愛する心の心理

必死に求めなくても愛する心はもとからある

ここでは、「断愛」のすすめについて、書いていきたいと思います。

そう、「断食」ならぬ「断愛」です。

「断食」は、食を断つことで、外に求めなくても、自分の中に「エネルギーがある」ことを知る。

これに対して「断愛」は、愛を断つことで、自分の中に「愛する心」があることを知る、という方法です。

ご飯を十分に食べているはずなのに、まだ口が食べ物をほしがるのは、満腹中枢が壊れているから。

いくら愛されても満足できなくて、周囲から認められることを求めてしまうのは、”愛する心の満腹中枢”が壊れているから。

そんな、壊れてしまった”愛する心の満腹中枢”を正常な状態に戻していくこと。

それが心のダイエット、「断愛」です。

「自分は食べ足りない、満腹になっていない」と思うと、我々は食べ物を求めます。

それと同じように、我々は「自分は愛されていない、認められていない」と思って、「愛する心」と「承認」をずっと求め続けるわけです。

そこで「愛する心を求めることを断つ」、つまり、「断愛」をすることによって、「自分の中に愛する心はたっぷりあるのだ、そして、すでに十分に認められているのだ」と気づくことが大切なのです。

「愛する心の証拠」集めをやめる

「絶つ」とは、別の言い方をすれば「求めない」ということです。

「あれして、これして、愛情ちょうだい、ほめて」

そんなふうに愛する心の証拠集めをしないということが、断愛です。

たとえば、「マメに連絡をくれる」というのが、あなたの求める愛する心の形だとします。

すると、彼から連絡がこないと、「私は愛されていないのかな」と不安になります。

けれど「『頻繁に連絡をするのは迷惑かな』と配慮して、頻繁に連絡しないこと」が、彼が表現している「愛する心」かもしれません。

つまり、「私の欲しい”愛する心”をください」と求めないこと。

それが断愛なのです。

「私を愛しているなら、こういうことをしてくれるはず」

「家族なら、こういうことをするはず」

その「~してくれるはず」を求めないということです。

「~してくれなかった」を卒業する

世の中には、色んなタイプの人がいて、それぞれの人が「自分のほしいもの」を持っています。

甘やかしてほしい人もいれば、厳しくしてほしい人もいる。

ほめて伸びるタイプもいれば、叩かれて伸びるタイプもいる。

何も干渉されずに、ただ見守ってほしい人もいます。

でも困ったことに、人は「相手のほしいもの」を知っているようで知らない。

だから厳しくしてほしい人は、人に厳しくすると、優しくしてほしい人は、人に優しくします。

逆に厳しくされて嫌だった人は、優しく「しよう」とするし、優しくされて嫌だった人は、厳しく「しよう」とします。

「私は、”こんな愛する心”がほしいと思っていました」

でも、たいてい、相手はそんなことは知らないのです。

だから、「してくれなかった」「あの人が悪い」「世の中が悪い」そこを卒業するのです。

忘れている愛する心を思い出すだけでいい

「断愛」の効果をわかりやすくお伝えするために、「たとえ話」を一つしてみたいと思います。

「お腹が空いたな」と思って、レストランに行ってメニューを見ます。

「何を食べようか」と考えていると、「シーザーサラダ」が目に止まりました。

そのとき、我々の脳内で何が起きているのかというと、それを見ながら、「昔食べたシーザーサラダの味」を思い出しているのです。

ここに「紙のサラダ」と書いてあったら、味を思い出せません。

想像がつかないから、注文するのは怖いわけです。

そして、シーザーサラダを注文し、それが運ばれてきて、思っていた通りの味であれば、「うん、シーザーサラダだ」と思うわけです。

食べてみて、思ったより酸っぱかったら、「これをシーザーサラダというのは、おかしくない?」と言うわけです。

「なんかおかしくない?まずいよね」と。

あるいは、運ばれてきたシーザーサラダが、自分の味覚の記憶をはるかに超えた美味しさだったら、「すごい!美味しい!」と言うわけです。

「愛情をもらっていた」から「もう一回おかわり」と言いたくなる

つまり、僕らは何かを見たり聞いたりしたときに、その瞬間に脳みその中に入っている過去の記憶を探りにいっているわけですね。

ということは、「認めてほしい、愛してほしい、ほめてほしい」という愛する心や承認を求めにいっているときというのは、”過去に愛されたときの感覚”をもう一回、味わいたいと思っているわけです。

「前のあの”いい感じの感情”が、もう一回ほしい」と、探しにいくわけです。求めにいくわけです。

ということは、過去にその「いい思い」を必ず体験している。

今「愛されていない」と言っている人も、愛する心を知っているから、「愛する心」求めて追っかけていくわけです。

「愛する心」を追っかけているのは、愛されていた人だけです。

これをぜひ知っておいてください。

愛する心を持っていたから「もう一回おかわり」と言っているのです。

つまり、自分の中には、たくさんの承認と愛情があったのだということです。

忘れているだけで、あるのです。

キーワードは「忘れている」。

覚えていないだけです。

「あなた、さっき食べていたじゃないの」
「食べていない」
「あなた、いっぱいほめられていたじゃないの」
「ほめられていない」
「あなた、たっぷり愛されていたじゃないの」
「愛されていない」

こんなことを、我々は繰り返しているのです。

愛する心のパブロフの犬

「パブロフの犬」の話を知っていますか。

犬がいて、ベルを鳴らして、エサをあげると食べます。

これを何度も繰り返していると、犬はベルが鳴っただけで「エサがもらえる」と思ってよだれが出る、という実験をしたものです。

これの発展型があります。

犬がいて、たまたまベルに当たってベルが鳴ったら、どこかからエサが出てきました。

そうすると犬も、「わけがわからないな~」と思いながらも、エサがでてきたので食べます。

また、犬がウロウロしていて、ベルに当たったら、またどこからかエサが出てきました。

「おお、エサが出た」と食べます。

これが繰り返されると、この犬は「ベルに当たればエサがもらえる」と学習するわけです。

ところが、それが何度か続いた後、ベルに当たったのに、エサが出なかった。

すると、犬は戸惑います。

「出るはずのエサ」がでてこなかったからです。

もう一回ベルに当たったら、またエサが出ました。

喜んで食べます。

だけど、次にベルに当たったときは、やっぱりエサが出てこなかった。

犬はわけがわからなくなって、非常に戸惑うわけです。

これと同じことが私たちの中でも起こっています。

いいことをしたら、お母さんにほめられて、私たちは喜びました。

でもある日、お母さんはお父さんとケンカをして機嫌が悪かったので、いいことをしたのに、ほめてもらえませんでした。

僕たちはこのとき、必死で考えたわけです。

「いいこと」が足りなかったのではないか、もっと「いいこと」をやらなくちゃ、と。

つまり、褒めてくれる側の人も、人間だからほめたくない気分のときがあります。

愛する心から愛情をあげる余裕がないときがあります。

でも、我々にとって、期待していた愛情をもらえなかったときの記憶があまりにも強烈だったら、「ベルに当たったのに何ももらえなかった、愛されなかった」という記憶(印象)だけが残る可能性があります。

それまで、本当は「いっぱい愛する心をもらっていた」のにもかかわらず、です。

本当はいっぱい、もらっているかもしれません。

そのように、少し疑ってみてほしいのです。

「私は愛する心を与えられていないわ」

「また私、のけ者にされたわ」

「違う」です。

全部、気のせいです。

100%気のせいです。

私たちの記憶はほぼ気のせい、それくらいに思っていて、ちょうどいいんです。

あなたの記憶は、悪いほうに”盛られ””ねつ造”されているのです。

「嫌なことを言われた」

それは嘘です。

”気がする”だけ。

「あの人に嫌われている」

それも嘘です。

”気がする”だけ。

あなたは、嘘を信じている。

だから、あなたは愛を断わって、いくらでも断愛しても大丈夫なのです。

薄味の愛する心の幸せがわかる人は人生の達人

ものごとがうまくいっている人には、共通点があります。

それは、「愛情も、お金も、時間も、自分にはいっぱいある。減っても、使ってもまたいくらでも入ってくるから大丈夫」という”大安心な境地”です。

じぶんにはなんでも「ある」と思っているから、失敗してもいい。

笑われても、自分には愛する心がいっぱい「ある」から大丈夫。

いっぱい認められているから、笑われようが、失敗しようが、うまくいかないことがあろうが、別に何も傷つかない。

あなたも、今日から、この「新しい考え方」を自分の中にインストールしてみてください。

ズバリ、「ある」思考です。

心の常識を180度、変化させる

「ない」思考が三十~四十年続いている人は、それを「ある」思考に変えようと思ったら、ちょっと努力がいります。

1日十回「ない」と思っていたら、365日、30年間で11万回「ない」と言っています。

それは心と体に染み付きます。

そして、それを「ある」に変えていこうと思ったら、「ある」を11万回言うのです。

それぐらい「ある」と言い続けていたら、本当に「あなたにはあるよ、満たされているよ、大丈夫だよ」という証拠が次々と入ってきます。

その証拠がたくさん集まってくれば、心の常識が「あるに決まっている」に変わっていきます。

ただ、そうは言っても「ある」とは思えない。

そんな人は、「ある、かも」もしくは、「ある、らしい、へー」と「へー」をつける。

「そうか、愛する心、あるらしい、へー」「嫌われてないらしい、へー」「こんなことをしても、不健康にならないらしい、へー」そういう感じです。

この方法を使って、自分の常識を裏返してみてください。

不思議なほど”穏やかな自分”を手に入れる

あなたの中には輝くものが既に備わっています。

これに気付きはじめると、人生の中で刺激を求めずにすむようになります。

その刺激というのは、「愛している」と言われることであったり、人生における感動、成功、達成という部分です。

評価されること、承認されること、喜ばれること、刺激的な快楽・・・。

こういった刺激の強いものは、一度手にすると、次はそれを超える刺激のものを手に入れないと満足できなくなります。

辛いものと一緒で、”一辛”を食べたら、次は”二辛”が食べたくなります。

うまくいったり、愛する心をもらったり、気持ちのいい思いをしたら、さらにそれを上回る刺激がほしい-ほめられたい、愛されたい、成功したい。

そうなったら、それをずっと追いかけ続けて、手放せなくなります。

それが、「ある」自分に気づくと、すごく心が穏やかになってくるということです。

”愛する心をほしがる時間”はもういらない

刺激を求めないですむようになると、人生の中で”薄味の幸せ”がわかるようになります。

最終的に、「自分は”いるだけ”でいいんだ」

というベースができあがってきます。

だから「断愛」を別の言い方にすれば、役に立とうとしないということです。

それから、愛する心を得ようとしない。
喜ばれようとしない。
認めてもらおうとしない。

それらを得ようとするための活動の時間が、これからは不要になっていきます。

認めてもらうために頑張る。
アピールする。
それから、愛する心を確認しようとする。
見栄を張る。
好かれようとする。機嫌をとる。
ブログにコメントを求める。

そういう”愛する心を欲しがる”時間がいらなくなるのです。

まとめ

愛する心は必死に求めなくても勇気を出せば手に入る

忘れている感覚を取り戻すには、ありのままで生きてみる

ささやかな愛する心を感じることで人生は楽になる