視点を増やすことがすべての突破口になる
人は恐怖感から、自分の「本当の感情」に気がつくことから執拗に逃れる。
それがいまの「自己疎外された人生への固執」である。
いまの人生が「空」であることに気がつくことを拒否する。
本当に感じていることと、感じていると話していることとは違う。
私は「こう思っている」ということと、私が「本当に感じている」こととは違う。
カレンホルナイの言葉を借りれば、「無意識の作戦」である。
神経症的傾向の強い者には、自分の本当の感情に気がつくことから執拗に逃れる「無意識の作戦」がある。
その作戦が成功している限り、人生は行き詰まったままである。
「悟り」とは、新しい価値に気がつくことである。
それは視野が広がることである。
自分のいままでの価値観が、狭い世界の独りよがりの価値観であることに気がつく。
それがロロメイの言う「意識領域の拡大」である。
不愉快とか憂うつとかいうマイナスの感情に苦しめられたときに、「なぜ自分はこんなにつらいのだろう?」「なぜ自分はこんなに不愉快なのだろう?」と考えることで、「意識領域の拡大」ができる。
したがって、「悟り」とは活発な精神的活動である。
人生の戦線から撤退することではない。
ひところ流行った「悟り世代」というのは、完全に間違った解釈である。
意識領域の拡大と同時に重要なのは、エレンランガー教授の言う「マインドフルネス」という概念である。
多面的にものごとを見ることである。
「なぜだろう?」と考えることで、多面的にものごとを見られるようになる。
「なぜだろう?」と考えることで、固定観念にとらわれた心をなおすことができる可能性が出てくる。
私は若い頃、10しかない自分の能力を20に見せようとした。
少しして、そうするから心休まるときがないと思った。
さらに年月を経て、次のように分かった。
若い頃、自分の能力は10しかないと自分で勝手に決めつけていた。
そして、20なら人は自分を認めてくれると自分の世界観のなかで勝手に思い込んでいた。
つまり私は自分の世界観のなかだけで生きていた。
周囲の人が見えていなかった。
周囲の世界が見えたときには、いまの自分のままで皆が認めてくれるということが分かった。
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心が強い人は「過剰に反応しない」。なにごとにも
マインドフルネスでないのが、ナルシシストである。
多面的視点からものごとの認識ができない。
「私はこの点で優れている、この点では優れていない」というような認識ができない。
ナルシシストは批判されれば激怒する。
激怒しないときには落ち込む。
得意になったり、落ち込んだりという心の揺れが激しい。
多面的視点からものごとの認識ができれば、なにか批判をされたときでも、怒り心頭に発するということが少ない。
また極端に落ち込まない。
他人を見るときにも、相手の弱点と長所を理解している。
すべての点で自分のほうが優れているということは考えられない。
そこで得意になったり、落ち込んだりという激しい心の揺れがない。
今まで自分が求めていたものは唯一の価値ではない。
多くの中のひとつの価値である。
自分の本当の姿に直面することを拒否する「自己疎外」された人やナルシシストは、そのように視野を広げることができない。
意識領域の拡大ができない。
エレンランガー教授の言葉を使えば、マインドフルネスでない。
つまり視点を増やせない。
逆に言えば、不運なときにも視点を増やせるのが心理的に健康な人である。
なぜ、新しいものの見方ができないのか。
なぜ意識領域の拡大ができないのか。
それはなによりも「依存心」である。
さらに無意識の領域に「憎しみ」があるからである。
周囲の世界に憎しみがあるから、まわりの世界を見返したい、復讐したいという気持ちが先に来る。
神経症的傾向の強い人達にとって、新しいものの見方をするということは、復讐ができなくなるということである。
いまも述べた通り神経症的傾向の強い人は、自分につまずいたときに、目的を変えられない。
人は「自分に向いていないと分かれば、他の職業に切り替えればいいじゃない」というが、本人にはその柔軟性がない。
「とにかくやってみよう」という自発性もない。
「見返したい」にしがみついているから、いまの目的を変えるということが考えられない。
とにかく世間を見返したい。
その心の姿勢があるから変化に対応できないのである。
柔軟性がないし、すでに生きるエネルギーがないのである。
ジョージ・ウェインバーグは「柔軟性に対する最高の挑戦は抑圧です。」と言う。
無意識があなたの心の柔軟性を奪っている
「ちょっと見方を変えてみる」という簡単なことができないのはなぜか?
少し頭を切り替えればできるのに、それができないのはなぜか?
それを反対している内なる妨害はなにか。
それは無意識の葛藤である。
少し工夫すれば、そんなに心配しなくても生きられる。
しかし無意識の「内なる障害」があるから、それができない。
その人から柔軟性を奪っているのは無意識である。
意識の上でどんなに「柔軟になろう、柔軟になろう」と頑張っても柔軟性は獲得できない。
フロイトは悲観的に「人は常に苦しみたがる」という。
そんなバカなという人も多いであろうが、この「ちょっと見方を変えてみる」という簡単なことができないのは、「常に苦しみたがっている」例である。
苦しむことで無意識にある隠された怒りを表現している。
頑固になることで、隠された怒りを表現している。
少し積極的になれば、道は拓けるのに、人生が行き詰まる。
少し積極的になることを拒否しているのは、無意識にある「退行欲求」である。
「人は常に苦しみたがる」という、その苦しみ方はいろいろな形で表現される。
毎日嘆いている。
それも表現のひとつである。
でもなにも起こらない。
愚痴をこぼすまえに、人を恨むまえに、無意識に直面する。
直面できれば「生き方を変えてみよう」と思える。
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誰かに認められることに価値をおかない
先に「視点を増やすことは幸運の扉を開く」と記したが、逆もある。
人を不幸の部屋に入れて閉じこめてしまうのが視野の狭さである。
幸福にしろ、不幸にしろ、いずれにしても鍵を握るのは視点が多いか、少ないかである。
それをさらに深めていくと依存心と自立心である。
与えられた解釈基準ではなく、自分独自の基準を持つ。
それが独自の世界を持つということである。
自立心である。
「なにかをやってよかったと思う達成感」
「認められた満足感」
この2つの違いを理解していないから人生がおかしくなる。
「なにかをやってよかったと思う達成感」で生きてきた人は、視点が多い。
だからいつでも望ましい視点で生きられる。
逆境に強い人である。
「認められた満足感」で生きてきた人は視点を変えられない。
パラダイム・シフトができない。
マインドフルネスではなく、マインドレスネスになる。
マインドレスネスな人は、私は美人でないから嫌われたと決め込んでいる。
私は大企業で働いていないから軽く見られたと決め込む。
「なにかをやってよかったと思う達成感」で生きてきた人は、自分の居場所のない立派な家よりも、自分の居場所のある掘っ立て小屋のほうがいい。
あるエリート・ビジネスマンが人生を取り戻した話
超エリートではないある中途半端なエリート・ビジネスマンが、深刻な劣等感に悩んでいた。
常に超エリートの知人と自分を比較していたからである。
彼は権威主義的な父親に、非現実的に高い期待をかけられていた。
そしてなんとかエリートコースを完全には落ちこぼれないで、生きてきた。
模範的生徒から、模範的ビジネスパーソンとして生きてきた。
しかし「疑似自己」のため、神経症的症状もあった。
いつも胃の調子が悪くて不眠症に悩まされていた。
父親が認めてくれない、ただそれだけのことで自分を小さいと感じた。
その彼があるとき、生き生きとして見違えるよう元気になった。
不眠症もなおったという。
なぜか?
それは、彼がある人のアドバイスで、自分の人生を見る視点が変わったからである。
彼はそれまでは、自分の人生を、社会的成功への過程という視点で捉えていた。
そうとらえていると、彼の人生は超エリートといわれる人達に比べると、大学は超有名大学ではないし、会社も超有名企業ではない。
そして会社からの留学先も世界の有名大学ではない。
彼の履歴はすべて中途半端であった。
そして常に親から超エリートと比較され、必死で頑張っていた。
その結果、深刻な劣等感からいつも体調不良に悩まされていた。
ところが彼は自分の人生を、「成功への過程」ととらえるのではなく、「親からの自立」という視点でとらえることで、彼の気持ちは一変した。
自分の人生への視点が変わったことは、彼にとってはまさにコペルニクス的転回であった。
「親からの自立」という視点から見ると、「自分はよくやった」という気がしたのである。
そしてまさに親との戦いが自分の人生であったという気が心底した。
自分の人生の本質は親との苦闘であって、表に表われているのはその現象であることにすぎないと気がついた。
自分は表に表われている現象に一喜一憂していたことに気がついた。
自分の人生を、成功への過程ととらえていたのは、自分自身が親の期待を内面化しただけであったと気がついた。
彼は自分の依存心に気がついた。
彼は小さいころから親のプレッシャーでものすごいストレスに悩まされた。
大学の入学試験は、死ぬほどのプレッシャーで不合格になり浪人になって、うつになったこともあった。
自分の人生すべてがプレッシャーとの戦いで、心理的に健康な人とはまったく違った人生であることに気がついた。
そして彼にとって価値あることは、権威主義的な父親の眼に成功者と映ることであると気がついた。
父親の眼に成功者と映ることが大切な彼は、小さな失敗に絶望する。
父親の眼に成功者と映ることが大切な彼は、一度失敗するとその失敗のことばかり考えて、父親から失望されることを怖れた。
そして彼を取り巻く人間関係は、親以外の人達もすべて歪んだ価値観にとらわれていた。
彼はそういう空気を吸って成長した。
しかし彼の自分の人生を見る視点が変わった。
彼は自分の人生は、父親との苦闘だったと分かった。
相談した人から教えられた「自らの運命を成就するための人生」という視点に立ったときに、自分と他人の見方が変わった。
自分が、比較して劣等感を持っていた人々が自分の比較対象でなくなった。
視点を変えれば、いままで見えなかったもんが見えてくる。
その結果、深刻な劣等感から解放され、生産的なエネルギーが解放された。
体調不良のひとつである偏頭痛もとれて前向きになった。
心理的に健康なビジネスパーソンのエネルギーの方向と、いままでの自分のエネルギーの方向とはまったく違っていたということに気がついた。
そして自分が深刻な劣等感を持っていた超エリートの中にも、蘇った自分と同じ視点で人生を見ていない人がいるということに気がついた。
そういう人は、超エリートコースを歩いてきた後で、うつ病など深刻な挫折に陥っていたことも分かった。
「自己喪失の態度は、絶望感を大きくするだけでなく、たとえあなたが努力していても、その効果がなくなります。」
彼は、いままで自分の人生を「成功への過程」と捉えていたのは、自己喪失の歴史でしかなかったと気がついた。
彼は自分の人生を見る視点を変えたことで、人と比較しない自分固有の人生に気がついた。
自分の無意識の世界まで視野に入れることができて、世界は変わった。
「人と自分を比較するな」と多くの人が言う。「他人は他人、自分は自分」と多くの人が言う。
そして本人もそう思おうとする。
しかしいくら自分に「他人は他人、自分は自分」と言い聞かせても、心の底では納得していない。
しかし自分の人生を見る視点が変われば、自然とそう思えるようになる。
無意識の意識化、それがロロ・メイのいう「意識領域の拡大」である。
視点が変われば、見えないものが見えてくるからである。
いままでとは違ったやさしい人達との交流が始まる。
心を開くというはじめての体験が始まる。
心の絆ということが理解できてくる。
相手にも自分にも個性が有るということが分かってくる。
世界はまったく違ってくる。
そのとき、絶望から希望への旅が始まる。
自分の人生を生き抜くための新しい目的が見えてくる。