親友の夫が心臓発作で急死した。
急いで彼女の家に駆けつけると、なんとか慰めようと、みんなが集まっていた。
だが、彼女はすすり泣いて、夫が喫煙をやめなかったこと、運動をしなかったことを愚痴るだけだった。
悲しんだり、腹を立てても何にもならないといくら言っても、耳を貸そうとしない。
元気づけようとしても、うまくいかない。
子どものためにしっかりするようにと励ましても取り乱したままだ。
しまいには、来なければよかったと思う。
悲しみから守ろうとする
デュークが深い悲しみを身近に体験したのはがデュークが十歳のときだった。
デュークの父方の祖母のアンナは、フィラデルフィアの郊外にある大きな家に、デュークの両親、三人の姉とデューク、母の異母兄と一緒に暮らしていた。
祖父は三十一年前に亡くなっていて、七十一歳の祖母は街にある女囚刑務所で看護婦長としてかなり長時間の勤務についていた。
誰からも慕われ、尊敬される女性だった。
ある日の早朝、いつものようにバス出勤したが、気分がすぐれないといって早々に帰宅し、横になっていたところ昼前に亡くなった。
デュークは家にいて、その知らせをまもなく耳にしたが、状況を考えた両親から、一日中外に出ているよう言われた。
何が起きているかわかっていたデュークには、一人だけ切り離された感じがして、悲しかった。
その晩、家族と一緒に涙を流したとき、ほっとしたのを覚えている。
次に胸を刺すような悲しみに見舞われたのは、それから七年後のことだった。
1950年3月のことだ。
高校卒業を目前にしていたころ、当時五十歳だった母が、トロリーバスの高い階段の上から落ちて、腰骨を折ってしまった。
十日たって、彼女が退院する前日、それもはじめて「私も、年をとったものだわ」と言った翌日、血瘤が彼女の心臓をふさいだのだ。
母は、あっというまに、何も言わずに死んだ。
その知らせはデュークたちをショックで打ちのめした。
それはおそらくデュークの生涯で最悪の出来事になった。
そのときデュークは、四時限目のクラスから校長室に呼び出された。
父と教区牧師、それに姉のイザベルが私を迎えてくれた。
彼らの顔を見ただけで、デュークは何を聞かされるかピンときた。
「そんな、まさか!そんなはずはない、いやだ、いやだ、いやだ!」
デュークはそう言って、ただ泣いていたのを覚えている。
みんなは長い間、しっかりと、だが震えながらデュークの肩を抱いてくれた。
彼らとデュークの涙が交じり合って、生まれて初めて、胸の張り裂けるような痛みとなって私に伝わってきた。
家に戻ってから、ほかの二人の姉、エラとメイとデュークは抱き合って泣いた。
両親の友人たちがまもなく、花束や食物を持って、あるいはデュークたちと長い午後を過ごしたあと、姉たちは父を説得して、私が父の車を借りて、ガールフレンドとしばらく時間を過ごすように取り計らってくれた。
その夜はガールフレンドの家の前に止めた車の中でデュークはすすり泣き、彼女はずっとデュークの肩に手をまわしていてくれた。
その後、長い年月のなかで、そうした支えがなかったら、はじめての悲しみという、恐ろしい時間を、どうやって乗り越えられただろうかと、デュークはよく考えた。
不幸や悲しみは避けられないもの
悲しみとは、何かがうまくいかなかったり、脅かされるような状況に順応するときに、経験する痛みのことだ。
愛する人が亡くなった時、健康状態について悪い知らせを聞かされるとき、貴重な仕事を失ったとき、あるいは個人的な拒絶にあったとき、人は順応することが必要だ。
大なり小なり、人生には毎日のようにうまくいかないことが起きるが、心身や生命に浸透する痛みは、悲しみになる。
まずは、大切な人の死がもたらすあらがいがたい悲しみと、その渦中の人にどう接したらよいか考えよう。
次のような状況で効果的に対処するには準備がいる。
- 親友の夫が心臓発作で急死した。
- 同僚の母親が長期間わずらった末に亡くなった。
- 隣人がドライブ中、嵐にあって事故になり、死んだ。
- 昔からの友人が流産してふさぎ込んでいる。
- 小さな娘が、就寝中に呼吸困難になったと電話がかかってくる。
- 子どもの担任の先生がエイズで死んだ。
そうした切迫した状況に出合うのは日常茶飯事でないのは幸いだ。
だが、いずれ気が動転するようなことに見舞われるという恐れが、私たちの頭を離れないのも確かだ。
やがてそのときがくると、慰めを引き立たせるような、いわゆる「神聖な気持ち」で遺族に近づき、雰囲気にふさわしいことを言いたいと思う。
だが、私たちは死そのものと、いずれはみんな死ぬという現実を忘れようとして懸命に働く。
悲しみについて学ぶ授業は皆無で、感情面で適切に悲しみに対処できるような経験はほとんどしない。
私たちは、そんな社会に住んでいる。
そこで、そうした場面に遭遇するまでは、自分を不器用で不安だと感じている。
もっと悪いことに、実際そうした瞬間に遺族のそばにいると、彼らの話や振る舞いに当惑させられる。
遺族の気分はドラマティックに変わるものだ。
人は打ちのめされ、動揺しているとき、かえって落ち着いて見えたりする。
心の痛手が耐えがたいと、大声で笑ったりする。
ショックが深ければ、まわりに何を望んだらいいかわからないこともあるだろう。
最悪なのは、必死で悲しみに立ち向かおうとして、まわりに不可能なことを期待することだ。
あるいは、人のよさと気の毒に思う気持ちから、自分にできることを何かしてあげようとする。
もちろん、昔から人は、こうしたつらい状況を生き抜いてきたのだから、ほかの人に見習って自分にできることをやっていればいいと、無意識にわかっている。
しかし、結局、どんなにやさしさから出た行為でも、どれほど懸命に何かをしてあげようとしても、あまり役には立てないという気持ちで終わることがほとんどだ。
ときには、よけいに悲しみを深めさえする。
だが、私たちには心の奥深く、遺族とつながる能力がある。
純粋に相手の助けになれるとわかれば、自分のすることに満足できるのだ。
その手始めに、悲しみのプロセスを基本的に理解しよう。
死を受け止めることを知る
多くの人は悲しみを、ただ深刻な喪失感と、それに続く悲嘆からくる深い寂しさだ-もちろん、ふつう悲しみはそう表現されるが-と考えている。
だが、カウンセラーやセラピストはもっと複雑な問題だという。
第一に、悲嘆のために単独で効く、万国共通の即効薬はない、と主張する。
というのも、悲しみ方というのは、家族の伝統やどんな文化をもつかによっても異なるからだという。
次に、彼らは悲しみを定義して、「人が不幸な現実によって受ける痛手に順応するための機能的プロセス」と呼ぶ。
悲しみのプロセスは、あきらかな感情と精神状態、つまり防衛的な反応を見せる。
- 否定「ああ、まさか。そんなはずないわ!」、「何かの間違いでしょう!」
- 怒り「こんなの不公平だわ!いったいなぜそうなの」
- 取引「ああ、神よ、彼女にチャンスをお与え下されば、私は・・・」
- 絶望「生きている意味がない。もうだめだ」
- 受容「どうやらやれそうだ-ともかく、やってみる」
三番目に専門家は、悲しみのプロセスごとの特徴、名称、そして順序は異なるといっている。
遺族は必ずしもこのプロセスを順序通りに、直線的に体験するわけではなく、ときには一度に通り抜ける。
また、ある段階にしばらくとどまるかと思うと、プロセスの中を、行ったり来たりすることもある。
だが、遅かれ早かれ、彼らは五つ目のプロセスで痛みを伴う現実を受け入れるのだが、人生を続けるには、意識するしないにかかわらず、最初の四つのプロセスを通るものだし、通ることが大切だ。
いったん、悲しみが自然で健全なプロセス-貴重な成長の源-とわかれば、喪失感から立ち直ろうとする人に対して、忍耐強くなれるはずだ。
悲しみのプロセスをたどるとき、強烈な影響を与える状況があり、それは複雑なものだと気づいているなら、相手と、心の奥深くでつながっていればいい。
遺族に救いの手を伸ばし、助けになろうと努力する自分により満足できるのは、悲しみをそうしたプロセスと見なすからだ。
遺族を立ち直らせようとして犯す間違い
ここで、いい人が悲しんでいる人とかかわるとき、無意識に犯す間違いを見てみよう。
遺族を保護しようとする
大切に思う人が愛する人に先立たれて悲しんでいる時、悲しみにふたをして、深い心の痛手から守ってあげたいとすら思う。
いい人は、痛手を避けることを気にしながら、そういう自分を情け深いというより、思慮深いと思いたがる。
痛みを抱える人を守るのは、やさしい行為だと見なすのだ。
しかも、悲しみの渦中の本人も、痛みが続く状態よりも守られるほうを望むために、より一生懸命になる。
さらに、その守るという戦術は、いいことだと世間に支持されるのだ。
それが間違いだというのは、遺族が必要とするものを与えず、むしろ彼らの心の回復を遅らせるからだ。
社会に認められ、その行為がいつも真剣な気持ちに根ざしているので、遺族を守ることは問題とは思われない。
また、健全で、ほんとうの意味での助けと混同されているため、手厳しい批判を受けずにすんでいる。
だからこそ、先へ進む前に、なぜ遺族を守ることは間違いなのかはっきりさせるべきだ。
まずは、ふだん私たちはどのように遺族へ接しているかを眺めてみよう。
必要以上に気丈にふるまう
いい人は悲しむ友人に対して、気丈に見えるよう努める。
じつはそうではないのだが、自分が何をしているかわかっているようにふるまう。
場違いなことを言ったりしないかびくびくしていても、平静を装う。
何をすれば相手を痛手から救えるかわかりもしないのに、自信があるように見せるのだ。
当然、わざとらしいそぶりはまがいものであって、そうしたみせかけはいい人を現実離れした不可解な存在に思わせるだけで、遺族との間に見えない壁をつくる。
まして、相手がいい人の見せかけの強さを間違って認めたとき、いっそう自分自身の弱さを感じるようになる。
つまり、相手の孤立感や劣等感を強め、ときには怒らせてしまうのはいい人のせいなのだ!
結局、何の役にも立たず、欲求不満になり、感情面で拒絶さえたように感じるだけでなく、守ろうとして相手から敬遠されることになる。
意識レベルでは、自分の気丈さを印象づけようとするのは、悲嘆に暮れる人が気持ちを強くもつように勇気づけるためだ。
自分たちが気丈にふるまえば相手が落ち着くという考え方だ。
だが、どんなことがあっても、相手が収拾がつかない状態にならないようにしたいというのが本音なのだ。
相手に対して直面しなければならない多くの試練に立ち向かってほしいと思っている。
だが、自分も同時に気丈でいたいと思うのは、実は人の死に気持ちが動揺して、遺族をなぐさめられないほど、自分がひ弱くては困るからだ。
私たちは、遺族の衝撃を目の当たりにすると、自分自身の人生にも悲劇はあり、自分もいつかは死ぬという事実を突きつけられて不安になる。
そうした考えを打ち消して、自分を守るために強さを印象づけようと、いい人は気丈にふるまうのだ。
不安を感じていたとしても、その事実を認めるのは難しい。
だが、自分の不安を隠すために相手と感情的な距離をおき、気丈にしていれば彼らを救えると考えて、自分を偽ってはいけない。
口では大事にしているといいながら、相手の深い気持ちを軽く受けとめていることになる。
それは、自分の純粋な、助けになりたいという崇高な気持ちも、遺族たちをも欺くことだ。
何も言わずに黙ってしまう
いい人はよく、遺族には死について何も言わないという無言の協定を結ぶ。
その沈黙は、面と向かって不治の病気だと言われたり、あるいはもっと悪いニュースを聞いたときと同じ反応だ。
問題にふれないでおけば、相手の痛手を深めずにすみ、そこから逃れられると思うのだ。
しかし、一時は愛する者がいなくなったという恐ろしい事実-折り合いをつける必要がある現実-を脇にどけることはできても、それにふれないでいることはプロセスを遅らせ、痛手を長引かせる結果になる。
関係ないおしゃべりをする
相手は特別な、取り返しのつかない喪失感を味わって、深い痛手を負っている。
その状況が気詰まりで、何を言っていいかわからなかったり、意味のあることが見つからないとき、いい人はおしゃべりをする。
なんとか気をそらそうと、交通渋滞のこと、お天気のこと、テレビで見たばかりの話や、おかれた立場には関係なさそうな事柄を話題にするのだ。
ショックが収まり、遺族がどうにか通常の生活をしようとしはじめたとき、相手が亡くした人以外の話をしたくなったタイミングを見計らって、というのならわかる。
だが、痛々しい知らせを聞いたばかりで動揺しているときのおしゃべりは、相手から悲しみにひたる時間を奪い、喪に服するじゃまになる。
気持ちを無理やり軽くしようとする
いい人は、厳粛な死に差し出がましくするのを避けるために、あるいはその印象を和らげたいと思い、婉曲話法を使う。
死者の名前を言う代わりに、「奥方」とか「彼」と呼んだりする。
あるいは、よく耳にするのは、「彼女が去ってしまったと知って寂しい」や「あなたがご主人を亡くされたのは、たいへんお気の毒です」という言い方だ。
いい人は、「フレッドが死んでとても残念だ」とはとても言えないのだ。
遺族は、口に出して言わないかもしれないが、間接的で人間味のない表現とそれを使う人を嫌っているかもしれないし、状況の重さをわかっていないと信用しないこともある。
また、現実から目をそむけたいために、ほんとうは必死で通り抜けなければならない、痛々しい気持ちに直面するのを引き延ばすこともある。
そんなときいい人は、「これでやつもあまり苦しまずに済んだ」とか「もっとひどい状態になったかもしれなかったんだから」、あるいは「あなたにお子さんが二人もいらっしゃるのは幸運だと言ったとする。
何かあえてでっちあげてでも、相手に明るい面を見てほしいと願う。
自分では言っている意味を考えもせずに、すべてうまく収まるからなどと相手に請け合ったりする。
そしてまた、深い意図もなく、相手に心を痛めるのはよくないし、自分を傷つけるのは間違いだと言ったりする。
「子どもにあなたの泣き顔を見せてはいけない」とか「一段落したら、休暇をとって楽しんできなさい」といった言い方の問題点は、相手が自分で解決法をみつけようとする集中力を別にそらしてしまうことにある。
アドバイスは、純粋でないと同時に、相手を庇護して、コントロールしようとする試みになる。
遺族をコントロールすれば、彼らの悲しみの気持ちを迷わせる危険をはらむから、とくに深刻な問題につながる。
たとえばアドバイスが相手にとって意味のある指示だったとしても、それは相手が自分の力で元の状態に戻ろうとするプロセスに逆らい、悲しみの上に、自信の欠如、ストレス、そして見当違いな罪の意識といったよぶんな重荷が加わるのだ。
ありふれた決まり文句を言う
信心深いいい人は、「それは神のご意志だ」とか「彼女との別れはつらいけれど、もっといい場所に召されたのだから」というお定まりの説や、平凡な「あなたのために祈ります」という言葉を口にする。
いい人はまた、無信心でも、その意味の真偽はともかく、遺族に向かって彼らのために祈りますという言い方をする。
それは、相手のことをいつも気にかけていますよと伝える間接表現だ。
遺族は当然、何らかの痛みを覚えているが、ありふれた言葉は彼らが喪失感をありのまま感じ、悲しみにひたる邪魔になる。
また、このやり方のいちばんの欠点は、熱狂的な信仰心をもついい人が無神経にも一生懸命に守るという名目のもと、遺族が抵抗できない状況で宗教心をあおることにある。
できもしない援助を申し出る
よく使われる、「もし何か私たちにしてほしいことがあれば、いつでも知らせて」という無邪気な申し出である。
これは、悲しむ以外に考えられない相手が困らないように、たとえ限界はあっても、相手のために何でもしてやろうといういい人の思いだ。
必ずしも真実ではないが、彼らのためにできないことはない、と思われたいのだ。
だが、どんな依頼でも言ってほしいといえば、自分にできない、しようがないことを頼まれるかもしれない。
そうなるといい人は、相手を恨むことになる。
また、頼まれたことができないと、何か役に立つことをするという自分の申し出を裏切り、相手の悲しみに欲求不満を付け加えてしまう。
悲しみを早く乗り越えさせようとする
いい人は遺族に早く悲しみにけりをつけるよう、圧力をかける。
相手が気丈なら、速やかに平静な状態に戻れるだろうと思うのだ。
しばらくたつと、「いつまで喪に服しているんだい」と聞いたり、「自分を哀れんでいないで、生活を前に進めなければ」と励まそうとする。
知り合って三カ月の友人にまるで何年も経たような友情を感じてほしいと期待するあまり、「いつまでも悲しんでいて申し訳ない」と思わせようとする。
だが、喪失感を手放すように相手に圧力をかければ、悲しみをどこかにしまい込むだけで、どちらの感情も意味をもたらさないので、相手の健康をむしばむ結果になる。
どんなに誠実であっても、遺族を守ろうとしても戦術はうまくいかないというのが結論だ。
悲しみのプロセスを妨害し、相手を慰めようとする純粋な気持ちを脇にそらしてはいけない。
では、悲しみに暮れる人をただ守るのをやめ、どう相手との関係を保てばよいのだろう。
遺族の力になる練習
一般に信じられている話とは違って、いくら時間を経ても悲しみに打ちのめされた状態は消えず、深い心の傷は癒されないことがある。
時間は役には立つが、充分に悲しみにひたることだけが、癒しに通じる道なのだ。
死は、遺族の感情を落ち着かせる機能を覆ってしまうので、彼らはよくショック状態に陥ることがある。
同時に、起きたことの意味を把握する時間が必要なので、日常の活動は極端に鈍くなり、ときには停止さえする。
こうした時間は恐ろしく、痛みを伴う。
だが、これは無視したりむだにしてはならない時間である。
生活の断片を拾い上げ、やがて明るさを取り戻すためには、たとえ簡単に順応できないと知っていても、遺族には充分悲しみ、心の痛みに耐えるための時間が必要だ。
遺族はまた、痛みの激しさから自由になれるように嘆き、傷を癒やし、生命が枯れてしまいそうな寂しさを乗り越えなければならない。
「悲嘆は快方へ向かう道」という言葉がある。
この痛々しい悲しみのプロセスを通るよう、サポートするのが遺族への私たちの役目なのだ。
ありのままの自分すべてで相手とかかわる
大切に思う人との関係を深めたいのなら、あなたの存在を存分に、長続きするやり方で示す方法を知っておくといい。
それは単なるテクニックや期待を満たすことではなくて、純粋に相手とかかわり、他者と共存するための最も人間的なあり方だ。
まさに、それは、相手がトラブルのさなかにいるときや、心に痛みを感じているときに求められる。
また、あまり親しい間柄でなくても、そうした特別の機会に誠心誠意で遺族のためにサポートすることができる。
じっとそばにいて見守る
感情面のサポートが必要な人のためにそばにいてあげる。
当たり前だが、楽にできることではない。
というのも、相手がいつサポートを必要とするか予測できないし、多くの時間を大切な人のため、自分のために、誠心誠意でそこにいなければならないのだ。
つまり、いつでも相手のためにいてあげるという約束はできない。
いつ、どういう場所でいちばん必要とされているかを察知し、最もいい選択をするよう求められているのだ。
自分が対応できること、できないことで偽らなければ、いつも誠心誠意でかかわるのだから、お互いに純粋な交流ができるし、とても豊かな気持ちでいられる。
そのためには、遺族を前にして、ひとりの人間-同じように痛みを抱えており、超越的な救済者ではない-として接することだ。
すべて知っているふりをし、じつは恐れていることがばれるのではないかと心配するのではなく、相手を大事に思っていても、力がない友人として、遺族のそばにいてあげることだ。
矛盾だと思うかもしれないが、誠心誠意でかかわるには、自分の弱みを見せると、本当に気丈でいられるという、パラドックスを受け入れなければならない。
自分の弱さを隠さずにいて、強さを必要とする相手に届けるというのは奇妙に思えるかもしれない。
しかし、落胆しているとき、自分もすっかりまいっていると認めてこそ、相手は支援と癒やしを得られる。
傷ついた相手は、その悲しみや痛みを感じ取れる人がそばにいてくれると、慰められるのだ。
また、死を取り消すことはできない以上、その現実だけでなく、相手の痛手や問題を解決できない非力さも受け入れるしかない。
素直にかかわるというのは、相手とともに静かに耐えることでもある。
あなたの沈黙のおかげで、相手が自分の気持ちを表すゆとりをもったあとでも、より寡黙でいるほうがいい。
ショック状態にいるときは、周りの人の言うことはほとんど耳に入らないものだ。
そうかといって、相手を無視したり、喪失感を見すごしてはいけない。
ただ、静かなときをおしゃべりで埋めるのは避けたほうがいい。
沈黙という難しい時間を耐えると、かわりにあなたの心づかいが大いに語り出すのだ。
「あなたをコントロールしようとは思いません。とくに何もできないでしょうが、あなたと一緒にいます。
あなたの人生もあなたも見放しはしませんよ」
誠心誠意のかかわりとは、痛みを体験し、表現するように勇気づけながら、相手とのつながりを保つという意味でもある。
忍耐強く、もの静かに、心の耳で聞くのだ。
そうやって相手に注意を払えば、相手は自分の否定的な感情を隠す必要はないのだと感じるようになる。
自分が聞いてもらっていると察知すると、とくに言葉でない部分の率直さを感じて、今自分に何が起きているか話すようになるだろう。
アイコンタクトによって、相手はあなたがごく近くにいて、自分の寂しさを取り上げてしまわず、むしろ分かち合おうとしているのを知る。
とくに何も言えない状態にいればなおさら、相手の目の中に、彼らがどんな気持ちでいるかは、はっきり見てとれる。
大丈夫だと言いながら、目がぬれていれば、あなたに心の痛手を伝えているのだ。
もし許されれば、相手の目と目を合わせ、抱擁し、それから相手がひとりで悲しみにひたってほしくないという気持ちを瞳を通して返すことができる。
悲しみに暮れる相手のために誠心誠意かかわりたいと思っても、できないことがある。
まず、相手を慰め、心にかけていると印象づけようという目的で、自分も気が滅入って痛みを感じていると見せかけても通じない。
だが、あなたが途方に暮れていると打ち明けたり、純粋な気持ちで涙を流すなら、相手も泣いてはいけないなどと気にせずに、率直に悲しみにひたれる。
同時に、相手の悲しみであなた自身が打ちのめされたり、消耗するのはよくない。
誠心誠意でかかわるには、威圧するようなかかわり方は避けるべきだし、自分が世話されるようではまずい。
自分の悲しみをきちんと扱えない人たちは、しばしば遺族の重荷になる。
また、たとえ、相手の助けになろうとする努力がうまくいかないからといって、相手の背後に立って、悲しみのプロセスがなかなか進まないことでとやかく言ってはいけない。
「あれ、彼女はまだ怒りの段階にいるじゃないか」とか「やれやれ、やつはきっと気が滅入ったままなんだ」「彼らが死を受け入れる段階になったか、まだ否定したままかわからない」
私たちはありのままに相手を受け止め、哀れみと理解を示すべきだ。
相手が望むのは率直で、しかもやさしく接してくれる友人だ。
判断やアドバイス、批評はいらない。
悲しみのもとでは、自分が受け入れられていると信じていれば、いっそう楽に誠心誠意でかかわれるようになる。
心の痛みが凝縮されたようなときは、気丈に見せ、自分がどんなに役に立つかを友人に印象づけようとする癖が出やすくなる。
宇宙の中心で見つけた愛をしっかり感じていたければ、ゆとりをもち、自然体でいて、むだな救済行為はしないことだ。
目や体でふれあう
体のふれあいは心の距離をなくすし癒やしになる。
あなたの温かい心づかいも伝わるだろう。
ときには、相手をしばらくの間、しっかり抱き寄せてあげると、人によっては緊張感がとけてすすり泣きが出るといった効果がある。
話を静かに聞いてあげるなら、座って相手の手を取ってあげるのがふさわしい場合もある。
ただし、体のふれあいは押しつけてはいけない。
不適切な接触は相手を困惑させ、居心地悪くするのは言うまでもない。
相手の許容範囲で、ごく軽いジェスチャーや微妙なボディランゲージで自分の気持ちを示すことだ。
相手が体のふれあいをどう解釈するかわからなくて自分の方が不安なら、考えない方がいい。
アイコンタクトやじっと聞くこと、それに適切な体のふれあいの次は、ちょっとした言葉をかけてサポートする。
その場の自分の気持ちを言えばいい。
ぎこちなく感じて、全身でかかわりにくい状態にあるなら「あなたがおかれている状況をおもうとつらいです。
ただ、どう言葉にしていいか、まごついてしまいます」と話してみる。
場違いなことをいうのではないかと緊張するようなら、「ピントのずれたことかもしれないけど、私でよければ、そばにいるわ」と言うだけでもいい。
悲しみに共感する
手にあまることが多くあるのが実情で、その点を認めるとたいがいは役に立つものだ。
また、できれば自分の悲しみの体験を話すのもいい。
これまで、自分を最も助けてくれた人たちは、何をしたほうがいいとアドバイスしたり、知識や経験で印象づけたりしなかった。
むしろ、私を抱いて、話を聞いてくれ、お互いの悲しみについては、何もできない一人の人間でいるような人だった。
誰でも、「どんなにつらいことでしょう」とか「あなたの気持ちを思うと私も悲しくなります」というふうになら言えるだろう。
自分の限界をただ示すだけでなく、もしあなたが相手の立場だったら、どんな言葉が心の支えになるか考えてみるといい。
あなたが心の痛みを受けていたときを思い出して、どんな人の何が助けになったか整理していみるといい。
相手がくれた感情の糸口がわかれば、それも役に立つだろう。
相手が感じていることを受け止めるような共感的な言葉は、いつも癒してくれる。
- 悲しみで押しつぶされそうな相手に「ひどく心が痛むでしょうね」。
- 相手の声に怒りを感じたら「あなたが悪いんじゃない。私だって腹が立つ」。
- 罪の意識を認めるなら「あなたは、できることはやったんだ。完璧な人間なんていないんだ」。
- 将来を恐れていると感じたら「今の立場はさぞ怖いだろうね」。
- 相手が混乱していると思うなら「そんなときは誰でもとまどいますよ」。
- 痛みを伴うどのような状況でも「この状況はとても厳しいでしょう」。
それでも自分の言うことがぎこちないと思うなら、経験からいって、あえて何も言わず沈黙とボディランゲージ、視線で気持ちを表すことだ。
配慮あるかかわり方が、いちばんの方法かもしれない。
ただ、遺族を癒やす意味では大した貢献にはならないが。
必要な手伝いを具体的に申し出る
注意しておくべき点だが、きわめて世俗的なことが悲しみのプロセスを妨害する可能性がある。
食事の手配、電話連絡、霊安室へ行く、あるいは子どもの世話といったことに遺族の手をわずらわさないよう、必要な手伝いをどうさばくかに気を配るといい。
「何かご入用でしたら、電話をください」と言うのはまずい。
「私にできることがあるでしょうか」と言うほうが相手も頼みやすくていい。
相手の立場なら、必要と思われることを考えて、「どなたかに電話でお知らせしましょうか」と言うぐあいに聞いてみる。
相手のもとを離れるときは、「私でお役に立てることがありましたら、知らせてください。私から電話をするか、どちらでもかまいませんが」と言いそえる。
あなたのほうの都合でずっと居残ったり、手伝えなければ、「すみません。これ以上お手伝いできそうになくて」と言うようにする。
何が必要かはっきりしなくて、できるだけのことがしたいのに不安になるときは、状況をはっきりさせる言い方がある。
「私があれとあれ、それとそれをするというのはいかがでしょう」「私、まだここにいましょうか、それとも帰りましょうか」というぐあいだ。
ただ、うろうろして、必要なことがないかを心配せず、聞いてみることだ。
また、花や植物、食事、デザート、または特別な工夫といった、悲しむ友人が好むものを届けて、その場に何か美しく気の利いたものを添えてもいい。
本、美術品や好みの音楽のCDを用意して、相手のことを心にかけていると知ってもらうのもいい。
自然、美術、食物や飲み物-どれも栄養と、気分転換そして手助けになる。
宗教と悲しみのかかわり
どんな関係でいるかによるが、相手に宗教的伝統にのっとった慰めの言葉や、知恵をあげるのがいい場合もある。
ただ、どれほど洞察の深い言葉だとしても、相手の心を安らかにするとは限らない。
ことに遺族が深い悲しみで麻痺していれば、深い気持ちを感謝するゆとりは持ち合わせていないので、無駄になるかもしれない。
死を受容するべきだと説得したり、神様のせいにしたりして、人生には必ず何か意味があるのだといった一種の幻想を保護する必要はないと気がつくと、思わずホッとする。
ふいに訪れる悲劇に出合うと、遺族は「なぜ」という気持ちになるものだ。
答えようがない状況では、「私にもわからない」と正直に答えるほうが相手に受け入れられやすい。
少なくとも、時と場合によって、悲劇的な死が相手のせいで起きたわけではないと念を押すことはできる。
ただ、とても大事なのは、言葉よりも愛情深い行為を通してあなたの信仰を表し、哀れみを与えることだ。
時間がかかってもプレッシャーをかけない
遺族は人生で最悪の体験の一つを味わっているわけで、悲しみから抜け出るにも自分たちのペースがある。
悲しみを思う存分隠さず表せるようなら、彼らにはたいてい自分たちペースとやり方がある。
まわりは、急がせず、自分なりのやり方を選ぶよう、サポートすればいい。
忍耐強く、心のこもった人々の協力に囲まれて、悲しみは癒える。
医師も、遺族の癒やしと精神的健康を回復するには、自分たちのペースが必要だという点に同意している。
逆に現状復帰を強要されると、相手はマイナスの感情を抑圧するため、正常な精神状態を麻痺させることになり、いつか健康を害する結果につながる。
人は愛する人の死に遭遇した際、すぐに自分の感覚を失うようなことはない。
遺族は故人がまるで休暇で出かけているだけで、実は生きているというような思いにしばらくとらわれたりする。
時間がたったら、そんなまやかしを手伝う代わりに、遺族が故人の性格、あるいは楽しかったことや悲しかったことを思い出すよう勇気づけるといい。
もし故人があなたの知り合いで世話になった相手なら、思い出や失った悲しみを遺族と分かち合うといい。
「この間フレッドのことを思っていたのですが、やつはいつだっておどけてましたっけ。ほんとうにいなくなって寂しい」
愛する人をいい感じで思い出すと、遺族は避けてはならない心の痛みをしっかり受け止めるようになり、さらに現実に生きる大切さを学ぶのだ。
死をめぐっての状況や詳細を繰り返し話すことも、遺族が悲しみにひたり、その課程を通るための一つの手段になる。
しめやかに一対一で回想することは、遺族にとって死という現実の締めくくりになり、受け入れる上で役に立つ。
また、悲しみのプロセスが見かけよりも長引いていれば、遺族はそれだけ余分に陰惨なときを過ごしていることを知っていたほうがよい。
時がたち、休暇の時期や誕生日、それと愛する人の一周忌が近づくにつれ、哀悼の気持ちを聞くのは癒しになる。
「この二、三日は辛いでしょうね。あなたのことを思っていますよ。それをお知らせしたくて電話しました」
友人の悲しみが際限なく続くとなると、心配するのはもっともだ。
悲しみで気が滅入る期間が長引いて、遺族自身が回復できないでいるとぐちるようなら、カウンセリングなど、専門家の力を借りるようすすめてもいい。
世間はたいてい、後に残された人たちが、かなり早急に悲しみを乗り越えるよう期待するものだ。
愛する人の突然の死から遺族が立ち直る期間を、友人たちは三カ月から半年とするが、専門家は一年から二年がより現実的だという。
遺族が感情的、心理的に故人に依存していれば、故人の不在という感覚が、彼らの意識の中心を占めなくなるのに数年かかるだろう。
大切なのは、遺族にとって現実的な時間枠を与えることだ。
彼らの悲しみのペースが気にかかるからといって、プレッシャーをかけてはいけない。
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人付き合いが怖いを克服する方法
自分を信じられないと他人も信じられない
もう大丈夫、遺族の力になれる
遺族のために誠心誠意でかかわり、彼らをサポートする気持ちは整っただろうか。
悲しみとの出合いは、それぞれの周辺状況、タイミング、個性、微妙な調子、予測不可能な事柄、強迫観念や個人的要求があるだけに、とても難しい。
機能的な悲しみのプロセスにそって、状況ごとに相手に慰めと癒やしをもたらす適切なやり方で、心細やかに順応していく必要がある。
遺族がひどく打ちひしがれ、手をつけられない状態で、自分を傷つける恐れがあるなら、ひとまず保護下におくか、医師や警察の手を借りるのが適切と言う場合もある。
もちろん、これは特別な例外だ。
死に接した子どもの力になる
いい人は子どもを過保護にする傾向がある。
ふつう、人は子どもたちに死について話したり、本を読んで聞かせたりしないものだ-気が滅入ったり、陰気になるのを避け、彼らを傷つけたり、驚かせたり、泣かせたりしないようにする。
それで誰かが死ぬと、子どもは部屋の外に出されるか、彼らに聞かれないようにひそひそ話をする。
子どもに話す必要があると、大人に対してやるのと同じ方法で彼らを守ろうとする。
自分を気丈に見せたり、アドバイスをする、婉曲話法で話す、またありふれた話をする。
たとえば、「あなたのパパはね、神様にとても愛されて、それで天国へ召されたのよ」といったよく耳にする言い方だ。
子どもの痛みはこんなふうに尊重されないため、混乱する傾向にある。
また、子どもは、現実に起きた厳しい真実に対処することからも遠ざけられる。
九歳の子どもの大好きなおじいちゃんが手術台で死んだ。
もう彼に会えないという知らせを受け取る。
彼女は衝撃を受けて、泣き叫びたいと思う。
だが、両親を含むまわりの大人たちは耐え忍ぶだけで、彼女には何も言わない。
それで、痛みを伴う寂しさや怒りを覚えるなんて、自分はどこかおかしいのかと感じる。
大人と変わらず、子どもも誰か大切な人の死にあったら、癒される対応が必要だ。
可能なら、死が訪れる前に状況の深刻さについて何事か知らせる。
子どもにとって大切な人が、不治の病で死の床にあるなら、いつでも起こり得る事態に備えさせるといい。
愛する人の死を子どもに知らせるときは、手短で、簡潔、ストレートに、真実を、正直に伝えるのがいちばんいい。
できるだけわかりやすく、生理学的な言葉で説明するようにしよう。
「きみも知っているだろうが、フレッド叔父さんは思いガンにかかっていたんだ。
お医者さんはなんとかよくなるようにがんばったんだが、しばらくすると、もう手がつけられなかったんだよ。
叔父さんの体はもう病気と闘えなくなって、それで死んだんだよ。
みんなにとって悲しいことだし、とても寂しくなるな」
子どもには死の意味が理解しにくいだけでなく、混乱したショックや痛みを体験するから、一度言ったことでも繰り返す必要がある。
それに、彼らにも涙を流し、気持ちを表し、質問する余裕を与えることは大切だ。
もし、子どもが故人に依存していたなら、まわりの大人がそばについていて、きみのことは大切だ。
もし、子どもが故人に依存していたなら、まわりの大人がそばについていて、きみのことは充分世話をするからと、繰り返し納得させたほうがいい。
それは、子どもへの過保護な処置とは違う。
彼らなりに悲しめるよう、まわりが誠心誠意かかわり、こまやかなサポートを与えることが大事だ。
彼らは大人よりもゆっくり、かつ違ったやり方で、
たとえば一緒にいて安心できる人がいるときだけといった限定つきで悲しむかもしれない。
だが、子どもが悲しむのはたしかだし、彼らの防御装置が働くのは、耐えられるときだけだ。
とくに、七歳以下の子どもは起きたことを自分流に解釈し、わかる部分だけ吸収する。
悲しみの体験が広がれば、家族の弔いの儀式に加わりたいと思うようになる。
それまでは、むやみに葬式への参加を強要したり、従わないのは悪いことだという意識を植え付けないようにしてあげるといい。
大きくなるにつれ、ことにティーンエージャーになれば愛する人の死の意味はわかってくる。
彼らは深い痛みを感じ、動揺する。
片親の死にあうと、しばしば彼らは二重の喪失感を味わう。
一つは実質的な死、もう一方は残された親が計り知れない悲しみに打ちのめされている状況だ。
死の原因が殺人や災害、あるいは悲劇的な事故で、とくにほかの兄弟が巻き込まれている場合は、子どもはことさら混乱や不安、恐怖にさらされる。
こうした場合は特別な注意が必要だ。
こんな事件はそうあるものではないこと、その子自身は守られていて、安全である点を理解させるといい。
思慮深げな老婦人が、息子に喉頭ガンで先立たれた翌年、私のところにやってきた。
抑えることなしに、嘆き悲しんでから、彼女は孫がますます困惑し、引きこもってしまって心配だと相談しはじめた。
彼女は、遺伝で同じ病気をわずらうのではないかと、孫が不安がっていると思っていたのだ。
そこで私は、二人が話し合い、孫が安心することがまず大事なので、こう話すように言った。
「あなたのお父さんはごくまれな腫瘍が原因で死んだのよ。とても残念だわ。
でも、彼がガンだからといって、あなたもそうだということはないのよ。
お母さんと、おじいちゃん、そして私はあなたを愛しているし、大きくなるまで私たちがあなたを守るわ」
彼らは以前より緊密になり、孫はもっと話すようになったそうだ。
老婦人は彼の父親の話をして、その締めくくりにこう聞くことにしているという。
「もう気分は落ち着いた?」と。
孫の答えはこうだ。
「うん、おばあちゃん、だって僕安心したから」
子どもがもしまったく感情を見せないとか、二、三カ月たってもひどくふさいでいるようなら、専門家に相談したほうがいい。
第一に心がける点は、子どもが喪失感を抑圧したために、人生のある時期に傷を残さないようにすることだ。
死に直面したあとの数日間、子どもをサポートできるなら、彼らはその後の人生で出合う、大小さまざまな悲しい出来事をうまく処理できるようになるだろう。
子どもを悲しまないように守るのは間違いだ。
悲しみのプロセスを通るようサポートしてこそ、それはすてきな贈り物になる。
悲しい知らせの伝え方
「あなたの親しい人が死んだ」と誰かに伝えるときがあるだろう。
どこで、いつ、どうやってという状況を話すことになる。
亡くなった場所に行くよう、相手に指示する場合もある。
状況がどうであれ、話すのに最適な場所とタイミングを選ぶ必要がある。
できれば電話より、直接話すのが理想だ。
知らせる相手が一人だとか、知らせが最悪の状況を生むことも予想されるならことさらだ。
悲しい知らせの際は、誰か状況を知っている人と一緒だと、可能なら、二人でどう運ぶかを決めておけて何かと助かるだろう。
誰がまず何があったかを知らせるか、遺族が取り乱したりヒステリックになった際にはどうするかなど決めておこう。
二人ともどうすべきかよく理解し、内容をしっかり把握しているかチェックして、ぬかりなく準備を整えよう。
仕事の同僚が午後遅くなって職場で突然死んだ場合で考える。
配偶者や家族に電話で知らせようとするがうまくいかない。
別の同僚と打ち合わせて、故人の家に行き、ことの次第を知らせることにしたら、こんな言葉で家族に向かうことになる。
- 「あなたにお話があるんです。かけてもよろしいですか」
- 「入ってもよろしいですか。フレッドのオフィスの者ですが、お話があります」
椅子に腰を下ろしてから、遺憾の念を示し間髪を入れず要点に入る。
相手は、どうしたのかとか、場所や時刻、誰がいたか、ほかの人たちは何をしていたか、遺体はどこに置かれているか、ほかに誰に知らせたかなど大切な詳細事項を知りたがるだろう。
・「ほんとうにお気の毒なことで、言葉にはなりません。フレッドは今日の午後三時ごろ、オフィスで倒れ、同時に息を引き取ったようです(ここでどう理解されたか相手の反応を見る)。社員が電話して、救急車が駆けつけましたが、心臓は停止していました。彼らはフレッドをすぐに病院に運びましたので、いらしてほしいと言っています」
ショックで相手は泣き出すか、「何かの間違いでしょう!」とか「でたらめ言わないで!」あるいは「そんな、まさか!」といった言葉でさえぎるかもしれないが、そうした言葉を修正する必要はない。
黙って、つらい事実が相手に届くのを待とう。
もし、死が事故や自殺、あるいは殺人、子どもや少年を巻き込んでいた場合、相手の動揺ははかりしれない。
相手の反応を見ながら、聞く態勢にあると思われたら知らせを伝えよう。
また、家族の質問には何を知りたいか耳を傾けて聞き、質問に答えるたびに、彼らが気持ちの余裕を整えて別の質問をするか、どんな思いでいるかを話せるよう間をおく。
質問に答えられないなら、正直にわからないと言う。
それから、妥当であれば、答えを調べたあとで返事をする-いい人なら率先してそうするだろうが。
質問に答えたあとでも、まだ相手が困惑しているようなら、何が気にかかっているか予測して、明確にできるよう援助し、実行できそうな行動を提案する。
相手の家を去るときも、相手の状態を考えて、しばらく誰かほかに彼らのそばにいた方がいいかの判断が必要だ。
死なれてほっとしてもいい
最近の科学医療の進歩に伴って、とくに高齢者は寝たきりになって何年も過ごす傾向にある。
この場合家族は、誰かを若くして亡くしたり、病気の兆候もなく死なれたときとは違った悲しみを味わう。
彼らは心の中、あるいは、家族の中で、死が訪れるまでの長い間、否定、怒り、取引、そして抑うつを経験する。
ついにその日が来ると、深い痛みを感じる代わりに、まずほっとして、苦しみとすべての終焉を祝いたい気持ちになるのだ。
寝たきりで亡くなった人の遺族たちは、たいてい長い間、待つことと苦しい決意に責めさいなまれてきているので、解放された気分になるのはもっともだ。
医師とともに、愛する者が生の延長と長びかされた死の微妙な境目を行ったり来たりするのを見守らなければならないこともあっただろう。
また、回復のためと正当化される納得のいかない治療や、病気よりもひどい状態にする治療もあるだろう。
そうした胸がつぶれるような期間、自分の両親や友人が、記憶や対話能力、肉体の機能、尊厳、そして生きる理由も意志もなくしていくのを目の当たりにすることもある。
やがて死が訪れたときは、ほっとするために、喪失感を味わう様子はみられないかもしれない。
だが、遺族がマイナスの感情、とくに罪の意識を感じているというふうにも推測できる。
アダルトチルドレンは、自分の両親を大切にしなかった罪の意識や、世話をしなければならなかった怒りのどちらかを抱えていることが多い。
自分の子どもを育てる時間を取り上げられた恨みや、解放感、それに自分の生活を元に戻したいという強烈な思いを抱いていてもおかしくない。
長い間死の床にある病人を世話してきた人が、複雑な思いをもっているのもよくあることだ。
毎日、毎日、もう耐えられないと思うたびに、罪を意識したりする。
そうした介護役をつとめていた人が自分を許し、罪の意識を解放するよう、サポートしよう。
マイナスの感情や困惑、内面の葛藤といった兆候を見守って、次のように強調する。
・お父さんが亡くなって、あなたがほっとしている自分に罪を感じているなんて、悲しいですよ。そうした解放感を味わうのは自然なことだと思います。長い間たいへんな思いをされたのだから。
・あなたが葛藤を感じていても、責めたりしません。そんな状況では、どうしたらいいか誰もわからないですよ。でも、あなたが最善をつくしたのは確かなんです。
・大いにほっとしない人なんていないでしょう。私だったらしますね。
こうした言葉によって相手を批判されるのでは、と恐れずに、気持ちを自由に出せるようにする。
そのうえで、誠心誠意かかわろう。
遅かれ早かれいい人は、人生に招かれて、誰か知っている人が愛する人の死に遭遇して、痛みを乗り越える間、そばにいてあげることになるだろう。
相手は子どもかもしれない。
親しい友人につらい知らせを伝える役を引き受けるかもしれない。
あるいは、死がもたらす感情の代わりに、解放感と罪の意識の交じり合った気持ちで心を痛める相手とかかわることになるかもしれない。
そうした人たちを、痛みから救うことはできないのだ。また、彼らにとって、救いがいちばんほしいものではない。
相手を悲しみから守るのを拒否し、大事に思い、実践的な手段によって自分から進んでかかわっていけば、彼らはサポートされていると感じるのだ。
その結果、あなたは人としてより純粋に自分を受け止めることができ、人間関係に深みと広さが加わり、人を大切にする努力にいっそう満足を覚えるようになる。
もう悲しみから守ろうとするのはやめよう。
まとめ
悲しみとは何かを失ったり、脅かされている時、それに順応するときに経験する痛みのことだ。
悲しみの対処法などは学校などでは学ぶことはない。
最悪なのは悲しみを克服しようとして、不可能なことを周りに期待することだ。
遺族は、生命が枯れそうな悲しみと喪失感の痛みを乗り越えなければならない。
何ができるか遺族に時とタイミングをはかり質問し、まだ困惑しているようだったら、何か援助できることを推測し実行できることを行なう。