自己否定してしまう人が自信を持つための心理

自己否定してしまう人は無意識の「もっと、もっと」があなたを苦しめている

自己否定してしまう人は自分に気づけば生きるのが楽になる

自己否定してしまう人とはいったいどういうことだろう。

ある人は困難に出合っても、なお幸せを更新していく。

困難のなかで新たな幸せを見つけていく。

いろいろな調査に基づいて「幸せ」について研究した本がある。

その本によると、いろいろなことがあっても幸せである人のパーソナリティーには一定の特徴がある。

その特徴の一つが、目的に向かって仕事をすることである。

幸せになるためには適切な目的をもつことが大切である。

では逆に、最も不適切な目的はどのような目的であろうか?

つまりこの目的で自己否定してしまう人は不幸になるというような目的である。

不幸になってしまうのは誰にでも好かれようとすることである

そうなると自己否定してしまう人は他人からどう思われているかを気にして、他人から好かれようとする生き方にしてしまう。

相手によい印象を与えるかどうかに、自己否定してしまう人は自己のアイデンティティーがかかってしまう。

人によく思われるかどうかは結果である。

それを自己否定してしまう人は目的にしてはいけない。

よく思われるかどうかは手のひらの上の鳥である。

つかもうとすると逃げていく。

人付き合いを「つらい」と感じる人へ。

不幸になる人は、好かれようとして「現実の自分」を無視する

自分の器を自己否定してしまう人は知らないし、その器に満足していない。

自分の器を許せない。

自分が誰だかもわからない。

自分の目的がない。

だからボクシングを習っていないのに騒がれたくて、自己否定してしまう人はリングに上がっていってしまうような人である。

淋しいから、自己否定してしまう人はみなの反応してほしいのである。

現実と彼らはコミットしていない。

現実の社会のなかで自己否定してしまう人は生きていくという姿勢がない。

現実の社会のなかで実際の自分で生きていくという姿勢がない

そして傷ついた自分の神経症的自尊心を自己否定してしまう人はどう癒すかということから出発する。

そこで現実の自分を無視することがはじまる。

そこで適切な目的を自己否定してしまう人はもてない。

実際の自分では傷ついた神経症的自尊心を癒やせない。

「実際の自分」を自己否定してしまう人は許せない。

傷がいやされるためには自己否定してしまう人は「こうでなければいけない」のである。

お金とか名誉とか権力という薬を、傷口にぬってほしいのである

心の傷が痛むから、自己否定してしまう人はそうせざるを得ない。

彼らの目的は現実を考慮して出てきた目的ではない。

「痛みをとめてくれ」という自己否定してしまう人は心の傷の叫びから出てきた目的である。

肉体的な傷は大きければ救急車が運んでくれる。

救急車ならば、信号を無視しても事故はおきない。

心の傷も同じなのである。

大きければ救急車に運んでもらわなければならない。

心の傷は見えない

そこで救急車は来てくれない。

自分の車で信号を無視していくようなものである。

そこで事故がおきる。

つまり自己否定してしまう人は現実の世界での挫折である。

そして「現実の自分」はすべて悪いと自己否定してしまう人は思っているから「現実の自分」を許せない。

自分の手に入るものではダメ。

癒しにならない。

自分のしていることは嫌われると思っている

自己否定してしまう人は自分も他人も嫌い。

たとえば自分の顔が引きつる。

それを隠して笑う。

相手はそれに気付いているから、おもしろがらない。

すると「自分が笑っても相手はおもしろくない」と思う。

自分のすることを自己否定してしまう人は相手が嫌うと思い込んでいる。

そうなると話すときも嫌な顔になってしまう

自己否定してしまう人は目を見ながら話したいのだけれども目を見て話せない。

顔が自己否定してしまう人はこわばってしまう。

赤ちゃんを好きな人は、赤ん坊の抱き方がうまい。

赤ちゃんを嫌いな人はよく教えられて努力しても、赤ちゃんがむずがるという。

好きならばいろいろのことが自然とうまくいく。

逆に「自己否定してしまう人」は努力してもうまくいかない。

優越したいからみなと一緒ではイヤ

みなとラーメンを食べるのでは自己否定してしまう人はイヤ。

有名レストランで料理が出たら、自己否定してしまう人はお金を払うことを考えないで、食べてしまうような人である。

有名レストランで料理を食べているときに心は癒される。

有名人と会っているときには心が癒される。

しかし名誉も権力も実は本質的には心の傷を癒やさない。

一時的なものである。

だからどうしても自己否定してしまう人は「もっと、もっと」にならざるを得ない。

求めるものに見境がないのは心が満足していないからである

自己否定してしまう人は自己実現の結果としての成功でないから、成功が心の芯の部分で満足をもたらさない。

成功すればするほど不安になる。

その不安を自己否定してしまう人は成功で解消しようとするから、いよいよ成功は満足をもたらさなくなる。

目的をもった自己実現の結果としての成功でないなら、成功しないほうが幸せなのである。

明確な目的をもたないで社会的に成功しても自己否定してしまう人は、心の不安と空虚さに悩まされるだけである。

目的があって、たくさん資料を集めるのは欲張りではない

ただ自己否定してしまう人は集める。

それが欲張り。

目的なしにパソコンをもらう。

それが欲張り。

目的があって、パソコンを欲しがるのは欲張りではない

「もっと、もっと」は自己否定してしまう人の「私を見て!」という愛情欲求である。

目的のない自己否定してしまう人はみな欲張りである。

華道の話になると師範の資格をもっているような話し方をする。

ゴルフの話になるとプロ級の腕前の「そぶり」をする。

「あの有名人を知っている」という。

いつもそうして虚勢を張っている

そうして癒しを求めている自己否定してしまう人の態度は「人からバカにされたくない」が基本的姿勢である。

したがって日々していることが心の中で積み重なっていかない。

人間関係の積み重ねも自己否定してしまう人はない。

偉い人が愛されるという錯覚で生きてしまっている。

そしてマゾヒスティックな頑張りを自己否定してしまう人はする。

つまり仕事をして、気に入られることで自分を守ろうとしている。

だから最後には自己否定してしまう人は友達も何も残っていない。

自己否定してしまう人が自分に自信をもつのは、そんなに難しくない

なぜこうなってしまうのか?

優越しないと自己否定してしまう人は誰も自分を相手にしてくれないという自己無価値観、みなから尊敬されたいという愛情飢餓感があるからである。

愛情飢餓感があると、自己否定してしまう人はどうしても適切な目的がもてない。

スーパーマーケットで食料品の大安売りをしている。

愛情飢餓感がある自己否定してしまう人は、お腹が空いてもいないのに買いものカゴいっぱい買ってしまう人である。

とにかく自己否定してしまう人は得をしたい。

心理的に健康な人は自分が食べたいものだけを買う

孤独に強い人は適切な目的を持っている。

人に好かれようとしないから。

孤独に弱い自己否定してしまう人は、適切な目的を持っていない。

心の傷をいやすことが目的だから。

他人に認めてもらうことが自己否定してしまう人は必要だと、その心の傷をさらに深めてしまう。

ここに、アメリカの心理学者、デヴィッド・シーベリーの「自分を許す」ための言葉を書いておきたい。

「自分自身であることの権利を信じつつ、敢えて目標を定め意図を明確にするならば、人生を心配事で曇らせるようなことはないでしょう」ということである。

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自己否定してしまう人にとって「理想の自分」など、どこにもいない

いつでも焦ってしまう人は、次のことがわかっていない

この人生には無駄な時間などないのだということである。

焦る人は、歩いていると走らねばならない気持ちになる。

散歩していると、自己否定してしまう人は散歩などしていないで仕事をしなければならないような気になってくる。

疲れた体に鞭打って働いていると、自己否定してしまう人は今度は、こんなにして働いていないで、もっと休養をとらなければと焦り出す。

休養しようとすると、今度は逆に働かねばと焦る

何をやっていても自己否定してしまう人は今自分のやっていること以上にもっと有効な時間の使い方があるのではないかとあせる。

疲れた体に鞭打って働いても能率はあがらない。

すると、ああこの時間を休養していればと自己否定してしまう人は思う。

そして時間を自己否定してしまう人は無駄にしたような気持ちになって焦る。

また休養していれば休養していたで、仕事のことを気にしながら休養しているから、充分に休養できない

ああこの時間を働いていればよかったと自己否定してしまう人は思う。

そして充分に疲れがとれなかったということで焦る。

何か自己否定してしまう人は仕事を気にしていながら休養していた時間は、無駄であったような気になる。

こうして、いつもいつも大切な時間を無駄にしているような気持ちになって、いよいよ生活全体に焦りが出てくる。

強迫的に自己否定してしまう人は充実・進歩・発展・能率を求める。

不安が動機になっているだけに、いよいよその不安が強くなるのである。

同時に二つも三つもの場所にいようとする

人間は一時に一つのことしかできないのに、自己否定してしまう人はこれをすればあれ、あれをすればこれをしようというようになって、いつもいつも安心できない。

同時に二つのことを自己否定してしまう人はしようとしてしまうのは、自分がないからであろう。

さわやかな五月に山に行きたいけれど、仕事もしなければというとき、たいていの人は自分にはどちらしかできないとおのずから感じている。

しかし、焦る自己否定してしまう人は、仕事をしていれば爽やかな空気が、爽やかな空気を吸っていれば仕事が気になる。

自分が二人も三人もいるのでない以上、どちらか一つしかできない。

そんなことは誰だって頭では分かっている。

しかし焦るほどに自己否定してしまう人というのは、その頭で分かっているようには自分のやることを感じられないのである。

いい景色を眺めれば、多くの人はいいなあと思う

その体験を喜び、満足する。

焦る人も同じように感じる。

しかし焦る自己否定してしまう人というのは、その体験が、他人に対して自分の評価をあげることにつながらない限り、心から満足することはできない。

やはり焦る人というのも、他人の評価に頼る。

いや他人の評価に自己否定してしまう人は頼って生きる依存性があるからこそ、焦るのである。

2つのことを自己否定してしまう人はなぜ同時にしなければ気がすまないかといえば、1人で立っていられないからではなかろうか。

体験をしたということだけでは満足できない

その体験を自己否定してしまう人は人によかったと認めてもらってはじめて心から満足できる。

つまり自己否定してしまう人はその体験が自分の評価をあげるときにのみ、満足できる。

気がすむ。

つまり自己否定してしまう人は依存性が強くて、体験のためにのみ体験があるというのでは気がすまないのである。

したがって、いつも自己否定してしまう人は評価をあげるために、他人から承認してもらうために、ある体験をしているのである。

いってみれば、無駄な時を過ごしたと焦るのは、その体験が他人からの承認を得ることにあまり役に立たなかったということで焦っているのである。

別のことをやっていたほうが、自分の評価をあげていたのではないかと焦る

自己否定してしまう人は欠乏動機で行動している人なのである。

もっと人に認めてもらおうとして焦っているのである。

そしてもっと人に自己否定してしまう人は認めてもらおうとすることで、自分の偉さをひけらかして、かえって人の反発を買うということもある。

ある体験をしたとき、自己否定してしまう人は自分はこんなにすごい体験をしたのだぞとひけらかすことで、かえって周囲の人から嫌われるということもある。

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自己否定してしまう人が「一分のロス」に耐えられない心理

人間の過ごす時間で無駄な時間などない

熟睡できるのも一つの体験だし、寝付けないのもまた一つの体験である。

それはそれで、そういう時間の過ごし方なのである。

すまさなければならない仕事がたくさんあるときや、うまくことがすまないときなど焦る。

しかし考えてみれば、その仕事ができないからといって殺されるわけでもない。

なぜ焦るかといえば、その仕事をきちんとすまさなければ、ある人に軽視されるからではなかろうか。

あいつはあまり有能でないと自己否定してしまう人は評価されるのが怖いからではなかろうか。

何かをアチーブメント(達成)しているときだけが意味のある時間であると、焦る人は感じる。

それもおそらく自己否定してしまう人は何かをアチーブメントすれば、それは自分にも周囲の人にもよく見えるからであろう。

焦っている人の育ってきた環境としては、きわめて業績志向の環境だったのではなかろうか。

何も達成することなくすぎていく時間が、その人を焦らせるのである。

何だか知らないけれど、何もしないであたふたしているうちに、一日が終わってしまったなどというのが、その自己否定してしまう人を焦らせるのである。

行き過ぎた業績志向、つまり業績をあげることだけが意味となってしまっている雰囲気、それは自己否定してしまう人など人々の心をいろいろな点から病ませることになる。

心を壊す人を生み出しやすい家庭の雰囲気がそうである

またアメリカの女性精神医学者、カレン・ホルナイは、劣等感は所属感の欠如から生まれるというが、まさにそのとおりであろう。

そしてこの所属感の欠如をもたらすのが、行き過ぎた業績志向である。

業績をあげた人だけが、その集団に属するに値するという姿勢である。

もともとそのような業績志向は、家庭の本来の在り方ではない。

それにもかかわらず親のなかには、そうした点で子どもの家への所属感をそこない、子どもに劣等感をもたらせてしまう人もいる。

「無駄のない生き方」の落とし穴。

何も達成することなく過ぎていってしまった時間もまた、それは別の意味があるものだということが、焦る人にはわかっていないのである

自己否定してしまう人は何かを有効に達成しているときにのみ気持ちが落ち着く。

パッと起きて、パッと仕事をし、パッと食事をし、またパッと仕事をし、パッと休養をし、という具合に、自己否定してしまう彼らは一分の無駄もなく一生が埋まっていないと気持ちが落ち着かない。

食事をしてから彼らは本格的に仕事にとりかかる前に、次の場所に行かなければならなくなり、そこにはやく着きすぎて、ぶらぶらとしているうちに時がどんどん経っていくなどというのが、耐え難いのである。

受験生でいえば、自己否定してしまう彼らは食事が終わって、数学をはじめたが、気が散って何もてにつかないうちに一時間過ぎ、次の英語にうつったが、前の能率の悪い数学の勉強のことが気になって英語にも身が入らない。

そんな時間の過ごし方を自己否定してしまう彼らはしたので、床についても焦って眠れない。

昼の時間のロスをなんとか取り返そうと熟睡をめざすから、よけいに眠れない

そして翌日も自己否定してしまう人はボーっとして能率があがらないということになる。

計画とか予定とか意図にゆとりがないのである。

人生にはどうしたって、そんな無駄な時がどうしても出てきてしまう。

どうしても調子の出ない一日もあれば、ただあたふたとして疲れるだけで何にも達成できないまま時が流れていってしまうことだってある。

何か疲れたけれど、今日一日何をしたのだろうと考えてみると、何もしていないということだってある

ほんの少しのロスも自己否定してしまう人というのは、避けようとしているのである。

そのわずかのロスをも避けようとすることが完璧主義なのである。

シーベリーは、完全な成功を目指す人は完璧な愚か者だといっている。

お金儲けに強迫的に駆りたてられているという自己否定してしまう人は、お金儲け以外のことに一分でも二分でも使われることに耐えられないということである。

それが自己否定してしまう人の強迫的ということであろう。

半端な部分、無駄な部分があるからすばらしい。

強迫性と神経症的完璧主義、焦りは共通したものがある

一分のロスにも自己否定してしまう人は耐えられないということである。

強迫的にお金を求めている自己否定してしまう人は、お金儲けには全く結びつかない一日には耐えられないし、そのように一日を過ごすことで、ものすごく焦る。

強迫的にお金を求めている人にとって、お金というのは普通の人にとってのお金と意味が違ってきている。

これも行きすぎた業績主義の反映であろうし、お金はもはやお金ではなく、その自己否定してしまう人の生きる意味になっているのである。

行きすぎれば生きる唯一の意味になってしまう。

ある材木で机をつくれば、どうしても使われない部分というのが出てきてしまうであろう。

同じように一日を工夫しても、自分の目的に直接役立たない時間も出てきてしまう

強迫的な人、自己否定してしまう人というのは、この無駄な部分に耐えられない。

それはロスであって、自己否定してしまう人にとって取り返さなければならないものなのである。

そして取り返そうと焦る。

取り返そうと焦れば焦るほど、自己否定してしまう人はそのロスが大きなものに感じられる。

神経症的完璧主義の自己否定してしまう人は、ロスをロスとしてあきらめることができない。

そのロスは業績主義的観点からすればロスではあるけれど、別の観点からすれば、それはそれでまた意味のあるものであろう。

ある板で机をつくる。

どうしても半端が出る。

それは机だけがこの世の唯一の意味であるという見方からすれば無駄である。

しかし小さな子どもにとっては、その半端な切れ端が買ったおもちゃよりおもしろい遊び道具になることだってある。

そしてそのロスがあるから机ができるのである

ロスがあるのが自然なのに、自己否定してしまう人はロスがあってはならないと思い込んでいる。

1日の時間の使い方でも焦る自己否定してしまう人にとっては、ロスがあってはならないのである。

自然を無視してスケジュールをきっちりとたて、そのスケジュール通りにことを運ばないと気が済まない。

とにかく自己否定してしまう人に重要なことは「すぐ」目的地に着くことであり、「すぐ」食べることである。

その結果、他人も自分もコントロールしようとする。

しかし自分も他人もそんなにコントロールできるものではない。

他人も自己否定してしまう自分をきっちりとコントロールしようとするのは、不安だからである。

すべてにわたって几帳面で、そのとおりにしないと気の済まないという自己否定してしまう人は、不安を抑圧しているのである。

不安の反動形成が極端な几帳面さである。

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心配性といわれる人がいる

これからおきることを自己否定してしまう人はああでもない、こうでもないと悩んだり、ああなったらどうしよう、こうなったらどうしようと、くよくよと悩む。

こうなったら大変だ、ああなったら大変だと自己否定してしまう人は夜も眠れない。

しかし、たいてい心配するようにはならない。

それなのに自己否定してしまう人は心配することで消耗し、かつ心配することで時を無駄にする。

こういう人は怒りを抑圧した人であると、シーベリーは言っている。

たしかに心配性の人というのは、何か心に悩みをもっている

何か心に葛藤のある自己否定してしまう人のほうが、不必要に心配する。

ほとんど起こり得ないようなことを恐れて、もしそうなったらどうしようと深刻に悩んでいるのである。

安全第一主義というより、自己否定してしまう人は非現実的なほどの安全を求める。

世の中には心配しても、どうしようもないことがたくさんある。

自分があることをしてしまった。

もうそのことは変えようがない。

その結果は誰だって気になる

やってしまったことだから、今更心配したってどうしようもないとあきらめる人もいれば、しかし、いつまでも心配している人もいる。

たとえばある人に、断りの手紙を書いてポストに入れた。

そしてそれはもう相手のほうに届いてしまった。

ある会に参加するとか参加しないとかいうことである。

もうどうしようもないのに、自己否定してしまう人はそのことを相手がどう受け取ったかということを、いつまでもいつまでもくよくよと心配している。

断らないほうがよかったのではないかなどということを、いつまでも考えている

今さらそんなことを考えてみたところで、どうなるわけでもないのだが、自己否定してしまう人はそのことを考えて他のことが手につかない。

ごはんを食べていても、歩いていても、そのどうしようもないことを考えている。

気になってしかたないのである。

変えられない過去のことを自己否定してしまう人は、ああすればよかったのではないか、こうしておけばよかったのではないか、自分は大変なミスをおかしてしまったのではないかと、ぐずぐず悩んでいる。

どうもそのような人は、心に何か葛藤があるようだ。

問題は、ああでもない、こうでもないとくよくよと悩んでいることにあるのではない

自己否定してしまう人は、心の葛藤がそのようにくよくよと悩むということを通して表現されているのである。

たとえば、もともと自己否定してしまう自分は、このように生きるべき人間ではなかったのではないかという思いがある。

自分の人生は、そもそも根本的に失敗だったのではないかという思いがある。

しかしそのような自己否定してしまう人の心の底の思いを、とうてい認めることはできない。

こんな生き方をしてしまった自分と、そんな生き方を強制した周囲にいい知れぬ怒りを覚えている。

しかしこの怒りを自己否定してしまう人は認めることはできない。

たとえばこのような怒りや、根本的な失望感を抑圧していると、自己否定してしまう人はどうしてもそれが現実の個々の選択の失敗への恐れとなって現れてくるのではなかろうか。