1.自己無価値感から自己価値感人間への五段階
無価値感人間から脱皮するプロセス
自己無価値感人間が自己価値感人間に脱皮するプロセスを五段階に分けられます。
おおいに参考になりますので、以下概略を紹介します。
第一段階
日々精神的にも、身体的にも息づらさを感じながら、およそ自分の生き方が間違っているとは気づかずにいる段階です。
この段階の人は、生きづらさを自分の内面に求めるのではなく、もっぱら外界のためだとして、外界を非難します。
あるいは、生きづらさを社会的価値に依存することで解消しようとあがきます。
自己無価値感人間の多くの人は、この段階から抜け出せないままに人生を終えてしまいます。
第二段階
ふと、もしかしたら自分の生き方が間違っているがゆえの生きづらさなのではないだろうか、と疑ってみる段階です。
この疑問を持ちながら、やっぱり間違っていないと逆戻りしてしまう人がいます。
疑問をさらに進めて、自分の生き方こそが間違っているためだという結論に至る人もいます。
後者の人は、自己無価値感人間を脱却するための大きなハードルを越えたことになります。
第三段階
生きづらさを抱える自分と、日々生き生きと生きている人々との間では何が違うのだろうかと、あれこれ考えながら、主に生き方のテクニックに走り、いろいろ試してみる段階です。
こうした表面的な手法は、一時的にそのつらさを癒してくれても、根本的な解決にはなりません。
真の原因に気づかずに、この段階でとどまってしまう人が多いのです。
第四段階
生きづらさから脱するためには、表面的な行為ではなく、もっと根本的なことを変える必要があるのではないかと疑問を持つ段階です。
この疑問を深めていくと、人間の本当の価値とは、表面的な社会的価値とはまったく違うものなのだということに気がつきます。
すなわち、社会的価値の達成や所有ではなく、「その人がそこに居る存在こそに本当の人間の価値がある」という認識に達するのです。
しかし、それでもなお、自己無価値感を埋めるための社会的価値を求める行為から逃れることができず、この矛盾に苦しみながら生きている状態です。
第五段階
人間の真の価値を理解した上で、その動機をもとにした行為を重ねることで、ますます確信を深めていく段階です。
先の矛盾に対して、生きづらさそれ自体が、自分や他人を守るために本来人間が持っている必要な要素であると気づき、そのつらさをありのままに受け入れられるようになります。
これにより、必要以上に生きづらさを増幅するということがなくなります。
真の人間の価値の理解から生みだされる動機により、自分や周囲の人に対してありのままを愛せるようになり、幸せな人生を歩んでゆくことになります。
このように、あなたが生きづらさを感じる人だとしたら、それはあなたが引き受けざるを得ない試練なのです。
それを引き受けながら、大事なのは真の人間的価値としての行動を積み重ねていくことです。
そうした行動を積み重ねるなかで、社会的価値という外的基準ではなく、自分の内発的な基準で物事を感覚し、理解し、判断し、評価し、欲求することができるようになっていくのです。
自己無価値感を一気に抜け出るような特効薬はありません。
本当の自己価値へと向かう誠実な努力を積み重ねるなかで、少しずつ、そして、いつのまにか自己価値感を感じとれるようになるのです。
自分と自分の人生を受け入れる
自己価値感人間に至る五段階説は、無価値感の生きづらさから一足飛びに救われることはないということを教えてくれます。
また、当然のことですが、現在の自分の延長線上にしか、これからの自分も存在し得ないということを確認させてくれます。
これまでの自分を否定したところに、救われた新たな自分があるわけではありません。
ですから、過去と現在における自分を受け入れ、その上でこれからをどう生きるのか、と問うことです。
自分と自分のこれまでの人生を受け入れることが、新たな自分づくりへの基礎であり、出発点なのです。
ある人は、これまでの人生を「つらかったのに、よくがんばってきたな」と自分をほめ称えながら、受けとめることができるでしょう。
ある人は、「意気地がない、だめな自分だった」と悔恨ばかりが感じられるかもしれません。
ある人は、「別な環境が与えられていたら、もっとましな人生が送れたはずなのに」と、恨みがましい気持ちが強いかもしれません。
また、ある人は、演技し、迎合し、自分を生きられなかったと、恥じる気持ちが強いかもしれません。
そのいずれにせよ、自分だけに責任があるわけではありません。
幼く無力な存在であった自分と、圧倒的に強力な外界という力関係のなかで、それぞれの人が置かれた状況により、そうならざるを得なかった自分なのです。
そう考えれば、それほど否定的な人生ではなかったといえるのではないでしょうか。
どのような人生を生きてきた人でも、「建気にもがんばってきた自分」とほめることができるのではないでしょうか。
自分の人生は、だれも代わりに引き受けてはくれません。
だれを恨もうと、だれを妬もうと、自分の人生が変わるわけではありません。
人生には勝ち負けも存在しません。
ただ、自分が生きてきたという事実が、そして、自分がどれだけ満足であったかということだけが残るのです。
だとしたら、これまでの人生を愛しみを持って受け入れようではありませんか。
これまで生き抜いてきた自分を、ほめ称えようではありませんか。
自分と自分の人生を受け入れいること。
これだけでも自己価値の感慨が湧いてくるはずです。
なぜなら、それは、自分と自分の人生を価値あるものと讃えることなのですから。
そして、その上に、いっそう満足できる、充実した自分の人生を作ろうではありませんか。
仏教では生老病死が人間の四大苦であるといいます。
「生きること」そのものが苦しみなのです。
だから、苦しく、つらかったことは、自分への試練。
苦い後悔は、これから効能を発揮する良薬。艱難辛苦、これもまた自分を育てる教材。
そんなふうに受け止めようではありませんか。
自分で自分の人生を愛さなかったら、だれが自分の人生を愛してくれるでしょうか。
■関連記事
生きづらさを引き寄せる無価値感
生きる自信がない無価値感の克服
生まれつき感じやすい無価値感
成長してから自信を失う無価値感
無価値感を乗り越える視点
2.自己無価値感を埋める努力でなく、幸福である努力を
大事なのは努力の方向
自分と自分の人生を受け入れ、必要であれば、努力の方向を修正することです。
人生の目的は、無価値感を埋めることではなく、幸福であることです。
大事なことは、自己無価値感を代償しようと努力するのではなく、幸福であるための努力をすることです。
無能力と思われたくない。
批難されたくない。
人から評価されたい。
ほめられたい。
注目されたい。
箔をつけたい。
有名になりたい。
それによって自信を持ちたい。
いずれも無価値感を埋めようとする欲求です。
このような目標への努力で人生を送ってしまったとしたら、結局は自分の人生を生きなかったことになります。
そうではなく、幸福への努力をすることです。
幸福とは到達点ではありません。
幸福とは、満たされた環境のことでもありません。
幸福とは生活のプロセスであり、生活のあり方にともなう心地良い感情のことです。
心を通わせ自分なりの楽しみを見つける
幸福の条件、その一つは、周囲の人との心通わせあう生活です。
友だち、恋人、夫や妻、子ども、孫、父親、母親。
自分の周囲のこれらの人びとに、自分のそばにいてくれていることを実感するでしょう。
この関係を大事にして、お互いがいっそう心地良い状態であるよう努力を傾けることです。
幸福の条件、もう一つは、自分が心から満足できる行動をすることです。
これをおこなっているときが楽しい。
これをやっていると、つらくてもそれ以上の充実感が得られる。
こうしたことを徹底的におこなうことです。
それは趣味であるかも知れないし、仕事であるかも知れません。
それ以外の、たとえばボランティアなど、何かの活動であるかも知れません。
こうした自分が満足できること、それを「自己価値」とよびます。
自分にとって価値があるというものであり、また、これをおこなうなかで自己価値感がもたらされるからです。
自己価値は人により多様です。
就職したての若者は、仕事を覚えるのが嬉しくて、仕事こそ自己価値と感じるかもしれません。
働き盛りの人もまた、自分の仕事の能力の高まりが充実感をもたらすので、仕事が自己価値であるかも知れません。
金銭的にも労働条件でも満たされないが、それでも老人や子どもの喜ぶ顔を見るのが嬉しくて福祉の世界に身を置いている、そうした人も仕事が自己価値といえるでしょう。
地域の民俗学の研究や歴史の掘り起こしが楽しくて、コツコツと続けている人がいます。
汽車や電車に魅せられて、世界中を駆け巡っている人がいます。
里山に居を移し、自然と融合した心から納得できる生活を楽しんでいる人もいます。
そうかと思えば、九十歳を越してなお、社会への恩返しとして、意気軒昴に現役で活躍している人もいます。
これらは、いずれも、自己価値を選択した生活スタイルです。
自己価値と感じられる行動では、比べること、勝つこと、社会的価値などは、ほとんどその色彩を失ってしまいます。
そんなものよりも自分なりの楽しさ、満足感、達成感や充実感のほうが、はるかに比重を増します。
そして、それをおこなっていること、おこなえること、そのこと自体に幸せを感じ、自己価値感を実感するものなのです。
自分の感覚や感情を素直に信頼する
自分のこれまでを受け入れること。
そして、無価値感を埋めるための努力ではなく、自分が幸福である努力をすること。
この出発点は、自分の内発的な身体感覚に従うことです。
すなわち、自分の感覚、感情、欲求、衝動をありのままに感じ、それを素直に行動に表わすことです。
芸術作品を見ても自分の感想が言えない。
それは、自分の感覚、感情、そして自分の言葉に自信を失ってしまっているからです。
物事を決められない。
それもまた、自分の感覚、感情、欲求を信頼できないからです。
自分の感覚を言葉にしてみましょう、自分を抑えることなく。
どんな有名な作品でも、良いと感じなければ「私は好きではない」と言ってみます。
作者がだれであろうと、自分がいいと感じたら「すばらしい」と言いましょう。
自分の感情を素直に表現する努力をしてみよう。
嫌だと思ったら、「イヤ!」と言おう。
つらかったら、「つらい」と言おう。
不当な仕事を押しつけられたと感じたら、「ノー」と言おう。
他のだれかのために物事がうまくいかないとき、ふさぎ込むのではなく、その人に怒りの感情を伝えてみよう。
ただし、相手を責めるのではなく。
正々堂々としていよう。
何も恐いものはないのです。
恐がっているのは、人を信じきれない自分の内面なのであり、「こうあらねばならない」として勝手に作り上げてしまった自分についてのイメージなのです。
楽しかったら楽しいと言いましょう。
相手がしてくれたことで気持ちが良かったら、素直に言葉に表現しよう。
相手もきっと喜んでくれるはずです。
身体の感覚や感情こそ、自分そのものの出発点です。
身体の自然な欲求に従ってみましょう。
気分が重く、どうしても仕事がはかどらないときは、思い切って休みをとって遊びに出よう。
マズローも、「自分は何を喜びとしているかを見る能力を取り戻すことが、大人にとっても踏みにじられている自己を再発見する最善の方法である」と述べています。
こうした自分になろうとする努力をしていると、自分の殻が取れる感じがします。
肩の力が抜ける感じがします。
自分の感性が回復しつつあることを感じます。
素直な感情を取り戻しつつあることを感じます。
自分自身をたしかに生きている、という実感が得られます。
友情を大切にする
友人とは、自己価値感を強化し合う存在です。
とりわけ、若い時期の友人は、大人になる勇気と大人として生活する自信を与えてくれます。
自己無価値感の強い人は、この機会をみずから狭めてしまっていることが多いのです。
たとえば、相手の心を深読みして、不必要な遠慮をしてしまったり、つい、比較の対象として見てしまい、防衛的に身構えてしまいます。
あるいは、傷つくことを恐れて、表面的な交流にとどまろうとします。
同年齢の人との率直な関係を逃げていては、ぜったいに自分に自信を持つことはできません。
若いうちは、たとえ傷ついても、誠実に深く交わろうとする努力をすることです。
数多くなくともいい、信頼できる友と、ありのままの姿を共有し、夢を語り合い、励まし合い、成長を刺激しあう関係を大事にすることです。
このことは、ほんらい努力を要するようなことではありません。
しかし、自己無価値感の強い人は、無意識のうちに防衛的心理が働いてしまうので、こうした姿勢を突き崩す努力が必要なのです。
「自分を守ろうとしない」
「いつでもありのままの自分で接するようにしよう」
こうしたことを意識的に自分に言い聞かせつつ、自由で開放された自分であることを心がけてみましょう。
一生の友だちは、お互いの人生をお互いの心のなかに焼き付かせつつ生きる関係です。
これにより、お互いの人生と自己価値感を共有する存在となるのです。
「お互い、がんばってきたな」と、盃をくみかわすことは、家族とは別な深い愛情の喜びがあります。
愛情を深める
愛することとは、愛する人の成長や幸福を自分のこととして関心を持ち、発展させる努力をすることです。
この愛の能力は、健康で安定した自己価値感が前提になります。
自己価値感が希薄だと、偽愛としての愛の関係に陥りがちです。
たとえば、孤独からくるさびしさや自己無価値感からくる空虚感を埋めようとする結びつきを愛情と誤解してしまいます。
あるいは、自己犠牲こそ最高の愛情であると勘違いし、いつでも相手のために自分を奴隷にしてしまいます。
自分自身を生きるつらさから逃れるために、自分を無にし、相手に全面的に同化してしまうということも生じます。
そうではなく、自分にも相手にも誠実であり、お互いの心のなかにお互いのままでいることを喜び合い、この状態をいつまでも継続していこうとする努力をすること、これが愛なのです。
この誠実な努力のなかで、愛し、愛されているという幸福感に包まれながら、深い自己価値感が体験されます。
夫婦の愛情関係に疑惑を抱き、幸福な関係へと修復することに期待を持てない人もいるかも知れません。
しかし、夫婦という愛情関係は、ちょっとした心の持ち方を変えるだけで劇的に変わる可能性があるのです。
じっさい離婚相談を担当しているカウンセラーは、そうしたケースに多く出会っています。
「こうあってほしいなどと望まないで、ただ相手の良い面だけを見て、あるがままに相手を受け入れよう。
自分と人生を共にしてくれる。このことだけでいっぱい感謝しよう」
こう決意し、この努力を続けることで、夫や妻の別な面が見えてくるし、幸福を感じることができるようになることが少なくないのです。
望んでも得られないことを望んでいたら、失望しかありません。
幸福は、幸福になろうとする自分の決意と努力しだいなのです。
幼い子どもの時期は、受容されることだけで自己価値感の修復が可能です。
しかし、青年期以降は、ある程度能力への自信が獲得できないと自己価値感の修復は困難です。
この自信を与えてくれる最大の源が仕事です。
仕事には、打ち込まなければ見えてこないものがあります。
ただ、生活費を稼ぐため、という受け止め方では、仕事は苦役でしかありません。
そうではなく、全身全霊でぶつかることで、仕事は自分にとっての意義を与えてくれます。
全能力をかけて挑戦すべき課題として、面白みをもって迫ってくるのです。
また、仕事があるからこそ、趣味や遊びがいっそう楽しいものとして浮き上がってきます。
定年退職後に毎日を趣味と遊びで過ごすことを夢見た人も、その多くは仕事を懐かしみます。
達成感がほしくなり、趣味や遊びを目標化し、計画化します。
それでも、趣味や遊びの楽しさの水準は、仕事の現役時代に及ばないものです。
仕事に徹底的に打ち込む時期が人生には必要であり、仕事こそ自分と自分の人生に多様な価値感情をもたらしてくれます。
仕事は、とりわけ男性にとってもっとも大きな自己価値感の源です。
女性においては、子どもを産み、育て、家事労働を担当し、家庭を営むことで、相応の自己価値感を獲得できます。
それでも、一人前の仕事をしたという体験は、その後の人生を生きる上での大きな自信を与えます。
現在の若者の仕事を取り巻く情勢は、むしろ自己価値感を貶める雰囲気が強いようです。
採用者に気に入られるようにと自分を抑えて何十社と受ける就職活動。
心ない面接者の言葉。
次々と届く不採用通知。
自己価値感がずたずたにされる体験が繰り返されます。
いざ採用され、就職しても、即戦力として扱われ、仕事の仕方を教えてもらう余裕がありません。
職能給と称した給料の切り下げ。
人減らしによる労働強化もあります。
良き相談相手を持つこと
ダニエル・レビンソンらは、青年が社会人となり、やがて一人前の大人となる時期を「親米成人時代」と名付けて、この時期に為し遂げるべきこととして、次の四点をあげています(南博訳『人生の四季』講談社)。
1.夢を持ち、その夢を生活構造のなかに位置づけること
2.良き相談相手を持つこと
3.職業をもつこと
4.恋人を作り、結婚し、家庭を作ること
4つの課題の一つとして、「良き相談相手を持つこと」をあげていることが注目されます。
この「親米成人時代」に、良き相談相手に出会えることは、その人の精神発達や生活の形成、人生に大きな影響を与えます。
思い出してみれば、私たちは、親米成人時代に「良き相談相手」ともいうべき存在であった何人かの人に出会っているでしょう。
それは生き方を教えてくれる師であったり、より広い世界に導いてくれた先輩であったり、仕事に誘ってくれ、仕事を教えてくれた年長者であったり、目をかけてくれた上司であったりしました。
現在の若者は、人間関係の希薄さのために、先輩や同輩のなかにそうした存在を持ちにくい状態です。
また、自立に要する期間も長くなっています。
こうしたことから、とりわけ、職場における先輩や年長者である「良き相談相手」の必要性が高まっているのです。
ところが、職場環境の厳しさのために、そうした人たちは自分の仕事で手一杯で、若い人たちの良き相談相手となってあげるだけの余裕を持てません。
そのために、良き相談相手なしに、この親米成人時代を乗り切らねばならない若者も少なくないように思われます。
しかし、周囲を改めて見てみれば、見習うべき先輩、尊敬できる上司などがいるはずです。
たとえば、仕事への誠実な態度、人間的な暖かさ、技術の高さ、的確な判断能力、視野の広さなどを持った人がいるはずです。
こうした人々をモデルとし、また、こうした人に臆せずに近づいていき、積極的に学び取る努力をすることです。
会社や組織、そして社会を次に担っていくのは、とうぜん若者たちです。
そのために年長者は、次の世代を育てることをも本来の重要な任務であることを再確認し、「良き相談相手」になってあげることが求められます。
生活の修正で乗り切る
いま、この現実に向き合って誠実に努力すること。
それが人間的な誇りをもたらし、自己価値を実感させることにつながります。
こうした努力がなければ、自分と自分の人生の空虚さ、危うさの感覚から逃れることはできません。
しかし、誠実な努力をしてもなお、どうにもならない現実もたしかに存在するでしょう。
働く価値を実感できない職場。
あなたの誠実さをあざ笑い、利用するだけの周囲の人びと。
あなたを無価値化することで、自分の価値感を確保しようとする相手。
自己無価値感の強い人は、こうした状況のなかでも耐えて、がんばっていこうとします。
しかし、あなたの誠実な努力は空転するだけでなく、無力感や罪責感などがあなたを苦しめ、いっそうあなたを無価値化するのです。
こうした状況のなかにいる人は、自分が望むより良い方向へと、生活を変える勇気を持つことが必要です。
職場がそうした所なら、部署を変わるとか、転職するなどです。
同居する親や結婚相手がそうした人なら、別居するとか、離婚するなどです。
つらさから逃げるのはいけない、とよくいわれます。
その通りですが、そうではなく、あくまでも賢明な選択として、新しい生活の可能性を考えることです。
そうはいっても、現実にはそれが賢明な選択なのか、逃げなのか、確信できるものではありません。
そもそも、そのうちのどちらかに、明確に分けられるものでもありません。
ですから、こうした決断をする場合、多少の迷いはつきものです。
また、いまの生活を変えたとしても、悩みやストレスから逃れることができるわけではありません。
新しい生活には、新たな悩みやストレスが存在するからです。
しかし、自分で決断し、実行したという事実は、自分を生きるという確実な実感をもたらしてくれるはずです。
つらくても、苦しくても、まぎれもなく自分が自分の人生を生きている、という満足感と喜びをもたらしてくれるはずです。
さらにいえば、自己実現は、必然的にある程度の生活の変化を要請するものなのです。
なぜなら、精神的な成長は、それまで適合的だった環境との間にいささかの不適合を引き起こさざるを得ないからです。
たとえば、生徒と親しく接し、彼らの成長の手助けをすることに喜びを感じ、情熱的に教育に当たっていた教師でも、やがて中年になり内面生活への関心がより比重を増すようになると、これまでと同じように子どもたちに関心と情熱とエネルギーを注ぐことに困難を感じるようになることがあります。
社会主義を守ることを夢見て弁護士になった人が、初老を迎える頃になり、平穏さを求める心が強くなると、将来にわたってつねに裁判という闘争の場に身を置かざるを得ないことに戸惑いをおぼえるようにもなるでしょう。
安定した職業として公務員や銀行員、あるいは大企業を選んだ人は、そのなかで自分が小さな一つの歯車でしかない感覚が強まり、早期退職や独立を夢みるようになるかもしれません。
多くの人は、こうした場合、仕事そのものを変えるのではなく、生活の微修正で乗り切ることになります。
それは、たとえば、仕事と自分の生活とのバランスを変えることであり、仕事一辺倒であった生活を、趣味や家庭生活に時間とエネルギーをより多く費やすようになるなどです。
3.自己無価値感から自己価値感を得る技術
私たちを苦しめるのは、永い年月のなかで形成された心です。
ですから、ちょっとした技術や考え方を少し変える程度では、この心から解放されるということは期待できません。
日々の生活のなかで地道に努力をすること。
それにより、自分がしっかりと生きているという誇りと自信と自己価値を実感する体験を積み重ねていくこと。
それしかありません。
しかし、それでも心をコントロールする技術や心構えを持つことは、こうした日々の努力を支えるのにある程度有効です。
そうした技術や心構えをいくつかあげておきましょう。
自分の良いところを見る
自己価値感の希薄な人は、自分の欠点に目がいきやすいものです。
欠点ではなく、自分の良いところを見るようにしましょう。
「融通がきかなくて、鈍くさい」
「嫌なことなのに嫌と言えないで、引き受けてしまう」
「つい相手に媚びて、自分を偽ってしまう」
自分のなかにそんな欠点を見ていたら、それを長所に変換してみることです。
「融通がきかなくて、鈍くさい」を「決めたら最後まで守り抜く強い意思がある」と思うことです。
「嫌と言えないで引き受けてしまう」ならば「なんでも引き受けて自分を成長させようとする積極性がある」と考えることです。
「つい相手に媚びて、自分を偽ってしまう」は「相手のことを大事にする優しさがある」と変えてみるのです。
こうした見方をすることは、自分を好きになることにほかなりません。
自己価値感の希薄な人は、長所を伸ばす努力よりも、欠点を直すことに努力を向けがちです。
長所を伸ばす努力は楽しく、欠点を直す努力は苦しいものです。
それで、いっそう苦しみのなかに自分を導き入れてしまっているのです。
周囲の楽しく生きている人を見ればわかるように、欠点がないから楽しいのではなく、また、欠点がないから人から好かれるのではなく、ただ、自然であるから楽しいのです。
自然だから好まれるのです。
欠点のないいい人だから価値があるのではありません。
もちろん長所があるから価値があるのでもありません。
いまのあなたのままで価値があるのです。
すべての人間が選ばれてこの世にいるのです。
誕生したこと。
生きていること。
それだけで、かけがえのない価値なのです。
誉め言葉を素直に受け取る
自己価値感の低い人は、だれかに誉められた時、内心は嬉しいのに「ありがとう」と素直に受け入れることができないものです。
謙遜したり、「そんなことない」と否定してしまったり、実際に「自分は誉められるに値しない」とか「自分を誉める相手のほうが間違っている」などと感じてしまいます。
ほめ言葉を素直に受け入れる努力をしましょう。
「私なんか」と謙遜せずに「ありがとう」と言いましょう。
自己価値感が低いと、他の人をほめることでも躊躇してしまいがちです。
自分が誉め言葉を言っても喜んでくれないのではないかとか、欺瞞的に受け取られるのではないかなどと、余計なことを考えてしまうからです。
だれかを素敵だと思ったら、それを素直に表現してみよう。
それがあなたの感じたことなら、きっと相手は喜んでくれます。
いっそう心が通じ合う体験になるはずです。
自己価値感の低い人は、「ありがとう」という言葉を使うべき場面で、「すみません」「申し訳ありません」という言葉を使用しがちです。
自分と相手は対等なのです。
自分を一段下げ、自分にだけ負担をかぶせる「すみません」や「申し訳ありません」の言葉は、できるだけ使わないようにしてみましょう。
こんな細かいことでも、いざ実行してみると、意外に自己価値感がもたらされることがあるものです。
自己暗示をかける
自己無価値感の強い人は、無意識のうちに自分の価値を貶める自己暗示をかけてしまっています。
「親の期待に応えられない自分はふがいない」
「有名校に入れなかった自分はだめだ」
「やせないと、男性から好きになってもらえない」
「自分には取り柄がない」
そのように思わずに、意識的に「自分に価値がある」と自己暗示をかけることで、否定的な自己暗示から抜け出すことです。
そのためには、言葉で自分に言い聞かせる方法があります。
心理療法でいうセルフ・ステートメント法です。
「えらいぞ。よくがんばってきた」
「大丈夫。自分を信じていこう」
「自分は自分。自分らしく生きよう」
弱気や自信のなさが心を占めたら、深呼吸して、「大丈夫、大丈夫」と言いながら自信を吸い込んで、弱気や自信のなさを吐き出すようにしましょう。
ユニークな絵で評価されている少年が、自分が描いた絵の点数を聞かれて、「百点満点」と答えていました。
こうした自分への肯定的な姿勢が、創造性を生み出すことにつながっているのだと感じられました。
少年を見習って、仕事が済んだら「完璧、完璧!」と言いましょう。
関連記事
4.子どもの自己価値感を育てるには
親が心がける八つのポイント
最後に、子どもの自己価値感を育てるためには、親はどのようにすれば良いのかを考えてみましょう。
おそらく、この問いに対して、完璧な解答を与えることなどできないでしょう。
親の意図が子どもにどのように反映するかは、また別なことだからです。
でも、もしもう一度幼い子の親になれるとしたら、以下のようなことを心がけていきたいと思っています。
1.一緒にいられる時間を大いに楽しみたい
とりわけ子どもが幼いうちは、子育ては大変。
でも、過ぎてしまえば、あっという間。
そう思って、子どもと一緒にいられる時間を無上の喜びとして楽しみたい。
2.一人の人間として尊重したい
どんな幼くとも、未熟な存在として対処するのではなく、共に成長しつつある仲間として、接したい。
子どもの話はゆったりと、楽しい話は楽しく、悲しい話は悲しく聞きたい。
否定したり、修正したり、結論を急いだりせずに。
大事なことをしている、大事なことを話していると受け止めたい。
3.気持ちと行動を分けることを教えてあげたい
感情が起こるのは当たり前。
憎しみ、怒り、妬み、そうした感情それ自体に良い悪いはない。
ただ、どう反応するかに善し悪しがあること。
そして、適切な行動とは何かを子どもと一緒に考えたい。
4.すべての人がかけがえのない存在であることを伝えたい
一人ひとりは違っているのが当たり前、そして、みんな大事な人であることを伝えたい。
そのためには、子どもを足りない面ではなく、加算法で見てあげたい。
そして、それぞれの人の良さを伝えてあげる。
それが、自分を、友だちを、そして、人びとを大切に思う心に繋がるものと信じて。
5.良さを伝え、意欲や努力をほめてあげたい
足りない所や欠点でなく、子どもの良いところを見て、伝えてあげたい。
親の期待枠で評価したり、他の子どもとの出来具合を比較したりするのではなく、意欲や努力そのものをしっかりとほめてあげたい。
子どもの潜在的な可能性に楽観的な確信を持って。
6.夢と努力との関係を体験させてあげたい
勤勉、忍耐、努力、実行、勇気によって、夢や物事が達成可能であること。
このことを実感できるような体験をいっぱい与えてあげたい。
たとえ失敗したり、挫折しても、自分の夢をすてるのではなく、現実に合わせて修正することで夢を持ち続けることを教えてあげたい。
7.相応の責任を負う体験をさせてあげたい
誕生祝いやキャンプ、旅行など、家族の行事を企画から実行まで、子どもの能力に応じて任せてみたい。
また、ちょっとしたことで良いので、家の仕事の分担を継続しておこなわせたい。
それが、いつのまにか粘り強く取り組む姿勢と結びつき、物事を主体的にやり遂げる自信につながると考えるから。
8.それぞれの時期を堪能させてあげたい
幼稚園、小学校、中学校、高校と、その時期、その時期をたっぷりと堪能させてあげたい。
人生百年時代。
たとえ多少回り道したとしても、何の問題もない。
それだけ人生が豊かになるというもの。
そんなゆったりとした気持ちで成長を見守っていきたい。
発達とは、人生をより楽しく、より深く過ごす力が育つことです。
年を重ねるほど生きることが苦しくなるとしたら、それは発達ではありません。
子どもや青年が本来の発達としての力を育むことが大切なのです。