人は誰でも、自分は他の人とどこか違うな、という違和感、異質性を、多かれ少なかれ持っているものです。
また、集団のなかにいて他の人は楽しくやっているのに、自分だけは場違いだ、という異質性の感じを多くの人が体験しています。
ところが、集団の中にいることを苦痛に感じる人は、自分だけが他の人と違っている、異質性という思い込みが強い傾向があります。
そして、こうした異質性を感じる人は、自分が他の人と違っていることを過度に気にします。
異質性を感じる人は、他の人と変わっていないかをしきりに心配します。
そうすると、異質性を感じる人は、無意味なことをおそれる心理ができてしまいます。
異質性を感じる人は、まばたきが人より頻繁ではないか。
異質性を感じる人は、視線を合わせすぎないか。
異質性を感じる人は、笑い顔が不自然でないか。
異質性を感じる人は、しゃべり方がおかしくないか。
異質性を感じる人は、しゃべるとき、口につばがたまりすぎないか。
異質性を感じる人は、つばを飲み込んだらおかしいと思われないか。
異質性を感じる人は、動作がぎこちなくないか等々。
異質性を感じる人のこうしたことは客観的に検証することができません。
このために、異質性を感じる人は、自分の感じ方、歩き方、身体の部位、そうしたものまでも他の人と違っているのではないかと思えてきます。
とくに性に関する異質性の不安は検証のしようがないので、多くの人が抱きがちです。
思春期から青年期には男子も女子も、自分の性器が人と違っているのではないかと密かに心配する異質性を感じることがあるのは、珍しくありません。
このような状況では、精神分析学者のH・S・サリヴァンがいうところの、選択的無関心の心理機制が働きます。
それは、歪曲的な認知を確認するような出来事だけを意識に入れて、そうでないものを無視してしまうというメカニズムです。
たとえば、視線を合わせすぎないか、と異質性を感じて心配している人がいるとします。
すると、相手の人が他の人から視線をそらせることは無視して、その人が異質性を感じる自分から視線をそらせたときだけ、「視線をそらせた」と意識します。
そして、異質性を感じる人は、「自分が視線を合わせすぎたから、視線をはずしたのだ」と解釈してしまうのです。
こうして、自分が他の人と比べて異質なのだという確信を強めます。
そうなると、異質性を感じる自分のありのままのふるまいでは変に思われるのではないかと、自然にふるまえなくなってしまいます。
その結果、異質性を感じる人は、実際に行動がぎこちなくなり、ちぐはぐなやりとりになってしまいます。
自分は他の人と違っているという異質性の感覚は、このつくりだされた現実によってますます強化されていくことになります。