ていない。

そしてお互いに、人間関係に無理をする人は、「相手の心配」に気がついていない。

お互いに演技をしているから、心が触れ合わない

つまり、お互いに気持ちがコミットしていない。

そこに人間関係に無理が生じている。

相手が自分に気に入られないことを人間関係に無理をする人は恐れて、「自分でない自分」を演じていることに気がつかない。

「相手もまた、自分と同じに不安である」ということに気がつかない。

無理のすれ違いである。

心配していたり人間関係に無理をする悩んでいる人間は相手を見抜けない。

自分が気に入られないことを人間関係に無理をする人は、心配していると、相手が同じように心配しているとは思いもよらないものである。

関連記事

「自由」を「心細さ」と感じて人間関係に無理をしてしまう人へ

人に気に入られることを無理して心の支えにしてきた人は、「好きなことをしてもいいよ」とか「好きなようにしていいよ」とか言われると、どうしていいかわからなくなる

そう言われると、人間関係に無理をする人は、道に迷ったような心細さを味わう。

好きなように人間関係に無理をする人はしようとしても、何か心許ない。

このように「自分の好きなことを、好きなようにする」ということが、心細くてできなくなっている人がいる。

そこで、まず相手の意思を聞く。

そしてその意思に従おうとする。

自分の意思ではなく、相手の意志に従っていたほうが、安心するのである

そのほうが生きた心地がする。

しかし人間関係に無理をしている。

相手の意志を聞かないで人間関係に無理をする人は、自分のすきなようにしようとすると、怖くなる。

嫌われるのではないかと人間関係に無理をする人は、不安になる。

そのような人は、神経症的な傾向がかなり進んでいるのではなかろうか

人間関係に無理をしている状態である。

「自分の好きなようにして、なおかつ人から自分が愛される」ということが人間関係に無理をする人は、信じられないのである。

つまり神経症的な傾向の人間関係に無理をする人は、自分と人とを対立して考えている。

人間というものを、対立のイメージでとらえている

自分が好きなことを人間関係に無理をする人は好きなようにすることは、他人の利益を害するという考えである。

相手を喜ばせるためには人間関係に無理をする人は「自分を抑えて相手に尽くさなければいけない」という考え方である。

実はこの考え方は、小さい頃の人間関係に無理をする人の自分の周囲の人との関係でできたイメージである。

小さい頃、自分は周囲の人を喜ばすために、自分の実際の感情を抑えて尽くしてきた

そして自分を抑えて人間関係に無理をする人は、相手に尽くすことで、喜ばれてきた。

したがって、「自分の好きなことをしてなおかつ人に好かれる、人に愛される」ということが、イメージとしてつかめないのである。

好きなことを人間関係に無理をする人は好きなようにしようとすると、地に足がついていない気持ちになる。

大地とのつながりが人間関係に無理をする人は切れて、宙に浮いてしまったような気持ちになる。

神経症的な傾向の人間関係に無理をする大人に囲まれて成長してきた人の悲劇である。

精神的に奴隷として生きていた者がいきなり、「主人になれ」と言われても、自信が持てない

自分にとって喜ばしい体験というものが、必ずしも人を傷つけるものではない。

そのように感じられるためには、時が必要である。

他人から好かれることは人間関係に無理をする人にとって、、自己実現以上に重要なことである。

これがアメリカの心理学者、アブラハム・マズローのいう、「安全欲求が満たされているから、成長欲求に従う」ということであろう

人間関係に無理をする人は、基本的な欲求が満たされてからでなければ、成長動機に従った行動はしないということである。

ただ問題は、成長動機に従って行動したほうが安全欲求も満たされるのに、人間関係に無理をする人はそれを間違って解釈して苦しんでいる人が多いということである。

つまり大人になれば、成長動機に従って行動したほうが愛されるのである。

関連記事

人間関係で無理をする恥ずかしがり屋の心理

恥ずかしがり屋の人は、何かにコミットすることを嫌う

つまり人間関係でも無理が生じている。

いろいろな人と人間関係に無理をする人はかかわりあうことを好まない。

また、恥ずかしがり屋の人ばかりではなく「モラトリアム人間」といわれる人にとっては、組織に帰属することは自由を失うことを意味する。

組織ばかりではなく、人と関わり合うことを嫌う

恋愛でさえそうである。

好きは好きなのである。

しかし関わりあうことを好まない。

人間関係に無理が生じるからである。

関連記事

その場だけの関係が、彼らには心地いい

極端にいえば、人間関係に無理をする彼らには売春婦とお客さんの関係が気楽なのである。

彼らには、親しさそのものが煩わしい。

東京の都心から八王子に移転したある大学で、学生の心理的な病が増加したという。

移転してキャンパスが広くなり、ゆとりができた。

そこで大教室がなくなって小教室が多くなる。

教育環境はよくなった

しかしそれが、学生たちの心理的負担になっているという。

それは、大教室だと人とかかわりがないからだ。

皆と関係なく授業が聞ける。

大教室では個人的な接触がない。

煩わしい人間関係に無理も生じにくい。

関連記事

大学でも、不登校に似た現象があらわれている

他の学生と接することが嫌なのである。

ある男子学生が学校にいけない理由として、クラスの者とトイレで一緒になるからというのを挙げたことがある。