他人の目を活かし対人不安を克服

他人の目を利用し対人不安を解消する

他人の目をほどほどに気にする

何ごとも行き過ぎは禁物だ。
他人の目を適度に気にすることが、他人へのきめ細かな配慮につながり、人付き合いを良好に保つコツにもなっている。

他人の目をまったく気にしない人は、自己モニタリングができないため、人に不快感を与えたり、呆れられたりして、周囲から浮いてしまう。

だが、他人の目を気にし過ぎると、自分自身を苦しめることにもなり、またぎこちなさが人を遠ざけることにつながったりもする。

ほどほどに他人の目を気にすることが大切だ。
そこで覚えておきたいのが、人は他人のことをそれほど気にしていないということだ。

それは、自分自身のことを思い出してみればわかるはずだ。
友達と二人でしゃべっているとき、あるいはみんなでワイワイやっているとき、自分の発言が適切だったかどうかが気になって仕方がない。
変なことを言ったかもしれない、場違いなことを言っていないだろうか、気分を害したりしていないだろうかと気になる。

そのようなときは、自分のことで精一杯で、他人のことをいちいち気にしている心の余裕はない。
「いや、そんなことはない。友達のことが気になって仕方がないのだ」と思うかもしれない。

たしかに友達のことが気になるのは事実だろうが、それは友達がこちらのことをどう思っているかが気になっているわけで、友達の発言や態度の適切さを評価しているわけではない。
友達の目に映る自分の姿が気になるのであって、友達のことが気になっているのではない。

だれでも自分に対する関心がとても強い反面、他人については案外気にしていない。
自分が気にするほどには他人はこちらのことをきにしてはいないものなのである。

ゆえに、相手の態度が素っ気なく感じられ、「気分を害しちゃったかも」「嫌われてるのでは」「自分と一緒にいてもつまらないんじゃないか」などと気になってしまうようなときも、「何か気がかりなことであって上の空になってるのかも」「気持ちに余裕がないのでは」などと思えばいい。

それによってこちらの気持ちに余裕が生まれる。

気を遣うのは相手も同じ

さらに気付くべきことがある。
それは、こちらだけでなく相手も気を遣っているということだ。

「間柄の文化」で自己形成してきた僕たち日本人、人とかかわる際に、「傷つけるようなことを言ってはいけない」「不快な思いをさせてはいけない」「退屈させてはいけない」「負担をかけてはいけない」などと絶えず気を遣う習性を身につけている。

ゆえに、こちらがそのように気を遣っているのと同様に、向こうもこちらに気をつかっている。
いわば、相手にも気をつかわせているのである。

こちらが「こっちのことをどう思ってるんだろう」「好意的に見てくれているだろうか」「自分と話しててもつまらないんじゃないか」などと不安に思っているとき、じつは相手も同じようにこちらからどう思われているかが気になっているのである。

そこに気付くことが必要だ。
自分のことにばかりとらわれずに、相手に目を向けてみる。
すると、目の前の相手もこちらと同じように対人不安を抱え、気をつかっていることがわかる。
そこで大切なのは、相手の対人不安を和らげてあげることだ。

どう和らげたらよいのか。
それは、相手がこちらと同じように気を遣っていると思えば、容易に想像がつくだろう。
こちらが好意的な態度を示したり、楽しそうな様子を見せたりすることで、相手の抱える対人不安は大いに和らぐはずだ。

「自分なんか面白い人間じゃないし、一緒にいたってつまらないんじゃないか」「気の利いたことを言わないとつまらないヤツって思われる」「うっかりホンネを出して、そんなこと考えてるのかと呆れられたら嫌だ」「何を話したらいいかわからない」「軽く見られたくない」「バカにされたくない」「嫌なヤツだって思われたら困る」などと対人不安に脅かされていると、なかなか素の自分を出しにくくなる。

でも、素を出さずに着飾ったよそ行きの自分を出していると、自分がきつくなる。
ずっと着飾っていなければならないのも疲れるし、素の自分を出せないのもきつい。
ウケ狙いの言葉を発するだけで、ほんとうに気になっていることを話せないのが虚しいという人もいるが、それも同じ心理メカニズムだ。
それではほんとうに親しい友達関係にはなれない。

それに、こちらが無理をして着飾っていると、相手も無理をして着飾らなければならない。
一方がよそ行きの装いなのに、他方が普段着だと、どうにも釣り合いが取れない。
相手が型を崩さなければ、こちらも型を崩しにくい。
相手が素を出さなければ、こちらも素を出しにくい。
いつまでたってもお互いに過度に気を遣ったり、背伸びしたり、遠慮したりして付き合わなければならない。
それは疲れる。

どうしたらそんな行き詰まりから脱することができるか。
それは、こちらから一歩踏み出すことだ。

思い切って素の自分を出してみたら、相手も素の自分を出してくれ、親しくなれた、心配することはなかったのだと思った。
そのようなことが多い。

自己開示というのは好意や信頼のあらわれとみなされ、自己開示を受けた側は「自分が好意的にみられている」「自分は信頼されている」と感じることができ、嬉しいばかりでなく、お返しに自己開示をしたくなるということが、心理学の研究によってわかっている。

相手もこちらと同じように対人不安を抱えているのだから、その不安を和らげてあげるために思い切って自己開示をしてみる。
素の自分を出してみる。
そうした勇気を出すと、たいていは報われるものだ。

誰もが対人不安を抱えているということを心に留めておく

このように対人不安を抱えている人はとても多い。
というよりも、「間柄の文化」を生きる日本人のすべてが対人不安を抱えていると言ってもよい。

そのことを心に留めておくだけで気持ちが楽になる。

自分はちょっとおかしいのではないか、ノイローゼなのではないか、コミュ障(コミュニケーション障害)なのではないか、こんな自分は嫌だ、などと思っていたが、多くの人が同じような感覚をもっていることを知ってホッとしたという人が非常に多い。

学生たちに対人不安のことを話し、それが日本人に共通の心理傾向だと説明すると、ほとんどの学生が自分だけじゃないんだとわかって気が楽になったという。
実際、つぎのような声があった。

「他の人達も人からどうみられるか不安なんだ、自分だけじゃないんだと思うと、少しホッとした。自分だけ特別のように思って、萎縮しすぎていたことに気が付いた」

「対人不安はみんなが抱えていると知ってびっくりした。
私はそのような不安が強かったので、救われた気分だ」

「自分みたいな感受性をもつ人間が日本人には沢山居ると知り、少し安心しました。
これからはもう少し積極的に人とかかわれそうな気がしてきました」

「相手もこっちのことを気にしている。
変に思われるんじゃないか、気分を害したんじゃないか、嫌われるんじゃないか、つまらないんじゃないか、といった不安を抱えている。
そして、素の自分を出せないもどかしさを感じている。
そういう視点をもつことは、お互いに本音を出し合える関係を築く上でとても重要だと思いました」

「自分だけじゃなくて、相手も対人不安を抱えているんだって言われて、そういえば私が思い切って声をかけると、うれしそうな顔をしてくれることが多いのを思い出した。
これからは相手の不安を和らげることを意識して、積極的に声をかけていきたい」

「相手も自分と同じように対人不安を抱えている。
だから、自分の不安にばかりとらわれているのではなく、相手の不安を和らげることで、お互いに安心して本音で付き合えるようになる。
このことに気付けたのは大きい。
これからは相手の言う事にしっかりうなずいたり、笑顔になったり、自分の本音も出してみたり、相手の対人不安を和らげることを意識していきたい」

自分だけが特殊なのではない、みんなも同じく対人不安を抱えているのだ。

このような視点をもつことで、気持ちは楽になり、友達付き合いに積極的になれるはずだ。

他人の目に映る自分より、相手そのものを見る

対人不安の強い人は、相手にとても気を遣う。

相手のことに配慮することは、人間関係を良好に保つうえで大切なことだが、対人不安が強いと、相手のことを気にしているつもりでありながら、じつは自分のことしか眼中に無かったりする。

それは相手のことをきにしているのではなく、相手の目に映る自分の姿が気になって仕方がないのだ。
結局のところ、相手に対する関心が薄く、自分にばかり関心が向いている。
そのため、どう思われているだろうかと不安になる。

自分は他人の目を気にし過ぎるから対人不安に悩まされるのだということがわかっていても、どうしても気にしてしまう。
他人の目を気にせずにいられない。
結局のところ、対人不安というのは自意識の問題なのである。

ある人は、とてもそそっかしく、たまに靴を履き違えることがある。
左足が履いている靴と右足が履いている靴の種類が違うのだ。
左足が履いている靴が茶色で、右足が履いている靴が黒だったりする。

家を出て駅に向かって歩いている途中で気づけばよいのだが、電車に乗り、座席に座っているときに、ふと自分の足元を見て、履き違いに気付いたときなどは、大いに動揺する。
何とも言えないばつの悪さを感じる。
向かい側の人たちに対して、どうかこっちの足下を見ないでくれと祈るような気持ちになり、座席に座っていても浮き足だった感じになる。

だが、気づく直前までは、平穏な気持ちで、読書などしながら堂々と座っていたのである。
自分で意識したことによって、気持ちの動揺が生じたわけである。

靴を履き違えているという客観的な事実があったとしても、気持ちが動揺するかどうかは自意識しだいなのである。
ましてや対人不安のような客観的事実に基づかない心理現象の場合は、すべて自意識にかかっていると言ってよい。

自分自身に意識を集中することを自己注視という。

自分を振り返ることは不適切な言動をなくすために必要だが、自己注視が行き過ぎると不安が強まりすぎて、ぎこちなくなりやすい。

心理学の実験でも、自己注視が対人不安を高めることが証明されている。
また、自己注視は、対人状況で人から見られていることを意識すると強まり、他者に注目すると弱まることもわかっている。

そこで大事なことは、相手そのものに関心を向けることだ。
相手の様子に目を向けながら、相手の話に耳を傾ける。
そうすると、「自分と趣味が同じだ」「けっこう自分とにたところがあるな」「感受性が自分とずいぶん違うな」「そういうふうに思ってるんだ」「そんな悩みがあるんだ」などと新たな発見があり、相手のことがよくわかってくる。

「なんだか疲れてそうだな」「ちょっと元気がないなあ」「とても嬉しそうだな」などと相手の様子からその気持ちを察することができれば、気持ちの交流がもちやすくなる。

よくわからない相手を目の前にすると不安になるが、理解が深まると安心してかかわれるようになる。
そうしているうちに対人不安がいつの間にか和らいでいるものである。

相手もまた自分と同じように対人不安が強く、こちらからどう思われているかをとても気にしていることがわかったりもする。
そんなときは、その不安を和らげてあげるように心がける。

このように、自分のことにばかりとらわれずに、相手の思いを共有し、相手の問題を一緒に考えてあげるなど、相手に気持ちを向けること。
自己中心的な視点から抜け出し、相手そのものを見ようとすること。
それが対人不安を和らげるコツだ。

■関連記事
対人不安の心理

対人不安をポジティブに変える

気を遣うのは自分の強みと考える

対人不安が強く、人付き合いに消極的になっている人は、人に気を遣って神経をすり減らす自分に対して否定的なイメージをもつ傾向がある。
そのため気持ちが萎縮してしまう。

そこは発想の転換が必要だ。
自分は人に気を遣って疲れてばかりでどうしようもないととらえるのではなく、自分は人のことをきちんと気遣うことができるというようにとらえるのである。

どうしたら他人の目を気にしないですむようになれるかと考えるのでなく、他人の目を気にする自分の良さを活かそうと考えるのだ。

人のことなど眼中になく、自分勝手な行動を取る人物もいる。
そんな人物が身近にいたら、だれでも不愉快なはずだ。
あんな身勝手な人とはできるだけかかわりたくないと思うだろう。

一方、こちらのことをとても気遣ってくれる人物といると、気持ちが安らぐ。
ときに気を遣わせていることを申し訳なく思うこともあるだろうが、けっして悪い印象にはならない。

人に気を遣い過ぎる自分を肯定的にとらえるために、「自己中心の文化」と「間柄の文化」の価値観の違いを思い出してほしい。

欧米のような「自己中心の文化」では、自分の思うように行動すべきであり、人に影響を受けるのは「個」として自立していないことになり、未熟であるとみなされる。

それに対して、「間柄の文化」では、つねに人の気持ちや立場に配慮して行動すべきであり、人のことを配慮できないのは未熟であるとみなされる。

人を気遣うことを、「人に影響を受ける」というと否定的な印象になるが、「人のことを配慮できる」というと肯定的な印象になる。

自分勝手にならずに人のことを気遣えるのが成熟の徴であり、相手との間柄を大切に思うからこそ気をつかうのだ。
そのように考えれば、人に気を遣い過ぎる自分を肯定的に受け止めることができるだろうし、他人の目を活かすこともできるはずだ。

合わない人がいることは仕方がない

他人の目を気にし過ぎて苦しく感じる人は、だれからもよく見られたいという思いを抱えていることが多い。

「そんなことはない。私は、人から好かれるタイプじゃないし、よく思われようなんて思わないけど、他人の目が気になって苦しい」という人もいるかもしれない。

そのような人の為に言い換えると、他人の目を気にし過ぎて苦しいという人は、人とうまくやっていきたいという気持ちが強い。

だから、気を遣い過ぎて疲れるのだ。

人からどう思われてもいい、うまくやっていけなくてもいいというなら、気を遣い過ぎて疲れることもない。
だが、それでは当然のことながら人間関係はうまくいかない。

そこで大事なのは、だれとでもうまくやっていこうなどとはおもわず、どうしても合わない相手がいるのはやむを得ないと開き直ることだ。

人それぞれに素質も違えば生い立ちも違う。
ものの見方や感受性も違う。
価値観も違えば、ものごとの優先順位も違う。
人生観も人間観も違う。
ゆえに、合う人もいれば合わない人もいる。
それは仕方のないことだ。

誰とでもうまくやっていかなければと思うと、気を遣い過ぎて気持ちが萎縮してしまう。
自他の違いを受け入れ、人それぞれに個性があるのだし、理解し合えない相手もいるものだと思えば、他人の目を過度に気にしなくて済むようになる。

みんなにいい顔をしようとするから、気を遣いすぎて疲れるのだ。

できるだけだれとでもうまくやっていきたいけど、合わない人がいるのはしようがない。
そのように考えるようになったら、気持ちが楽になり、人付き合いが以前ほど苦でなくなったという人もいる。

合わない人がいるのは仕方がないと開き直ったら、どう思われるかが前ほど気にならなくなり、素の自分を出しやすくなって、親しい友達ができたという人もいる。

■関連記事
人付き合いが怖いを克服する方法

対人不安を活用するテクニック

SNSから離れる時間を持つ

対人不安を和らげるためには、SNSから離れる時間をもつことも大切だ。

SNSは、「どう思われるだろうか?」と気にしなければならない相手を大量に増やす道具と言える。
しかも、そうしたSNSでつながっている何人もの相手のことを、学校にいるときだけでなく、通学途上でも、帰宅してからも、どこにいても何をしていても、四六時中気にしていなければならない。

文字だけのコミュニケーションであり、表情も声の調子もわからないため、文章に素っ気なさを感じて不安になったり、絵文字がないだけで気になってしまったりする。

相手は単に時間がないために必要最小限の返事をしただけで、否定的な感情など何もないかもしれないのに、気になって仕方がない。
こうしたことが起こるのも、SNSで絶えずつながっているからだ。

さらには、SNSで絶えず多くの相手とつながっているせいで、あらゆる行動が承認欲求に支配されてしまう。

友達の数や「いいね」の数が数字として可視化されるようになったため、そうした数字を気にする風潮もある。
友達の数で評価されるといった感受性を植え付けられることにより、できるだけ多くのつながりをもとうと必死になる。

「いいね」の数を増やすために、しょっちゅうウケそうな発信をする。

「いいね」があまりつかないと、意気消沈する。

このように、SNSに巻き込まれることで、手に負えないほど多くの他人の目を意識しなければいけなくなる。

ウケ狙いの発信をしようという気持ちが災いして、嫌味な投稿になったり、見栄を張ってるのを見抜かれたりすることもある。

インスタ映えなどという言葉も用いられるようになったが、自分がいかにお洒落な暮らしをしているか、幸せな日々を送っているかを見せびらかすように、競うように写真投稿をしている人もいる。

それを見て、羨ましいと思うとともに自分がみじめになるという人もいるが、投稿された一連の写真に不自然さを感じて、無理してお洒落に見せかけたり、幸せを装ったりしているのだろうと同情気味に言う人もいる。
実際、恋人もいないのにまるでいるかのような書き込みをしたり、幸せを装うためにお金を払って友達役や恋人役を演じてもらったりすることさえあるようだ。

だが、そんなことをやればやるほど、自分に自信がなくなってくる。
自信がないため、他人の目に縛られ、ますます承認を得ようと必死になる。
まさに悪循環だ。

自分自身が承認欲求の虜になって、自分の生活の充実をひけらかすような写真を投稿するのに必死になり、それに対する「いいね」の数や友達の反応ばかり気にしていたが、そんな毎日が面倒になってやめたら、気持ちがすっきりして、自分を取り戻すことができたという人もいる。

他人の目を適度に気にすることは大切だが、SNSで多くの人とつながることで、他人の目にがんじがらめにされ、疲弊してしまう。
そうなると人付き合いが苦痛になり、対人不安の深刻度が増していく。
ストレスを軽減するためにも、対人不安を和らげるためにも、SNSから遠ざかり、他人の目から解放された時間をもつことが必要である。

公言することで理想に近づく

他人の目が気になる自分の性格を活かす方法のひとつとして、なりたい自分や自分の目標を公言するというものがある。

この問題集を一カ月でやってしまおうと密かに決めていても、友達から遊びに誘われることが重なったりすると、つい遅れてしまい、そのうち「予定よりずいぶん遅れてしまったな。まあ、いいか」と、容易に諦めることになりがちだ。

でも、その目標を親に公言した場合は、「一カ月でやるって言ってたじゃない。あれは嘘だったの」と言う親の姿が思い浮かんでくるため、「何とかやってしまわないと」といった思いになり、そう簡単に諦めることができない。

ズボンやスカートのウエストがきつくなり、「まずいな、ちょっとダイエットをしないと」と思っても、おいしそうなケーキやクッキーがあると我慢できず、「食べ過ぎなければ大丈夫」と心の中で自分自身に言い訳しながら、毎日のように食べてしまう。

そんなときは、周囲の仲間に対して、「スカートのウエストがきつくなっちゃったから、ダイエットして引き締めるんだ」と公言してしまえば、「なんだ、全然ダイエットできてないじゃん」「また甘いもの食べるの?ダイエットするんじゃなかったの?」
などと言われたくないため、ある程度我慢することができる。

フリをすることで「なりたい自分」に近づくというのも、他人の目の有効な利用法の一つだ。
自己呈示についての心理学実験が、そのヒントを与えてくれる。

心理学者タイスは、偽りの自己呈示をすることによって、自己概念が自己呈示した方向に変化することを証明している。
その実験では、まず情緒的に安定した人物、あるいは情緒的に過敏な人物を装わせ、その後に自分の性格を評定させている。
その結果、情緒的に安定した人物を装った人の方が自分自身を安定しているとみなしていることが示された。

また、内向的な人物、あるいは外向的な人物を装わせる実験では、内向的な人物を装った人の方が自分自身をより内向的であるとみなし、外向的な人物を装った人の方が自分自身をより外向的であるとみなす傾向があることが確認された。

これは、自己中心の文化においては、自己の一貫性を保とうとする心理ゆえに、自己呈示した方向に自己概念が変化したのだとみなされる。

だが、間柄の文化において自己形成した人たちの場合は、他人の目を意識するために、自己呈示した方向に自分自身が変わっていくのだとみなすのが自然だろう。

「あの人からは情緒的に安定した人とみられている」と思えば、情緒不安定な面は見せにくくなる。
「周囲からは外向的な人間とみられている」と思えば、多少無理をしてでもがんばって外向的に振る舞おうとするだろう。
そうしているうちに、徐々にほんとうに情緒的に安定してきたり、外向的な行動が取れるようになってきたりする。

■関連記事
対人恐怖症のひきこもり

対人不安を克服する方法

不安のもつポジティブな面に目を向ける

心理学者フォーガスの対人不安と行動にまつわる実験がある。

それは、隣のオフィスにファイルを借りに行ってもらう実験だが、楽しい気分の人よりニュートラルな気分の人の方が丁寧で洗練された頼み方をすること、さらにはネガティブな気分の人の方がよりいっそう丁寧で洗練された頼み方をすることが確認された。

そこからわかるのは、ネガティブな気分のときは慎重な心の構えになり、相手の気持ちを考えて、嫌な感じを与えないように自分のものの言い方を調整しようとするということだ。

そのため対人関係がうまくいきやすい。
ポジティブな気分の人は、不安がないために、相手の気持ちに対する配慮を欠き、つい失礼な頼み方をしてしまったりする。

ネガティブな気分が対人認知の正確さをもたらすことも、フォーガスたちの心理学実験により証明されている。
それは、気分によって後光効果の影響の受け方に違いがあるかどうかを調べた実験である。

後光効果というのは、「後光がさす」という言葉があるように、何か一点光るものがあるとまぶしくなり全体が光っているようにみえることを意味する。

たとえば、服装が立派だと社会的地位の高い人だと思ってしまったり、肩書きが立派だと有能な人だと思ってしまったりするのも、後光効果の一種と言える。

その実験では、エッセイの書き手として普段着の女性の写真を添付した場合と、ツイードのジャケットを着てメガネをかけた重厚な雰囲気の男性の写真を添付した場合を比べて、同じ内容のエッセイであるにもかかわらず、後者の場合の方がエッセイの出来栄えを高く評価されるという後光効果が用いられた。

その結果、ネガティブな気分の人よりもポジティブな気分の人の方が、後光効果の影響を受けやすいことが確認された。

つまり、ポジティブな気分の人は、後光効果の影響を受けやすく、見かけの善し悪しで相手の能力を評価する傾向が強い。
それに対して、ネガティブな気分のときは慎重になりやすいため、後光効果の影響をあまり受けない。

こうしてみると、対人不安があるのはそれほど悪いことではないとわかるだろう。
不安のおかげで慎重になるため、失礼な言動を取ることが少なく、相手の様子もしっかり観察でき、人とうまくかかわっていけるという面があるのだ。

ありのままの自分を受け入れる

友達が無神経なことを言ったら、いちいち傷ついたりせずに、「いろんな人間がいるし、性格的に繊細な配慮ができないんだろうな」と思えばいい。
友達から嫌なことを言われたら、「何か怒らせるようなことを言っただろうか」と気に病んだりせずに、「きっと虫の居所が悪いんだろう」と思えばいい。

そのように聞き流せるようになれば、人付き合いに過度に不安を感じることはなくなる。
だが、それができないと対人不安に悩まされることになりがちだ。
なぜできないかといえば、自己受容ができていないからだ。
自己受容ができていれば、多少嫌なことを言われても、嫌な態度を取られても、深刻に受け止めずに済むため、それほど痛手をこうむることはない。

そう言われても、自分は友達が多いわけではないし、特別勉強ができるわけでもないし、スポーツが得意なわけでもないし、自分に自信などもてるわけがないと思うかもしれない。
だが、自己受容というのは、能力や性格に自信をもって、自分はすばらしいと思ったり、申し分ないと思ったりすることではない。

自分には長所ばかりでなく短所もある。
能力的にも人間的にもまだまだ未熟なところだらけだ。
思い通りにならずにイライラしたり落ち込んだりすることもあり、挫折感に苛まれることもある。
それでも、めげずに頑張っている。
前向きに生きようと思っている。
そんな自分を認めてあげる。
自己受容というのは、言ってみればそんな感じだ。

過去への態度と対人不安の関係について検討した僕の調査研究では、自分の過去にとらわれ、よく後悔し、消したい過去があり、過去をよく思い出し、思い出すととても嫌な気分になる出来事があり、過去に戻りたいと思い、書き換えたい出来事がある人ほど、対人不安が強いことが明らかになった。
また、自分の過去に満足しており、自分の過去が好きで、明るい思い出が多い人ほど対人不安は弱かった。

つまり、自分の過去を受容できていれば対人不安は弱く、受容できていないと対人不安が強い。

ゆえに、対人不安を克服するには、人生いろいろあるものだと、ある意味では開き直って、自分の過去に対する拒否的態度やとらわれから解放されるべく、思い通りにならなかった嫌な出来事や嫌な時期も含めて自分の過去を素直に受け入れることが必要と言える。

思い通りにならないことだらけなのは自分だけではない。
だれだって人生はなかなか思い通りにならないものなのだ。
思い出すと嫌な気分になる出来事がいろいろあるのがふつうだ。
それでも前向きに生きようと頑張っている自分。
そんな健気な自分を受け入れる。
それならできるのではないだろうか。