自己肯定感を高める「本当のつながり」の作り方

「本当のつながり」「ニセのつながり」とは何か?

自己肯定感を高めるにあたって他人をリスペクトする感覚、自分をリスペクトする感覚は大切です。

「リスペクトの感覚」をよりいっそう深めるために「つながり」がキーとなります。

つまり、「つながり」こそが、自己肯定感を高める上でのカギになります。

「つながり」は、今や時代のキーワードであるとも言えるでしょう。

SNSという「つながるツール」が流行っていることも背景にありますが、「つながり」という言葉を多く目にするようになったのは、東日本大震災からかもしれません。

「絆」という、それまではあまり使われていなかった言葉がよく使われるようになりました。

「つながり」重視の姿勢は、もちろん震災後のつらい人たちを励ます効果もあったのは間違いないのですが、同時に、人々の心に、いろいろな思いを残しました。

あるクライアントが言ったのは、「つながれる人がいない孤独な私は死ぬしかないのでしょうか」ということです。

また、別の人が感じたのは、「自分だって、被災者とのつながりは感じる。でも、『絆』と言われると、『つながれ』と強制的に言われているような気がして、極めて不愉快」ということでした。

「つながり」という概念はとても大切に思われますが、これらの話を聴くと、「つながり」という言葉は、きちんと定義づけて使わなければ諸刃の剣になってしまいます。

「つながり」には、「本当のつながり」と「ニセのつながり」があります。

「ニセのつながり」とは、「形」ばかりがつながっていて、「心」のつながりが感じられないもの。

一方、「本当のつながり」とは、「形」のつながりとは関係なく、「心」のつながりが感じられるものです。

いつも「群れて」いるけれども、嫌われないように必死、という友達関係は「ニセのつながり」と言えるでしょう。

あるいは、恋人の意に反して束縛するのも「ニセのつながり」です。

一方、あまり会わないけれども心から信頼できる友達は「本当のつながり」、恋人と会っていないときにも愛を感じられるのは、やはり「本当のつながり」だと言えます。

ポイント:自己肯定感のカギは「つながり」

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「心の病」を持っている人の対人関係

心の病を抱える人たちは、その多くが、実際に「対人関係の問題」を抱えていません。

むしろ、「対人関係の問題」を起こさないように、自分を抑え、周囲に気を使い、頑張ってきた人達なのです。

つまり、「対人関係の問題」を起こさないように、自分側が相手に合わせる、ということばかりを繰り返していくと、心の病に至るほどのストレスを招く、ということです。

自己肯定感の低い人の中には、表面的には友達が多く、「人気者」と呼べる人も少なくありません。

しかし、そこから何を受け取っているか、ということを見てみると、「誰も自分をわかってくれる人などいない」という空虚感であったり、「努力を続けないと人が離れてしまう」という絶望的な不安だったりするのです。

自分を「作って」相手に好かれる、というやり方では、自己肯定感が持てません。

「本当の自分」を否定し、抑え、「他人から見た自分」を整えなければ自分は人から受け入れられない、という考え方は、とても自己否定的です。

そんな自己否定は、簡単に心の病につながっていきます。

病気にならないとしても、「生きづらさ」につながるのは間違いないでしょうし、「とにかく幸せ」という気持ちからはほど遠いものでしょう。

これは、「形のつながり」ばかりを重視して、「心のつながり」を得られない、という状態です。

つまり、そこにあるのは、自分を空虚にさせる「ニセのつながり」だけなのです。

そして、こうした態度は、「相手に対するリスペクト不足」と言うこともできます。

本当は、相手は寛大な人で、どんな人の事情も理解しようとしているかもしれないのに、「感じのよい自分」を演じることでしか相手に好かれないだろうと思うのは、相手の人格を低く見ている証拠だからです。

もちろん、周りにいる人のすべてがそんなに立派な「人格者」ではないでしょう。

ですから、本音を話したときには、相手からちょっとしたショックを示されたりすることもあると思います。

しかし、人間は、努力する存在です。

「それでも理解しよう」と頑張る人は多いのです。

また、「慣れ」も追いついてきます。

社会的にも、昔は受け入れられなかったことが今では当たり前になっていたりするものです。

ですから、最初のショックを見て「やっぱりこの人は理解してくれない」と傷つくのは、相手に成長の余地も与えない、リスペクトのない態度と言えるのだと思います。

相手のプロセスを尊重してみましょう。

どれほど待っても理解しようとしてくれない人については、「理解できない事情があるのだろうな」と思えばよいだけでしょう。それはその人の問題です。

ポイント:「ニセのつながり」の原因はリスペクト不足

「本当の自分」をオープンにしていく

さて、対人関係に問題を起こさないように自分を抑えてきた人たちは、治療の中で、「本当の自分を見せて人とつながる」という作業をすることになります。

もちろんこれはかなり勇気を要することで、だからこそ治療者が一緒に歩むことが必要です。

長年多くの自己肯定感が低いクライアントを治療してきた医師が思うのは、「治療者というのは、一時的に自己肯定感の代わりを果たす役割なのだな」ということです。

自己肯定感が低いクライアントを、代わりに肯定し、その「ありのまま」を受け入れながら、一緒に前向きな変化を起こしていく、ということが治療の本質です。

症状のために何かができないことも「ありのまま」です。

「自分は病気のせいにして怠けているのではないか」というクライアントに、「症状なのだから仕方がない」と理解してもらうのも、「ありのまま」を肯定する作業なのです。

治療の中では、そうやって安全を確認してもらいながら、それまでだったら打ち明けなかったような「本当の気持ち」を少しずつ伝えていくようにしてもらいます。

「お母さん、働きたいけど、今はどうしても気持ちがダウンしてしまって、働けないの」と勇気を出して伝えたら、「ゆっくり休んでいていいんだよ」と母親に認めてもらえた。

本当の気持ちを他人に伝えることは、最初はものすごくハードルが高いもので、多くの場合、治療者が直接サポートする必要があります。

しかし、一度でも、「伝えてみたら受け入れられた」という体験をすると、そこからは、考えられなかったようなエネルギーが湧いてきます。

それは、理屈で説明できるようなものではない、なんとも言えないよい感じなのです。

「本当のつながり」というのは、そんなものです。

しかし、それは病気を治してしまうくらいに自己肯定感を高めてくれるのです。

ポイント:「ありのまま」を受け止められた体験が病を治す

「本当のつながり」によって自己肯定感が育つ

もちろん、「本当のつながり」を作ることは、治療の中でだけ可能なわけではありません。

ワークショップが開かれると、毎回違う参加者の方が見えるのですが、一日のプログラムを通して人が「本当のつながり」を手にする姿がいつも感動的です。

はじめの頃は懐疑的だったり理屈っぽく話したりしている人も、とくにグループ体験(評価を手放して、グループ一人一人の話を聴く練習)をすると、つまり、それぞれの参加者の「ありのまま」を聴くと、なんとも言えない温かさが部屋を満たします。

そしてそれを皆が受け取って帰るのです。

温かさはお互いに与え合うだけではありません。

それ以上に、自分の中から温かさが湧き起るのを感じることができます。

感想として言われるのは、「人間っていいな」「自分はこれでよいと思えた」などであり、この感覚こそが、まさに「ありのままの肯定」です。

自分についても他人についても、「これではダメだ」と否定する姿勢が手放されるのです。

その前提となるのは、安全が保障された環境で、少し勇気を出して、ありのままの自分をさらけ出すこと。

すると、はじめはさらけ出すつもりなどなかった人でも、他人の「ありのまま」に触れると、つい自分も、ということになるのです。

子ども時代にいじめられていたことを、思い切って打ち明けてみた。ただ黙って聴いてもらえただけで、心がぽかぽかしてきた。

あの温かさは、まさに体感するもので、言葉で表現することはできないのですが、治療の中で感じるものと同じです。

これらが「本当のつながり」だと思います。

温かく、自分についても他人についても、「ありのまま」を肯定でき、もちろん自己肯定感を高めるもの。

病気すら治す力があるもの。

「人間っていいな」という基本的な認識に立ち返ることができるもの。

もちろん、その「人間」には自分自身も含まれるわけですから、自己肯定感が高まるのは当たり前だと言えます。

つまり、これが、人間という存在に対するリスペクトなのだと思います。

そして、リスペクトを最も自然に感じられるのが、「安全」な環境なのです。

安全な環境とは、自分に評価を下されない場所。

決めつけられない場所です。

「決めつけ」とリスペクトは両立しないですが、「決めつけ」のない場こそ、リスペクトを感じやすいのです。

そして、それは何も特別な場所を必要とするわけではありません。

自分が人と接するときに、「決めつけ」を手放しさえすれば、自分も他人もリスペクトすることができるのです。

ポイント:「安全な環境」は自分で作れる

「共鳴」ではなくて「共存」する

失恋した友達の話を聴いていたら、振られ方がまったく自分と同じで思わず一緒に泣いてしまった。

人の話を聴いて、「自分のことのように思えた」「自分も同じ体験をしているので共感できた」と「つながり」を感じる人もいます。

このようなときは、実は要注意です。

自分にも同じような体験がある、ということは、「今の自分が下した評価」にすぎないからです。

実は、「自分と同じ」と思っているのは自分自身だけで、相手は全くそんなふうにとらえていないかもしれません。

「同じ」と言われてとまどってしまう人もいるでしょう。

また、「自分と同じ」と考えることで、自分側の枠にはめてしまった結果、相手の「ありのまま」を見逃してしまうこともあります。

このように、ある「テーマ」「経験」をめぐって「自分と同じ」と感じるときには、相手をリスペクトできなくなる可能性があるので要注意です。

同じ病気を持っていても、それをどう体験するかは人それぞれです。

同じような境遇で育っているように見えても、実際にそこで体験したことは、それぞれの事情を反映しているものです。

ある一部だけを見て「私と同じ」と思い込むと、結果として相手の「ありのまま」を尊重できないことにもなってしまいます。

このように、ある一部だけを見て「私と同じ」と思うことを、ここでは、「共鳴」と呼んでおきます。

これは基本的に「ニセのつながり」をもたらすものです。

一方、相手の話を聴き、その「ありのまま」を受け入れるとき、私たちは「本当のつながり」を感じます。

「本当のつながり」を感じるときには、相手とのほんわかとした一体感はあるものの、「私と同じ」という感じ方は基本的にありません。

「私」はでてこないのが普通です。

なぜかと言うと、自分自身が相手の現在に集中しているので、「私」は見えなくなっているからです。

会社をリストラされた友達が落ち込んでいた。ただ黙ってそばにいて、話を聴いていたら、「新しい仕事に出合うチャンスかも」とちょっと明るい表情をうかべてくれた。

相手の「ありのまま」を受け入れ、「本当のつながり」を持つことを、ここでは「共存」と呼びます。

「共存」すれば、どんな状態の相手とでも共にあることができます。

それは、「こんなにつらそうな人とは一緒にいられない」「かわいそうで見ていられない」という感じ方とは正反対です。

そのような感じ方をするとき、私たちは相手と「共存」できていません。

「ありのまま」の相手(つらそうな相手)とは(自分がつらいから)一緒にいられない、という感じ方だからです。

そこには、「つらそうすぎる」「かわいそうすぎる」という「決めつけ」があります。

「決めつけ」とリスペクトは両立しません。

当然「本当のつながり」を持つこともできなくなります。

「決めつけ」を手放し、「共存」することができれば、相手がどんな状態でも一緒にいることができるのです。

また、人は、「共存」してもらえると、安心して自分のプロセスを歩むことができます。

リストラされて打ちのめされていたところから、少し自由な気持ちになって、新しい機会に気づいたりすることも、そんなプロセスのひとつです。

「共存」するときには、状態がどれほど「つらそう」「かわいそう」であっても、そんな中で一生懸命頑張っている相手のエネルギーを感じたり、何とも言えない優しさを感じたりします。

いろいろな限界はあっても前進しようとしているエネルギーを感じることは、私たちに「人間っていいな」という気持ちをもたらし、結果として自分の自己肯定感すら高める効果があるのです。

「ありのまま」の相手と「共存」しているときは、基本的に「ありのまま」の自分とも「共存」しているもの。

そこには否定的な要素は全くなく、ただ「ありのまま」の自分と共にいることができます。

自分のことも相手のこともリスペクトできているのです。

「自分を好きになろう!」とはずいぶん違う感じです。

ポイント:「自分と同じ」を探さなくていい

近くなりすぎるのは「本当のつながり」ではない

彼と「本当のつながり」を持ちたいから、なるべく頻繁にLINEするようにしている。

「本当のつながり」とは、心のつながりのこと。

ですから、LINEを何回送ったとか、何回遊びにいったかとか、「形のつながり」にとらわれる必要はありません。

逆に、「形のつながり」にとらわれてしまうことで、「本当のつながり」を感じることができなくなってしまう、というのが現実だと思います。

そこには、「形のつながり」がなければ「つながり」とは言えない、という「決めつけ」があるからです。

夫はキレると、ひどい暴力をふるうが、普段は優しいので我慢している。

「本当のつながり」を感じるためには、「適切な距離」が必要です。

ひどい暴力をふるうパートナーと密着しながら「本当のつながり」を感じるのはほとんど不可能でしょう。

まず、「ひどい暴力」を我慢してしまっていることが、状況として自己否定的です。

自己肯定感の高い人であれば、「この状況から自分を守りたい」と思うものだからです。

そうは言っても、相手と別れる、という選択肢をとる場合、実際には「形のつながり」を失う、ということになります。

そのことがつらくて、自分を傷つける相手とでも一緒にいる、というケースは少なくありません。

もちろん、「形のつながり」を失うことは、喪失体験となりますから、寂しさは強く感じるでしょう。

「自分にはもう二度とパートナーが現れないのではないか」と思ってしまうかもしれません。

しかし、これらは誰かと別れる場合に共通する感じ方であり、単に「喪失体験中」ということを示すだけです。

暴力をふるう相手と別れる、ということは、自分の安全を確保すること。

人は、安全の中でしか「ありのまま」でいられません。

そして、自分が「ありのまま」でいられるときにしか、相手の「ありのまま」を受け入れることができない、ということも事実です。

一見矛盾するようですが、こんなケースでは、「形だけのつながり」を絶つことではじめて、相手の「ありのまま」を受け入れることができる場合が多いのです。

「自分がダメだから、殴られるのだ」「自分さえ我慢できれば、うまくいく」から、「ああ、相手は相当心を病んでいたんだな」という具合に、「相手の事情」として見ることができるようになるのです。

「形のつながり」を維持しようとしている間は、「自分が相手を怒らせた」と自分を責めてしまうことが多いのですが、「形のつながり」へのとらわれを手放すと、相手の現状は、しょせん「相手の事情を反映しただけのこと」として見ることができるようになるでしょう。

ポイント:距離を置くと、相手の事情が見えてくる

同調しない、こと

暴力的なパートナーの場合、「別れる」という選択肢がありますが、肉親などそれが難しい関係や、こちらは距離を置いても不規則に踏み込まれる関係だと、なかなか「解放される」というわけにいかないと思います。

そんなときには、「相手が自分の領域に踏み込んでいる」という「思い込み」を手放すことが本当の「解放」につながります。

どういうことかと言うと、たとえば、いつも陰口を言ってきて、嫌な気分にさせられる友人がいたとしましょう。

誰かの陰口を聴かされたときに、「えー、そんな人なの?」と自分も仲間に入って「同調」してしまうと、ますます嫌な気持ちになってしまいます。

そんなときは、「同調」するのではなく、「いろいろ大変だねぇ」「そうか、よく頑張ったね」などと「相手」の「大変な話」として聴くのです。

もちろん同調したいときもあるでしょうが、陰口など、同調したくないものです。

そんなときに、「同調を求められている」と思うと、「自分の領域」を侵害されるように感じます。

しかし、そもそも相手が本当に同調を求めているかどうかはそれこそ相手の「領域」内の話ですからわかりません。

仮に同調を求められたとしても、「同調しなくちゃ」と思うのではなく、「今は同調を求めたくなる気持ちなんだね」と「相手の領域」の「ありのまま」を受け入れるだけで十分なのです。

一方、「陰口はやめようよ」などと言うと、相手の「ありのまま」を否定することになってしまい、これもまた「本当のつながり」を遠ざけてしまいます。

「その考え方は間違っているよ」「いつも自分から逃げているよね」などと、否定してくる友達と一緒にいるのがつらい。

こんなふうに「自分の領域」内のことなのに、決めつけられることもありますね。

「その考え方は間違っているよ」などと言われたときには、「決めつけられた」と思い込むのではなく、「相手はそう思ったんだ」という範囲にとどめれば、「自分の領域」を侵されないですみます。

実際に、相手がそう思ったのは、「相手の領域」内の話です。

ですから、「そう思うんだね」「考えておくね」という程度の受け答えで十分なはずです。

「そっちこそ間違っている」と相手の「ありのまま」を否定すると、反撃を食らうことになると思います。

「同調」という「形のつながり」にとらわれて、いつまでも「ニセのつながり」に振り回されることになるでしょう。

ポイント:あくまでも「相手の感想」ととらえる

「本当のつながり」を作りだす話し方

お互いの「ありのまま」を尊重する方法を見てきましたが、もちろん、本音を言って関係性を深める、というアプローチもあります。

「私は」を主語にして話すことは大切で、本音を伝える場合、「間違っていると言われると(僕は)悲しい」など、「自分の領域」内で話すことがポイントです。

「そっち(あなた)こそ間違っている」と言い返すと、「相手の領域」内のことを決めつけているだけ、ということになってしまいます。

これは当然、反発を生みます。

一方、「悲しい」という自分の気持ちは、「自分の領域」内の話ですから、「領域」を尊重した姿勢、ということになるのです。

相手が現時点で聴く耳を持つかどうかはわかりませんが、少なくとも「そっちこそ間違っている」と言うよりも「間違っていると言われると悲しい」と言ったほうが、相手の反省が促されるのは確かでしょう。

こうした、自分の本音を打ち明け相手がそれを受け入れてくれる、という体験が「本当のつながり」を生み出すのです。

もちろん、いつでも相手が受け入れてくれるわけではありません。

そんな場合には、「こういう言い方をしても受け入れられないなんて、よほど自己肯定感が低いのだな。事情があるんだな」と思ってあげれば十分だと思います。

「つねに正しくないと気がすまない人」がいるからです。

決めつけてくる人は「自信がある人=自己肯定感の高い人」に見えがちですが、実際には正反対です。

「自分と同じ意見」という「形のつながり」にとらわれてしまっていて、本当はひとそれぞれなのに、そんな現実の「ありのまま」を受け入れることもできない、気の毒な人なのです。

ポイント:決めつけてくる人は気の毒な人

家族と「本当のつながり」を作っていく

臨床的に自己肯定感が低い人を見ていると、とても身近な人たち、つまり、家族と「本当のつながり」を作れていない場合が多いと感じます。

そのことが、ますます自己肯定感を低下させているようです。

日常的に関わる人との関係にリスペクトがないと、繰り返し否定されることになるからです。

逆の言い方をすれば、身近な人との間に「本当のつながり」を育てることが、自己肯定感を高める上でポイントとなります。

しかし、相手が家族になると、ますます「領域」意識を持つことが難しくなる、というケースも多いでしょう。

「お母さん、この大学がいいと思う」「公務員なら安心ね」など、母が進路を決めようとしてきて、苦しい。

ですから、思春期になると、親にとっては「子どもの領域は、子どものもの」という意識を持つことが、一つの課題です。

「まああの子ももう大人だから・・・」と思えることが「子離れ」と言えるのですが、それができていない親は案外多いもの。

また、子どもは一生懸命親の顔色を読みながら成長することが多く、それに慣れた親はいつまでも言葉で伝えるのではなく顔色を読ませようとすることがあります。

親の顔色通りに振る舞わないと不機嫌になる、などというのもそのひとつ。

きょうだいの間でも、昔の関係性をそのまま引きずって、「領域」に入り込まれっぱなしということもあると思います。

年長のきょうだいが、「あなたのことは私が一番よくわかっている」という姿勢でいることも多いでしょう。

それでも、お互いの「領域」を尊重しなければ「本当のつながり」は得られない、という原則は変わりません。

家族が自分の「領域」に踏み込んでいると感じる場合でも、自分は家族の「領域」に踏み込んでいないか、と考えると発見があるかもしれません。

たとえば、他の人に言われても傷つかないけれども、家族に言われると傷つく、という場合は、「家族なのだからわかってほしい」と、相手の「領域」に入り込んでいる結果であるとも言えます。

まずは、お互いの「領域」を守る伝え方をしましょう。

「そういうふうに言わないで」
「どうしてそういうことを言うの?」と「相手」について話すのではなく、「そういうふうに言われると悲しい」と「自分」の気持ちについて話すのではなく、「そういうふうに言われると悲しい」と「自分」の気持ちについて話すのです。

「家族だから何を言ってもよい」のではなく、「家族だからこそ『領域』に気をつけたものの言い方が必要」だと言えます。

ポイント:「自分が相手の領域に踏み込んでいないか」も疑う

大切なことは、適切な距離感

いつも恋人と一緒に行動しないと不安になる。ついつい相手の行動を束縛してしまう。

自己肯定感が低いと「形のつながり」に支配されやすくなります。

「形のつながり」が、自分を支えてくれるように思うからです。

たとえ「形だけのつながり」であっても、それがないところを人に見られるのが恥ずかしいというのは、自己肯定感が低いときによくある感じ方です。

いつも一緒にいたいと思っても、相手には相手の好みもありますし、都合もあります。

リスペクトできる人間関係であれば、その相手の好みや都合を尊重し、自分も行動を共にしたいと思えばそうすればよいし、自分の好みや都合に合わないと思えば、別々に行動すればよいのです。

それを無視して、「一緒の行動」ばかりを求めてしまうと、どちらかに歪みが生じます。

それぞれの都合も違うでしょうし、一人でいたいときもあるからです。

そもそも、なぜ「一緒に行動しないと、不安になる」のでしょうか。

それは、一緒に行動しないと、自分がないがしろにされているような気持ちがするからだと思います。

「私は疎まれているのではないか」「本当は仲よくないのではないか」などと心配になったりするのです。

また、周りからの目が気になる、という場合もあります。

「一人でいるなんて、大切にされていないんじゃない?」と思われるのが怖いのです。

ここでは、「一緒に行動する」という「形のつながり」に、「親しい」「人間として大切にされている」などの意味を乗せている、と言えます。

興味が合うときの一緒の行動は、それなりに楽しみをもたらすものです。

しかし、そうでないときは、お互いにやりたいことが違うわけですから、相手に束縛しかもたらしませんね。

質のよい時間が持てないと思います。

また、人によっては、性格上、「一緒の行動」がとても苦手な人もいます。

それは決して異常なことではありません。

別に相手をないがしろにしているわけでもなく、ただ一人の時間が必要なのです。

しかし、そんな場合も、「一緒の行動」に、「親しい」「人間として大切にされている」などの意味を乗せてしまうと、「一緒の行動」が苦手な自分はダメだと感じ、無理をするようになったり、自己否定的になったりするでしょう。

こんなふうに、「形のつながり」へのとらわれは、他者を束縛することになったり、自分を否定することになったり、と様々な苦しみを生んでいくのです。

つまり、相手のことも自分のこともリスペクトできていない、ということになってしまいます。

「自分の領域」と「相手の領域」をきちんと区別することがリスペクトには必要ですが、「その時間に何をしたいか」は、本人が決めるもので、本人の「領域」内の話です。

ですから、「あの人が過ごしたいように時間を過ごさせてあげよう。そして、自分も、自分が過ごしたいように時間を過ごそう」と思えれば、かなり成熟した、自由な人間関係ができるはずです。

もちろん、それは「本当のつながり」をもたらします。

ポイント:お互い過ごしたいように過ごす

「もっと近づきたい」と思ったらどうするればよいか?

「いつも一緒」の問題は、前項でお話ししたことにとどまりません。

言動の自由がなくなっていく、という側面もあります。

「つながり」は自分で感じるもので、「一緒にいる」「相手に合わせる」など、「あるべき言動」を通してアピールするものではないのですが、「形のつながり」にとらわれると、そんなことにもなってくるのです。

新しくできた友達がなんだかよそよそしい。こっちが打ち明け話をしても、何も打ち明けてくれない。もっと仲よくなりたいのに、距離をとられているきがする。

人は一般に「距離」を、「どの程度個人的なことを打ち明けてくれるか」ではかることが多いでしょう。

「距離を感じる」というのは、相手が心を開いてくれない、というようなときの感じ方だと思います。

人とどの程度の距離感を持って関わりたいかは、人それぞれ違いますし、同じ人でも時期や状況によって異なってきます。

ある人から見たときに「距離がある」と感じる関係性でも、相手にとっては「ちょうどよい」と感じられることもあるのです。

とくにそれまで他人から傷つけられてきた体験がある人は、心を開くのがゆっくりである場合も多いでしょう。

そんな人に、「個人的なことを打ち明けて」と迫ることは、暴力的にすらなります。

そこまでいかなくても、「詮索される」ことを不快に感じる人は少なくないはずです。

ですから、「もっと近づきたいのに、拒絶される」というときは、「距離」についての感覚が単に異なっているというだけで、自分自身が拒絶されていると感じる必要はないはずです。

こんな状況で、相手に対して「もっと個人的なことを打ち明けてほしい」と要求するのは、リスペクトを欠くことだとわかるでしょう。

今の相手には、この程度の自己開示がふさわしいのだな、と思えば、不満も生じないはずです。

そして、そんな姿勢を保てば、相手はだんだんと心を開いてくると思います。

そのプロセスを尊重することこそ、リスペクトなのではないでしょうか。

こうして見てくると、私たちは、本来必要のないところで自己肯定感を低下させている、と言うこともできます。

「形のつながり」(一緒に行動する、個人的なことを打ち明け合う)に「親しい」「人間として大切にされている」という意味を乗せてしまうので、「自分はダメだ」という自己否定が強まってしまうのです。

「形のつながり」はあってもなくてもよく、それよりも、お互いの領域を尊重することが直接自己肯定感を育てる、ということです。

ポイント:「心を開け」と求めるのは暴力

相手のプロセスを尊重することとは?

母親を亡くして、ずっと落ち込んでいたら、「元気出してよ、クヨクヨしたってお母さんは帰ってこないんだから」と励まされ、いっそう落ち込んでしまった。

自分が大切な人を亡くしたときに、他人がよかれと思って言った一言に傷ついた経験がある人は少なくないと思います。

あるいは、なんであれ、自分が落ち込んでいるときに、励ましの一言が残酷に聴こえる場合もあります。

私たちは、他人に悲しいことが起こったとき、「どういうふうに言ってあげたらよいのだろう」と考えることが多いと思います。

しかし、「どういうふうに言ってあげたらよいのだろう」と考え始めてしまうと、「ありのまま」の相手から離れて、「自分はどうしたらよいのか」を考えることになってしまうでしょう。

しかし、「どういうふうに言ってあげたらよいのだろう」という思考の基本には、「悲しみからは抜け出した方がよい」という「決めつけ」があるのではないでしょうか。

何かを失ったとき、悲しんでいることには意味があります。

その悲しみに浸ることが、心の態勢を立て直していくのです。

悲しみ、落ち込んでいるからこそ、現在進行中の社会生活から少し距離を置いて、自分を癒すことに集中できるのです。

ですから、「悲しみからはいつか抜け出す」けれども、「悲しみからは抜け出したほうがよい」という「決めつけ」が正しいとは言えません。

多くの励ましや、前向きな声かけが、「悲しみからは抜け出すのがよい」という「決めつけ」に基づいていると思います。

それが、まだ悲しむ時間が必要な人にとっては、自己否定されたように聴こえるのです。

では、悲しんでいる人に対しては、どうしたらよいのでしょうか。

相手が何かを話してくれるのであれば、思い込みや決めつけを手放して、ただその話を聴いてあげるとよいでしょう。

「かわいそうに」「楽にしてあげたい」という気持ちが浮かんでも、それは「悲しみからは抜け出したほうがよい」という「決めつけ」によるもの。

手放すようにしましょう。

もちろん、「弱い姿を見せたくない」「同情されるのは嫌」という人もいますから、そういう人の「ありのまま」も受け入れてあげる必要があります。

「本当は悲しいはずなのに」などと、おせっかいなことを言うと、傷つけてしまうかもしれませんし、少なくとも、「本当のつながり」は得られなくなってしまいます。

基本は、「相手の内心は相手にしかわからない」ということでしょう。

そして、こちらに見えるのは、相手の言動だけです。

大変な時期を過ごしている相手を、ただ「見守る」。

何かを話してくれるのなら、「決めつけ」を手放してよく聴く。

また、相手が明るく過ごすことを求めてくるのなら、一緒に明るく過ごす。

そんなふうに、相手が過ごしたい形で一緒に過ごしてあげることができれば、何よりでしょう。

それが、相手のプロセスをリスペクトするということだと思います。

ポイント:大切なのは、ただ「見守る」こと

よかれと思って相手を変えたくなってしまうとき

仲のよい同僚が、社長賞を取ってから有頂天になっている。いずれ痛い目に遭うのは本人なので、もっと謙虚にさせたい。

「悲しみからは抜け出したほうがよい」もそうなのですが、自分が「よかれ」と思う「形」に相手を変えようとする、というのはよくあることです。

そして、そうすることこそが「つながり」なのだ、と思い込んでいる人も少なくないでしょう。

よく、他人に苦言を呈する人が、「こういう厳しいことは、親しい人間しか言ってあげられないから」などと言うのを耳にします。

相手を否定するような発言が、「親しさ」「つながり」の証明のように思われているのでしょう。

しかし、親しいからと言って、本当に否定的な言い方をすることが必要なのでしょうか。

「こうなってほしい」ということがあれば、それは「自分の領域」の中で話すべきこと。

「私はあなたが人の嫉妬心を刺激してしまうのが心配。

社長賞を取るほどの人材がやっかみでつぶされるのは残念だから。

こんなときだからこそ謙虚に振る舞うほど『さすが』ということになるんじゃないかな、と思うんだけど」という言い方であれば、「自分の領域」の中で話せます。

一方、「あなたはもっと謙虚になるべきだ」というのは、完全に「相手の領域」に立ち入った物言いです。

「相手を変えようとしない」ということがリスペクトの原則です。

また、「決めつけ」とリスペクトは両立しません。

「こういう厳しいことは、親しい人間しか言ってあげられないから」という苦言は、「厳しいことを言う=親しさの証拠」という「決めつけ」に基づくもので、まさにリスペクトを欠いた「ニセのつながり」だと思います。

親しい人との間に「ニセのつながり」ができてしまうと、それこそ苦しいことになります。

親しい相手からは逃れることができないので、クセになった「ニセのつながり」からも逃げることができないからです。

また、つねに否定的な人が近くにいると、自己肯定感は見事に下がってしまいます。

「こういう厳しいことは、親しい人間しか言ってあげられないから」というのは、批判的・支配的で、虐待的ですらあります。

そんな意地悪なことをせずに、相手をリスペクトしつつ、「心配だから、変えた方がよいと私は思う」と、あくまでも「自分の領域」で話をするとよいでしょう。

ポイント:「よかれと思って」は単なる決めつけ

相手が許してくれないときはどうしたらいいか

謝ったのになかなか許してくれない友達。謝ったのだから、機嫌を直してくれればいいのに。

自分が相手に対して失礼なことをしてしまった、という場合、もちろん「謝る」ということになるのですが、このときに「謝ることによって、相手に機嫌を直してもらう」という「形」にとらわれてしまうと、人を苦しめる「ニセのつながり」に陥ってしまいます。

どういうことかと言うと、人の機嫌がどうなるか、というのは、基本的にその人の「領域」の中にあるものだからです。

性格上、機嫌がすぐによくなる人もいれば、時間がかかるという人もいます。

また、他にもストレスを抱えていたり疲れていたりして、今日は上機嫌でいることは難しいという人もいるでしょう。

こちらがどれだけ誠実に謝ったかということと、相手の機嫌が直るかということは、関連はあるけれども必ずしも相関しない話です。

もちろん、「つながり」のために必要なのは誠実に謝る姿勢です。

しかし、機嫌が直るかそうかは相手の事情を反映したもので、自分がコントロールすることはできないもの。

その認識をきちんと持っておかないと、「謝って機嫌を直してもらえたらOK」という「形のつながり」にとらわれてしまい、相手に余計な負担をかけたり、機嫌が直らない相手に不安を募らせたり、ということになってしまいます。

「誠実に謝れば機嫌を直すべき」というのも、一種の束縛であり、「決めつけ」であると言えます。

相手には「反応の自由」があります。

頭では謝罪を受け入れているけれども、気持ちがなかなかついていかない、ということもよくあるでしょう。

他人から失礼なことをされる、というのは、それなりに人に衝撃を与えるものだからです。

衝撃から回復して、相手への信頼を取り戻すのには、人それぞれの時間がかかるのです。

自分にできる限り誠実に謝ったら、あとは相手のペースに任せましょう。

それが、相手のプロセスをリスペクトする、ということです。

ポイント:自分ができることをしたら、後は気にしない

自己肯定感が高まる「NO」の伝え方

誰かとつながるためには、ある程度、相手に合わせることも必要だと思う。だから、私はとりあえず、できる限り誘いは断らない。

「つながるためには、ノーを言うべきではない」「相手の機嫌を損ねてはならない」という思い込みがあると、何も断れなくなってしまったり、断るときにも罪悪感を覚えたり、「相手はどう思っているか」が気になったりして、苦しくなります。

何かを依頼されたり誘われたり、というとき、自分側の事情によっては断らなければならないことがあります。

それは、本当に用事があるとか忙しいという場合もあるでしょうし、「気が乗らない」ということもあるでしょう。

そういうときに、「つながるためには、ノーを言うべきではない」と思い込んでしまうと、現実とのずれが大きくなり、苦しいことになってしまいます。

自分の都合というのは、基本的に「自分の領域」の話です。

その都合を話した時にどう思うか、というのは「相手の領域」の話です。

ですから、自分が責任を持つのは、「自分の事情を話す」というところだけ、です。

ただ、「できれば引き受けたいけれども、こういう事情でできない」ということを説明するだけでは、すっきりしないでしょう。

「相手に悪いな」という気持ちがあるからです。

誰にとっても、頼んだり誘ったりしたときに断られるのは、気持ちのよい体験ではありません。

そういうことを知っているので、「悪いな」と思うのです。

そうであれば、自分の都合を話した上で、「せっかく誘ってくれたのにごめんね」「また誘ってね」など、相手への気遣いも言葉にすればよいでしょう。

それは同時に、「今回は自分の事情で無理だけれど、あなたのことを拒絶しているわけではない」と伝えることにもなります。

ここまで表現すれば、どう受け取るかは相手次第。

さっぱりと「じゃあまた今度ね」と言ってくれる人もいるでしょうし、理屈の上ではわかったけれども、感情的には受け入れるのに時間がかかる人(とりあえず機嫌が悪くなる人)もいるでしょう。

なんであれ断られると関係を絶つ、という人もいるかもしれません。

そういう人は、もちろん自己肯定感に大きな問題を抱えているわけですが、「本当のつながり」のためには、そんな相手の「ありのまま」も受け入れてあげること。

残念だけれども、相手がいずれ変わることを望みながら見守る、ということになるでしょう。

ポイント:「ノー」の受け取り方は人それぞれ違う

リスペクトし合えていれば、わかり合えなくてもよい

自分の気持ちなんて、だれにもわかってもらえない気がする。「本当のつながり」なんて、一生持てないんじゃないかなと思う。

「本当のつながり」とは心のつながり、と言われると、「自分の気持ちをわかってもらえるかどうか」に目が向くのも当然と言えます。

しかし、「本当のつながり」にために、「気持ちをわかってもらう」ことが必要かと言うと、決してそうではありません。

そもそも、他人の気持ちを本当の意味で理解するというのは不可能でしょう。

確かに、感覚が似ていて、「その気持ち、よくわかる」ということが多い相手とは、親しくなりやすいと思います。

しかし、「分かり合う」という「形のつながり」ばかりにとらわれてしまうと、少しの違いにショックを受けたり、本当は相手の考えに反対でも同調してしまったり、という「ニセのつながり」に陥ってしまいかねません。

全く同じ人など、いないからです。

一方、「あなたの言うこと、やっていることは、はっきり言ってピンと来ない。

でも、あなたのことを人間として信頼している」という距離感でいることも可能です。

価値観は理解できないけれども、その誠実な人柄から、「まあ、あの人のことだから理由があってやっているのでしょう」という程度に、相手の言動を受け入れる、ということもできるのです。

これは「本当のつながり」と言えるものでしょう。

相手の言動や感じ方を否定することなく、「あなたの事情として尊重できる」とリスペクトできているからです。

人間とは、それぞれが与えられた条件の中で頑張っている存在ですが、「条件」に関連した部分は一人一人が異なっており、他人の気持ちを100%理解するのは不可能でしょう。

しかし、「頑張っている存在」に目を向ければ、相手の「条件」がどうであり、リスペクトできるのです。

「本当のつながり」とは、お互いにリスペクトし合える関係、と考えれば、相手の「条件」がよくわからなくても、相手を支えることができます。

相手の「ありのまま」を受け入れ、「でもよく頑張っているよね」などと言ってあげることは、相手を生き返らせる効果があります。

成果ばかりを気にしている相手に対して、「頑張っている」ことをリスペクトしてあげると、大きな「安全」と「温かさ」をもたらすのです。

そして、それは直接自己肯定感を支えることになるでしょう。

「そうだな、自分は頑張っているんだ」「まあ、なんとかなるかな」というような安定感が得られると思います。

ポイント:理解できなくても、いい

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沈黙を楽しむ

私は口下手なので、なかなか人と楽しく会話を続けることができない。「本当のつながり」なんて、夢のまた夢。

人とつながるためには、会話上手でなければならない、と思い込んでいる人も少なくないと思います。

しかし、「会話上手でなければ」と決めつけてしまうと、「形のつながり=ニセのつながり」になってしまいます。

とても「本当のつながり」どころではありません。

「楽しい会話」などしなくても、人とつながることはできます。

たとえば、沈黙を楽しむのも、そのひとつです。

「え?」と思ったかもしれません。

沈黙が苦手、という人は多いからです。

沈黙に陥ってしまうと、まるで「自分はつまらない人間だ」と評価されているような気がして、ペラペラと沈黙を埋めてしまい、「またつまらない話をしてしまった」と自己嫌悪に陥る人もいるでしょう。

しかし、相手をリスペクトするとどうなるでしょうか。

相手は沈黙が好きな人かも知れません。

今、身の回りの環境を静かに楽しんでいるのかもしれません(小鳥のさえずりなどが聴こえているかもしれませんね)。

自分のペースでゆっくりと話をしたい人なのかもしれません。

そんな相手の事情を知らないで、「つまらない人間だと思われたくない」という自分側の都合だけでペラペラと沈黙を埋めるのは、自分も相手もリスペクトしていない証拠ですね。

人と一緒にいるときに、沈黙を楽しめる、というのは、人間関係としてとても質の高いものだと思います。

会話の内容ではなく、相手の存在が嬉しいのですから。

それこそリスペクトの基本ですね。

ですから、人といるときに沈黙が訪れたら、慌てて会話をするのではなく、「沈黙を共有できるほど、私たちはリスペクトし合えているのだな」という感覚を持ってみましょう。

沈黙の中に「安全」「温かさ」を感じられることは、人生で体験できるすばらしいことのひとつだと思います。

沈黙の苦しいところは、「何か話さなければ」という強迫観念であり、それは、「沈黙することは気まずい」という「決めつけ」に基づくものです。

でもそれを手放してしまえば、残るのは、穏やかな環境での、穏やかな相手との関係。

沈黙をリスペクトできたら、ほほえみかける、少し話してみる、相手の話を聴く、目に入った自然について言及してみる、など豊かな時間の過ごし方があるはずです。

もちろん、相手に限らず、澄んだ空気、芽吹いている木々など、様々な環境をリスペクトすることができます。

ポイント:「話さなければ」を手放す

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迷った時は、「べき」と思わないほうを選ぶ

ここまで述べてきたことは、基本的に、現実に対して何かを決めつけることなく、ありのままを受け入れよう、という話です。

嫌な態度をとる人のことを「事情がある」と見るのは、温情でもなんでもなく、単に現実を受け入れているだけです。

実際に、あらゆる言動が「事情」の上に成り立っているのです。

述べてきたことをシンプルにまとめればそういうことなのですが、なぜ結果として自己肯定感が高まるのでしょうか?

「決めつけ」を手放すと、自己肯定とリスペクトの好循環に入っていくのはなぜなのでしょうか?

それは、私たちは自然にしていれば、自己を肯定できるからなのだと思います。

本来高い自己肯定感を持っているのに、いろいろな形で(多くの場合が周りから、そして自分からの「決めつけ」によって)それを否定されてきたので、自己肯定感が低くなってしまうのです。

自己肯定感の低い人の話を聴けば、そこには必ず否定的な「決めつけ」を見つけることができます。

そして、「決めつけ」の影響をあまり受けていない人、つまり、のびのびと自分の気持ちのおもむくままに、試行錯誤しながら生きてきた人の自己肯定感は高いものです。

成長の過程で、自ら「決めつけ」の世界から脱することによって自己肯定感を回復した人もいます。

心の病になって治療を受けることも、「決めつけ」に気づき、そこから脱する、よい機会になります。

人間について、よく、「丸くなる」という言葉が使われますが、歳や経験を重ねることによって、「人はそれぞれなんだなあ」ということを実感していくと、決めつけなくなっていくでしょう。

決めつけない人は「寛大で、人間ができている」というふうに見えるのですが、それは特別なことではなく、人間が本来もっていたものなのです。

ですから、この記事を、決めつけ、すなわち「べき」で読むことだけはしないでいただきたいと思います。

自分を傷つけ縛りつけてきた「決めつけ」を、ひとつひとつ外していくことによって、本来の自分の姿が現れてくるのだ、とイメージしてください。

「リスペクトしなければならない」のではなく、「力を抜けば、リスペクトできる」のです。

苦行の話ではなく、解放の話なのです。

自分についての「決めつけ」は、真実のように思い込んでいる場合もあるので、なかなか手放しにくいと思います。

それよりは、他人を見て、「事情があるんだろうな」と考えるほうがずっと簡単です。

「事情があるんだろうな」と見る相手は、まずは、「ちょっとした違和感を覚える人」くらいから始めてみるとよいでしょう。

自分をひどく傷つけた人に対して、「事情があるんだろうな」と考えようとすると、おそらく「考えるべき」になってしまうと思うからです。

それは、こちら側の「事情」だと言えます。

人間は、ひどい衝撃を受けると、しばらく危機管理モードに入りますので、少しでも相手に対して好意的なことは考えられなくなるのです。

そんなときに無理して「相手にも事情が・・・」と考えようとすると、苦しい修行みたいになってしまうでしょう。

だから「べき」になるのです。

そして、うまくできない自分を否定し、結果として自己肯定感を下げることになりかねません。

自分がどうしたらよいのか、迷うときは、「決めつけ」「べき」のないほうを選んでください。

そうすれば、本来、人が自然に持っているはずの自己肯定感が回復してくるはずです。

ポイント:もともと自己肯定感は備わっている