親が生み出す競争心

赤ちゃん返りという現象があります。

おねしょや幼児言葉を脱した子どもが、弟や妹が生まれると再びおねしょをしたり、幼児言葉を使ったり、聞き分けのない子になってしまったりすることです。

赤ちゃん返りは、これまで自分一身に向けられていた親の愛が新しく生まれた赤ん坊にとられたと感じ、自分も赤ん坊に戻れば親の愛を取り戻せるだろうという、意識的無意識的な心理により生じます。

このように、幼い時期から兄弟姉妹は親の愛をめぐるライバル、競争心を持つのです。

親の愛情をめぐって兄弟姉妹間に生じる嫉妬、憎しみ、敵意などのライバル感情、競争心を、一般にカイン・コンプレックスといいます。

これは旧約聖書にある話で、弟を殺したカインの物語から名づけられたものです。

神話や昔話にも描かれているように、こうした心理は遠い昔からのものであることが分かります。

そして、じっさい兄弟が競争心を持ち、相争うことは、歴史のなかで繰り返し見ることができます。

たとえば、鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝は一緒に戦ってきた弟である義経を殺してしまいます。

その鎌倉幕府を倒して室町時代を切り開くことになる足利尊氏は、これまた自分の弟を殺すことになります。

むろんこの競争心の感情は、兄弟愛とアンビバレントな関係で存在します。

兄弟愛は人から誉められるため、これを表出することが多くなります。

逆に敵対感情、競争心を表すと叱られるので、幼児はカイン・コンプレックスを抑圧するのです。

愛情をめぐるライバル感情、競争心は動物にも見られます。

二匹の犬を飼っているとき、一方の犬を抱くと、もう一方の犬が嫉妬します。

新たに猫をもらってくると、先にいた猫が家を出て行ってしまうことさえあります。

このように、愛をめぐるライバル感情、競争心とは、動物的な基礎のある、それだけに強力な傾向なのです。

ですから、ごく幼い子どもに「良いお姉ちゃん」「良いお兄ちゃん」として弟妹に接するよう求めることは、幼い競争心に過大な負担を強いるおそれがあるのです。

過大な負担を負わせる競争心の生育過程のため、この感情がおさえきれないほど根深いコンプレックスになっている人もいます。

他の姉妹が結婚した男性よりも高い地位の男性を結婚相手に求める女性、姉のフィアンセを奪って結婚する妹、がんばって出世したのは差別した親と兄弟を見返すためのものだったと語る男性、年老いても兄弟の葬式に出ないほど敵対的な兄弟もいます。

冷静にありのままに自分を分析すると、同情心にはいくらかの優越感がともなうことが少なくありません。

これも、愛情と競争心とが同居して発達してくることに由来するのかもしれません。

むろん、意識的に兄弟を差別しようとする親はいないでしょう。

しかし、意識と行動はまったく別物です。

自分の周囲に好きな人と嫌いな人がいるように、親から見ても、かわいいと感じる子どもと、それほどかわいいと感じられない子どもがいるものです。

大部分の親は、この感情を自分のなかだけにとどめておこうと努力します。

しかし、ちょっとした行為のなかに、子どもは親の心理を読み取ります。

夫を受け入れることがきない母親に育てられたある中学生の女子は、「あなたは父親似、お姉ちゃんは母親似」と母親に言われるたびに、「自分が母親に受け入れられていないと感じた」と言います。

親はまた、悪意からでなく、子どもをコントロールするのに兄弟間の優越関係、競争心を利用します。

「お兄ちゃんを見習いなさい」とか「お兄ちゃんでしょ、弟に負けちゃうわよ」などと言う事です。

こうしたことも、相手とくらべる心理傾向をつくり、ライバル意識、競争心を強める作用を果たします。

こうして子どもたちは、親に気に入られようと無意識のうちに競争心から競争します。

親に気に入られようとする子どもたちのこの競争心からの競争は、親にとっては好都合であり、心地よいものなのです。

そのために、親はこの競争心からの競争を抑制することに気をつかうよりも、無意識のうちにこの競争心からの競争を利用したり、あおり立ててしまうことがあります。

兄弟姉妹とは、こうした親への適応の競争心の関係の間柄なのであり、これが兄弟姉妹で異なる性格をつくる大きな原因なのです。

たとえば、ある子どもは、競争心からおとなしく素直な「良い子」であることにより、親の好みに添おうとします。

「良い子」競争に勝てない子どもは、競争心から「手のかかる子」になることによって親のストロークを得ようとします。

また、別な子どもは、競争心から「ひょうきんさ」で親の心に食い入ろうと試みます。

能力のある子は、勉強やスポーツなどで優れることにより競争心から適合しようとします。

こうした競争心からの成長が固着して、それぞれの子どもの性格になっていくのです。

家庭内暴力のケースを多く扱ってきた稲村博氏は、家庭内暴力を起こしている子どもの兄弟や姉妹は明るく、くったくのないことが多い、と述べています(『家庭内暴力―日本型親子関係の病理』新曜社 1980)。

これも、親に適応するために兄弟が競争心から無意識に選び取ってきた心理と行動が、それぞれによって異なるためです。

注意しなければならないのは、競争心が兄弟に同じ行動をとらせることがあることです。

競争心から同じ大学に入るとか、同じスポーツの種目を選ぶなどです。

これは競争心から「兄さん(姉さん)には負けない」ことを示そうとする行動である場合もあるのです。

自分が兄弟と同等の能力を持っていることを絶対に示しえない場合もあります。

それは、親が死んだ子を誉めるときです。

とくに幼くして死んだ子の場合、親は例外なく特別に優れた子どもとして思い出します。

死んだ子に対する贖罪意識のために、過度に美化してしまうからです。

そうした親の幻想上の子どもと比較される子どもは、競争心もはばかられ、自分の価値を感じることが困難です。

際限ない卓越を求める心理と、絶望に彩られた無力感が形成されてしまいます。

親がするのは兄弟間の比較だけではありません。

じつは親は、赤ん坊の誕生と同時に、無意識のうちに子どもを競争心の対象にしてしまっているのです。

たとえば母親は、自分の赤ちゃんがミルクを飲む量が標準より少ないと心配します。

言葉をしゃべるのが他の子より遅いと不安になり、逆に早ければ優越感を感じます。

おしめをはずすのが遅いか早いか、立ち歩きが遅いか早いかなどでも、親は優越感や遅れをとってしまった感じを持ちます。

思春期につまずいてしまって苦しんでいる競争心を持った自分の子どもに対し、親はしばしば「これまでやってきたことが無駄になってしまった」とか、「なさけない」などという言葉を口にします。

他の子どもと比較して、「他の子どもと同じようにできない自分の子ども」を嘆いているのです。

親のこうした競争心は、幼い子どもにとっては訳の分からないものです。

しかし、無意識のうちに漠然とした一つの価値基準として競争心は脳の中に刻印されます。

こうした心理が、他の人とつい比較してしまい、無意識のうちに競争心から他の人と張り合ってしまう心理の起源となるのです。

さらに幼稚園に入ったり、学校に入ったりすると、競争心から他の人と比較して自分を評価する心理を強化されていきます。

学校では、みなが同じ課題を同じ時間で行うので、多かれ少なかれ競争心からの競争の様相を呈します。

親も社会も、学校でできるかできないかという競争心で子どもを評価しがちです。

このため学校は、子どもにかけがえのない自分という価値を実感させるものではなく、他の人と比較した自分という競争心の心理を強く植え付けてしまいがちです。

他の人と自分を比較してしまう競争心の心理には、以上見てきたように、親の愛を得て安心を確保しようとする心理が基底にあるのです。

競争心の発達心理学によれば、幼いときは業績で競争するということはありません。

そのため、かけっこでほかの子が転んだら追いつくまで待っているというようなことが起きるのです。

二歳の子どもが、自分の作品の出来が悪くて恥ずかしがるというようなことはありません。

最初にする競争心からの競争とは、親の愛を求める競争心からの競争であるというのが精神分析の知見です。

親の愛を求める競争心からの競争では、ライバルに勝つことは安心につながり、負けることは不安につながります。

この心理が競争心の根源にあるために、他の人と比較して勝とうとする背後には無力さの不安があり、それゆえに人より優れようとする心理の基底に不安があるということになります。

人と競争心から競争して優越しようとする心理とは、優越しないと安定が保てないからそれを求めるのであって、優越心の背後には、強固な自信ではなく、あるがままの姿では安心できない不安の心理があるのです。

人間心理の形成の基礎に劣等感情をおいたA・アドラーが指摘したのは、まさにこのことでした。

彼によれば、劣等感情とは無力感とほぼ同義であり、劣等感情ゆえに人は権力・権威を持つことや優越を求めるというのです。

そして、それぞれの人が力と優越を求めてあがくわけですから、この世は人と人との競争心からの競争にならざるをえず、人は相互に孤立した存在にならざるをえないというのです。