頑張らずにはいられない心理
あなたの無意識に気付けば「ムダな努力」を手放せる
不安を克服しようとする努力によって、人はますます不安になっていく。
問題は努力そのものではなく、「努力の動機」である。
ますます不安になる動機とは、「他人以上の優越性と力を得ようとする」ために努力することである。
このような努力によってますます不安になる。
悔しいとき、つらいとき、苦しいとき、「なぜ、こんなに頑張って努力するのか?」と自分に問うことである。
そして、「自分はその努力によってなにを得たのか?」。そこが理解できれば、それから先の道を誤らない。
「他人以上の優越性と力を得ようとするための努力」が、自分の無意識に葛藤があることを教えてくれるということに気づけば道は拓ける。
人は、しっかりと「自分」を自覚していない限り、無意識の必要性によって動かされてしまう。
端から見ていると、「なんであんな愚かなことをするのだろう」と思うかもしれない。
しかし、その人の立場に立って考えれば、そうせざるを得ない不合理な感情がある。
カレン・ホルナイはそれを「感情的盲目性」と呼んでいる。
そして「感情的盲目性は無意識の必要性から生じている」と言っている。
人は、この無益な努力、有毒な努力によって、自らの運命を改善することに使われるかもしれないエネルギーを無駄にしている。
「依存は、人間の運命を改善につかえるかもしれない大量のエネルギーが無益に失われてしまうことに責任を負っているのだ。」
依存だけが、人間の運命を改善に使えるかもしれない大量のエネルギーを無益に使っているのではない。
人は強迫的な名声追求のエネルギーも同様に無益に使っているのである。
あるいは、独自性を主張して、適切な目的に向かってふさわしい努力をしない人も同じである。
「自分自身でない自分で生きること」は、依存と同じである。
尊いエネルギーを無意識で無益に使っている。
多くの悩んでいる人は、自分の悲劇的な運命を自分が招いている。
「自分自身になろう」とすることで自己肯定感と成長への意欲が生まれる。
生きるエネルギーが生まれる。
そしてエネルギーも有益に使われる。
だからこそシーベリーは、人間の唯一の義務は、「自分自身になることである」と述べている。
さらに、「それ以外に義務はない、自分があると思い込んでいるだけである」と主張している。
重要なことは、他人が自分をどう思うかではなく、自分が自分自身を自分で確認できるかどうかである。
「自分はこの人生でなにをしたいのか?」である。
自分自身になれない人の愛とか誠意はすべて偽りである。
自分が自分自身になれない人は、虚無感から他人を巻き込んで自分の人生を活性化しようとする。
自分の無力感から、他人を支配しようとして、愛という名の仮面を被ってサディストになる。
しかも恐ろしいことは、自分がサディストであることに気がついていないし、気がついても認めない。
「無意味だった人生」に価値を与えよ
自分が自分ではないところで安住しようとする人がいる。
「あたかも自己喪失の状態にのみ安住の地があるかのように」生きている人がいる。
自己喪失した人は、「ありのままの自分には価値がない」と無意識で感じている。
そうした自分への失望感から意識をそらせている。
意識では「自分には価値がある」であり、無意識では「自分には価値がない」である。
しかし、人は自分の無意識には勝てない。
「自分自身にかけられている否定的な暗示に気がつくことから、治療は始まるのです。」
「汝のなるべきものになれ」というシーベリーの言葉で、迷いを吹っ切れば、空は次第に晴れてくる。
人がどう思おうと自分の人生に意味が吹き込まれる。
真面目で一生懸命に努力しながらも、ことがまずく運んでいる人がいる。
そういう人は、自分の意識的努力に問題があるのではなく、自分の無意識に問題がある。
原因は自分の心の奥底の無意識にある絶望感である。
あるいはその人の心の底の依存症とか敵意とかが人間関係をつまずかせている。
そういう人は具体的にはなにも悪いことをしなくても生きるのが苦しい。
リストラ、治りにくい病、失恋、交通事故等外の障害は目に見える。
しかし無意識の世界で起きていることは目に見えない。
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頑張るのをやめるには
すべての悩みは「自分が自分でなくなった」から
人間関係に苦しんでいることの原因は、無意識の領域の葛藤であって、意識の領域の問題ではない。
悩みの原因は、「自分が自分自身ではなくなったからだ」とシーベリーは言う。
シーベリーばかりではない。
ロロ・メイは、「自分自身であろうと決意することは、人間の本当の使命である。」と言っている。
これらの言葉は分かっていても、なかなか実行はできない。
それは、無意識は無意識であって、「自分が自分自身ではない」と分かっているのは無意識の領域だからである。
常に悩んで苦しんでいる人は「自分が自分自身ではなくなったからだ」と気がついていない。
人は、錯覚に、錯覚を重ねて、ますます迷路に入り込む。
外から見れば、そういう人は社会的に見ればエリートコースを突っ走っている「強い人」のように見えることがあるかもしれないが、心を見ればまったく様子は違う。
逆に社会的に成功しているわけではないが、外から見ると心理的に安定している人がいる。
安らぎから前向きに生きるエネルギーがあるので、そういう人には心のふれあう仲間がいる。
共同体の中の個人としては成功しているのだろう。
人に優越しようと頑張ってもいない。
逆に社会的に成功している人であるが、小さな歪んだ世界に取り込まれている場合がある。
心の触れ合う仲間がいない。
その人の無意識は、「不安という悪魔」に乗っ取られている。
「人生の虚しさを認めること」は負けじゃない
他人を前に完全な自分を演じようとするのは、それによって自分は無価値な人間であるという「無意識」にある感情に、自分が直面することを避けようとしているからである。
彼は完全に錯覚した幻想の世界に取り込まれてしまっている。
いま自分がいる世界以外の世界は考えられない。
「私は自分の人生に絶望している」―彼にとってこの唯一の「本当の感情」に気がつけば、絶望の世界が、希望の世界に通じる。
そうすれば、心底元気になる可能性がでてくる。
それは自分の得意領域で活躍すればいいのだと感じるからである。
世の中には、いま自分のまわりにいる人達とはまったく違った価値観の人達がいるのだと気がつけば、絶望感は古い世界の出口であり、新しい世界への入り口になる。
人生に行き詰まったときには、自分の無意識の価値観を反省する。
自分の無意識にある価値観の歪みに気がつけば、道は拓ける。
ただ、もちろんこれは大変難しい。
無意識だからである。
しかしどう頑張って努力してもうまくいかないのは、無意識に問題を抱えているときである。
人の救済に重要なのは、心の葛藤も、虚無感も、そのままに感じることである。
自己欺瞞しないことである。
心の葛藤も、虚無感も、その人のそのままの本当の感情なのである。
自分の価値を防衛するためにいろいろと画策しないで、自らの人生の虚しさをそのままに感じることが、重要なのである。