「良き相談相手」となる
「新米成人」時代にある若者に、どのように接するべきなのでしょうか。
レビンソンらは、「新米成人時代」全体を通して成し遂げるべきこととして、次の四点を指摘しています。
1.夢を持ち、その夢を生活構造の中に位置づけること
2.良き相談相手を持つこと
3.職業を持つこと
4.恋人をつくり、結婚し、家庭をつくること
四つの課題の一つとして、「良き相談相手を持つこと」をあげているのは、非常に注目されます。
この時代に、良き相談相手に出会えることは、その人の精神的発達や生活の形成、人生に大きな影響を与えるというのです。
他の三つは青年が自分で為し遂げうる課題ですが、良き相談相手を持つことという課題だけは、自分の努力だけでは達成出来ません。
大人の方から関わってあげなければできないことです。
思い出してみれば、私たちは、新米成人時代に「良き相談相手」というべき存在であった何人かの人に出会っています。
それは生き方を教えてくれる師であったり、より広い世界に導いてくれた先輩であったり、仕事に誘ってくれ、仕事を教えてくれた年長者であったり、目をかけてくれた上司であったりします。
友人である場合もあるし、もちろん、同性に限らず、異性である場合もあります。
若い時期のその最中にはこのことに気がつかないことが少なくありません。
しかし、人生を振り返ってみれば、その人との出会いが自分の成長や生活の確立に大きな意味を持っていたことを知る、そういう人が誰にでも必ずいるはずです。
現在の若者は、人間関係の希薄さのために、先輩や同輩のなかにそうした存在を持ちにくい状況にあります。
また、自立に要する期間も長くなっています。
こうしたことから、とりわけ、職場における先輩や年長者である「良き相談相手」の必要性が高まっています。
ところが、職場の厳しさ等のために、そうした人たちは自分の仕事で手一杯で、若い人たちの「良き相談相手」となってあげるだけの余裕がありません。
そのために、「良き相談相手」なしに、この新米成人時代を乗り切らねばならない状況にある若者も少なくないように思われます。
会社や組織、そして社会を次に担っていくのは、若者たちであります。
そのために年長の者は、次の世代を育てることも本来の重要な任務であることを再確認し、そうした存在になってあげる姿勢が求められます。
ただし、「良き相談相手」からやがて離れていくのは、若者が成長していけば必然であることも、最初から了解しておくべきです。
「面倒みてやったのに」などと、決して思わないことです。
青年が成長していく姿を自分に重ね合わせ、彼らの成長を自分の喜びとすることです。
自分もそうしてもらって成長してきたのですから、お世話になった方々へのお礼のつもりで、若者に接することです。
夢と結びつける配慮
先に見たように、レビンソンらは、新米成人時代の主要な四つの課題の一つとして、「夢を持ち、その夢を生活構造の中に位置づけること」をあげています。
フロイトやユングの夢分析に代表されるように、従来の心理学は、夜寝たときに見る夢をもっぱら扱い、こうありたいという希望や望みとしての夢をないがしろにしてきました。
しかし、レビンソンらは、私たちが持つ夢や夢に対する姿勢こそが、人生全体を通して大きな意味を持つということを発見したのです。
すなわち、夢はしばしば私たちの人生全体の導き手となり、人生への満足感や不充足感をもたらす重要な要因であるというのです。
とりわけ、二十代で夢を裏切った人は、多かれ少なかれ後でそのつけを払わされることになるといいます。
たとえば、ある専門的な職業を夢見て努力してきたのに、予期せず子どもが出来たことで手近にある仕事につかねばならなくなった人が、結局仕事にも家庭にも満足できずに30代、40代で離婚するなどです。
私たちは子どもの頃からなんらかの「夢」を持ちますが、そうした夢は「成人への過渡期」において、現実との結びつきを強めることになります。
これにより青年は、自分の適性、能力、境遇等を考慮しつつ、夢を実現する可能性のある人生の方向か、それともそれとは異なる人生の方向に進むか、という葛藤場面に立たされます。
夢を直接実現する方向に立てる人は、かならずしも多くはありません。
少なくない人は、夢を現実的なものに修正するか、現実的な新たな夢を設定することにより、夢につながる方向に進もうとします。
なかには、自分の現実的な値踏みを先延ばしして、「夢」を「夢」のままに保留しようとする若者もいます。
この場合、できるかぎり現実に関与しない姿勢になります。
まさに、モラトリアムの延長です。
自分の能力や親の期待、その他いろいろな理由により、夢に対して大幅な譲歩を迫られる人もいます。
「夢」の全面的な放棄は、人生に挑戦するエネルギーを奪ってしまいます。
逆にまた、非現実的な「夢」にしがみついた絶望的な努力も、満足しうる生活を与えてはくれません。
何らかの形で夢と結びつく仕事こそ、意欲をもたらし、満足感や充実感をもたらしてくれます。
多少のつらさで、くじけるようなことはありません。
とかく若者は、「スター」としての夢の現実か、さもなければ「挫折」という、二者択一に陥りやすいものです。
そうではなく、夢を現実との折り合いのなかに位置づけていくことが、この時に求められているのです。
「良き相談相手」としての成人は、若者が夢と仕事を何らかの形でつなぐことができるように、現実的な修正や新たな夢の設定を援助していく必要があります。
さらに言えば、夢もまた、人生の進行とともに変容していく必然性を持っています。
若いうちは仕事を覚え、競争に負けずに、会社で地位を得ることを夢見ていた人が、その夢を達成した段階では、むしろ自分の内面を大事にして、自然と共生する喜びをこそ、夢とするようになるなどです。
しかし、後になってからの夢は、それだけ人生を生きて初めて夢として出現してくるものです。
若い時の夢の実現に努力してこそ、次の夢が夢として姿を現してくるのです。
自己価値感を高める配慮
新米成人時代における自己価値感の獲得には、異性の愛情と仕事が大きく寄与します。
とりわけ、仕事を通しての自己価値感の獲得は、大人としての人生を生きていけるという人生全体への自信になります。
若者は、成人として責任ある仕事をすることに多かれ少なかれ不安を持ちますが、とりわけ大きな不安を持つ人は、自分の能力と仕事との間に、頭の中で壁を作ってしまっています。
この壁を崩すには、じっさいに仕事をすることで、自分が一人前に働けるという自信を持たせること以外にありません。
ところが、就職試験をニ十社、三十社と受けても、採用してもらえません。
技術を習得する余裕も与えられずにミスすれば叱責され、切り捨てられてしまいます。
今の若者は、仕事への入口で、惨めにも自己無価値感を実感させられてしまうのです。
一般に仕事への適応は、これまでの生活との連続性が大きいほど容易であり、断絶性が大きいほど困難です。
留年するなど、永いこと教育の場に置かれてきた若者が、塾や教育産業に親近感を覚える傾向があるのは、このためです。
現在は、甘く庇護的な家庭生活と仕事の厳しさにより、この乖離が大きくなっているので、職場に適応することが容易でない若者がすくなくありません。
仕事について、意外に初歩的なことが分かっていないのです。
知っていて当たり前、できて当たり前と思って対処すると、彼らはつまずいてしまい、自己価値感を損傷していることがあります。
しかし、明確で限定的な課題として与えられたものには、意外にがんばるという特質もあります。
仕事をできる限り明確にした課題として与えることで、本人に達成感を体験させ、評価する。
こうした繰り返しのなかで、自信をつけさせ、大人としての自己価値感を持ち、自発的な力の発揮へとつなげていくような配慮が求められます。