イライラしたときは自分のべきに目を向けてみる
イライラするとき、どうしても目がむくのは外側。
自分をイライラさせている他人なり状況なりに目がいくものです。
「〇〇のせいで・・・」という感じ方がその典型ですね。
しかし、外側に目を向けている限り、イライラから解放される日は来ないものです。
もちろん、傘を振って歩いている人に「危ないですよ」と一声かけて状況を変えることはできますし、「これは気が付かなくてすみません」などと返してもらえればイライラを解消することもできるでしょう。
しかし、そんなふうに簡単にコントロールできることばかりではないので、イライラするのです。
イライラは、「被害者モード」に陥っている証拠である感情。
そして、「被害者モード」のときの主役は自分ではなく相手だということです。
つまり、イライラを「相手問題」として考えている限り、私たちは無力な被害者にとどまってしまう、ということになります。
それが「相手問題」なのであれば、自分をイライラから救い出すことができるのは相手だけ、ということになってしまうからです。
こんな無力な存在があるでしょうか。
自分が何に困っているのかを整理しよう
ただイライラしているのは、最も無力な「被害者」。イライラという不愉快なエネルギーに浸っているだけで、解決のとっかかりもつかめないからです。
しかし、イライラしているときに、「自分は困っている」と認めた上で、「自分は何に困っているのか」を考えてみると、状況が変わります。
相手がどうこうということではなく、自分の身に実際に起こっている「被害」について考えてみるのです。
困っていることが明確になれば、その解決に向けて主体的に取り組んでいくことができます。
ただただむずがっている子どもは無力な存在だけれども、自分が抱えている問題点を整理してプレゼンテーションできる大人は、やはりそれだけ問題解決能力が高い、自分の面倒を見る力がある、というイメージです。
イライラするとき、そこにある「べき」を考えてみよう
「困っている」という感覚がつかみにくい方は、まずは、そこにある「べき」は何なのだろうか、ということを考える習慣から始めるとよいでしょう。
「本来あるべき状態」とは違うことが起こっていて、それをコントロールできないと感じるときにイライラするわけですから、その「本来あるべき状態」とは何なのかを考えてみるのです。
そこにある「べき」が明確になれば、それは実現可能なことなのか、実現に向けて取り組む価値のあることなのか、あるいは現実をそのまま受け入れて「べき」を手放したほうがよい性質のものなのかがわかってきます。
また、その「べき」が満たされないと自分がどう困るのかを考えてみることもできます。
ただイライラしているときとは違って、前向きな一歩を踏み出すことができるのです。
「べき」がすぐに見つからない人は、イライラするときに頭の中にある「なんで?」から考えるのも一つのやり方です。
イライラするときには、「なんでこの人は周りの状況に鈍感でいられるの?」などという「なんで?」が頭の中にあると思いますが、それはつまり、「人は周りの状況に敏感でいるべき」という「べき」が問うている質問なのです。
感情的になっているときは、書いてみる
これらのことは、紙に書き出してみてもよいでしょう。
感情的になっているときには頭の中でただイライラがぐるぐる回っているだけ、ということにもなってしまいますが、自分の「なんで?」は何なのだろう、自分の「べき」は何なのだろう、自分はどう困っているのだろう、ということを書こうとすれば、頭も整理されてきて、事態をより客観視することができるようになります。
書き出してみると、その「べき」に笑ってしまうこともあるでしょう。
例えば猛暑日には「気温は高過ぎるべきではない」という「べき」が書かれるかもしれませんが、それだけで笑ってしまいイライラが終わる人もいるかもしれません。
ポイント:「なんで?」と思うこと、「べき」と思うことを書き出してみる。
必然としての「べき」と自分にとっての「べき」がある
イライラから解放されて力のある主役になるための第一歩は、まず、現実との争いをやめるということ。
現実は現実であり、いくら闘っても勝ち目はありません。
イライラしているときは、「なんで?」と、現実という固い壁に生身をぶつけているようなもの。
現実をうけいれないことで傷つくのは自分自身ですし、現実を受け入れるところから全てがスタートします。
イライラとの取組みは、現実の受け入れからです。
この際、持っておくと役に立つ視点は、「どんなことも必然」だということ。
「物事は起こるべくして起こる」という意味の、必然としての「べき」であれば、「本来あるべき状態」から逸脱しているものなど、実はないのです。
どんな物事にも、それが起こる背景なり文脈なりがあって、その中である物事が起こるのは必然とも言えるもの。
ですから、本当の意味で、「本来あるべき状態」からの逸脱などというものはない、と言うこともできます。
では何を「本来あるべき状態」からの逸脱と感じるのか、と言うと、それはあくまでも「自分にとっての『本来あるべき状態』」からの逸脱。
「本来あるべき状態」とは主観的なものであるのです。
まさにそれは個人的なものなのです。
手放しにくいと感じるのは、ここに関わってくるからでしょう。
自分にとっての「本来あるべき状態」からの逸脱を大目に見てしまう、ということになると、自分が必死で守っているものが損なわれることになってしまうからです。
それはまるで自分が否定されるかのような感覚をもたらすものです。
この感覚が、「被害者モード」につながっていきます。
人にはそれぞれの事情がある
しかし実際には、別のとらえ方があります。
自分が大切に守っているものを損ねずに、かつ、現状を受け入れる、というやり方があるのです。
それは、相手の行為を「不適切」とみなした上で、「でも相手がそういう言動をとるようになったことには何らかの『必然』があるのだな」と考える、ということです。
あらゆる人が、それぞれの事情を抱えています。
持って生まれたもの、育った環境、今まで周りにいた人たち、現在置かれている状況、その日の気分や体調など、その人にしかわからないいろいろな事情があるのです。
そして、その人の現状は、その事情の中で起こる「必然」とも言えるもの。
その人の事情の組み合わせを考えれば、そうなるしかない、と言えるようなものばかりなのです。
つまり、私たちが「変えたい」と思う部分は、その相手の複雑な事情の中の一点に過ぎず、そこだけを変えることはなかなかできないのです。
例:食事の時にクチャクチャ音を立てる人
これは音そのものにもイライラしますし、「クチャクチャ音を立てないというマナーを、どうして守れないの?」というイライラもあります。
しかし、一般に、よほど親しい人や自分の子どもでもない限り、相手のクチャクチャを注意してやめさせる、などということは社会的に不適切ですね。
ですから、「コントロールできない感」いっぱいになって、イライラし続けることになるでしょう。
ここで考えてみたいのが、自分の中にある「本来あるべき状態」が相手にとっても「本来あるべき状態」なのか、ということです。
「食事中はクチャクチャ音を立てない」ということは、それを「本来あるべき状態」とする人にとっては呼吸のように「当然のこと」なのですが、そういうことを教えてもらえない環境で育った人もいます。
周囲の人たちも皆クチャクチャ食べていた、という環境もあったでしょう。
あるいは現在歯の治療中だったり、口腔内の具合が悪かったりして、不本意ながらクチャクチャしてしまうのかもしれないし、本人はそれに気付いていないのかもしれません。
どんな事情があるのかわかりませんが、「食事中はクチャクチャ音を立てない」のが「本来あるべき状態」であるこちらとは、明らかに違った事情を持った人なのでしょう。
イライラを感じるのは、「当然」守られるべきことを相手が守っていないから。
でも相手にとってそれが「当然」ではないのだということを知れば、相手の行動も違った目で見ることができるでしょう。
「そういうことを教えてくれる人がいなかったんだな」と考えれば、気の毒にすら思えるものです。
自分の場合もそういうことは教えられなかったが、社会常識として自分で身につけた、という人もいるでしょう。
もちろんそれは立派なことです。
ただ、人によっては、それが社会常識だということを知る機会すら得られずに育ってくる人もいますし、「気づき」に先天的な問題があって、周りの人が皆クチャクチャしないで食べているということに気づけない人もいるのです。
相手の事情の本当のところはわからない場合が多いでしょう。
でも、相手が目の前でクチャクチャ音を立てて食べていることには何らかの事情がある、ということだけは確かに言えるのです。
例:「開放厳禁」という貼り紙のついたドアを開けっ放しにする人
もちろん一回くらいのことなら、多くの人が「よほど急いでいたのだろう」と見逃すでしょう。
しかし何度も同じことを繰り返しているのなら、その人は「注意」の問題を抱えているのかもしれません。
一つのことに注意を奪われるとそれで頭がいっぱいになってしまって、他のことが抜け落ちてしまう、というタイプの人は案外少なくないものです。
このような「注意」の問題は、その多くが先天的なもので、本人がどれほど意識しても変えられません。
ですから、「注意」の問題を抱えていない人には何ということもない程度のことでも、「注意」の問題を抱えている人にはおそろしくハードルが高い、ということになってしまうのです。
ポイント:「不適切な行為」でも、相手側には何らかの「必然」がある。
自分のべきを必然のべきへ
自分にとっての主観的な「本来あるべき状態」と、相手の事情を反映した相手の現在の姿(必然としての「本来あるべき状態」)がずれていると、イライラにつながります。
そして、多くのことを必然ととらえられるようになるほど人は寛大になる、ということを前項でお話ししました。
しかし、そこまでの境地に達しなくても、ある一つの行動についてであれば、その「ずれ」を埋めることは決して難しくありません。
つまり、ずれがなくなる方向に自分でコントロールすることはいつでも可能なのです。
自分にとっての「本来あるべき状態」と、必然としての「本来あるべき状態」の「ずれ」が埋まると、どんなことが起こるでしょう。
その効果は、単にイライラしなくなるということだけにとどまりません。
相手をほぼ100%、自分が思った通りに動かすことが可能となる、という状況が起こるのです。
どういうことかと言うと、必然としての「本来あるべき状態」に沿って相手は行動するわけですが、こちらから期待することを、それに合ったものにしてあげれば、成功率が100%に近くなっていく、ということなのです。
具体的に見ていきましょう。
期待が相手に合ったものかどうかを考えてみる
自分が他人に対してイライラする場合、いったい自分は相手に何を期待していて、何が満たされないからイライラするのだろうか、ということを考えてみましょう。
自分が考える「本来あるべき状態」を書いてみるのもよいでしょう。
書き出してみると、それが案外非現実的であることを発見する場合もあります。
例:子どもに何度同じことを言っても改善されない。野球に出かけるのにバットを忘れる、それも毎回。あるいは、自転車で出かけるのに、自転車のカギを取りに戻ってくる、それも毎回
こういうことでイライラするときの期待(本来あるべき状態)というのは、「一回くらいのミスは仕方ないとしても、いくら何でも野球のバット、自転車のカギなど、最も肝心なものは普通忘れずに持って行くべき」というものでしょう。
一般に、何度言っても行動を変えない、という場合、それは、「相手にはできないこと」であるのか、「伝え方が相手に合っていない」のか、のどちらかだと言えます。
いずれにしても、「今の伝え方できちんと実行する」という期待は満たされませんので、イライラが続きます。
相手が子どもの場合、「もしかしたらまだできないことなのではないか」という視点を持つことは常に重要です。
大人から見れば、野球のバットや自転車のカギは「最も肝心なもの」。確かに、それらがなければ話になりません。
しかし、子どもの場合、「野球」「出かける先」に目が向いてしまうと、その楽しみで頭がいっぱいになってしまって、「そのために必要な準備」が注意から抜け落ちてしまう、ということは珍しくないのです。
ある意味ではそれはとても「子どもらしいこと」と言えます。
もちろん、子どもが成長するに伴って、そのような失敗は減っていくはずです。
しかし、現時点では、子どもに期待することを、現在子どもができていること、
つまり「気づいて取りに戻ってくる」というところにおさめてあげる、というのが「本来あるべき状態」の現実的な調整だと言えます。
実際に、何が必要かを理解し、それを修復することができている、というふうに見れば、子どもはちゃんと発達段階を歩んでいる、と安心できるでしょう。
一定年齢以上になってもそんなことが毎回続くのであれば、むしろ「注意」の問題があると考えて、チェックリスト方式などを教えるなど、教育的な配慮が必要になると思います。
例:こんなときどうしたらいい?と相談されて答えたのに、それについてもああだこうだ言って結論が出ない
ここで相手に期待することは「自分が相談して答えをもらったら、それを聞き入れる」というところでしょう。
その期待が満たされないのでイライラするのですね。
相手への期待をどのように修正すればイライラせずにすむのでしょうか。
現実はそうなっていないのだから・・・と考えてみよう
こんなときには、現実をもっとよく見てみると、ヒントを得ることができます。
相談されて「正解」を言ったつもりなのに相手はそれを受け入れない、ということは、この前提のどこかに「ずれ」があるはず。
「正解」を求めて相談したのであれば、それをなんらかの形で受け入れようとするでしょう。
しかし、現実がそうなっていないということは、相手は「正解」を教えてほしくて相談したわけではないのかもしれない、と考えてみるのです。
実際に、人は「相談」と称していろいろなことをするものです。
自分の思考を進めていく上で、ブレインストーミングのような形で、相手の意見を刺激剤として聞いてみたかっただけかもしれません。
あるいは、自分の頭の中にすでに結論があって、それをなかなか決断できないときに、人の意見を聞くことによっていろいろな角度から考えてみたい、という場合もあるでしょう。
また、単に話を聞いてほしかった、という可能性もあります。
「話を聞いて」とはなかなか言いにくいので、「どう思う?」と相手の意見を聞くような体裁をとるのです。
実は、こういう人の数はとても多いです。
こんな場合、本人にとって重要なのは結論ではなく、気持ちを受け止めてもらうこと。
一定時間寄り添ってもらいたい、というのがその本心なので、「正解」を与えられて話を打ち切られるのはいやなのです。
この人物がどのタイプなのか、詳細はわかりませんが、現に言った通りにすっきり決まっていないということは、「正解」を求めて相談したわけではない、ということだけは確かです。
「なんだ、正解がほしかったわけではないのだな」と思えれば、相手に期待することも変わりますから、イライラが消えていくでしょう。
そして、相手が「正解」を求めているわけでないなら、結論に至るまで付き合う必要はありません。
適当なところで話を切り上げればよいだけでしょう。
ポイント:期待が現実的でなかったり、前提がずれているからイライラするのかも。
「べき」で自分を守ろうとすると自分が損をしてしまう
不安が強いときは「べき」で自分を守りたくなります。
また、自分の「べき」を手放すと損をするような感じがします。
しかし現実には、「べき」が自分を守るどころか、「べき」こそが自分に損をさせることも少なくありません。
例:電話が鳴っても取ろうとしない同僚
「電話はできるだけ取ろうとするべき」というのが「本来あるべき状態」でしょう。
そしてこの同僚に対してイライラしている人は、「電話を取って」などと直接同僚に向き合ったことがないのだと思います。
そういうことは、やはり「言いにくいから」です。
何であれ、他人の非を指摘するようなことは言いにくいものですし、電話の場合、結局は自分が取ってしまえばそれですんでしまいます。
上司でもないのだし、「電話を取って」と言うだけの正当性が自分にあるか、と問われれば、確かに難しいところかもしれません。
ですから、「コントロールできない感」いっぱいになってしまって、イライラするのですね。
「べき」は事態を膠着状態に陥らせる
こんなふうに、頭の中にある「電話はできるだけ取ろうとするべき」という思いとだけ対話をしてしまって、現に電話を取ってくれない相手とは対話していない、という状況は少なくないものです。
事態を改善するための行動を取っていない自分を、「電話はできるだけ取ろうとするべき」という「べき」が正当化してくれるため、事態が膠着状態に陥ってしまっているのです。
もちろん、こんなときにも今までと同様、電話を取らない同僚には何らかの事情があるのだろうな、という見方をするところから全てが始まります。
なぜこの同僚が電話を取ろうとしないのか、本当のところをわかっているでしょうか。
こういう状況で考えられる可能性は様々です。
対人緊張が電話においてひどく強まるので電話は苦手、という人は少なくありません。
また、「自分ごときが電話を取るなんておこがましい」と思っている、自信のない人もいます。
「気づき」に問題があって、「取れるときには電話を取って下さいね」と明確に伝えない限り、それが自分の仕事だと気づかない人もいます。
つまり、必ずしも故意に「取れるのに取ろうとしない」わけではないのです。
そして、この同僚の場合、いずれのケースなのか、おそらく検証はされていないと思います。
もしも「取れるときには電話を取って下さいね」と一言言えば事態が改善するのであれば、その一言を言ってみないことによる損失は甚大だということになります。
また、一言言った結果、相手の行動が変わらないとしても、対人緊張が強い人なのだと知るだけで、相手を見る目が変わるでしょう。
「取れるのに取ろうとしていない」わけではなく、「取れるものなら取りたいけれども、できなくて困っている」という事情がわかるからです。
「電話を取ってくれると助かるけど、難しい?」と聞いてみたり、「取れるときは電話を取ってくださいね」と改めて頼んでみたりすれば道が開ける、ということは、考えてみればだれにでもわかりそうなものです。
しかし、それができておらず事態が改善されていないのは、「電話はできるだけ取ろうとするべき」という「べき」が、「そんなことをする必要はない」と言うからなのです。
つまり、「べき」は一見自分を守っている鎧のように見えて、実のところは、事態を改善する芽を摘んでいると言えます。
自分に損をさせているのです。
「べき」は、現実と自分との間に壁を作るようなもの。
現実と交流しさえすれば事態を改善できるのに、「べき」が立ちはだかってしまうとそれすらできなくなってしまう、と考えてみるとわかりやすいでしょう。
ポイント:「べき」は自分を守ってくれない。かえって、自分の首をしめている。
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「べき」から行動すると評価を求めるようになる
相手から思った通りの反応が返ってこないためにイライラする、という土台には、「認められたい」という思いがあるものです。
例:相談されて、一生懸命考えてあげたのに、その後、何の報告もなくケロリとしている。どうやら問題は解決したらしいのに
こんなときには、「時間を使ってあんなに一生懸命考えてあげたのに、感謝どころか、一言の報告もない」とイライラするものですね。
気持ちは分かりますが、ここでも「べき」を探してみましょう。
イライラのもとにあるのは、「そうだんしたらきちんと報告すべき」というもの。
これは相手についての「べき」ですが、自分についての「べき」は何でしょうか。
すると、「相談されたら一生懸命考えてあげるべき」という「べき」が見つかってきます。
この「べき」が、相手の「べき」とセットになるのです。
自分が一生懸命やってあげたら、相手は一生懸命やってもらったことを認める(感謝して結果を報告する)べき、というふうに、こちらが「べき」から行動したときには、相手もセットの「べき」で行動すべき、ということなのです。
そして相手がそれを破ると、満たされない「べき」がイライラにつながります。
もちろんこの「べき」も「したい」に言い換えれば「相談されたら、一生懸命考えてあげたい」となりますので、相手がどう反応しようと、まあ自分が誠意ある対応をした、そしてそれがおそらく解決の役に立っただろう、というところで満足することはできるでしょう。
そして、相談したのに報告しない相手には何らかの事情があるはず、ということも考えることができると思います。
その「事情」とは、もしかしたら悩んでいたこと自体を忘れたい、というものかもしれません。
あるいは、悩んでいる当時は本当におかしな心境になっていて、誰彼かまわずつかまえて相談していただけなのかもしれません。
今はまた全く違うことを悩んでいてそれどころではないのかもしれません。
もともとうっかり者で、そういうところがどうしても抜け落ちてしまうタイプなのかもしれません。
いろいろな可能性が考えられます。
人から認められたいという気持ちの裏側にあるもの
自分が「べき」から行動したときには、相手にも「べき」を求める、ということは、よく頭にとめておいたほうがよいことです。
つまり、人から認めてもらえなくて不快な気分になったり不安になったりするときには、自分が「べき」で生きているとき、と言えるのです。
「人から、寛大な人だと思われたい」という気持ちは、「人間は寛大であるべき」という「べき」とセットです。
ですから、人目を気にして行動するときは、常に「べき」に基づいている、と言ってよいのです。
「べき」から行動するときは、相手に対しても「べき」を期待しますから、人が認めてくれないと不満に思ったり不安になったりします。
すると、ますます認めてもらいたくなって「べき」からの行動を強める・・・という悪循環に陥ってしまうのです。
人から評価してもらわないと自分の価値が感じられない、というのは、自分で自分の価値を認めることもできない無力な存在ですが、やはりここでも「べき」が大活躍していることがわかります。
ポイント:他人からの評価が気になるときは決まって「べき」に基づいて行動している。
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相手に「べき」を感じるときは自分の「べき」を探す
「べき」が出てきたら「したい」に言い換えてみる、ということをあらゆる状況で行えば、「べき」に縛られている「無力な被害者」から、力強く主体的に生きる「主役」へと、一気に変わることができます。
しかし、「べき」から「したい」に言い換えようにも、自分についての「べき」かきちんと意識されていないことも多いので、見ていきましょう。
例えば、頼まれてもいないのにやってあげて「こんなにやってあげているのに」とイライラする、という人は案外少なくありません。
こんなときの「本来あるべき状態」とは、「これだけやってあげているのだから当然感謝すべき」というものでしょう。
しかし、相手からすれば、頼んでもいないことをやっている人に「感謝すべき」と言われてもピンとこない場合もありますし、実は「余計なお節介」と感じていることすらあるのです。
結果として感謝されないのは、相手から見れば「本来あるべき状態」なのかもしれません。
相手についての「べき」の裏側には自分についての「べき」がある
さて、「これだけやってあげているのだから当然感謝すべき」という「べき」は、相手についての「べき」です。
一般に、イライラするときに目につくのは、相手に対して感じる「べき」なのですが、実はどんなときにもその裏側には自分についての「べき」を見つけることができます。
なぜ自分は頼まれてもいないのに頑張ってやってしまうのか。
それは、「人のためには尽くすべき」という「べき」があるからかもしれません。
一般に、相手から思った通りの反応が返ってこないためにイライラする、というときには、自分が「べき」から行動していることが多いものなのです。
「自分はやりたいからやっている」という感覚を持つようにすると、「自分で選ぶ」ということになり、相手の反応がどうであれ、イライラしないですむようになります。
もちろん、「頼まれていないことはしない」という選び方もよいでしょう。
こうすれば、自分が相手のためにしたことに感謝してもらえる確率がぐっと上がりますし、「こんなにやってあげているのに」とイライラすることも減るでしょう。
しかし、「頼まれていないことはしない」のは殺風景だと感じる人もいるでしょう。
困っている人には親切にしたい、という気持ちがある人も多いと思います。
そんなときには、その通り、「したい」を大切にすればよいのです。
これもマナーの話と同じで、自分の美意識としてやっていること、つまり自分は人間としてこう生きていきたい、という話。
たまたま相手が感謝してくれれば温かいやりとりが生じますが、そうでなくても自分は生きたいように生きる「主役」でいられるのです。
もちろん、思ったような反応が返ってこないときには、びっくりして衝撃を受けることもあります。
しかし、そのまま「被害者モード」に突入してイライラ街道まっしぐら、となるのか、衝撃を受けた自分をいたわった上で、「自分はやりたいからやっただけ。やはり自分は人として、こうやって生きていきたい」というところに戻れるのか、というのは大きな違いです。
後者は常に自分に安定した大地を提供してくれます。
自分の「べき」がわかると、生き方も変わる
例:公共の場で騒ぐ子どもを注意しない
この状況にイライラしている人の場合、そこにある「べき」は、「公共の場で他人に迷惑をかけないように、親はしっかりと注意すべき」というものでしょう。
これも相手についての「べき」ですから、自分についての「べき」を探してみましょう。
でも自分の子どもでもないのに、どんな「べき」があるのだろう、と思うかもしれません。
ここで考えてみたいのは、そもそもなぜ自分が直接その子どもを注意しないのか、ということです。
子育ては社会全体で行うもの、と言われますが、親以外の大人でも子どもを注意できる社会が理想的です。
「ここで走ると危ないよ」などとよその大人から注意されて育った子は、単にマナーを覚えるだけでなく、自分が社会全体から見守られ、気にかけられているということも感じとりながら成長できます。
ですから、本当は、騒いでいる子どものことを他の大人が注意してよいのです。
しかし昨今では、よその子を注意するとその子の親が怒る、などという現象も起こるため、何となく「よその子を注意すべきではない」という雰囲気ができてしまい、この「べき」が、「親はしっかりと注意すべき」に反映され、イライラを生む、という構造になっているのです。
この、「よその子を注意すべきではない」という「べき」については、そのまま「したい」に言い換えるのも変です。
それよりも、「したい」と思うと元気が出てくるような内容に変えてみましょう。
例えば、「できるだけ社会での子育てに貢献したい」「自分の子でなくても、よく育つように協力したい」というふうになるでしょうか。
「したい」がわかったら、少しずつ実行していけばよいでしょう。
いきなり叱りつけると「我が子が攻撃された!」と防衛する親もいるでしょうが、「ここで走ると危ないよ」程度の注意であれば、その子の親が突然キレてしまう、ということもあまり考えられないと思います。
親がキレるのは、自分の子育て(育て方、その結果)を責められたと思うときが多いのです。
ですから、親を責めるようなトーンが感じられない言い方なら大丈夫でしょう。
状況がゆるすのであれば、そうやってちょっと注意してみることで、自分のイライラからも解放されますし、うるさい子どもの「無力な被害者」から、社会全体での子育てを担う主体的な一員に転じることができます。
ポイント:イライラから解放されるためには、「べき」より「したい」を大切にする。
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べきを手放すと、強くなれる
「べき」で生きている人は、「強い」と思われがちです。
自分の信念を持ち、それを曲げず、他人との間でもそれを強く押し通していく・・・それこそいわゆる「強いリーダー」の姿に映ります。
しかし、真実は「べき」こそが人を弱くする、ということ。
「べき」にエネルギーを供給するのは「不安」です。
「べき」で生きているとき、それが満たされないと私たちは何らかの形で不安になります。
その不安は必ずしも「不安」として自覚されるわけではありません。
比較的多いのは、本人が不安として自覚することなく、他人に何らかの行動や感じ方を押しつける、という形で表れるケースです。
他人に頑として何かを押しつけているとき、その実体が「不安」だということは一見してわかりにくいのですが、「他人に何かを押しつける」というのは、自分自身の不安の解消のために行われる性質のものです。
その実体が不安であることを知るためには、「もしも他人がそれをやってくれなかったら」と考えてみるとわかると思います。
そこで起こる反応は、多くの場合怒りだと思いますが、なぜ怒るのか、相手が言うことを聞かないとどうなってしまうと思うのか、ということを考えていくと、そこにある「不安」がわかってくるはずです。
つまり、「べき」で生きている人は、一見強く見えても、実は不安が強いだけの人、ということになります。
そして、他人とのやりとりも、不安をベースにして行っているのです。
イライラで他人をコントロールし続けると、燃え尽きや怒りを招きます。
それは、不安で人を操作しようとすることの結果なのです。
人は不安を煽られるとそれなりに動きますが、それがいつまでも続くと燃え尽きてしまったり、自分の不安を煽る相手に怒りを蓄積させたりするのです。
べきで生きると折れやすい
また、「べき」で生きている人は、折れやすいという特徴もあります。
人は寛大になるほど、自分にとっての主観的な「本来あるべき状態」が、必然としての「本来あるべき状態」に近づいていきます。
ということは、寛大になるほど、自分特有の「べき」がなくなる、ということです。
考えてみれば当たり前のことですが、「べき」で生きている人は寛大ではないのです。
そして、「べき」で生きている人にとって、世の中は「受け入れられない」と感じるものばかり、ということになりますから、それだけ生きていく上でのストレスも多くなります。
うつ病になりやすい人として「べき思考」が強い人が多い、と言われるのも、当然と言えるでしょう。
寛大な人ほど、現実に強い人はいません。
どんな現実も受け入れることができ、柔軟に対応できるのですから、まさに「折れにくい」ということになるのです。
もちろん、寛大であるからと言ってただ全てを受け入れるだけの消極的な存在だということにはなりません。
自分自身の「したい」を持ち、社会をリードしていくことも当然可能です。
寛大な人は不安で人をコントロールしませんから、本当の意味での共感と協力を引き出すことができるでしょう。
また、「べき」による不安で相手を消耗させるのではなく、相手が本来持っている力を引き出しますから、その協力は持続可能なものとなります。
ですから、長い目で見て、実質的な影響を周囲に与えられるのは、「べき」で生きている人ではなく、寛大な人なのです。
これはまさに一対一の関係と同じことです。
イライラで相手をコントロールするのではなく「私が困っているから助けて」と言える人のほうが、関係性に実質的な変化を起こせる、ということです。
どんな現実に直面しても折れにくく、柔軟に対応でき、心からの協力を周囲から引き出し、実質的な成果を上げられる人こそ、本当に強い人だと言えるのではないでしょうか。