不安が消え、進むべき道が見えてくる!
人生が行き詰まっているかに見えても、その人が無意識の絶望感を意識化できれば、人生は大きく拓けてくる。
どうしても人と一緒にいて楽しくない、人とうまくコミュニケーションできない、人のためと思ってしたことで嫌がられる、そのたびに怒りと落ち込みの繰り返しをする。
その、自分を苦しめるマイナスの感情の背後にある本質的なことはなんなのか?
問題は、その人がなにを言っているかではない。
なにを意識しているかではない。
「いまの自分に隠されている本当の感情はどのようなものなのか?」ということである。
人との会話では、言語的メッセージではなく、非言語的メッセージが重要である。
彼らが言っていることではなく、言っていることの裏に、どのような意味があるのか?
そこがコミュニケーションで重要なことである。
彼は本当に重要な自分の気持ちは言っていない。
本当に重要なことは、本人も気がついていない。
人を判断するときには、その人がなにを言っているかは関係ない。
その人が「なぜそのことを言うか?」である。
「臨床的には、いかなる意味でもうつ病ではないのに、うつ病という言葉を使う人がいる。」
アーロン・ベックは『Depression』という名著の中でそう言っている。
患者が「うつ病ですと言ったときには、検査をする人は、その患者の言外の意味を考えるべきである」と。
問題は、彼らがどんな言動をしているかではない。
「ポジティブ思考で行け」と言われて、ポジティブ思考で、無理に笑顔を振りまいていても、笑顔でいることが苦しくない。
いわゆるうつ病者の笑顔である。
問題は笑顔ではない。
笑顔の裏に隠されている「本質はなんなのか?」ということである。
その場その場を体裁だけで取り繕うことで乗り切ろうとしても、笑顔を振りまきながら苦しくて死にたいと思っている人も中にはいる。
無意識の絶望感や恐怖感に向き合うのが恐くて無理して笑顔を振りまいている人もいる。
憎しみは不自然な明るさに変装することもある。
「明るさの後ろにある本質はなにか?」が大切な問題である。
周囲の人から自分が傷つけられたときに怒りの感情を表現しないで、笑顔で答えつつ憎しみを心の底に溜め込む。
この状態が長く続くわけがないからやがて訳もなく切なくなるのである。
その長い、長い間、無意識にあった絶望感こそ、その人の「本当の感情」である。
その人は、意識の上ではいままで、「本当の感情」を持つことはなかった。
人にも、自分にも本当の感情を見せなかった。
だから人生が行き詰まったのである。
生まれてから長い間、自分を苦しめ続けた無意識にあった絶望感に気がつくことで、自己疎外から抜け出せるきっかけになる。
そのときが自分として本当に生まれたときである。
絶望感、それは自分の力では自分の人生はどうにもできない、自分は求められない人間だ、そうした感情である。
絶望感こそ、自分のはじめての本当の感情である。
それまで「好き」と思っていたことは、本当には好きではない。
だからなにか分からないが、人生がなんとなく変だったのである。
それまでは、嬉しいも、悲しいも、美味しいも、不味いも、すべて周囲の他人がその人に期待する感情であった。
まわりの人の顔色をうかがって、それに沿う感情を表現するばかりであった。
あるいは周囲の人から嫌われないためにあえて持った感情である。
人からの批判を恐れて、持った感情である。
それらすべての感情は、その人自身の「本当の感情」ではない。
その人は「本当の自分」が分かっていないままで生きてきた。
しかもその間「本当の自分」が分かることが怖かった。
あえて「本当の自分」が分かっていないことに気がついていないままで生きてきた。
社会的な大きな仕事のことではなく、日常生活の小さなことから始まって、自分がなにをしているかが分かっていない。
無意識に「怒り」が降り積もる最悪の行為
心に思っていることを伝えてもトラブルにはならないのに、心に思っていることを伝えられない。
たとえば、自分はサンドイッチを持ってきた。
だが、他人から「あなたおにぎり食べない?」と言われて、おにぎりを食べてしまう。
「美味しかったでしょう」と言われて、「美味しかった」と言ってしまう。
他人に譲っているが、納得して譲っているわけではない。
支持されることにしたがっているだけである。
したがって、譲るたびに心の底に怒りが蓄積されている。
いままで長年にわたって譲って生きてきたことが、いまの隠された激しい怒りの原因である。
気に入られたいという気持ちのために人はどれくらい自分を痛めつけているか分からない。
そしてどのくらい自分の攻撃性を抑圧しているか分からない。
無意識の領域での”プライス(支払うべき対価)”の高さに気がついていない。
この攻撃性を意識できたときに、理由なき不愉快を克服できる第一歩を歩みだしたと言える。
うれしくないことをうれしいと感じる体験を重ねるうちに、つまり小さいころからのストレスで、生命力が削がれてしまっている。
疑似成長して自分自身でない自分になり、相手のいいなりになる。
無意識には不愉快になっている。
その不愉快さに気がついていない。
評価されるために自分でない自分になる。
服従依存の中にいる。
自分自身でないからうつ病になったように生きるエネルギーがない。
自分がどのぐらい不愉快か、自己疎外されているから気がついていない。
恥ずかしがり屋の人は自分を閉じ込めている。
いい顔をする。
相手のいいなりになる。
自分の気持ちを説明しない。
説明できない。
「レジリエンス」という回復力のある人は、相手と自分の状況を認めた上で、困難を乗り切ろうとする。
レジリエンスのある人は交渉をする。
交渉は自分自身になるための戦いである。
■参考記事
他人の人生を生きてしまう理由
他人のことが気になる心理は無意識にあり
そう、これが本当の私だ!
繰り返し述べるごとく、デヴィット・シーベリーは、人間の唯一の義務は、自分自身になることであると述べている。
それ以外に義務はない。
自分があると思い込んでいるだけである。
重要なことは、他人が自分をどう思うかではなく、自分が自分を確認できるかどうかである。
自分はこの人生でなにをしたいのかである。
自分自身になれない人の愛とか誠意はすべて偽りである。
自分が自分自身になれない人は、虚無感から他人を巻き込んで自分の人生を活性化しようとする。
自分の無力感から、他人を支配しようとして愛という名の仮面を被ってサディストになる。
しかも恐ろしいことは、自分がサディストであることに気がついていないし、気がついても認めない。
無意識に絶望感のある人は、意識と無意識が乖離している。
無意識に絶望感を持っていても、社会的に適応していれば、外から見れば立派な社会人である。
普通の人である。
外から見れば立派な社会人でも、自己疎外された人は、内面はいつもイライラしている、いつも気持ちが不安定である、いつも人の言動に怒りが湧く、いつも憂うつである。
でも表面的には穏やかで元気そうに見える。
内面の悪さと外面のよさである。
家では心の冷たい狼でも、会社では別人である。
そういう人は社会的に見事に適応していて、会社で立派に働いていても、「本当の自分」が分かっていない。
だから確かな物がなにもない。
自分は、「本当の自分」が分かっていないということも分かっていないのだから、心は根無し草である。
そういう人は、本当は自分の人生に迷っている。
社会的に適応していても、人生の迷路に入って、途方に暮れている。
無意識で自分に絶望して、人生に迷っている。
無意識では「どうしようか、どうしようか」と焦っている。
「はあ、はあ」言って逃げている。
なにに追われているか分からないが、なにかに追われている。
ただ無意味に生きてきた。
何かに追われて、どうしていいか分からないままに、ただ時間に追われて生きてきた。
すでに述べたごとく焦りの根源もまた無意識にある絶望感であり、無意識の中にある感情の矛盾である。
平易に言えば、絶望感は傷ついた心から生まれる。
もちろん、本人は自分の心が傷ついていることに気がついていない。
症状があるだけである。
たとえば理由のない焦りである。
なにか分からないが、迷っている。
近い人の存在に腹が立つ。
心が傷ついていると、自分の傷を早く治そうとして時を待つことができない。
すぐに治せないと落ち着かない。
それなのに心の傷は治らない。
結果は出そうで出ない。
焦るけれど、出口は見つからない。
あそこが出口だと思ってそこに行くが、そこは出口ではない。
すると別のところが出口に見えるので、そこに行くが、そこは出口ではない。
しかしその人生に迷っている自分を感じて、この迷っている私、「これが私だ!」と気がつけば、大きく人生は拓ける。
なにかに追われている、なにに追われているか分からないがなにかなに追われている、なにかが怖い、なにかが怖いかは分からない、でも「これが本当の私だ!」と気がつけば、大きく人生は拓ける。
しかし迷っている自分に気がつかない。
神経症的傾向の強い人は、人に優越することが、自分の心の葛藤を解決する唯一の道だと信じ込んでいる。
しかしそれは完全な錯覚である。妄想である。
なぜなら、こんなに努力してもいまもなお理由の分からない苦しみに悩んでいることが、その証拠である。
努力すれば努力するほど、事態が悪化する。
どんなに努力しても、救いは見つからない。
人を侮辱しても侮辱しても、道は拓けない。
安らぎはこない。
救いになるようなものを見つけても、掴んでみると消えている。
そしてもっと怖いことになっている。
「怖い!」
理由は分からない。
でも「怖い!」。
これがその人の無意識にある「本当の感情」である。
しかし無意識だから、昼間社会で働いているときには「怖い!」という感情には現実感がない。
「怖い!」という感情に気がつかないし、時にふと気がついていも、自分が「怖い!」と感じていることを認めない。
会社で働いているときには、栄光化された自己のほうが、その人には現実感がある。
そこで自分を脅かす世界に対して自分はどのように対処するかということで間違える。
実際の自分の能力を無視するような非現実的な栄光を求める。
自分の体力や、自分の資質を無視して光栄を求める。
その結果挫折する。
その挫折を認めない。
この「認めない」ということがポイントである。
■関連記事
人付き合いが怖いを克服する方法
自分に気がつく(セルフウェアネス)ということ
挫折を認めれば、自己栄光化から自己現実にエネルギーを変更できる。
そこでいままでとらわれていた歪んだ価値観に気がつく。
それがロロ・メイの言う「意識領域の拡大」である。
「本来の自分」に気がついてくる。
意識領域の拡大こそ、真の意味の自己栄光化である。
そして人生は拓ける。
それが「自分が変わる」という意味である。
どうにもできないときには「あなたが変われ!」という意味である。
歪んだ価値観に固執する人は、まさに「どうにもできなくなっている」。
「もうどうにもできなくなっている」にもかかわらず、栄光化された自己に固執する。
そして自己栄光化の挫折を認めないためには、「私は不運だ」「お前たちが悪い」「私なんか生まれてこなければよかった」と拗ねて、自己防衛的な主張をするしかない。
「どうにもできなくなっている」ということは、「いまの病んだ、歪んだ価値観の集団から抜け出せ」というメッセージである。
ここでいま述べたロロ・メイの言う「意識領域の拡大」があり、カレン・ホルナイの言うように「内面の自由と力」を獲得するときである。
意識領域の拡大とは、視野を広げることである。
いままで「偉い!」と価値をおいていたことが偉くはないかもしれない、それは多くの価値の中のひとつでしかないと分かることである。
それは自分に気がつくことにつながる。
それはまたハーヴァード大学のエレン・ランガ―教授のいう「マインドフルネス」でもある。
「自分に気づくこと(self-awareness)」は現実否認の逆である。
悩んでいる人が、自分の不得意領域にとらわれている。
そこに価値があると錯覚している。
歪んだ価値観にとらわれている。
自分に気づいている人には抑圧がない。
自分が意識している自分と、「実際の自分」とが同じである。
自分の無意識にある絶望感の原因は、自分の歪んだ固定観念である。
歪んだ固定観念で、自分を評価して、自分が勝手に自分に絶望している。
自分に気がつき、それを認めることは最も苦しい。
でもそこで成長する。
成長するが、とにかく「現実の自分」を認めることは苦しい。
だから抑圧がおきる。
つまり本当のことはあまりにもつらいからその意識を無意識に追いやる。
しかし、どんなに苦しくても「現実の自分」を認めることができれば、最後には劣等感は解消できる。
なぜなら自己認識ができれば、他人への感情移入が起きる。
人との心のふれあいができる。
逆に深刻な劣等感のある人は利己主義者だから、人との関係のなかで人生の積み上げがない。
頑張って努力したことが後に生きてこない。
人との心のふれあいがないから思い出がない。
「スチューデント・アパシー」といわれる無気力な学生がいる。
このような人達は、卒業した後で、学生時代になにをしたか覚えていない。
友人も覚えていない。
人生の積み上げがない。
山が好きで山岳部に入った人は、それぞれ登った山をよく覚えているし、合宿のことをよく記憶している。
さらにそこで生涯の友を得ている。
つまりそういう人は、学生時代に人生を積み上げている。
さらに学生時代の土台の上に高齢期がある。