自分の弱点を自然と出せる人ほど好かれる

人からほめられることにものすごく関心がありながら、ほめられると照れてしまったり、恐怖心を抱いたりするのはなぜだろうか。

それは次のようになる。

まず自己像が問題である。

問題のある育ち方をしているので、「自分は人から愛されるに値しない。

自分は人から、そのままの自分では受け入れられない」という自己イメージを持っている。

そこで自分の弱点を出せない人からほめられると、違和感が生じる。

自分の弱点を出せない人は誉められたいけれども、ほめられると、いても立ってもいられなくなる。

自分の弱点を出せない人は心理的に混乱する。

自分の弱点を出せない人は嬉しいのだが照れてしまうのである。

それは自分の弱点を出せない人は自己イメージと違うことを、他人から言われたからである。

人は、自己イメージに合致した言葉ならば、そのまま受け取る。

そのときには、いても立ってもいられなくなるというようなことはない。

もう一つは「受ける」ということに、制止が働いているのではなかろうか。

口唇性欲求といわれるものがある。

この欲求が満たされるか満たされないかは、その人の性格に大きな影響を与えると、オーストリアの精神分析学者、ジークムント・フロイトは考えている。

口唇性欲求とは「口唇期(おおむね、出生時から二歳まで)の欲求」という意味である。

その内容の中に、「受ける」ことや「取る」ことがある。

もし、他人の好意を負担に感じるとしたら・・・

うつ病者が、他人の好意を受けることにものすごい心理的負担を感じるというのも、この口唇性欲求に対する制止が働いているからではないかと思われる。

思春期痩せ正の人達も、この欲求がみたされず、この欲求を満たすことに制止が働いているという説がある。

自分の弱点を出せない人は本当は受けたい、本当は取りたい、しかし取れない。

取りたいという欲求は意識的にしろ無意識的にしろ、その人を背後から動かしている。

取ることに心理的制止がなければ、ものすごい満足を覚えるのである。

しかし親から拒否的態度で育てられた自分の弱点を出せない人は、この欲求を満たすことにものすごい制止が働いてしまう。

自分の弱点を出せない人は小さい頃、自分の真の欲求を表現することで拒否されて、深く傷ついてきているからである。

自分の弱点を出せない人は自分の本当の欲求を無意識の世界へ追いやってしまったり、その表現には自動的に強い制止が働くようになってしまっている。

心に傷のない人は、まずいない

イソップ物語に「ロバとウマ」という話がある。

ロバがウマをうらやましがっている。

自分は藁さえたっぷりもらえないで、辛い仕事をしているのに、ウマは十分に食べ物をもらっている。

不満である。

ところが、戦争になり、ウマは敵兵の中に出て行かされ、傷を受けて倒れた。

それを見たロバは、ウマを気の毒だと思った。

表面的なことでは”幸せ”はわからない。

ある高校の同窓生仲間で、同級生から羨ましがられている人がいた。

その人は、パリで活躍しているということになっていた。

パリの高級住宅街に住んでいるという噂であった。

彼は、人と会う時には、ホテルのスイートルームを取ってしか会わないと言っている、という噂であった。

しかし実は、その彼はものすごく無理をしていて、ストレスから癌になり、仲間の中で一番早く死んでしまった。

自分の弱点を出せない人は派手にしているときには、つぶれかかっていることが多い。

自分の弱点を出せない人はつぶれそうなのを隠すための、派手な振る舞いなのである。

その派手な部分を見て、人は羨ましいと思う。

「私は、自分を百だと人々に言ってきた。

しかし実際は五十しかない。

”実際の自分”がわかったら、皆から軽蔑されるに違いない」

そんなときに、自分の弱点を出せない人は人前で”不安な緊張”をする。

自分の弱点を出せない人は人前に出ると手が震える、赤面する、あがる、声が上ずる、その他いろいろと気にする人がいる。

そして自分の弱点を出せない人は人前に出る前から「もしそうなったらどうしよう」と悩み、緊張する。

自分の弱点を出せない人は殊に恋人のような、自分にとって重要な他者に対しては緊張する。

相手が恋人なのだから、会いたいという気持ちは強い。

しかし同時に、自分の弱点を出せない人は”不安な緊張”も激しい。

会えば嬉しい。

しかし自分の弱点を出せない人はまた緊張する。

自分の弱点を出せない人はストレスに苦しむ。

自分の弱点を出せない人は会うことを楽しむということはできない。

自分の弱点を出せない人は無心に会うということができない。

自分の弱点を出せない人は恋人に会いたくても、会うことが不安である。

自分の弱点を出せない人は会ってその弱点がでてしまったらどうしようと悩む。

自分の弱点を出せない人はその緊張した悩みで疲れる。

自分の弱点を出せない人は相手と実際に会う前から、その不安で心身ともに消耗する。

このような不安を、「予期不安」とか「期待不安」という。

自分の弱点を出せない人はこのようなストレスにより、多大なエネルギーを消耗する。

自分の弱点を出せない人がストレスに苦しむのは、欲張りだから。

自分の弱点を出せない人は何でもかんでもうまくいくことを望んでいるから。

本当は、一つうまくいけば、それでいい。

自分の弱点を出せない人は「素の自分」を認め、許し、受け入れること

人前に出ると、その自分が気にしている弱点との新たなる戦いが始まる。

自分の弱点を出せない人はたとえば恋人と話している間、つねに「赤面したら大変だ」と緊張している。

今述べたごとく、神経症的な人は赤面ばかりではなく、自分の弱点を気にしすぎる

人と話している間、つねにその弱点に気を奪われて心休まるときがない。

相手はそんなこと、何も気にしてはいない。

相手は赤面しようがしまいが、そのことでその人を嫌いになるとか、低く評価するとかいうことはない。

神経症的傾向の強い自分の弱点を出せない人は、「こうなったら、こうなるに違いない」と推測しすぎるのである。

現実と接していない想像の世界である。

しかも、自分の弱点を出せない人はその相手の気持ちに対する推測が自己中心的であるから、間違っていることのほうが多い。

自分の弱点を出せない人は実際には、「こうなった」からといって嫌われることも、蔑視されることもない。

たとえば自分の弱点を出せない人は恋人と会っている間、つねに「こうなったら、大変だ、嫌われるのではないか」というストレスで、その人は心身ともに消耗する。

自分の弱点を出せない人は相手が自分にとって重要であればあるほど「こうなったら大変だ。嫌われるのではないか」というストレスは強い。

そして自分の弱点を出せない人は消耗する以上に大切なことは、その緊張によって、その人に本来備わっている能力が半減しているということである。

自分の弱点を出せない人は性的能力のようなものはもちろん、相手を楽しくさせる話術も、素直な性格も、明るい声も、思いやりも、そんなものはどこかへ消えてしまう。

神経症的傾向の強い人は、自分の弱点があらわれてしまったら、相手が自分を蔑視するのではないかと恐れる。

だからこそ、その弱点がいつあらわれるかと、気が気ではない。

しかし神経症的傾向の強い人が気にしているほど、その人の弱点はお互いの関係に問題ではない。

自分の弱点を出せない人はむしろ気にしすぎることのほうが、はるかに重要な問題である。

人は弱点を気にし過ぎることで、相手に絡んだりする。

自分の弱点を出せない人はあるいは相手にしつこくなる。

その絡んだり、しつこくなったりすることで嫌われるということはある。

人は自分の弱点を気にし過ぎることで、素直でなくなる。

自分の弱点を出せない人は何となく嫌がらせをする。

自分の弱点を出せない人は防衛的になる。

自分の弱点を出せない彼らは誤解している。

自分の弱点を出せない人は「自分はスーパーマンでなければ愛されない」と。

自分の弱点を出せない人はそんなふうに考えていたら、疲れる。

自分の弱点を出せない人はそんなふうに考えていたら、リラックスしたいけどリラックスできない。

自分の弱点を出せない人は休んでいても休んでいない。

自分の弱点を出せない人は焦っているから。

人間は人間だから愛される。

スーパーマンだったら逆に愛されない。

弱点があることで嫌われることはまずないが、弱点を気にし過ぎることで嫌われることはある。

弱点そのものがお互いの関係に悪い影響をもたらすということはまれである。

恋愛が長続きしない人の共通点

言いたい事を言っても嫌われない。

そのままのほうが好かれる。

言いたいことを言ったら嫌われるような人とは、もともと付き合わないほうがいい。

人は誰でも弱点を持っている。

親しい友人とか恋人とかは、その弱点を受け入れてくれるからこそ親友であり、恋人である。

「こうなったら、大変だ、嫌われるのではないか」ではなく、「自分はどうなっても嫌われない」という安心感こそ、親友や恋人の条件である。

そしてその安心感こそが、その人を十分に自己実現へと向かわせる。

理想の自我像実現に、エネルギーを使わない。

理想の自我像実現で愛されると思っていることが、自分の弱点を出せない彼らの人間関係における最大の誤解である。

自分の弱点を出せない人は偏った価値観の産物である。

自分の弱点を出せない人はそれは小さい頃から、勉強した時に、「すごい!」と言われたから。

小さい頃の思い出と、大人になってからの悩み。

ある恋愛の破綻である。

女性は「自分の胸が小さい」という劣等感があった。

それを気にしていた。

できればそれを恋人に隠しておきたかった。

自分の弱点を出せない彼女にしてみれば、恋人のことが好きだからこそ、なおのこと隠しておきたかった。

しかし、自分の弱点を出せない彼女はなかなかうまく隠せそうもない状況になってきた。

自分の弱点を出せない彼女はそこで、自分を守るために”知的な女性”ということを誇示しはじめた。

「胸が大きいのは知的な女性ではない」という価値観が彼女にはある。

自分の弱点を出せない彼女は事前に防衛的になった。

自分の弱点を出せない彼女はことあるごとに、「女性は知的でなければならない」ということを主張しはじめた。

そして自分の弱点を出せない彼女は他の女性を「あの人は知的ではない」とけなしはじめた。

自分の弱点を出せない彼女は次第にそれを男性にもエスカレートさせていった。

自分の弱点を出せない彼女は知的でない男性は魅力がないと主張しはじめた。

そして自分の弱点を出せない彼女は不安から、「あなたは女心をわかっていない」と、いつも恋人に絡みはじめた。

自分の弱点を出せない彼女は素直でなくなったのである。

自分の弱点を出せない彼女は何となく全体にしつこくなった。

男性の方は次第に嫌気が差してくる。

するとそれが自分の弱点を出せない彼女の不安をさらにかき立てる。

自分の弱点を出せない彼女の明るい性質が消えていく。

自分の弱点を出せない彼女のイヤな面ばかりが前面に出てくる。

男性のほうはべつに、女性の価値として胸の大きさを基準にしていなかった。

彼女が何も隠さなければ、うまくいった恋愛であったろう。

しかし自分の弱点を出せない彼女は自分の弱点をじぶんが勝手に屈辱的に解釈し、勝手に相手の男性を推測し、そしてすねて、恋愛関係をこじらせた。

自分の弱点を出せない彼女がこの恋愛を壊した。

しかし自分の弱点を出せない彼女は相手の男性を誠意がないと解釈し、自分は捨てられたと思い込んだ。

そして、自分の弱点を出せない彼女は心の底では「恋愛において胸の大きさは重要だ」と一人で勝手に思い込んだ。

自分の弱点を出せない彼女はその思い込みを、失恋のたびに強くしていったのである。

現実にコミットしない独りよがりの想像の世界で、自分の弱点を出せない彼女は生きてきた。

対人恐怖症者をはじめ、劣等感の強い自分の弱点を出せない人は、他人に「理想の自分」を見せようとする。

しかもその「理想の自分」というのは、あくまでも「自分が考える理想の自分」ということである。

「実際に相手が求める自分」ではない。