敏感性性格とは
敏感性性格の人は小心者で人付き合いが怖い
敏感性性格者とは小心なくせに野心は人以上に強いという人です。
人一倍臆病であり、そちらかといえば、きわめて狭い世界に生きていながらも、名誉欲のほうは人並み以上に強い。
そのような内面の矛盾葛藤のために、いつも過度の緊張をしている。
何かあるとくよくよと悩むだけで、実行力をともなわない。
傷つきやすく感じやすく、そして勇気がない。
人前で注目されたい気持ちが強いのに、実際に人前に出るとおどおどしてしまう。
善良で内気で神経質であっても、狭い世界の中で平和に暮らすことで満足していられるなら、さして心理的には問題ない。
しかし敏感性性格者のような人は、そこがうまくいかない。
敏感性性格的な人々の苦痛は、優柔不断で勇気がなく、大胆な実行力に欠けるにもかかわらず、強い野心、あるいは名誉欲があるということである。
自分の野心を実現する能力を欠いていながらも、その野心を捨てきれない。
それゆえに強い自己不完全感に悩まされる。
ひとくちでいってしまえば、「実際の自分」を受け入れられないということであるが、「実際の自分」そのものがどうしようもなく矛盾した存在なのである。
臆病で生真面目で自信が多少欠如していても、その無力性性格だけであるなら問題はない。
クレッチマーの表現によると敏感性性格者は、その無力性性格の中核にトゲのように強力性性格が刺さっている。
無力性性格ということも間違いなくその人なのである。
おとなしく内気であるということは、決してウソではない。
たしかにおとなしく内気であるというのも実際のその人である。
しかし何度もいうように、それだけではない。
そのおとなしく内気であることに、野心や名誉欲がトゲのように刺さっている。
内気な野心家というのは、完全に内気にもなれなければ、たくましい野心家にもなれない。
この矛盾が本人の中に過度の感情的緊張をもたらす。
おそらくそれゆえに、普通の人以上に疲れやすいのであろう。
はたから見ていればなにもしていないようであっても、彼らの存在そのものが二つの矛盾する傾向の戦場になってしまっているのである。
はたから見ていればなにもしなくても、内面の闘いにエネルギーを消耗しつくしていく。
生きているというそのこと自体が、追撃戦さながらの様相を呈しているのである。
小心で真面目で倫理的な人は、闘っているときだけ闘っている。
たくましい野心家も闘っているときだけ闘っている。
しかし繊細な傷つきやすい野心家は、闘うことなしに生きることができない。
彼らにとって生きることそのものが、闘い以外にありようのないものなのである。
敏感性性格からの解放
私の中の二人の自分
どんなに弱くやさしい人でも、それだけであるなら生きることそのこと自体はそれほどつらいものではない。
環境さえととのえば、それなりに満ち足りた生活はできる。
善良で強い人々に保護されながら生きることができれば、生きることそのものは、決して地獄ではない。
また、たくましい野心家は自己実現するために闘うし、自分を否定するものとは闘う。
闘いは常に自分と外とである。
しかし敏感性性格的な人は、外と闘っているのではない。
いつも自分と自分が闘っているのである。
矛盾した面をもっていても、それらが二つ並んで内面にあるのならいい。
しかしその二つが尖鋭的に対立し、どちらも相手方を否定するすさまじい対立が内面にある。
野心家であっても自然な野心家ではない。
自然な野心家は決断力もあり、勇気もあり、たくましく強い。
小心な野心家というのは自意識過剰なのである。
本来、野心というものは、外に向いたものである。
それだけに肥大化した自意識をともなうものではない。
それが敏感性性格的な人は、過剰な自意識のある野心家なのである。
それだけに、おのれの野心におのれを一体化させることができない。
野望に燃えることはできない。
全身をかたむけて野望を実現させようと闘うことができない。
それでいながら、いわゆる野心家より強い野心をもっていたりする。
そしてときにその強い野心を自分にも他人にも隠そうとする。
実現されない野心は、あきらめられることなく内からその人を緊張させる。
それは繊細で傷つきやすい名誉心となる。
なにかいつもくやしがっているようなところがある。
闘って敗北してあきらめのついた野心なら、その後の人生に影響を与えることもないだろうが、闘わずして残った野心は、その人を日常的な生活に満足させることをしない。
なにかいつも心から満たされず、よりはなやかな生活、より尊敬を勝ち得る名誉を心の底で望んでいる。
それだけに現実の生活にはどことなく疎外感をもっている。
心がパッと晴れることもなく、なにか別の生き方があるような気がしている。
心の中で、この人生にはまだなにかあるだろう、なにかあるだろうと感じながら、なにごともなく過ぎていく。
わがままならわがままだけという人間なら、それはまたそれなりに生き方もある。
それほどの疎外感もなく生きていけることもある。
しかしわがままなのだけれど、他人にやさしく利他的なところもあるという人は、どうしても心から満足することができない。
わがままに振る舞えば、自分が支配者のように感じて、心が落ち着かない。
もともとひかえめなところもあるのに、わがままに振る舞うのだから、振る舞ったあとで気がひけたり、後悔したりということになる。
わがままに振る舞いつつ、後味が悪い。
ではひかえめにして相手のわがまま、利己主義を通してあげれば満足できるかといえば、これまた満足できない。
自分自身わがままなのだから、不満足である、おもしろくない。
しかもその満ち足りない、おもしろくない気持ちをなかなか発散できない。
いつまでも不愉快で仕方ない。
どちらにしても不快になり、しかもその不快感が長びく。
「あーすればよかった、こうすればよかった」と嘆いているうちに、時は過ぎていく。
見返そうと思っているうちに、人生が終わる。
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強さも弱さも受け入れると楽になる
自分が敏感性性格的だと思った人は、まずはじめに自分がそのような性格だということを受け入れることである。
自分の中には無力型と強力型の二つが対立しているという事実を受け入れ、自分をどちらか一方に決め込んでいこうとしないことである。
自分の中の無力性に気づくことで、無力性は強力性に対する対立性を弱めるし、自分の中の強力性に気づくことで、強力性は無力性に対するトゲの性質を弱めていく。
要するに自分が敏感性性格的なところがあると自覚することで、その矛盾対立の尖鋭化がやわらいでいく。
もし自分の中の野心とその挫折を認めないとすると、その実現されない野心は正義感の仮面をかぶって登場したりしてくる。
自分の中にあるもともとの矛盾がいよいよ深刻化する。
自分の内面の無益な闘争にいよいよ深く追い込まれ、いよいよ生きているというだけで消耗していく人間になってしまう。
最後には、息をしているだけでもつらいという事態に追い込まれる。
ほんとうに自分がわかってくると、他人は問題でなくなる。
他人によく思われるか悪く思われるかということが、自分にとって重大なことでなくなる。
ほんとうに自分のことがわかってくるということが、自我の確立ということでもある。
自分には無力性性格もあり、強力性性格もある。
その矛盾に苦しむよりは、無力性性格者としての自分、強力性性格者としての自分、二つの自分を楽しもうなどと考えられないだろうか。
もしそうすれば、二倍の人生を生きたことにもなる。
自らを無益な戦場として消耗していくよりも、二倍も人生を楽しんでやろうという姿勢も大切であろう。
自らの中の強力性、無力性の矛盾を自覚することで、無力性になるときは素直に無力性になり、強力性になるときは素直に強力性になる。
自らが受け身にかたむいたときは、こんなことではいけないと感情を緊張させて、自らを否定しようとしたりしないことである。
無力性も自分の本質なのだと言い聞かせることである。
自らが野心に燃えた時は、自らの世俗性を責めたりしないで、素直に野望に身を任そうとすることである。
自らの倫理性でその世俗性を正当化しようとしないことである。
強力性も自分の本質なのだから。
問題は無力性にあるわけでもなく、強力性にあるわけでもなく、その矛盾対立の闘争にある。
つまり、敏感性性格からの解放には自分の中の強力性を捨てようとか、自分の中の無力性を捨てようとかいうことではなく、自分の中にある尖鋭化した矛盾から自分を救いだそうとすることが大切なのである。
矛盾対立を自分の中で、単なる並列にしようとする努力こそ大切なのである。
まとめ
敏感性性格とは気が小さいが野心が大きい。
そして外面と内面がひしめき合っている。
敏感性性格からの解放には自分の中にある尖鋭化した矛盾を解消することから始まる。