神経質な人が改善されるための心理

神経質な人が「すべてに理想を求める」心理

「あんなことばかりしているから、うちの会社はダメだ」
「あんなやり方したってダメよ」
などと、偉そうに会社や上司を批判する人がいる。

自分では何も大きな仕事を成し遂げていないのに、偉そうなことばかりいう人がいる

この人は自分のことをどう考えているんだろう、と思いたくなる神経質な人がいる。

あるいは自分のことを何様と思っているのか、と思うような神経質な人に会う。

何の実績もないうちから、偉そうな口ばかりきく神経質な人はかなりいる。

それはそのように神経質な人を批判すると、なんとなく自分が偉くなったような気がするからである。

何でもないことをしているのに、自分がすごいことをしているような気持ちになっている神経質な人がいる。

そして神経質な人はそのような気持ちでいるから、自分のしていることに皆が注目しないのが許せなくなる。

やることなすこと神経質な人は、もったいをつける。

ある人を自分が尊敬していると、そのことを何かすごいことのようにいう神経質な人がいる。

自分がある人を尊敬していることが、ただごとではないのである。

「普通の人には自分の尊敬の念が理解できないだろう」と言わんばかりなのである

神経質な人は自分が人を尊敬するということが、何か大変な意味でも持っているかのごとき口のきき方をする。

何でもないことを神経質な人は何でもないこととして処理できない。

自分の感情の動きの一つ一つが神経質な人は、ものすごいことのように感じているのである。

またこちらが聞きたくもないことを話して、「こんなこと話すの、あなたが初めて」と、神経質な人はいかにも恩着せがましく言う。

自分の話を聞いている相手にとって、神経質な人はその自分の話がどのくらい重要であるかということを考えるゆとりがないのか、それともその話を大変なことと思っているのか。

いずれにしても、神経質な人は自分の話を大変なことと思い込んでいるようである。

何かの秘密を話すときなどに、よくこのようなことがある。

話される方はありがた迷惑だとは、神経質な人はまったく考えられないのである。

秘密を話しているとき、神経質な本人はすごいことをしているようなつもりになっている。

神経質な人が自分を傷つける行動、孤立させる行動

よく大学などでも、「うちの大学の研究条件はなっていない、イギリスの某大学はかくかくしかじかでこんなに素晴らしい」という人がいる。

それならそっちに行けばいいのにと思うときがある。

しかしそういう神経質な人に限って、どこの大学からも呼ばれていない。

自分の能力では、いまいる大学が適当なのである。

しかし自分は世界の大学者であるかのごとき口をきく。

神経質な人はいまにもノーベル賞でももらうのではないかという口ぶりなのである。

よく恥ずかしげもなくいえると、事情を知る第三者は思う。

本人にとっては、現実の自分より栄光化された自己のほうが、現実感があるのだろう。

恥ずかしげもなく、神経質な人は平気でそのようなことをいう。

「自分をそのように遇しない大学はけしからん」という”神経症的要求”が当然出てくる

アメリカの心理学者、カレン・ホルナイがいう神経症的要求とは、「自分は特別の人間である、したがって特別に遇されるべきである」という要求である。

神経質な人は自己中心的で非現実的要求である。

自分は特別に注目に値すると神経質な人は要求する。

その神経質な人にとって自己栄光化は、心の葛藤を解決する手段なのである。

その人がもし普通の人になってしまうと、自分の心の底の葛藤と直面しなければならない。

つまり屈辱感を味わわなければならない。

それには神経質な人は耐えられない。

自己を栄光化することで、神経質な人は屈辱感を味わわなくて済む。

そのような葛藤のない人、心理的に成長した人は、普通の人であることに耐え難い屈辱感を味わうことはない。

神経質な人は「文句ばかりの人生」を卒業しよう

自分はただの人ではない、と思うことで自分の心の葛藤を解決しようとする人がいる。

「自分は普通の人ではない」と自分を栄光化することで、自分が普通の基準で評価されることを避けようとする神経質な人がいる。

このように神経質な人は自己栄光化によって心の葛藤を解決しようとする限り、自分に対しては「べき」の暴君になり、他人に対しては神経症的要求が出ざるを得ない。

現実の自分を現実の他人が、それほど注目してくれるわけではない。

神経質な人はそれが許せない。

自分が一市民であり、一社員であり、一学生でしかないということが神経質な人は許せない。

周囲の人は、その人を一市民、一社員、一学生として扱う

神経質な彼らは規則にしたがって規制されることに激怒する。

ある事務所に行く。

係の人が「今日は終わりましたから明日にしてください」という。

すると神経質な人は怒る。

係の人が「並んでください」という。

すると怒る。

神経症的自尊心の持ち主は規則を嫌うと、カレン・ホルナイもいう

それは、規則は神経質な自分を特別の人ではないと知らせるからである。

神経質な彼らには、「他の人と同じように」ということが我慢できない。

上司に対して、自分は一部下にすぎないということが、神経質な考えの人には分からない。

だからいつも、神経質な人は上司に不満がある。

神経質な人がこのような気持ちで人と接すれば、いつもイライラしたり、傷ついたりする。

そこで、なかには社会に接すると自分が傷つくから、社会に接することを避けるも出てくる

またある神経質な人は、社会に攻撃的になる。

いずれにしても、このような神経質な人は社会的に孤立していく。

神経質は、自己栄光化のなかに不可避的に含まれる性質である。

ある女性の例である。

出産のとき夫が病院に来てくれたが、音楽を聞いていたということで離婚したい、と神経質な彼女はいう。

夫が音楽を聞いていて、神経質な彼女にしてみると、自分にやさしい声をかけなかったということが許せない。

自分が当然受けるべき奉仕を受けなかったと神経質な彼女は感じ、怒っている。

夫は100%自分が望む通りに自分に尽くさなければならないと神経質な彼女は、信じて疑わない。

現実の男性や夫を見ようとは神経質な彼女はしていない。

心の中で決められた「理想の夫像」というものに当てはめて、自分の夫を見る

神経質な彼女にしてみると、夫とは「こうあるべき」なのであって、もし自分の夫がそうでないなら、自分はひどく虐待されているように感じる。

「普段の生活はどうなのですか」と聞いてみると、神経質な彼女は「それがひどいんですよ。たとえば家にいるときはテレビを見て、ゴロゴロしているだけなんです」という。

そこで神経質な彼女は怒って、ある朝、置き手紙をして実家に戻ってしまった。

夫は給料をきちんと家に持ち帰り、まじめに働いている。

酒を飲んで遅くなるわけではない。

ギャンブルに凝っているわけでもない。

もちろん消費者金融に手を出しているわけではない

いわんや浮気をしているわけでもない。

まじめに働いて家のローンを払っている。

それでも神経質な彼女は離婚しようとしている。

「離婚して自分で働いていけるのですか」と聞いてみると、神経質な彼女はそのことはあまり考えていない。

今後の生活設計もないまま離婚するのは無謀であるが、神経質な彼女は朝の置き手紙の行動を、勇気ある行動と美化している。

世の中はいつも自分に都合よくあるべきと神経質な人は信じ込んでいれば、無謀な行動は常に勇気ある行動になる。

神経質ではない人生を楽しんでいる人の共通点

たとえば車でどの道を行くか迷う

渋滞していないほうの道がいい。

高速道路を選ぶか、普通の道を選ぶかと迷う。

そして道の選択を間違って渋滞に巻き込まれる。

それは運である。

しかしそのことをどのくらい悔やむか嘆くかは人により違う。

自分はいつも運に恵まれるべきだと思っている神経質な人は、諦めきれないで、悔み続ける。

神経質な人は「ちくしょう、ちくしょう、あっちの道を行けばよかった」といつまでもくやしがっている。

そのあいだ中、神経質な人はイライラしている。

自分は運がいいということが神経質になっていればいるほど、いつまでも激しく悔しがり、嘆き続ける。

それだけ神経質な人のストレスは激しいことになる。

車に乗っているときも、どちらの車線にいるかによって流れは違う

遅い流れの車線に自分がいるときに、何でもない人と悔しがる人では、同じように車を運転していてもストレスは違う。

そして、自分は運に恵まれるべきだと感じている人であればあるほど、神経質な人の悔しさは激しい。

つまり神経質の激しい人ほど、日常のストレスは強い。

いま述べたような、そのときの運によって決まることについて、「諦めの早い人」というのは心理的に健康な人なのである。

ストレスが少ない。

神経質な人が気が楽になる「心の向き」

過ぎ去ってしまったこと、すでに起きてしまったこと、それらはもう、どうすることもできない

過去のことにいつまでもこだわっている人などは、神経質の強い人である。

アメリカの実業家、デール・カーネギーは、「オガクズを挽こうとするな」と述べているが、オガクズを挽くのは神経質の強い人である。

自分にとって望ましくないことが起きてしまった、しかし神経質な人はそのことが起きたということが、どうしても受け入れられない。

それはやはり、次のように考えているからである。

“It ought to be different(そうであるべきではない)”というのは神経質な考え方であるが、このように考えていれば、どうしても、そのようなことが起きたことを許せない。

買った株が暴落してしまった、買おうとしていた外貨が買う前に暴騰してしまった、そうなると神経質な人はいつまでも、あのときに売っていれば、あのときに買っていればと悔やみ続ける。

神経質の人が気が楽になる「心の向き」とは次に述べる過去の失敗から学習して成功へと導ける人である。

「失敗をエネルギーに変える人、ストレスに変える人」

誰でもくやしがりはする

しかし心理的に健康な人は、あるところで諦める。

それだけに、同じ損をしてもストレスは少ない。

しかし、そうであるべきではない。と考えている神経質な人は、いつになってもその損害を受け入れられない。

神経質な人がこぼれたミルクにいつまでもこだわるのは、こぼれるべきではないと感じているからである。

そうであるべきではないと考えている神経質な人は、こぼれたミルクを前にして、いつまでも悔やみ続ける。

何かの事故に遭う。

車の事故、あるいは車の故障でもいい。

そのために仕事に影響が出る。

するとまた、神経質な人はそのことを悔やみ続ける。

「あの事故さえなければ俺は出世していたのに」という神経質な感じ方である。

またあるとき、病気になる。

それは人間だから仕方がない。

人間だから病気になることもある

しかし病気になったときの反応が人によって違う。

この病気になりさえしなければ、もっと仕事ができて、会社でも認められたのにと、病気である自分を許せない神経質な人もいれば、もう実際病気になったのだから、仕方がないと諦める人もいる。

そして当然、諦める人のほうがストレスは少ない。

ストレスの少ないほうの人は、自分だけが特別に病気のない人生を送れるという運に恵まれているわけではないと思っている。

しかし神経質な人は、このように諦められない。

自分はいつも運に恵まれる資格があると思っているからである

そう感じているからこそ、神経質な人は運悪く病気になったときに、その病気になったという不運を受け入れられないのである。

そして神経質な人は病気になったことを、いつまでも悔しがる。

自分だけは病気のない人生を送る当然の資格がある、と神経質に秘かに感じていればいるほど、病気になったことを諦めきれない。

またそのことによって生じた不利益を神経質な人は我慢できない。

病院にいて、神経質な人はもし病気にならなければ、今頃会社であの仕事をしているのに、といつまでも残念がる。

入院中、神経質な人はずっと残念がっている。

片時も神経質な人はその残念無念の気持ちから離れられない。

いくら残念がっても、病気がそれで治るわけではない

むしろ、神経質な人はそのようなストレスが病気を悪化させるかもしれない。

あっさりと諦めて治療に専念したほうが、回復も早いであろう。

それでも神経質な人は残念に思う気持ちをどうすることもできない。

神経質な人の特徴の一つは、非現実的なことである。

自分は病気になるべきではないなどという神経質な要求は、非現実的である。

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神経質な人はちょっとした欠点にとらわれているから、大きなチャンスが逃げる

そんなどうでもいいことをなぜ大騒ぎするのか、と不思議に思う人がいる

そのような人はたいてい、いつも自分は幸運に恵まれるべきだし、その資格があると思いこんでいる神経質な人である。

なかには、物事を決められないという神経質な人がいる。

決断ができない、選択ができない、神経質な人はいつも迷っている。

なぜ迷いに迷い、神経質な人は小さなことでも決められないのであろうか。

それはやはり神経質な人は完全を求めるからである。

完全といっても、非現実的な完全である。

現実の選択は、ある欠点を我慢して長所を選ぶということである。

焚火にあたろうとする者は煙りを我慢しなければならない、という格言がある。

つまり神経質とは、煙を避けて焚火にあたることを要求するのである。

寒いのは嫌いだ、でも煙も嫌いだということである

だから神経質な人はどちらを選ぶか迷いに迷い、結局決められない。

煙がなくて焚火にあたりたいとは誰でもが願う。

しかし心理的に健康な人は、そんな都合のいいことはないから、寒ければ仕方なく焚火にあたる。

ところが煙がなくて焚火にあたれるのが当然だと思う神経質な人がいれば、寒いけれども、焚火にあたろうか、どうしようかと迷うであろう。

すべて物事は、自分に都合よくて当たり前、と神経質な人は思っていれば、迷いに迷う。

すべて自分の都合のいいように物事は運ぶべきだ、という神経質な感じ方があるから、決められないのである。

あることを都合よくすれば、別のことが都合悪くなる

それが現実の選択である。

神経質な人は何から何まで自分にとって都合よくことが運んで当然と思っていれば、何事も決められない。

気持ちの上で楽な方を選べば肉体的にはつらいし、肉体的に楽なほうを選べば心理的にはつらい。

仕事で重要な人と会うのに、時間的に都合のいいほうを選べば、場所のほうが最高のところにはならない。

場所を最高にしようとすれば、他の用事との関係で、時間的に無理が出る。

現実の選択は、最高の場所を選んで他の仕事に影響が出るのを我慢するか、あるいは最高の場所を諦めて他の仕事に影響が出るのを防ぐかである。

「都合よく”こと”が運ばないとき」

安全な上に利益率も高いなどという投資は、世の中にはない

危険が伴うが、成功すれば利益率は高いというのが現実の世の中である。

そのように思っている人は失敗して損をしても、その損害にいつまでもこだわっていない。

そのような損害も世の中にはあると思うからである。

しかし安全で、しかも高利益率の投資であるべきだと考えている神経質な人が損をしたときには、いつまでもいつまでもその損害にこだわる。

神経質な人はそれは、あってはならないことがあったからである。

損害は、神経質な人にとってあってはならないことなのである。

やることなすこと、すべて儲かるなどということはない。

会社だってすべての部門が儲かるというわけではないであろう。

しかし、神経質な人はそれでは承知しない。

自分にとって重要なことは、すべてうまくいかなければならない、いくべきなのである

自分はそのような人間なのである。

カレン・ホルナイも述べているように、すべて自分にとって都合よくなるのが当たり前と信じているのは、神経質なのである。

神経質な人はすべて都合よくなければそれは不当なことだ、と感じていれば、何も決められない。

すべて自分に都合よくことが運ぶべきだと神経質な人は感じているなら、時間の無駄は許せなくなる。

何か自分が予定を立てようとするときには、相手のあるときでもすべて時間の無駄がなく、もっとも効率的にことが運ばないと神経質な人は不愉快になる。

しかし現実には、何をしても時間の無駄は出てきてしまうであろう。

時間の無駄が出るたびに神経質にイライラしていたのでは、何事もできない。

この時間ぐっすりと熟睡して、その後気分快調になって、この仕事に集中するなどと神経質な計画を立てても、自分の体はそんなに自分に都合よく動かない。

しかし神経質な人はすべてが自分に都合よく、思い通りにいくのが当然であり、自分にはその資格があると思い込んでいれば、このようにことが進まなければイライラするであろう。

自分の思い通りにことが進まないとき、神経質な人は嘆き悲しんでいたのでは人生は消耗するだけである。

仕事の能率が上がって、さあやるぞと意気込んだら病気になったということもあるだろう

やっと苦労して約束をとりつけた人に会う直前に、転んでケガをするということもあるかもしれない。

仕事などはなかなか予定どおりにはいかない。

着くはずの荷物が着かない、払い込まれるべきお金が払い込まれない。

神経質な人はそのたびに怒り、落胆し、消耗していたのでは、気持ちも体も持たない。

しかし物事はすべて自分の思い通りにいくのが当たり前と思っていたら、神経質な人はやはり怒り、落胆し、消耗するであろう。

「人生の宝」は、「無駄」を乗り越えた先にある。

シーベリーが、ダイヤモンドと泥の関係を思い出せということをいっている

南アフリカでは、人は小さな爪ほどのダイヤを見つけるために、何トンもの土を掘り起こす。

彼らはダイヤを探しているのであって、泥を探しているのではない。

しかし彼らは、泥という泥を喜んで掘り起こすという。

しかし無駄に耐えられない神経質な考えの持ち主は、掘り起こすものがすべてダイヤでなければ気がすまない。

自分の計画が予定通り進まないと、すぐにイライラする神経質な人がいる。

今日はこの仕事をしようと予定していた。

しかしたまたまそこにお客さんが来て、その予定していた仕事ができなくなった。

すると神経質な人はとたんにイライラしはじめる。

そのイライラの度合いが神経質の反映なのである。

夜中に何かあって起こされる

間違い電話の場合もあるし、知人からの場合もある。

非常識なことを平気でする知人に夜中に電話で起こされるということもあろう。

そんなとき、何で今頃電話してくるのだと怒り、その後はその怒りで眠れないという神経質な人もいる。

そのイライラの度合いによっては、やはりその神経質な人は、私は妨害されるべきではないと考えているのではなかろうか。

ああ、あいつのおかげで眠りを妨害された、ちくしょうと思いながら寝てしまう人もいる。

ああ、あのお客さんのおかげで、予定通り仕事が進まなかったと、がっかりしたり、困ったりしながらもなんとかそれを受け入れていく人は、心理的に成長した人なのであろう。