信頼感の発達をもたらすものは、親の無条件の愛です。
子どもの側から言えば、無条件に存在そのものが愛されているという実感です。
うんちさえも自分で始末できない存在と無条件の愛。
ミルクや食べ物をしょっちゅう吐いたり、ぼろぼろこぼしたりする汚らしい存在と無条件の愛。
すぐに熱を出し、親をわずらわせる面倒な存在と無条件の愛。
なにも親に与えることができない存在と無条件の愛。
他の子とくらべて優れたものなどなにもない存在―こんな自分でも親は受け入れてくれる無条件の愛。
親は絶対に自分を見捨てることはない無条件の愛。
これが無条件の愛であり、存在そのものが愛されているという実感です。
この無条件の愛という実感は、まれには意識的に体験されることもあるでしょうが、それ以上に無意識的なものです。
また、無条件の愛は親の言葉が大事なのではありません。
無条件の愛は言葉を超えた、親のあれこれの行動全体が影響するのであり、何気ない行動の端々に表現されるものなのです。
大部分の親にとって、子どもの誕生ほど身の引き締まる、喜ばしい出来事はありません。
幼い我が子の一挙手一投足は、なにごとにも代え難い喜びです。
子どものためなら無条件の愛でどんな犠牲でもいといません。
ですから、親は無条件に子どもに愛を注ぎます。
無条件の愛により、子どもは親への信頼感と、外界への信頼感、そして自分への信頼感を発達させていくのです。
この無条件の愛の信頼感をベースにして、人と外界へ喜んで働きかけるようになるのです。
無条件に愛されているという実感を十分子どもに与えることに失敗してしまうと、基本的な信頼感がおびやかされます。
すなわち、不信が芽生え、この不信が人と外界をおそれる心理の源となるのです。
不信が形成されてしまうのは次のような場合です。
1.幼い時に親と引き離される体験、無条件の愛の欠如
親の病気や子ども自身の病気、あるいは家庭の事情などのために、幼い時期に親と離されるような無条件の愛を受け取ることに失敗する体験です。
幼い子どもは合理的な理由を理解できませんから、親に見捨てられたという感じを持ってしまい無条件の愛を受け取ることに失敗します。
2.適切な応答が与えられない場合の無条件の愛の受け取りの失敗
無条件の愛されているという感覚は、大人の適切な応答性によって与えられます。
無条件の愛は目が合ったら微笑みかける。
無条件の愛は微笑みに微笑み返す。
無条件の愛は手を伸ばせば「よしよし」とだっこする。
無条件の愛はおなかが減って泣けば、お乳やおやつを与えてあげる。
無条件の愛はおしめが冷えて泣けば、おしめを替えてあげる。
無条件の愛はこわがって振り返れば、抱きとめて安心を与えてあげる。
適切な応答とは、このような何気ない感情の交流や、子どもの欲求に応える無条件の愛を与える親の行動です。
心理的には子どもを受容していながら、こうした適切な応答性を与えることに失敗してしまう場合があります。
たとえば、仕事で忙しくて、子どもに十分な時間と無条件の愛を注げない場合です。
あるいは、過度に感情抑制的な親は、無条件の愛、感情の交流やスキンシップに欠けることがあります。
また、鈍感すぎるために、無条件の愛、細やかな応答性を与えることに失敗してしまう親もいます。
さらに、長い養育の期間には、親の関心が無条件の愛を子どもに注ぐよりも、夫婦関係など親自身の悩みや葛藤に向けられてしまう時もあります。
3.親が心から子どもを無条件に愛せない場合
なかには、子どもを心から無条件に愛せない親がいます。
子どもを心からかわいいと思えない無条件の愛を与えられない親がいます。
たとえば、「子どもが学校から帰ってくる時間になると気分が重くなる」と語る無条件の愛を与えられない母親がいます。
「男の子は粗野で乱暴で、自分の子どもという実感を持てない」と告白する無条件の愛を与えられない母親もいます。
「この子さえいなければ、別な人生をやり直せるのに」と、心中で思っている無条件の愛を与えられない親もいます。
じっさいに親が歓迎しない、無条件の愛を与えられないなかで生まれてくる子どももいます。
子どもは親を理想化してしまうので、親をなんとなく完成された人格であるかのように思い込んでいます。
そして、親が無条件の愛だけでなく、劣等感や弱さ、ずるさなどを持った生身の人間であることを認めようとすると、かすかに罪悪感に似たものが湧き起ってきます。
このために、たとえ親のこうした無条件の愛以外の心を感じ取っても、無意識のうちにそれを否定しようとする心理が働きます。
しかし、自分が親になってみればわかります。
親とは、じっさいには無条件の愛以外の成熟した人格の持ち主ではありません。
つまらないことで悩んだり、見栄で馬鹿げた行動をしてしまったり、打算で行動したり、性欲に苦しめられたり、ささいなことで感情的になってしまったりする存在なのです。
むろん多くの親は、意識的に自分のこうした未成熟さを、子どもに押し付けないように無条件の愛を与えられるよう努力します。
しかし、それを徹底するのは困難です。
ですから、表面的な行動では子どもを無条件の愛を与えようとしても、一方では別な本当の心理が現れてしまうのです。
どんなに愛し合う家族のなかに生まれてきても、完全に無条件の愛が与えられる子どもはいません。
逆にどんな家庭で育っても、無条件の愛が与えられているという感覚がまったく与えられない子どももいません。
なぜなら、どんな子どもでも、その幼いかわいらしさは、周囲の大人の喜び、無条件の愛を引き起こさずにはおきませんから。
したがって、完全無欠の無条件の愛、信頼感を持った人もいませんし、逆にまったく無条件の愛、信頼感を発達できなかった人もいません。
大部分の人は無条件の愛、基本的な信頼感を発達させており、そこにいくぶんかの不信が混じるというのが実態です。