相手も自分も尊重する

相手も自分も尊重して相手に堂々と自己主張する

主張が苦手なのは攻撃的な人

他者を傷つける言葉をズバズバと平気で言ってしまう攻撃的な人たちの大半が「主張するのが怖い」と言います。

そんな人の多くが、小言を言ったり怒鳴ったりしているとき、相手と向き合ったり、視線を合わせていないことに気づいたことはありませんか。

実際に試してみるとわかります。

大切な人には何も言えない

ひどい言葉、汚い言葉、人を侮辱するような言葉をグサグサと平気で言える人は、たいがい、相手と視線を合わせていません。

合わせないと、平気で言える気分になるのです。

自分が絶対的な優位に立っていられる場合はいっそう安全です。

お店の従業員の人、宅配の人、窓口係の人に対して吊るし上げるような勢いで苦情を言ったり、家族の中の弱い立場の者や部下といった相手に対して、どれだけでも横暴な態度になったり、いくらでも暴言を吐きます。

それを快感とする人もいるでしょう。

でもそれは、向き合う必要のない相手に対してだけです。

反対に「愛してほしい人。自分が求めている人」に対しては、軽く言える一言すら過剰に恐怖を抱きます。

たとえば、ある父親は自分の娘に拒否されることを最も恐れていました。

あるとき娘が、「午後にバイク便が届くんだ。今日、それを受け取って、人に渡さなければならないの。でも、急用ができて、出かけなくちゃならないんだ。悪いけどさあ、この時間には、ここにいるから、持って来てくれない?」と父親に頼みました。

娘の頼みを断れない父親は、その日、約束があったにもかかわらず、キャンセルしてしまいました。

その相手は、父親にとって、「優先順位の低い人」あるいは、自分が優位に立っていて「傷つけても安全な人」でした。

しかも、父親に頼んできた当の娘本人が、その親から学んでいるように、友達に誘われて断れないために、父親に頼むということだったりするのです。

夫を見下している妻や、妻に横暴な夫の中に、自分の肉親・兄弟姉妹には何も言えない、という人たちが多いのは、こういうことなのです。

本物の強さとは

この例のように、相手にとって「傷つけても安全な人」となっているために、たびたび約束を伸ばされたりドタキャンされたりしていた女性が、あるとき、「私と約束したことは、ちゃんと守ってください。守れない約束ではなく、守れる約束をしてください」と言い渡しました。

その言葉には、「今後もこんな扱いを受けたら、あなたとの関係を見直します」という決意がみなぎっていて、それは彼女の、自分に対する「宣言」でもありました。

彼はうろたえましたがとりつく島もなく、「いつでも、どうにでもなる相手」という思いがあっただけに、強いショックを覚えました。

初めて彼が、彼女と向き合った瞬間でした。

「意志を持つ」というのは、こういうことです。

この強さには争いがありません。

もし彼が争いを仕掛けてきたとしても、その争いに乗らなければ、争いになりません。

敵と戦うという意識がなければ、土台、勝負そのものが存在しません。

彼女が覚えたこの”感覚”が、自分の意志を明確に持ったときの、何ものにも優る心地よさだと言えるのです。

ごく一般的な生活の上では、相手が自分のことにどう反対しようと、自分がそれに同意しなければ、まったく強制力はありません。

私がしたくないのであれば、したくない」と、何のわだかまりもなく意志を持って決めていいのです。

もしあなたがこんな意志を持つことができれば、戦う人は戦う相手を失って、どうすることもできません。

さらにそうやって、自分が戦わなければ、「戦う人」は自分の元から去っていくでしょう。

その結果、自分に残る人たちは、戦わないで話し合える人たちになっていきます。

決して争ってはいけない、ということではありません。

多少争ってしまうとしても、お互いの気持ちを解消できるように「話し合う」ことができれば、さらに戦わないで済む、安全で心地よい関係を築くことができるようになっていくでしょう。

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自分も相手も尊重して戦意を喪失させる

私の仕事を奪ってしまおうとする同僚

同意が自分の仕事を奪ってしまうと悩んでいる人がいました。

同僚からすれば、「自分は彼女と同じ職位なんだから、彼女の指示を仰ぐ必要はない」という主張になるでしょう。

「それぞれの役割を明確にするとしたら、その決定を上司に一任するか、全員で話し合って、上司が決定するということになるでしょう。」

「上司には、何度かいったんですが、『お互いに話し合って、上手くやってよ』と言うだけで、とりあってくれないんです」

上司からすれば、同僚がそうやって積極的にどんどん仕事をこなしていく姿は、「能力が高くて信頼できる部下」というふうに映るでしょう。

もしこのとき、上司が同僚に対して、彼女の名前を出して「〇〇さんに相談されたんだけど、君は~」などと言えば、同僚と彼女の関係が悪化する可能性も出てくるでしょう。

まるで三角関係みたいな心理戦

この場合は、上司が中心になって、それぞれの役割を明確に決めてしまえば、仕事の進行上での問題は解決します。

けれども本当の問題は、実は、仕事以外のところにありました。

簡単に言うと、これは、恋愛で起こりがちな「三角関係」と似ています。

男性(上司)をゲットしようと二人で張り合っているのですから、問題が起きないわけがありません。

仮に彼女にまったく張り合う気持ちがなかったとしても、相手がそう思わなければトラブルが起こるのです。

たとえば、こんな場面があります。

ある人が相手(Aさん・Bさん・Cさん)と話をしているときに、「はあ~」と深くため息をつきました。

その姿を見て、Aさんは、「ああ、つかれているのかなあ」と思いました。

その姿を見て、自分に自信がないBさんは、「やっぱり、私と話をしていても、面白くないんだ」といっそう自信をなくしました。

その姿を見て、Cさんは、「自分と話をしているときにため息をつくなんて、馬鹿にするのか」と腹を立てました。

こんなふうに、まったく同じ場面でも、受け取り方で違ってきます。

人は、自分のフィルターを通して物事を見ます。

相手が発している情報をそのまま正確にキャッチするものではありません。

一つの場面をどう感じ、どう解釈するか。

そこには自分の心が反映されています。

あえて相手と張り合うことはしない

たとえば、思わず彼女が先輩風を吹かせて同僚に指示した、こんなことでも争いは始まります。

どちらが先に争いのきっかけを作ったかはともかくも、彼女が「同僚に仕事を奪われる」という感じ方をしているとすれば、彼女自身もすでに張り合っていると言えるでしょう。

仮に彼女が、「相手が悪いのに、どうして私が先に、争いをやめなくちゃならないんですか

と主張したとしても、この問題を根本的に解決するには、どちらかがそんな”張り合い”から降りる以外に方法はありません。

延々と戦い続けるか争いをやめるか。

どうするかは、自分自身が決めるしかないのです。

もし彼女が、同僚との争いから降りることができたら、何が起こるでしょうか。

まずは同僚は、戦う相手を失います。

同僚が仕事に意欲を燃やしていると見えたのは、実は、彼女への対抗意識からでした。

彼女が戦いから降りて、同僚に仕事を任せると、やがて同僚は、「どうして、私ばっかり、仕事をしなくちゃならないの」と不満を抱くようになるでしょう。

上司が仕事を頼んできても、その不満のために、競って仕事を奪おうとはしなくなるでしょう。

これが「敵意識を抱いて戦っている人たち」の典型的な言動パターンです。

彼女は遠からず、労せずして元通りの位置に戻ることになるでしょう。

こんなふうに、長期的な展望をもって戦いから降りたほうが、最終的に良い結果を得ることができるのです。

自分も相手も尊重する自分の気持ちを手放す

突然攻撃された

口論などで攻撃された時、すぐ言い返せるようになりたいという人がいます。

しかし、そうやって相手を「ぐうの音も出ない」ぐらいに言い負かしても、スッキリしないのです。

ある女性が、予算についての決め事を同僚男性に持ちかけました。

すると彼は、何を勘違いしたのか、「俺たちが、そんなことを決められる立場じゃねえだろう!」と、彼女に怒鳴り返してきました。

一瞬、その場の空気が凍てつきました。

彼女は彼の勢いに怖じ気づき、硬直した表情でフリーズしていました。

そのとき、「そうじゃなくて、予算に附随することなんですよ」と、そこに居合わせた男性が口添えしてくれたので事なきを得たのですが、怒鳴られた彼女の気持ちは、その後もおさまりません。

気持ちがあやふやなときは

あれこれと迷った末に、彼女はこんなメールを出しました。

型通りの挨拶文を綴った後で、実は、まだ、この前の件で、すっきりしない気持ちを解消できないままでいます。

どうしようかと迷いましたが、自分のためにメールさせていただきました。

ご承知のように、私が相談したかったのは予算に使うツールおよびそのスケジュールについてです。

私の説明不足だったとはいえ、あんなふうに怒鳴られたことが今もって心に残っていて、思い出すたびに感情的になっている自分に気づきます。

〇〇さんとは、これからも仕事がスムーズに運ぶようにと願っています。

この問題を大きくするつもりもありませんが、私の気持ちの整理のために伝えさせていただきました。

私自身もまた、もっと伝え方に気をつけるよう反省し、努力していきます。

彼女が文中で「自分のために」と言っているのは、嘘ではありません。

彼にわかってもらいたいというよりも、自分の気持ちや感情を解消するために伝える、ということを目標にしています。

これが最大の目的ですから、彼女は”できるだけ自分の心に添った表現をする”という点に留意しました。

そうすることで、彼女は、自分の心の中で一区切りつけることができて、「思い出すたびに憤慨する」ということもなくなりました。

こんなふうに、「争う」ことよりも、「自分の気持ちや感情を解消するために伝える、ということを目標にしています。

これが最大の目的ですから、彼女は”できるだけ自分の心に添った表現をする”という点に留意しました。

そうすることで、彼女は、自分の心の中で一区切りつけることができて、「思い出すたびに憤慨する」ということもなくなりました。

こんなふうに、「争う」ことよりも、「自分の気持ちや感情を解消するために行動する」ということのほうに重点を置いたほうが、はるかに自分に「満足感」をもたらすのです。

今じゃなく後で伝えるほうがよりよい

多くの人が、その場で相手をやり込めてしまえるような自分になりたいと望みますが、その場で言い返しているときは、ひどい言葉を浴びせてしまいがちです。

仮に相手を打ち負かしたとしても、その結果、取り返しのつかない関係になってしまう可能性もあります。

とりわけ職場のように争った後も顔を合わせなければならない場合、その場では溜飲が下がった思いがしても、その翌日から、どんな顔をすればいいのでしょうか。

争ったときよりも、争った後で自分の心に対処することのほうが難しいのです。

ですから、この例のように、「今すぐ言い返す」ことを目指すよりは、「後で言える自分」を育てましょう。

むしろ、その場で言い返すより、後で話し合おうとすることのほうが、勇気がいるものです。

怒鳴ってしまう人達は、逆にそれを恐れているから、「その場で」あるいは「一発で勝負を決めようとする」のです。

そんな恐怖を少しでも減らすには、争うためではなく、「争い合わないために。相手を気にしないでいられる自分になるために。自分とって快適な距離を保つために。より親しくなるために

こういったことを目標にすれば、自分のほうから働きかける勇気が育ってくるのではないでしょうか。

実際に、後から自分の気持ちを確認できたほうが、より自分の心を救う言葉や楽になる言い方を見つけることができます。

相手のほうもまた、冷静になっているので、心に響きます。

なぜなら、戦っていない状態のほうが、相手も自分の心と向き合うことができるからです。

事実その後、すぐに彼からは「丁寧なお詫びのメール」が届いたそうです。

自分も相手も尊重するためにできる範囲から行動する

皆、共感する力を持っている

相手が悲しみに打ちひしがれていれば、自分の心も悲しみの色に変わってきます。

相手が歓びに満たされていれば、自分の心にもその歓びが降り注ぎます。

他者に対するそんな共感能力の機能を司っているのが、ミラー・ニューロンという神経細胞だと言われています。

これは、自分が他者の行動を見ていると、まるで自分自身がその行動をとっているかのように心が共鳴し「鏡のように反応する」ことから名づけられました。

また、夫婦など親密な間柄の相手や、好意を抱いている相手と同じ動作をしてしまうことをミラー効果と言います。

このミラー効果にも、ミラー・ニューロンが関係していると思われます。

互いに言動が同調し合うだけでなく、心も共鳴するのです。

自分が心の中で他者をどう思っているか。どう感じているか。自分したのかというの心がそのまま、相手に伝わります。

だから、「自分自身を愛する」ことが大事なのです。

たとえ自己主張を堂々とできなくても

YouTubeで、人種差別についての動画を観たことがありました。

女性専用のブティックで、黒人女性が女性店員に入店を断られ、それに対して抗議しています。

お互いに感情的になって激しい口調で言い争っています。

その光景を見て、他の客はどうするかという実験でした。

その結果、対象者100人のうち、何らかの行動をとった者は20人もいなかったというコメントが入っていました。

けれども、そのとき「20人も行動したのか」「人間って、捨てたもんじゃないな」という視点で見ることもできます。

その中で最も知りたかったのは、客たちがどんな方法で抗議したのかということでした。

すべてのケースがアップされているわけでなかったのですが、恐らくそのほとんどが、黒人女性と一緒になって店員に対して激高するというパターンではなかったかと推測できます。

中には抗議しながらも、興奮のあまり泣き出した女性客もいました。

ささやかな行動から伝わっていく

その中で、まさに「これこそが相手も自分も尊重する関係だ」と思わず叫びたくなるようなシーンがありました。

それは、客が店員に正面から激突して抗議するよりも、「こんな店は一緒に出よう」と黒人女性を促し、背中を抱いて店を出て行こうとしたからでした。

怒鳴って抗議しなければならないとしたら、誰でも尻込みしたくなるものです。

80人の対象者が行動できなくても、批難する気持ちにはなれません。

理想は、被害者にも助ける者にも害が及ばないことです。

その姿は、すぐに他の客に共感を引き起こしました。

そして、瞬く間にミラー効果でそれが波及するや、店内にいた他の客たちもぞろぞろと店を出始めたのでした。

これだったら、怖くありません。

戦わないで、実行できます。

しかもこんな対処方法のほうが、その店に対して、もっと強烈に抗議の意思をアピールできます。

怖いことはしなくていい。

「私ができること」から行動する。