幸せになりたいなら、大いに苦悩せよ!
オーストリアの精神科医フランクルは「成功と失敗」の範疇でしかものを考えられない人を「ホモ・ファーベル=働く人間」と言っている。
また、「充足と絶望」という軸で生きる人を「ホモ・パチエンス=苦悩する人間」と言っている。
ホモ・パチエンスは、最もはなはだしい失敗においても自らの生を充足できる人である。
フランクルは次元的にホモ・ファーベルよりもホモ・パチエンスが優位であるという。
たとえば、誰にとっても失恋は苦しい。
しかし、表面的に恋に失敗しても自らの視野を広げた人は、本質的には恋が実ったのである。
恋が実って幸せになれる人は自分に絶望していない人である。
そういう人は「成功と失敗」という軸でだけ人間を考えるのではなく、人生の意味や価値を考え出したのである。
苦悩が大きいほど、その人の人生の価値と意味も大きくなる。
このような考え方は、「成功と失敗」の軸でしか考えない人にとっては「なにかばからしいものとして思われることでしょう」とフランクルは言う。
しかし、このような考え方をばからしいとして退けていると、本当の幸せも逃げていく。
人は誰でも傷つく。
そこでその傷をどう処理するかで生き方を間違える人が多い。
人はいったん傷つくと傷つきやすくなってしまう。
つまり傷ついたことで傷つくまいと防衛的になる。
防衛的になることでさらに傷つきやすくなるし、人に心を打ち明けられなくなる。
本当に自分の人生の価値と意味をわが手に掴み、幸せになりたいのなら、失業、失恋して大いに苦悩し、そして耐えることである。
しかしこの苦悩はあくまでも成長の過程における苦悩である。
失業して会社を恨むための苦悩ではない。
失恋をして相手に復讐するための苦悩ではない。
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「見方を変える」と世界が一変する
視野を広げてみれば、いままで自分が恐れ尊敬していた人が、じつは自分で自分を支えられない、力がなければ生きていけない弱い人だったと気がつく。
逆に社会的に成功していなくても楽しく生きている人が見えてくる。
世の中にはたくさんそういう人がいるのが分かる。
なぜあの人は気楽に生きているのに、自分は欠点を出すまいと緊張して激しい疲労に悩まされるのか?
同じ人間なのに、あの人と自分とはどこが違うのか?
あの人は、自分と違ってどのような心構えで生きているのか?
自分が捨てられないことで、あの人が捨てているものはなんなのか?
あの人と自分と、人生で重要なものはなにが違うのか?
同じ顔をしているが、心はどう違っているのか?
あの人達の心は芳醇だけども、自分の心は枯渇している。
いままで自分が蔑んでいた人達は、実は尊敬するに値する人達ではなかったのか?
いままで自分が歪んだ価値観の世界にいたからこそ、あの人達を軽蔑していたのではなかったか。
人生が行き詰まったとき、逆が正しいとはこのことではなかったか。
あの人達が信じていることと、自分が信じていることはどこが違うのか?
自分の不安な緊張の本質はなんなのか?
そう考えれば救われる道に入っていく。
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もう、「自分の感情」に振り回されない
中高年になって人生に迷っている人は、無意識の絶望感が、その人の心理的成長の障害になっている。
それはカレン・ホルナイの言う「内なる障害」である。
自己執着とは、この内なる障害に支配されている人の心理状態である。
自己執着とは、長年にわたって無意識に蓄積されたものに心が支配されている人の心理状態である。
自己執着とは逆に、「自分を忘れる」という心理状態がある。
そして「本当の自分」の感情に気がつくことがある。
これが本当の解放である。
これが自己実現である。
人から何気なく言われた言葉で、すごく傷ついてしまう、イライラしたり、クヨクヨ悩んだり、憂鬱になったり、どうしても気持ちが塞ぎ込んだり、「あんな奴のことは忘れよう」としても、いつまでもなぜか忘れられない。
負けたことが心の中でゼロにならない。
感情が残る、負けた悔しさが尾を引く・・・人はどうしようもない感情に振り回されることがある。
勤勉の努力家と思ってもらいたいと思ったら、怠け者と思われた。
そこで不愉快になる。
自分が望むように相手が思ってくれなければ面白くない。
すべて自分の気持ちは他人の反応であり、他人が期待通り感じてくれたか、くれないかが重要である。
こういう人が自己執着の強い人である。
「もう、辞めよう」としても、自分がマイナスの感情に支配されて身動きがとれないことがある。
自己実現的な行動をとろうとしても、いざとなるとやる気になれない。
しかしそのマイナスの感情の後ろに隠されている本質はなにか?
それを思い切って探す。
その気になり、それがどんなに「偽りの自尊心」を傷つけようと、どんなに驚きであろうと、それを認める。
そして人生は拓けていく。
「本当の自分」、「実際の自分」を本気で知ろうとすれば、悩みは解決する方向に向かう。
そうすれば、次第に「自分の本当の感情」にしたがって生きていかれる。
それができるか、できないか。
いまとなっては、それが人生最初の課題である。
気がついたことを認めないで神経症的自尊心を守ることに固執すれば、人生はいつまで経っても拓けない。
人生が行き詰まったままである。
人生の心理的課題の解決ができていない人は、いかに相手の意に沿うかしか考えない。
問題はこの固執する態度の後ろに「なにが隠されているのか?」ということである。
なぜかくも頑なに、自己中心的な価値観にしがみつくのか。
自己執着の強い人は、心の葛藤を解決しようとする姿勢そのものがない。
自分がなぜ、意味もなくこんなにクヨクヨ悩んだりしているのか。
そういう心理の背後にある本質に、なぜ気がつこうとしないのか?
そこには誰にも知られたくない理由が、なにかある。
誰にも、つまり自分にも知られたくない理由があるに違いない。
「なにが自分をこんなに悩ませているのか?」
「なんで自分はこんなに焦っているのか?」
誰でも、本当のことを言うことには困難を抱えている。
心の奥に抱えている問題を話すことの困難さは誰にでもある。
人は誰でも、生まれてから心理的に未解決な問題を無意識に抱え込んで、違った外面を見せて生きてきている。
その心の底に抱えている問題を、正直に自分に話すことで、自分が自分を理解できるようになる。
自分が自分を知ることができるようになる。
そうすればスッキリした気持ちで生きられる。
自分を理解できなければなにも始まらない。
自分がモグラか鷹かが分からなければ、空を飛んでよいのか、土に潜ってよいのかも分からない。
自分を知ること自体は目的ではない。
それは自発的成長の力を解放する方法である。
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前向きになれない人が前向きになれる心理
「自分を知る努力」が幸せな人生の必須科目
誰にでも力はある。
問題はその力を発揮できるかどうかである。
その力を発揮するためには、絶対に自分を知る必要がある。
自分は猫と分かるから木に登る。
自分は犬と思っていれば、木に登らない。
モグラと分かっていれば、空を飛ぼうとしない。
無意識を意識化することが「自分を知る」ということ。
自分を知ることを拒否した人は、人生最後まで救われない。
大切な努力は「自分を知る努力」。
自分が猿と分かれば、泳ごうとしない。
泳げないことに劣等感を持たない。
自分が魚と分かれば、木に登ろうとしない。
登れないことに劣等感を持たない。
木に登れないことを嘆かない。
「ああ、なんで俺は木に登れないんだ」といつまでも嘆いて、貴重な時間を無駄にしない。
木に登れる猿と自分を比較しない。
運命が違うのだから。
運命を受け入れる。
不幸を受け入れる。
だからすることが分かる。
これもシーベリーの言葉である。
過去も遺伝も、いまの自分を受け入れる。
「私はできない」と言って、そのあと努力しない人は、自分の限界を受け入れたのではなく、たんに、無責任人間になったというだけのこと。
自分を受け入れるということは、どのような自分であれ、その自分の価値を信じること。
自己の内なる力を強化すること。
名声、力などでは「ひとりになる」ことに耐えられない。
大切なのは人と関わる中での努力。
いままでの努力の方向を変える。
自分を受け入れるということは、元気になること、意欲的になること、感動するようになること。
自分が本当に求めていることが分かるということが、アイデンティティの確立である。
自分の得意領域と不得意領域が分かることがアイデンティティの確立である。
そしてそのことで人生の諸問題を解決する能力がつく。
捨てる物は捨てられるし、受け入れなければならないことは受け入れる。
鳥でもないのに空を飛びたいというのは、人生のリスクが増すだけである。
自分が本当にやりたいことが分からないからである。
それは長いこと自分の内面に、心に耳を傾けないで生きてきたからである。
しかし、それには乗り越えなければならない「内なる障害」がある。
その人の「私はこうだと主張しているその私」と、「実際のその人」との間には大きな乖離がある。
意識では「私は自信がある」と自信を誇示しているが、無意識では「私は自信がないんだ!」と床に座って叫んでいる。
「実際のその人」と、その人が周囲の人に見せている姿の間には大きな乖離がある。
仮装舞踏会で、仮装している人が、自分が仮装していることを忘れているようなものである。
女装した男性が、自分は女装していると分かっていればよい。
人生が行き詰まっている人は、自分が女装しているということに気がついていない。
人生が行き詰まっている人は、「自分のなにが問題なのか?」を理解すればよい。
まわりの人とうまくいかないのは、独りよがりの正義感かもしれない。
「IQではなくEQだ」と騒がれた時代があった。
EQの要は感情の自己認識である。
「私はできない」と言って、常に人になにかをしてもらおうとする人は、自分の無力を受け入れたのではなく、たんに、利己的人間というだけのこと。
自分を受け入れるということは、どのような自分であれ、その自分に喜びを感じることだから。